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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 『伊予国風土記』の世界

 『風土記』編纂の背景

 和銅六年(七一三)、中央政府は地方諸国に『風土記』の編纂を命じた(続日本紀)。その時、中央政府が要求したのは次の五項目であった。①郡や郷に二字名の好字をつける。②郡内に産出する品目をあげる。③土地の肥沃の状態について記す。④山林原野についてその名称の由来を記す。⑤古老の伝える旧聞異事を記す。このように政府は広範な内容を含む地誌を要求したが、これらの要求事項は同一基準で統一的になされたものではなかった。それは実際に残存する『風土記』にはさきの①~⑤の内容が網羅されているものの、諸書に相異がみられ、それぞれ独自性の強い内容となっていることからもうかがうことができる。
 ところで、『風土記』の編纂を命じた背景にはどのような事情があったのだろうか。文武朝(六九七~七〇七)は大宝律令の成立によって、中央集権体制が確立した国威高揚の時期であった。それはこの時期に鉱産資源の産出が数多くみられ、一つのピークをなすことからも確かめられる。たとえば伊予国からも文武二年(六九八)七月に白□(金に葛)(なまり)・□(金に葛)鉱が献上され、次いで九月には朱砂が献上された記事などがみえ(続日本紀)、政府が国内の資源開発に熱心であったことがわかる。しかし、いっぽうでこの時期は飢饉や疫病が頻繁に発生した時期でもあった。それは伊予国に限ってみても、文武元年(六九七)飢饉があり、そのために税が免除されており、ついで大宝元年(七○一)蝗や大風による被害、慶雲三年(七〇六)二月・四月の二度にわたる飢饉、慶雲四年(七〇七)疫病の流行のために薬を給与した記事など数度にわたる天災が記されている(続日本紀)。
 このような自然災害は農民の逃亡や浮浪を招いたと考えられるが、その一つの解決策として律令的支配を細部にわたって徹底させることが必要であった。そこで慶雲に続く和銅年間(七〇八~七一四)は大宝律令にもとづく諸制度が急速に整備され、とりわけ地方の農民に対する支配が徹底されることになる。その具体的なあらわれが和銅五年(七一二)の郡司任用方法の改訂である。郡司はそれぞれの地方における有力豪族を行政組織の末端に位置づけたものであったが、当該地域では強力な影響力を有していた。律令政府が地方を掌握するためには、何よりも彼ら郡司層を把握しておくことが必要であった。この度の任用方式の改訂は、その実現をはかるものであった。つまり、郡司三等官・四等官である主政・主帳は、大領・少領と異なり国司の任用であったが、これを大領・少領と同じく本人を中央に送り、試錬した後に任用する方式に改めた。これによって政府はすべての郡司を直接の支配下におくことができた。
 ついで同年、初めて国司巡行の法が制定され、さらに諸国の朝集使に「律令が十分に熟知されていないため、過ちが多くある。今後違反者は律によって処罰せよ」との詔を下して、律令を確実に施行することを命じている。このように、律令政府は国家と農民との接点にあたる国司・郡司層を直接に掌握することによって、みずからの政策を徹底させようとした。
 このようにみてくると、『風土記』の撰進命令も地方支配を徹底する政策の一つであったことがわかる。つまり、律令政府は『風土記』の撰進を通じて、地方諸国の情況を正確に把握することを最大の目的としていた。それゆえ、『風土記』は為政者の観点に立った地誌といえ、さきにみた『風土記』の内容において、古老の伝える旧聞異事や地名由来の伝承が特に重視されたのも、そのためであった。このように『風土記』は中央の政治と密接不可分の関係にあった。

 『伊予国風土記』逸文の性格

 現在、『伊予国風土記』の原本は伝わらず、わずかに逸文という形態で残っているにすぎない。諸書の考証や注釈のために引用されたという性格上、現存の五『風土記』と内容を異にしている。本来、『風土記』には地理的・自然的環境や土地の状態・産物などが記されているはずであるが、卜部兼賢の著した『釈日本紀』と僧仙覚が後嵯峨天皇に献じた『万葉集抄』に載せられている『伊予国風土記』逸文にはそのような記述は含まれていない。逸文の内容は、(1)道後温泉 (2)天山 (3)御島 (4)熊野岑の四つの説話と神功皇后・斉明天皇の歌であるが、皇后と天皇の歌以外は一部に古老の旧聞異事を含むものもあるが、いずれも地名の由来を説く地名説話の典型である。
 ところで、『風土記』は単に地方の伝承をそのまま記録したものではなく、解の形式をとった公文書であった。とすれば、『風土記』に収められた伝承は、かなりの潤色や改変を経たものと考えなければならない。しかし、それでも官撰の史書である『古事記』『日本書紀』に比べれば、国家的観点からの潤色は少なかったと考えられる。それは延長三年(九二五)中央政府が再び『風土記』の撰進を諸国に求めていることからも推測される。つまり、中央では『風土記』がすでに散逸していたことを示しており、このことは『風土記』が『古事記』『日本書紀』などに比べ低い評価しか与えられていなかったことを意味している。そうであれば、『風土記』の潤色は国家的段階ではおこなわれず、それぞれの諸国においてなされたにとどまったと考えられる。また、内容についても好字をつけること、産物・土地の状態などに関しては、編纂者による作為の余地はほとんど残されておらず、これらについては、そのまま信頼してもよいと思われる。したがって、『風土記』の潤色という場合、それは地名の由来と古老の旧聞異事において顕著であったといえよう。とすれば、地名の由来を多く伝えた『伊予国風土記』逸文も、編纂者によって潤色を受けた可能性が考えられ、その説話の真偽を検討することが必要であろう。以下、各説話について個別に述べていくことにしよう。

 大山積神

 まず、大山積神に関する内容はつぎのとおりである。越智郡の御島にいる神の名は大山積神といい、またの名を和多志の神という、この神は仁徳天皇の時代に現れ、百済国から渡来してきたものである、かつては摂津国の御島にあった。御島という名はそれに由来するものであると記されている。ここにみえる大山積神を祭る大山積神社は天平神護二年(七六六)に神階従四位下、神封五戸が授けられており(続日本紀)、承和四年(八三七)には位階は変わらないものの、名神に預かると記されている(続日本後紀)。さらに貞観二年(八六〇)に神階従三位となるが、これ以後同神社は急速に位階を上昇し、ついに貞観一七年(八七五)に神階正二位となった。また『延喜式』によれば、式内社二四社のうちの大社であり、伊予国一宮といわれるように古くから有数の神社であったことがわかる。
 つぎに同神社の祭神である大山積神は『古事記』によれば、伊邪那岐命と伊邪那美命二神の子であり、山の神であった。それにもかかわらずここで、大山積神が仁徳期に百済国から渡来した神とするのはなぜであろうか。仁徳期は渡来系氏族が大量に流入した時期であり、このような情勢を反映してこの記事が成立したのであろうか。しかし、全国的な傾向はそうであっても伊予国と百済との関係は稀薄である。伊予国の百済系文化の存在については、松山平野を中心とする地域に百済式単弁蓮華文瓦などが出土することによって確認されるものの、それは狭い範囲に限定される。また、伊予国の渡来系氏族についても、中央から派遣された国司の中には百済王敬福や刀利宣令などの百済系官人の姿を見出すことができるが、それらは伊予国に土着したものではなかった。伊予国に土着した渡来氏族のほとんどは新羅系であった。このように、伊予国および大山積神が百済と結びつく要素はほとんどない。
 ただここで注意されるのが『日本霊異記』巻一七にみえる越智郡大領の先祖越智直の記事である。これは、天智二年(六六三)の白村江の戦いの際の百済救援軍に参加した越智直は唐軍の捕虜となったが、観音菩薩の信仰によって帰国できたとするものである。これによって大山祇神社の鎮座する越智郡と百済国とが結びつくとも考えられる。しかし、これはあくまで仏教説話集であり、その内容を全面的に信頼することは困難である。また、ここでの信仰は仏教(観音菩薩)に関するものであり、神祇とは無関係である。むしろこの場合の仏教信仰は、神にかかわる氏族信仰を否定したうえに成立したものであるから、この点においても越智直の説話と大山積神とを結びつけるのは不自然といえよう。このようにみてくると『伊予国風土記』逸文の大山積神に関する記事、とりわけ同神が仁徳期に百済国から渡来してきたとすることは、事実ではなかったと考えてよかろう。したがって、この説話は「御島」名の由来を説明するために潤色されたものであったということができよう。

 熊野岑

 この説話の内容はつぎのとおりである。野間郡に熊野という地名があるが、それは昔ここで熊野という船をつくったからである、現在でも石となって残っている、熊野というのはそのような理由である、というものである。これも地名の由来を説いたものである。この熊野が野間郡のどの地にあたるか不明であるが、古代において野間郡で造船のおこなわれていたことを示していると考えられる。ただ、この説話が潤色を受けやすい地名説話だけに、その内容を事実とするためには傍証すべき史料が必要である。その史料として推古朝の時に紀博世が伊予国に派遣され、そこで越智直の女をめとったとする延暦一〇年(七九一)の記事がある(続日本紀)。これによって越智氏と紀伊国を本拠とする紀氏が結びつく。熊野はもとより紀伊国の熊野であろう。ただ、この場合、野間郡と熊野との関係については明らかでない。ただその際、野間郡には紀氏の残した中世の石造文化が残っていることなどは、ひとつの参考となるかもしれない。
 この紀氏は比較的早く大和朝廷の支配下に入り、朝鮮半島の諸国との対外交渉を主な職掌としていたと考えられている。このことは瀬戸内海の重要な拠点、すなわち紀氏の本拠である紀伊国名草郡をはじめ、讃岐国寒川郡・刈田郡・周防国佐婆郡・豊前国上毛郡などに多く分布し、さらに紀氏と同族とされる坂本臣や角臣らもほぼ同様の分布傾向を示すことからも確かめられる。また、紀氏が伊予国に来住したのは推古朝とされるが、この時代は大和政権と新羅との間に厳しい緊張状態が続いていた。このような情勢は必然的に瀬戸内海の重要性を高め、同時に造船の必要性をもたらすことになった。この大船の建造は太平洋や瀬戸内海沿岸でおこなわれ、そのことは文献によっても確かめることができる。具体的には伊豆・遠江・安芸・周防・河内・摂津・紀伊などの国名があげられる。伊予国の造船に関してはこの熊野岑以外の史料はないが、しかし大型船の船材とされるクスの多く分布することからみて伊予国でも造船のおこなわれた可能性が強い。
 つぎに、ここにみえる熊野船については「浦回こぐ熊野舟つき珍しくかけて思はぬ月も日ももなし」、「鳥がこり吾がこぎ来れば乏しかも大和へのぼる真熊野の船」(万葉集)とあることから、他の船と簡単に識別できる特殊な外形をもつ船であったことがわかる。このような造船技術を出雲の熊野諸手船と結びつくとする見解があるが、さきに示した史料から、紀氏によって直接伊予国にもたらされた可能性が強いといえよう。以上述べてきたところから「熊野岑」の記事は『風土記』編者の創作ではなく、ある時代の事実を伝えたものであることがわかる。つまり、これは紀氏が対外交渉や海上交通の面で活躍した時代、あるいは伊予国がその拠点として重要な意味を持ちえていた時代の記事であったと考えられる。それゆえ、潤色されることの多い地名説話においてその形跡がほとんどみられず、その意味においても貴重な史料であろう。

 天山

 天山に関する伝承はつぎのとおりである。伊予郡の郡家の東北に天山がある、天山の名の由来は山が天より降った時、二つに分かれ、いっぽうは大和国の天の香具山となり、他は伊予国の天山となったことによる、その天山の姿を敬い久米寺に祭祀していると記されている。これは天山を大和の天の香具山と結びつけた地名説話である。この説話の内容はもとより事実ではないが、それではなぜ大和の天山と結びつく伝承が生まれたのであろうか。まず、『大和国風土記』逸文によってみていこう。この逸文は『伊予国風土記』逸文と多少の字句の相違があり、久米寺に関することは記されていないが、その他の内容については全く同様といってよい。『大和国風土記』の編纂時期は不明とされるものの、一般的には『伊予国風土記』より早く成立していたと考えられている。
 とすれば、『伊予国風土記』は『大和国風土記』を参考にして書かれた可能性を否定することはできないのであり、この説話が編纂者による造作であったとも考えられる。ただその場合でも、説話のすべてが造作というわけではなかろう。たとえば、久米寺に関する記事がある。古代の松山平野は、伊予国の中で古代寺院が最も稠密に分布する地域であり、早くから仏教文化が栄えていた。それらの多くは、寺院の付近に居住する郡司層を中心とする有力豪族によって建立されたものである。久米郡の有力豪族には、国造の系譜をもつ久米直がいた。この久米直が氏寺として、久米寺を建立したと考えるのは自然であり、この部分は事実を伝えているとしてよかろう。
 久米直やそれに管掌された久米部については第一章第一節に詳しいが、それらはいずれも大和の有力豪族と密接な関わりをもっていた。したがって、大伴連・山部連・門部連などの保有する伝承のなかに、伊予の久米部に関するものがあったとしても不自然ではない。また、地理的にみても天の香具山と天山との間には、山容や周囲の状況の点で共通する部分がある。このような事情を背景に天山の説話が発生したものと考えられる。ただ、大和と伊予国久米郡との間に結びつきがみられることは確かであるが、それに関わる説話をなぜ『風土記』に収録したのかが問題である。それは『風土記』編者が大和朝廷と伊予国とが早くから密接な関係にあったことを示したかったからにほかならない。ここに編者の意図を読みとることができる。
 つぎに、この説話から『伊予国風土記』の成立時期が推測できるという説がある。そこでは、次のように主張される。天山は本来、久米郡にあるはずであるが、それにもかかわらず、ここでは「伊予郡の郡家の東北」と記されている。ここから『伊予国風土記』が編纂される時点ではまだ久米郡は郡として成立しておらず伊予郡の中に入っていた。久米郡の名がみえるのは、天平二〇年(七四八)の『正倉院文書』(資料編七)であり、そこには久米直熊鷹が久米郡天山郷の戸主と記されているから、天平二〇年までには天山が久米郡に所属していることになる。そうすると『伊予国風土記』の編纂はそれまでに完了していたと考えられる。また、ここにみられる文体が他国の五『風土記』と類似していることから、それらの成立時期と大きな隔たりはない、とする見解である。ただ、この説のなかで文体から成立時期を推測しているが、文体は主として編纂者の性格にもとづくものであり、時期推定の根拠とするのは困難である。しかし、そのいっぽうで、天山が伊予郡にあったことは事実であろう。律令政府は行政・財政上の必要から諸国の地理に強い関心をもっており、それだけに正確さが要求された。天平一〇年(七三八)八月、諸国に国郡の図の進上を命じていることからみて、地図が作成されていた可能性が強い。そして特定の場所を示す場合、それが存在する郡(家)からの方角・距離の記されることが多かった。このような事情から考えれば、天山が伊予郡にあったと記されていることには、かなりの信頼性があるといえよう。したがって、『伊予国風土記』の成立は天平二〇年までの時期であったとする説に従うのが妥当であろう。

 道後温泉

 まず、この説話の内容について述べよう。大穴持命(大己貴神)は少彦名命が仮死状態になっているのをみて、これを蘇生させるために別府の温泉から地下の水道を通して湯をもってきた、少彦名命をその湯のなかに入れるとほどなくして生き返り、事もなかった様子でゆるやかに「しばらく昼寝をしたようだ」といって元気よく地面を踏んだ、湯の効能の霊妙なことは神代の時代だけではなく、現在でも人々の病を取り除き、長寿の薬となっている、というのが説話の内容である。さらに同書には、これに続けて天皇らが伊予の湯に来たことが記されている。すなわち、天皇らが伊予の湯に来られたのは五回ある、景行天皇とその皇后で一度とし、仲哀天皇と神功皇后で一度、さらに聖徳太子を一度とする、太子は湯のそばに碑文を建立された、その碑文を建立した場所を伊佐邇波の岡という、それはこの国の人々が碑文を見ようとして誘いあったからである(以下碑文の内容は省略)、舒明天皇と皇后で一度、斉明天皇・中大兄皇子・大海人皇子で一度とする、これで行幸を五回とする、と記されている。このように、この説話は二つの内容からなっている。はじめに前半の記事について述べよう。
 大穴持命は大国主命・葦原色許男神・八千矛神・宇都志国玉神・大国玉神など多くの名をもっており、またこの神の子も非常に多い。このことは大和朝廷の国土統一の進行に伴って、多くの神々が大穴持命に統合されていったことを物語っているようである。各地の『風土記』にも大穴持命が幾度となく出現するのは、この神が複合神であることを反映しているからであり、大穴持命の登場は『伊予国風土記』に固有のものとはいえない。
 『古事記』によれば、大穴持命が出雲にいた時、少彦名命が現れ、それ以後、両神は相携えて葦原の中つ国を作り治めたが、国作りを終えると少彦名命は常世国に去っていったと伝えられる。両神はともに出雲系の神であるが、大穴持命の「オホナ」と少彦名命の「スクナ」はこの両神が対になっており、両神は一体・分身の関係にあることを示すとする見解がある。
 この両神は地中の神・霊魂に関係する神でもあるが、それは大穴持命の名に「穴」という地中の世界を示す文字のあることによっても確かめられる。道後温泉の説話のなかにみえる地下の水道、あるいは地中から湧き出る温泉などは、これらの両神が登場するにふさわしい場面の設定になっている。
 さて、この出雲系とされる二神は伊予国の延喜式内社をはじめ多くの神社で祭られていることから、伊予国と出雲との間に深い関わりがあったとする見解がある。確かに二神を祭る神社が他地域と比べて優越した状況を示していることは否定できないが、そこから直ちに伊予国と出雲とが結びつくとするのは困難であろう。それはこの二神が出雲系の神という理由によって『風土記』に収録されたのではなく、さきにみたように地中の祭神という神の性格が、霊験の妙なる温泉に結びつけられたと考える方が自然だからである。それを傍証するのが『伊豆国風土記』逸文である。これによれば、両神は秋津島に住む人々が若くして死ぬのを憐れに思い、そこで医薬と温泉の術を定めた、伊豆の温泉もそのうちの一つである、(中略)湯船に身を浸すと、あらゆる病はことごとく治った、と記されている。これによって養老年間(七一七~七二三)ころまでに二神と温泉とが結びつく伝承をもち、それが広く流布されていたことがわかる。とはいえ、この場合も伊豆国が出雲と特別に結びつく事情はなかった。それゆえ、大穴持命と少彦名命に関する記事は、両神のもつ性格に関連づけて創作されたものといえよう。おそらく伊予国の場合も、これと同様な理由によって造作された説話であったと考えられる。
 さて、説話の後半部分にあたる天皇・皇后らの来浴については第一章第三節を参照していただきたい。ただ、そこで五度におよぶ天皇・皇后の来浴のなかで舒明・斉明天皇の二回については史実として確認できる。しかし、残り三回の来浴は疑問であろう。このような事実でない部分はもとより『風土記』編者の創作・潤色によったものであるが、その場合でも伊予国が大和朝廷の対外的拠点であったことを反映したものと考えられる。

 『伊予国風土記』の世界

 今まで『伊予国風土記』逸文に収められた説話についてみてきたが、これらの記事には史実と虚構の部分が渾然一体としている。熊野岑の記事は史実を伝えたものと考えられるが、これは対外的緊張に伴って伊予国が地理的に重要な位置・役割を担ったことを示している。また、道後温泉のなかにみえる斉明天皇一行の来浴も軍事・外征に関するものであった。さらに、虚構とされる部分でも、そのような時代状況を反映しているものが多くみられた。このようにみてくると、『風土記』逸文に描かれた伊予国は大和朝廷の外征に関与するとともに瀬戸内海の海上交通の拠点としての役割を担っていたといえよう。この点についてはなお検討の余地があるが、少なくとも『伊予国風土記』の編者がそのような認識をもっていたことは確かであろう。
 また、逸文の記事のすべてが大和朝廷や畿内に結びつけられているが、そのいっぽうで、名もない大多数の農民たちの姿が全く描かれていない。伊予国に土着していた地方豪族の保有する伝承が、そのまま記載されたのであれば、このような内容とはならないであろう。たとえば、現存する出雲以外の四『風土記』では地名の由来のほとんどが天皇の巡行と結びつけられている。ところが、郡司を編纂者とする『出雲風土記』においては、天皇の名は全くみられない。このように、『風土記』編纂者の相違がその内容の相異をもたらしていることが確認される。それゆえ、『風土記』の世界とは『風土記』編者の認識にほかならなかった。そこで『伊予国風土記』をみた場合、道後温泉の記事にみられるように、天皇の巡行が頻繁であったことが記されている。このような傾向は出雲以外の四『風土記』と同様と考えられ、したがって、郡司ら地方豪族の編纂によるものではなかったことを示すといえよう。それゆえ、『伊予国風土記』の編纂者はおそらく中央から派遣された国司らの官人であったと考えられる。彼らは郡司をはじめとする地方豪族の伝承を利用しつつ、天皇統治下の国土が早くから天皇の先祖によって支配されていたことを明らかにしようと意図したのであろう。
 それでは次に『伊予国風土記』の編纂にあたった国司についてみていこう。『伊予国風土記』の成立時期については和銅六年説、天平二〇年以前説、奈良中期以降説などあり、見解の統一をみていない。しかし、すでに述べたように、ここでは天平二〇年以前説を妥当と考え、これにもとづいて『風土記』の編纂者を考えていくことにする。そうすると問題になるのは、和銅六年(七一三)から天平二〇年(七四八)にかけての伊予の国司である。この期間の国司名を列挙すると、阿部広庭・巨勢児祖父・当麻大名・高安王・刀利宣令・紀必登・大伴蜷淵麻呂・車持国人らがいる。これらの中には当時の著名な文人たちが含まれていた。
 まず、阿部広庭は右大臣阿部御主人の子で、和銅二年(七〇九)から同七年(七一四)まで伊予守の地位にあり、のち中納言にまで昇進した人物である。彼は『万葉集』に理知的傾向が強いとされる五首の歌を詠み、さらに漢詩集である『懐風藻』にも長屋王邸において新羅の客をもてなした宴で詠んだ歌が載せられているなど、文人国司というにふさわしい人物であった。つぎに、高安王は養老三年(七一九)から同七年(七二三)まで伊予守の地位にあった人物である。彼もまた『万葉集』に「鮒を娘子に贈れる歌」と「大原高安真人の作、年月審ならず」と注釈のある宴席の即興歌を詠んでいることからみて、かなりの教養人であった。なお、彼の娘である高田女王も、また『万葉集』に歌を載せており、父娘二代にわたる歌人であった。最後に、刀利宣令は養老七年に伊予掾に任ぜられた人物であり、百済渡来の出自をもつ官人であった。彼もまた前二者と同様、『万葉集』に二首の歌を載せ、また『懐風藻』にも長屋王邸で詠んだ歌と、五八の年を祝った五言の詩の二首がある。さらに『経国集』にも彼の詩があるなど、彼もまた当代有数の文人であったことは疑いない。
 このように、『伊予国風土記』が編纂されたと考えられる時期に伊予国では多くの文人国司の存在したことが知られる。ただ、これは国司四等官のすべてにわたって検討したものではなく、そのような史料的制約はあるものの、彼ら文人国司がその編纂にあたって何らの関わりをもたなかったことは考え難いことであろう。おそらく、彼らが中心的役割を占めていたのであろう。文人国司、すなわち貴族的教養を色濃くもつ官人によって『風土記』が編纂されたとすれば、そこに描かれた世界もまた貴族の観念を反映したものであったろう。彼らは確かに創作や潤色をおこなったであろうが、ただそれには政府の意図する範囲内においてという制約があった。事実、『伊予国風土記』には天皇が多く登場し、畿内に結びつく説話などによって伊予国では早くから朝廷の勢力が浸透していたことを示そうとしている。政府は『風土記』によって天皇の皇化が全国の末端にまで浸透していることを誇示しようとする意図を持っていたとすれば、『伊予国風土記』の編者は中央政府の方針を逸脱することなく、むしろそれに忠実であったと考えられる。『風土記』編者がだれであったか、具体的な人物への比定は困難であるが、いずれにしても忠実な律令官人であると同時に、かなりの貴族的教養をもつ人物であったことは疑いない。