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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 天武・持統朝期の伊予

 伊予の総領

 天武・持統朝は律令体制成立の重要な画期である。律令体制は法の体系に基く国家支配であり、官制・軍制・公民制などを通じてその支配を地方の末端にまで浸透させる体制であった。持統三年(六八九)に制定された飛鳥浄御原令によって、このような体制の骨格が形成された。そういう意味において天武・持統朝は律令国家の創出期であった。
 さて、この時期伊予国では総領田中法麻呂が史料の上に姿を現す。しばらく彼の姿を追いながら、律令制形成期の伊予について考えていきたい。まず、その初見は持統三年(六八九)の記事である。それによれば、伊予総領である田中法麻呂が讃岐国三木郡で捕えた白燕を放養したとある(日本書紀)。
 「伊予」の国名を冠していることから、恐らく伊予のどこかの地に常駐していたと思われる。そして、総領は一般に広範囲な領域支配をおこなっていたのであり、この場合、讃岐国をもその管轄範囲に含んでいたと推測される。
 ところが、持統五年(六九一)の記事には、伊予国司田中法麻呂らが宇和郡御馬山の白銀や(金辺に非(あら)ず)を献上したことがみえる(日本書紀)。これによれば、法麻呂の官職が伊予国司となっており、持統三年から同五年の間に総領が廃されたことがわかる。したがって、法麻呂が伊予総領であった時期は総領制の衰退期にあたっていたといえよう。ただこの場合、総領であるとともに国司も兼任した可能性、あるいは、国司といっても律令制的なそれではなかった可能性も残されており、実態は必ずしも明らかではない。しかし、いずれにせよ、伊予の国司制成立の時期を推定できる重要な史料であることは疑いない。
 次に、田中法麻呂はいかなる人物であったのだろうか。まず、彼の経歴を略述しよう。持統元年(六八七)、遣新羅使となり、その時の位階は直広肆である。その後、同三年新羅より帰国し、伊予総領・国司を歴任し、さらに、文武三年(六九九)には、越智山陵営造使となった。その時の位階は直大肆である(続日本紀)。この経歴から明らかなように、彼は中央の中堅官人であった。ところで、中央から派遣された総領は伊予国に常駐しており、したがって、行政をおこなうために必要な官衙も有していたと思われる。また、すでに孝徳朝の時代には官人に付属する従者が定められていることからみて、天武・持統朝の段階では、かなり整備された官人組織をもっていたことが推測される。それゆえ、田中法麻呂も多数の従者を率いていたと考えられる。それでは、彼は何の目的をもって伊予国に赴任したのであろうか。また、いかなる役割を果たしたのであろうか。

 伊予総領の役割

 総領の存在が確認されるのは、常陸・播磨・吉備・周防・伊予・筑紫の六か国である。常陸を除けば全て西日本地域であり、しかも、瀬戸内海沿岸であることから、海上交通の重要性を考慮して設置されたものであろう。また、天智朝の百済派遣に参加した兵士の本貫地は、陸奥国を除けばいずれも総領の管轄地域であった。このことから、総領は内海地域を掌握するとともに軍事的役割をも有していたと推測することができる。その例として、周防総領所に鉄一万斤を送付した記事があげられる(続日本紀)。この鉄は武器を供する目的のものであろうから総領の軍事的性格を示すものといえる。それゆえ、伊予総領もまた、外征軍の兵士を徴発し、同時に軍事的基地を管掌する役割を担っていたものと考えられる。
 また、いっぽう総領は本来的には行政官であった。総領は伝統的な支配者である国造の上に立って、彼らの支配領域を管轄する官職としておかれたようである。その後国造の国が評へと編成されるに従い、評一般を管轄する官人として新たに国司が派遣されるようになる。このような国司制が成立すると同時に、総領は史上から姿を消す。したがって、総領は国造的支配から律令制的国郡(評)制への過渡期に現れ、国造の伝統的支配を解体し、彼らのもつ種々の機能を国家に吸収することが主な役割であったと考えられる。そうであれば、持統五年(六九一)までに伊予総領が廃止されたことは、すなわち、この段階においてはすでに伊予国全域にわたって国評制にもとづく地方行政組織が成立していたことを示すものと理解できる。
 ところで、このような国評制の発展は国造の支配はもとより、国造の存在をも否定するものであった。それにもかかわらず、伊予の国造がこのような動向に抵抗した形跡はみられない。それはなぜであろうか。その理由は、彼らを新たに地方官人として行政組織に組み込んだためであった。つまり、従来の国造にかわって一国一員の律令国造がおかれ、その国造には世襲的地位の保障とともに、国造田として伊予国では六町が与えられるなど経済的にも保障されていた(政事要略・四〇)。さらに、その他の旧国造も優先的に郡司に任用された。その結果、旧国造の有していた多様な権力のうち、祭祀は律令国造、行政は郡司、軍事は軍毅へと受けつがれ、このようにして、より多くの在地豪族が地方官人として組織化された。この結果、国造制から国評制への転換が容易におこなわれたのであった。