データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)
四 駅路と交通
南海道と駅制
律令政府は、中央集権的な地方統治の体制を整備し、諸国を東海・東山・北陸・山陽・山陰・南海・西海の七道に区分し、同時に同じ名称の道路で諸国の国府を都に直結させた。伊予は紀伊・淡路・四国を含む南海道(行政区画)に属し、時代によってコースに多少の変更はあるが、都から紀伊~淡路~阿波~讃岐~伊予を経由して終着土佐国府に達する南海道(駅路)によって結ばれていた。『延喜式』によると、伊予(国府)からの都までの行程は、上り一六日、下り八日で、これは、公式令に「凡行程馬ハ日七十里、歩五十里、車三十里)とある。式の刑部省の項に「伊予五百六十里」とあるので、この伊予までの距離は、馬を利用した下り八日の計算と一致している。
都を起点とする幹線道路を駅路と呼び、ほぼ三〇里(一六~二〇キロ)ごとに駅家を設置した。駅家は神戸と同じように特別な行政単位で、規模は道路の格付けによって異なるが、南海道では一〇戸で編成され、駅馬五頭が常備された。駅戸の中から家富んで才幹のある者を駅長に選び、駅子(駅丁)を使役し、駅馬による官使・官人の往来、宿舎・食料等の供給に当たらせた。また、駅家運営の経費に充当された駅田二町歩の耕作、駅馬に使用する馬具・輸送具・雨具等を自弁しなければならず、駅戸の負担はきわめて大きかった。駅家には駅馬の継ぎ立てや宿泊に使用する駅舎、駅馬のための厩舎、駅稲を保管する倉庫等相当数の棟数になっていた。
駅馬および駅舎の施設が使用できる者は駅鈴と伝符を持つ者に限られていた。伝馬は駅路に近い郡家に馬五頭を常備させ、駅馬の不足を補ったもので、急を要しない国司の赴任、帰任等に当てられた。
『続日本紀』によると、紀伊国の駅家は大宝二年(七〇二)に賀陁に置かれたのが最初である。賀陁は加太に比定され、南海道の渡津地点に当たることから、これは南海道の駅家と推定される。したがって、南海道駅路が成立した時期は、大宝二年前後と考えてよかろう。
駅路の変更
地域としての南海道は、紀伊・淡路・四国の間に海が介在し、同じ四国内でも高峻な四国山地によって南北に分断され、まさに寸断された国々の寄せ集めといえる。
たびたびのコース変更は、このような自然的障害が背景となったものである。養老二年(七一八)土佐国司からの申し出を受け入れ、阿波石隈駅(鳴戸市撫養付近)から、伊予国府を経由するコースを改め、石隈駅から直接南下して、海岸線経由で土佐国府入りのコースとした。この理由は、伊予経由は回り遠く、山地も険しく危険が多いが、阿波経由東回りは、直接土佐と接しているので、通行も容易であるとしている(続日本紀)。
この経路変更から八〇年後の延暦一五年(七九六)には、南海道駅路が回り遠く不便であることを理由に、再度経路変更を命じた(日本紀略)。新道は伊予宇摩郡から四国山地を横断して、土佐国府に達するコースであった。これにともなった廃止駅と新設駅については、翌一六年発表された(日本後紀)。これによると、廃止は阿波の記入漏れを除き、土佐一二、伊予一一駅で、新設駅に土佐吾椅・舟川(丹治川)の二駅で、伊予山背駅を挙げていないのは、記入漏れか、それ以外の理由かよくわからない。このとき、伊予国駅家一一が廃止されていることは、養老二年に廃止されたはずの伊予国府以遠の駅路が、実際には廃止されず、この延暦一五年まで引き続き存続していたことを意味している。
最初の伊予国府経由の南海道駅路は、「行程迂遠、山谷険難」(続日本紀)とあるだけで、これ以外は記録にもないし、したがって、復原も十分進んでいない。そこで、おおよその見当を立てるため、想定される駅路の距離と、駅間隔三〇里(約一六キロ)の割で駅数を算定し、これと廃止駅数を比較した。ところが、宇和郡回り(現在の国道五六号線に沿うコース)は算定した駅数と廃止駅数はほぼ一致はするが、これを受け継いだ土佐国側の駅数と食い違いが大きく、このため、このコースは、駅路として認められない。そこで、浮穴郡経由のコース(現在の国道三三号線に沿うコース)をとるとすると、廃止駅数が少なく、別に四~五駅を持った支線がなければならない。そこで、この手掛かりとして考えられることは、延暦一五年(七九六)の太政官符に、当時なお頻発する海賊の被害を避けるため、豊前国草野津・豊後国国埼津・坂門津の三港から、伊予等沿海諸国に入港のあることを周知させていることである(類聚三代格・二〇)。このことは、一般には公表されてないが、西海道を受け、これと接続した宇和郡矢野郷(後の喜多郡)八幡浜、またはその周辺と、南海道とを結合するコースが早くから存在していたことが想定される。このことを一応念頭においた上で、以下浮穴郡経由のコースについてみてみることにする。
国府の所在する越智駅から、蒼社川右岸を貫ぎ、野間郡の郡境で二九度西に方向を変え、国道一九六号線とほぼ一致して西に進む。この屈折地点に近い今治市阿方に駅家を想定するのは、越智駅家との距離四、五キロを考えた場合にやや近すぎる。大井郷に含まれる大西町新町の大道北および同町九王の大道端など、南海道にかかわるホノギに接して進み、野間郡賞方郷に含まれる菊間町種から海岸を離れ、同町池原に進むと推定される。ここには御馬屋のホノギがある。この位置は越智駅家から一七キロの地点に当たり、駅家として適切な場所といえよう。これ以後風早平野に入るまで、海岸沿いのコースは北条市浅海原から鴻之坂を越え、堤田里(宗昌寺文書・一五三三)の中央を南下する経路が考えられる。もう一つは菊間川を上り、風早郡難波郷の同市小山田または米之野から、立岩川に沿うて下り、高田郷於夫田里(同文書)の南を通って、風早平野に入り、西に進み、苗代里(同文書)で南下する経路である。この東からのコースに沿うて社田里に含まれる領域に松ノ木のホノギがある。これは風早郡の駅家に比定されている。この推定駅家までの距離は、海岸回りで一三キロ、東回りで一七キロである。
風早郡を南下した駅路は、粟井坂を避けて東寄りに尾根を通り、平田郷とされる松山市権現付近で和気郡の平野に入っている。同市馬木は和気郡駅家に比定され、平田との境界線の二町西を駅路とし、さらに南下して、温泉郡・久米郡・伊予郡まで延長するコースが推定されている。これに対して、温泉郡味酒郷に当たる南江戸村(現在の松山市三番町七丁目)にある大道下のホノギを重視して、これを南北に延長して和気郡より伊予郡に通じる駅路も想定される。伊予郡家は神崎郷にあったとされるので、南海道駅路の分岐点と想定される伊予駅家も、松前町出作、同町徳丸付近であろう。この駅家を経て、土佐国府に向かう、井内峠、三坂峠両経由のコース、伊予駅家から分岐して八幡浜またはその周辺に向かうコースはともに定説がなく、今後の研究によらなければならない。
駅路と駅家
『延喜式』(兵部省)には、伊予国の駅家として大岡・山背・近井・新居・周敷・越智駅の六駅をあげている。このうち、山背駅は延暦一五年(七九六)四国山地越えの駅路に新設されたものである。讃岐国刈田郡柞田駅(観音寺市柞田)より伊予大岡駅へのコースは海岸沿い、山田井、五郷渓の三コースが想定されるが、地形的障害の少ない山田井川に沿うコースが最も有力である。
大岡駅については、法勝院領目録(仁和寺文書・四六)にある豊村荘の四条大岡田里を復原した結果、旧妻鳥村(現川之江市)の松木・東松木、旧金生村下分(同)の松木・馬木を含む領域となった。したがって、大岡駅は大岡田里にあったものとして間違いはなかろう。駅路は里界線を進み、駅家は大岡田里一二ノ坪の馬木に想定した。延暦一五年(七九六)大岡駅から分岐する四国山地越え駅路新設のさい、大岡駅が西に寄り過ぎているので、新駅路は駅家から坪界線に沿い四町東に進み、ホノギ大道の地点で方向を変え山背駅に向かったものと思われる。
山背駅には、新宮村馬立が想定されているが、広範囲を呼ぶ地名のため、詳細な位置についての定説はない。このうち、有力な推定位置とされる馬立土居は、大岡駅から一八キロ、また、銅山川と馬立川の合流付近までとすれば一六キロ地点に当たる。大岡駅から西に進んだ駅路は、山口郷の複合扇状地を通り、宇摩郡の東部に移る。
近井駅は土居町付近に比定されている。中村の旧道に沿って大道上のホノギがあるが、この一部に松ノ木の俗称が残されているが、ここを駅家とすると、近井駅は津根郷に含まれることになる。これを近井郷にあったものとすれば、中村に隣接する土居を想定しなければならない。関ノ戸(関ノ峠)を越え、これから駅路が新居浜市船木の南を通るか、北を通るかについては確定できない。大治五年(一一三〇)の東大寺諸庄文書并絵図目録(東大寺文書・七五)には絵図は残されていないが、天平勝宝八年(七五六)の新井荘について収録されている。この中に「四至、東継山、西多豆河、南澤路、北君小野山、野八十町、池地三町六反百十歩、号柏坂古池」とある。東の継山は関ノ戸、西の立川(龍川)は国領川、北の小野山は郷山である。この位置の指示から新井荘は船木であることが明らかになる。(新井荘については第三章第三節参照)。したがって、新井荘は国領川の支流の形成した複合扇状地を領域としていたことになる。このため、甚だしい欠水地域で水田化は困難であった。この条件のなかで荘の四至の南の境界線が澤路と表現されていること、しかも、その澤が東西方向に流れているかの如く表現されていることは、やや不自然な記述である。これを従来読まれていたように駅路とすれば、そのような不自然さはなくなる。しかし、駅路の通る条件としては水にも恵まれた北の方がよいともいえる。いずれにせよ新居浜市池田からは同岸ノ下まで延々七キロにも及ぶ直線的な旧道(現在の国道一一号線の南側に残る旧国道)は駅路を受け継いだものであろう。
新居駅は、新居浜市中村の松木がほぼ定説となっている。伊予国で郡名と同じ郷名は新居郷のみで、中村はこの新居郷に含まれる。松木に隣接する同市本郷は郡家に比定されている。平城京から「伊予国神野駅家□(上に口二つの下に口一つ)除□尓志白米五」の木簡が発掘されている。同市岸ノ下から西進した駅路は、四国山地と島山丘陵の狭あい部亀の甲を通り西条に入る。西条市飯岡には旧道に接して大道東、大道西の地名がある。駅路は野口で段丘面を降り、低湿地を避け山麓の地蔵原・福武と進み、加茂川を渡る。中野から氷見までは山麓のほぼ旧道に沿うて通り、中山川下流を南北に通る郡境で周敷郡に入る。周敷・桑村両郡を通る駅路は条里に沿うて進む。東予市吉田の旧道に接する大道ノ下のホノギ、この見通し線に沿うて、桑村の大道ノ下、これと向かい合った大道ノ上のホノギが配列をしている。建徳二年(一三七一)比丘尼浄伊寄進状(観念寺文書・九二九)に「伊予国北条郷内得楽名内字相勢内田地事、合弐段者、三嶋不動供図放田也、供米段別五升也、四至限東大道、限南類地、限西類地、限北類地」と記されている。この地域は、東予市北条の旧飛地富岡付近であろう。富岡の寂光寺の門前の三島大明神は、三島不動と考えられる。したがって、富岡は吉田に接合しているので、前記の線上に配列している。したがってこの駅路は里界線と二町のずれとなっている。
周敷駅は東予市周布にあったことは間違いない。しかし、詳細な位置については、想定駅路を挾んで北の貝田か、南の本郷にあったものか明確にはなっていない。貝田については『延喜式』によれば、周敷駅の私号を榎井と呼ぶとあるので、貝田との関連が考えられる。また駅家は余戸郷に置かれた場合が多いので、この点余戸田神社(周布郡地誌附図による)のある、周布の本郷も有力である。大明神川以北の駅路は、越智郡に入る二つのコースとかかわりがある。このうち、条里に沿って真北に進み、医王山遺跡の東を通り、今治市孫兵衛作から国府のある越智駅に至るコースと、東予市三芳から条里に沿うて福成寺に進み、椎ノ木越(標高一八〇メートル)を経て、朝倉から越智郡に達するものがある。孫兵衛作経由のものには今治市長沢に大道下のホノギがあり、椎ノ木越経由のものにも朝倉に大道、旦に大道下のホノギもある。しかし、孫兵衛作経由には桜井に国分寺・国分尼寺もあって、駅路としては当然のコースで、今治市上徳の御厩・大道ノ上・大道ノ下のホノギはこのコースを一層有力にしている。
越智駅家の位置については、かつては今治市松木説が有力であった。しかし、伊予国府跡が上徳(富田)説に大きく傾いている現在、上徳の御厩とするのが妥当ではなかろうか。またこの御厩に接して大道ノ上・大道ノ下のホノギも分布している。ただ問題点として『延喜式』には越智駅の私号を古波多としている。国府推定位置の近くに小幡のホノギがあり、古波多との関連が当然考えられる。この位置を仮に越智駅とすると、駅路から九町東北に入り込むことになるが、海上交通との関連は密になる。この場合、越智駅家に想定された御厩は、国府に接して置かれた国司以下官人の乗用馬を収容した御厩としなければならない。