データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)
三 古代豪族の諸相
献物叙位
古代伊予の豪族の姿を史料の上でもっとも具体的に跡付けうるのは、天平勝宝元年(七四九)から宝亀一一年(七八〇)に至る献物叙位の動きにおいてであり、『続日本紀』に七例を確認することができる(表2-8)。その対象のうち二例は国分寺であるが、国分寺建立も国家的事業の一環である以上、献物は本質的にはすべて国家に対して行われたものとみなしうる。
これによって、献物者の大半は外従五位下という位階を叙されているが、その後彼らが中央の官人機構のなかに一定の地歩を占め得たか否かは不明である。しかし献物叙位の基本的意味は、地方豪族層がより上級の位階を帯びることによって、むしろ在地における農民支配のよりいっそうの強化をはかった点にあると考えられている。特に地方行政機構に連なることによって公権を帯び、徴税過程の末端にあって農民収奪を担当することこそが、私富を形成、拡大してゆくうえでも必須の条件であったことは前項にふれたとおりである。八世紀後半以降頻出する伊予の豪族層の改賜姓(天平宝字二年三月賀茂直→賀茂伊予朝臣、天平八年一〇月周敷連→周敷伊佐世利宿祢など)や郡司らが国司の祥瑞貢献に関与、昇叙されているのも(宝亀元年一〇月、延暦一〇年七月)(いずれも続日本紀)、同様の意味においてとらえることが許されよう。
豪族層の生産・交易活動
献物叙位の意味とは別に、そこにみられる貢献物の内容は古代伊予の豪族の農業経営、生産交易活動の実態を推測させ、きわめて興味深い。
まず大直足山の七万七千八百束、凡直継人の二万束といった膨大な私稲の貢献の背景に、彼らの私出挙活動を考えうることは前に述べたが、大直足山が同時に墾田一〇町を国分寺に献じているように、その営田活動という側面も見逃すわけにはゆかない。天平一五年(七四三)の墾甲永世私財法発布以後、面積の制限をうけながらも豪族層の墾田経営が公認されたことは周知の通りであるが、彼らはその在地での伝統的支配関係や税の代輸等を通して開墾のための労働力を確保し、かつ一般農民を対象に賃租による耕営を行った。八世紀なかばに始まる中央大寺社や王臣家による荘園の設立の動きは伊予にも及び、たとえば天平勝宝八年(七五六)には、東大寺野占使による野地占定が神野郡で行われ、畠地を中心とする新居荘がここに成立した(東大寺文書・七五)。しかしこのような初期荘園の設立の場合にも、郡司など在地の豪族や有力農民層の、右に述べたような土地開墾、経営能力を前提とした積極的関与が不可欠とされている。事実天平宝字二年(七五八)神野郡人賀茂直馬主らが賀茂伊予朝臣と改姓されたのは(続日本紀)、彼らが東大寺領新居荘設立にあたって果たした役割への功賞ではないかとの見方も提出されているのである。
つぎに絁・紵布・竹笠・鍬など手工業製品が献物の内容となっている点が注意される。すでに絁についてふれたように、これらの製品は豪族層が各地域における技術的独占を背景に、みずからの私的工房においてすすめた手工業生産の結果であり、多く一般農民が自家生産することの不可能な品々であった。したがって一般農民が調庸物などの調達を行うにあたっては、これらの手工業製品を購入してそれにあてる場合も多かったし、豪族層はこのような手工業生産と交易活動によって富の蓄積をすすめた。貢献物の内容に千二百貫、百万貫といった数字の銭貨がみられるのはそれに基づくものであろう。また大足山が献じた二四四〇ロもの鍬については、その背景に当時の主要鉄産地であった備中・備後など中国地方の諸国との原材料、製品の交易が想定されている。
豪族と仏教
伊予国をはじめとする瀬戸内海沿岸諸国は、その地理的条件から古来大和政権の対外交渉の場において、重要な位置をしめていた。それはある場合には、六六三年の白村江の戦いに越智郡、風早郡一帯の豪族、農民が大量に動員された事実に端的にうかがえるように(第一章第二節)、軍事的意味あいにおいてであり、また大陸の先進文化に接触する際の最先端にあったという文化上の意味においてもである。瀬戸内海地域がもつ古代有数の先進文化圏という性格は、当然そこに居住する豪族、民衆の生活形態に大きな作用を及ぼした。古代文化の象徴ともいうべき仏教文化の浸透も、その一例である。
現在愛媛県下からも東、中予地方を中心に相当数の古代寺院跡が確認されているが、中でも松山市の来住廃寺(来住町)や湯ノ町廃寺(祝谷一丁目)は、発掘調査などにより法隆寺式伽藍配置であったことが確認ないしは推定されており、造営年代も七世紀後半に遡るものと推定されている。法隆寺についてはその荘・荘倉が和気郡・温泉郡・伊予郡・浮穴郡など中予地方を中心に一四か所設定されていたことが、天平一九年(七四七)の『法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳』(資料編三)にみえている。東大寺領新居荘がやや遅れて神野郡に占定されたことは前述したが、ともかく七世紀後半から八世紀にかけて中央大寺院の勢力が松山平野を中心に、伊予の各地域にも及んできていた。
こうした環境の中から中央で活躍する僧侶も輩出した。早くには和銅二年(七〇九)、二三歳の時奈良の飛鳥寺で受戒、公験を受けた願忠がいる(西琳寺文永注記・一八)。彼は「宇麻郡常里(戸)主金集史挨(族カ)麻呂弟保(得カ)麻呂」とみえているが、史という姓より推して渡来系氏族の出自を持つものと考えられる。しかしとりわけ著名であったのは、奈良末―平安初期に活躍した仁秀・光定らである。大同三年(八〇八)に没した仁秀は法相宗の慈訓の系統を継ぎ(元亨釈書・扶桑略記)、また天安二年(八五八)に没した光定は最澄のあとをうけ、内供奉十禅師伝燈大法師位を称せられた天台宗の高僧であった(文徳天皇実録)。彼らはそれぞれ「俗姓物部首、伊予国人也」、「俗姓贄氏、伊予国風早郡人也」とみえるから、いずれも豪族層の出自であろう(光定については第三章第五節参照)。
いっぽう中央に技術者として出仕して造寺造仏事業に参加し、その中で得度を求めようとした例もある。久米郡天山郷戸主久米直熊鷹や、同じく久米郡石井郷戸主田部直足国の戸口田部直五百依らの場合がそれである。熊鷹は写経生として天平二〇年(七四八)正月、千部法華経を書写したのが史料上の初見である。その後同年四月写書所解で同僚三一人とともに出家申請が行われており、その際得度の条件としての労は一年と記されているから、彼が初めて造東大寺司写経所に出仕したのもこれをさほど遡らぬ時期であろう。ただこの時結局熊鷹の出家が許されなかったことは、彼がその後も写経生として勤務を続けていることからも推測される。五百依の場合、天平勝宝二年(七五〇)四月七日の貢進文は、従来いわれてきた優婆塞としてのものではなく、さしあたってその資格を得るために必要な労を積むため、造東大寺司に貢進されたものとする近年の解釈が妥当であろうが、いずれにしても最終的には得度を求めて戸主足国が貢進したものであることにはかわりない(以上正倉院文書・四・七・九)。
これらの例は、当然仏教文化の伊予国への一定程度の定着、普及を背景に理解すべきものである。特に久米熊鷹や田部五百依の出身地である久米郡一帯は、さきの来住廃寺跡の存在などもあわせ想起するならば、古代伊予の仏教文化の中心地の一つであった可能性が強いように思われる。熊鷹や五百依の貢進の基盤にある仏教的素地は、そうした環境の中で育まれたものであろう。さらに古代の地方における仏教受容の主体となる階層は、右にとりあげた人物たちの出自や『日本霊異記』の越智直説話からも推察されるとおり、地方豪族層やそれに次ぐ有力農民層であった。彼らによる国分寺への献物叙位の意味については前述したが、他面在地の支配層が国家の国分寺建立政策へ積極的に関与している背景として、そうした点も見逃すことはできないであろう。
伊予国出身の中央官人(1)
古代伊予の豪族層のなかには在地での活動にとどまらず、さらに中央諸官庁の官人として都に出仕し、そこで一定の地歩を占める者もいた。その際まず注目すべきはさきにみた久米直熊鷹の場合である。前記したように、彼は写書所からの一括得度申請の後も写経所勤務を続けているが、勝宝元年八月の時点では「里人」とされている。里人とは正規に所属する本司を持たぬ臨時採用的な民間技能者で、叙位のための考選の対象にもなっていない者と説明されており、この時点までの熊鷹の立場とはそのようなものであったのだろう。しかし二年後の勝宝三年七月には「小初位下、散位寮散位」とみえている。これは前年正月に行われた造東大寺司官人から優婆塞に至る六七一名への一~三階の特授と関連するものとみられており、他の写経生ともども熊鷹もこの時正式に叙位の対象となったのであろう。これによって身分を散位寮散位に転じ、一下級官人として造東大寺司写経所への出向となったわけである。確かに彼や田部五百依が中央へ出仕する際の重要な関心が、僧侶の資格取得にあったことは事実である。しかし、いっぽう写経技術をもって造東大寺司へ出仕することが、このように一般の地方農民が下級技術官人として中央での地位を獲得してゆくための一つの手段であったことも見逃してはならない。
天平勝宝九歳(七五七)、画工司未選として造東大寺司に送られた物部小鷹も事情は同様である。彼は温泉郡橘樹郷戸主秦勝広庭の戸口であり(正倉院文書・一四)、天平年間以降の造宮、造寺事業の拡大のなかで、従来の画工司に所属する正規の技術者のみでは必要な仕事量を消化しきれず、そのために大量動員された民間技術者の一人であった。「未選」も「里人」同様いまだ考選の対象に入っていない、正式な下級官人としての身分を与えられていない状態を示している。律令国家はこのような方法で小鷹ら民間技能者を動員、駆使しえたわけである。しかし小鷹のその後の経歴をたどることはできないものの、熊鷹と同じくやがて位階を授けられ、現在のような身分状態を脱して下級官人の列に加わっていった可能性も残されている。彼の画工としての技術的素地の背景や、貢進の事情については不明であるが、天平勝宝四年(七五二)に東大寺々家雑用料にあてるため、伊予国に設定された封戸百戸のうち半数が温泉郡橘樹郷にあり(正倉院文書・一二)、あるいはこれが何らかの関連を有しているのであろうか。
伊予国出身の中央官人(2)
以上とりあげた写経生などの下級技術官人とは別に、明らかに伊予国の豪族層に出自を持つと思われる人物が、すでに中央官界で一定の地位を占めている例をいくつか拾い出すことができる。その場合、史料的にもっとも具体的な動向をたどりうるのは越智氏である。
まず八世紀初頭に出た越智直広江は、養老五年(七二一)正月に明経第一博士と見え、学業に優れ、師範たるに堪えるを以て絁、絲などの物を賜わり、あわせて退朝の後は東宮の侍講を命ぜられた当代一流の儒学者であり(続日本紀)、神亀年間ごろの宿儒とされていた(藤氏家伝下)。同時に大学明法博士とも史料にみえるように律令にも通暁し、数々の法解釈の諮問に応じるとともに、いまだ大学の明法科が制度的に確立しきっていない段階において法律を講じ、令師とも呼ばれるような存在であった(僧尼令集解所引釈説)。『懐風藻』には養老末年―神亀年間ころの作と考えられる五言絶句一首が残されているが、その時の年齢がほぼ五〇歳ころと推定されることから、彼はおそらく七世紀末ころ都に出て大学に入り、その後大学寮関係官人としての歩みを始めたのではなかろうか。
また九世紀に入ると弘仁六年(八一五)、治部少録として『新撰姓氏録』(畿内氏族の系譜の集成)編纂に関与した越智直浄継(同書上表)や、貞観年間大学直講、助教(いずれも博士に次ぐ儒学の講授者)として活躍した越智直広峯(三代実録)らの名を確認することができる。
越智氏以外の氏族では、神護景雲二年(七六八)勤学を賞せられ、伊予国の稲一千束を賜わった凡直黒鯛が大学直講とみえているが(続日本紀)、彼も伊予国出身であろう。しかし特に注目されるのは、風早郡出身の物部氏の医療系官人としての歩みである。すなわち承和四年(八三七)に典薬権允として物部首広宗の名がみえる(続日本後紀)他、貞観二年(八六〇)には内薬正兼侍医物部朝臣広泉が没しているが、その卒伝は「少くして医術を学び、多く方書を見」、天長四年(八二七)には医博士と典薬允を兼ね、さらに『摂養要決』二〇巻を撰修したと伝えている(三代実録)。両者が近親関係にあったことは確実であるが、医薬関係の学問を家学とする風早郡の物部氏のあり方の一端がうかがえよう。
ほかにも官職は不明ながら、伊予国出身であることを確認できる中央官人を何名かあげることができる。ともかく彼らはおおむね位階の上では五位以下に留まり、中・下級官人の域を脱することはなかったが、その本領が学者としての姿にあったことは、以上の例からも明らかであろう。そしてさきにも述べたように、その学問的素地もまた古来よりの大陸文化との接触に基づいて形成された、瀬戸内海沿岸地域の先進文化圏の土壌のなかに求めるべきであろう。
在京官人の動向
ところで奈良時代の段階においては、彼らはいずれも「伊予国○○郡人」として表記されているものの、事実上はすでに多くが生活根拠地を京内に移していたものと考えられる。しかし平安遷都後は、延暦一八年(七九九)越智直祖継が左京に移貫を認められた(日本後紀)のを皮切りに、続々と本貫を京内に移しはじめ、相前後してウジナ、姓をより高位のものに改称してゆく。京への移貫が、名実ともに中央官人として承認される象徴と考えられているとみるべきであろう。
そして承和六年(八三九)一一月、伊予国人風早直豊宗らが善友朝臣と改賜姓され、同時に左京四条二坊に貫附されたが、その前月に摂津国人直講博士佐夜部首頴主が同じく善友朝臣と改賜姓され、しかも左京四條二坊に編付されていること(続日本後紀)、また貞観一三年(八七一)越智郡人直講越智直広峯が本居を改めて左京職に貫附され、その二年後善淵朝臣と賜姓されたが、貞観四年には美濃国厚見郡人助教六人部永貞ら三人がすでに善淵朝臣となっていること(三代実録)などからわかるように、彼らは中央官人としての政治的つながりにより、京内で他氏族との間に新たな擬制的同族関係を形成していった。右の二例の場合、あるいは大学寮関係の官人同士としての結び付きが、その契機となったのではあるまいか。いずれにしてもこれによって、彼らと在地の同族との関係が稀薄化していったであろうことは確実で、こうして九世紀、伊予より中央へ出た官人たちがその在地性を急速に失っていったころ、在地では律令体制の変質に基づく新たな動向が展開しはじめていた(第三章第一節)。