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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

おわりに

 以上、愛媛県の原始・古代を先土器・縄文・弥生・古墳・歴史の五時代に分ち、主として考古学的遺跡・遺物などをたよりに五章にわたって述べて来た。このように文献によらぬ叙述は、県公刊の愛媛県史としては初めての試み、一般には不慣れの考古学の専門用語も多くなるので、なるべく平易にと努めたはずであるが、なお生硬で耳障りの箇所のあることが案ぜられる。
 ところで、さきにあげた五時代には、それぞれの性格があり、また時代が下るにつれて本県独自の特性とか、さらに県内各地域の地方的特色が見られぬでもない。ただ本書で用いた考古学的資料は、文献学的な文書類と異なり、遺跡・遺物それ自体が語らないので研究者の見解による所が多く、しかも氷山の一角にもすぎないわずかの資料に基づく未確定要素から来る学者間の見方の相違点がまま見られる。ここではこれらの問題をも含め各章執筆で尽くしえなかった所を若干補筆してまとめとしたい。
 まず、第一章の数万年前を含む先土器時代の「文化のあけぼの」では、未だ遺跡・遺構が確実に発見されておらず、わずか散発的に発見された遺物を通して形態論に終るしかなかった。今後はこれら石器類の石材分布とか石器技法の特徴などを通して、より広い文化の地域性の把握につとめると共に、県内出土石器の文化段階を考え、これらとその後上黒岩に多出し、その他にも散見されている尖頭石器類や、これに次ぐと思われる細石器などの出土地の本格的究明、またそれらの相関関係の鮮明、さらに当時の人びとの生活の集団性などを究めるためにも今後広汎な計画的遺跡調査が必要と考えられる。
 これに次ぐ縄文時代は「狩猟漁撈の生活と文化」の章としたが、この初頭に生活上の革命ともいわれる煮沸・貯蔵用の土器の初使用が上黒岩や城川町で見られ、ことに上黒岩ではこの生活の向上に伴ってか、国内外にも珍しい人間像の線刻礫が数個以上も出土し、一万余年前の宗教的呪術的遺物として海外にまでも展示されたほどである。当所ではまた、この縄文草創期末に尖頭器に代り、石鏃使用が始り、続く縄文早期にはこの弓矢導入によるせいか、豊かな獲物と種々の装身具類とが多数の人骨と共に発見され、当時の生活の繁栄をうかがわせた。次の縄文前期では中津川洞に層位関係上早期かともいわれもする粘土床をもつ熟年女性人骨の屈葬を見、県内この種の遺構としては珍しい例に属する。これに次ぐ縄文中期には水崎の海中遺跡のほか県内に著しいものがあまりにも見られず僅少なので調査洩れかと案ぜられもするが、海進・海退とか地質変動ないし火山活動などとも考えられず将来への課題である。しかし次の後期遺跡は、他県同様急増し、四国四県中最多を数え、上野の住居跡・平城貝塚の伸展葬人骨、岩谷の祭祀的配石遺構、山神の馬骨発見などもあったが、集落遺跡などは見出されていない。縄文晩期では西日本にまれな赤漆塗り木製腕輪類や木偶・土偶・岩偶を出した松山市船ヶ谷遺跡が、西日本には珍しい奥州是川遺跡の文化を偲ばせ、また多くの植物性遺物を含んで低湿地水稲農耕への先駆的なものの残存を予感せしめながら、顕著な遺構をつかみ切れぬままに埋め戻されてしまったのは残り惜しい。
 次に「農耕文化の形成と発展」を取り扱った第三章弥生時代では、土器編年の細分によって、県内各地域の土器文化の特徴が明らかにされ、地方ごとの様相も浮かび上らせたかと思われる。しかし当代の社会共同体とか集落ないし地域集団または統一集団あるいは小国家などについてはなお問題があろう。これらは用語も複雑で内容にも難問が多い。いまここでは仮に一つの見方として、当代の中期末から後期にかけて、特に本県多出の銅剣・銅鉾類を中心に社会との関係を考えてみたい。およそこれら青銅器類は、本文でしるされたように武器としてよりも儀器として、農耕共同体の祭儀に用いられ、その農耕集団の一象徴としても尊重されていたかと察せられる。つまりこの出土地を巡って、これを儀器として扱った長老または司祭者を中心とする一個の集団が存していたことが想定される。この集団は農耕共同体の祭礼にかかわるという点から、単位集団ともいわれた家族集団より一段上位の生産的な地域集団であったと思われる。そこで県下の剣鉾類全六二口の出土を一口一集団の存在と仮定して旧地域別に割当てると、宇摩六、新居二、周桑一一、越智・今治八、石手川流域二一、重信川流域三、宇和一一の計六二の地域集団が当初存していたことになる。次にこれら青銅器の数口一括出土を数個の地域集団の統合化の結果とみて整理すると、さきの東予二七小集団は一三の大小集団に、中予二四は五集団に、南予一一は四集団にまとまってくる。いいかえれば、西暦一〇〇年ころの愛媛県内には計二二の大小の地域集団が成立していたことになる。そして中・南予での大集団的地域社会の形成に比し、東予では小国的乱立の様相がうかがわれぬでもない。これがいわゆる「倭国大乱」でいう小国家か否かは不分明としても、少なくとも弥生後期初頭の愛媛社会の姿であったといえようか。しかしこれが「倭国大乱」や高地性遺跡の出現との関係はなお問題である。またこの社会の姿は、基本的には当代周辺の青銅器出土分布状況(香川八三口―四〇ヵ所、高知六一口―二九ヵ所、徳島五二口―三七ヵ所)との対比検討をも要する。
 次の第四章では「古墳文化の発達と社会の充実」としての古墳時代を扱ったが、古墳時代とは壮大な古墳によって特徴づけられた時代であり、古墳時代三分法で前期古墳に当たるものは今治・北条・松山三平野以外では目下未確認である。これは「先代旧事本紀」の五国造設置地名と暗合せぬでもないが、このことは今後の研究にゆだねたい。ただ本章では古墳と同時に当代の生活実態の解明を念じて、古墳所在の不分明な宇和島周辺や他の地域にも意を用いようとしたが、資料の乏しさもあって成果をあげえなかった。また古墳を外形・内部構造・遺物などから概括して総合的に眺めようとしても、基礎的調査の行われたものが少なく、資料の不揃いで叙述は停滞した。それでここには若干視点を変え、一面的見方に過ぎるかもしれないが、補足的に古墳後期初頭までに多く出土する青銅鏡を中心にこのころの社会を垣間見ることにする。
 これらの青銅鏡はさきの剣鉾類と同様に、弥生時代から当初は宝器として有力者などに保持伝世され、やがてその巫呪的性格などにより、世帯共同体ともいうべき家族集団の族長でもありえた長老または司祭者によって祭祀用儀器にもされたらしい。この鏡の儀器的役割はさらに共同体が地域集団、地域統一集団へと発展した段階でも存続したと思われる。ただこの場合、青銅鏡と剣鉾類、これに先行の石剣や分銅形土製品の関連如何も問題であるが、これについては割愛する。しかしいずれにしても、高塚築造をみた古墳時代に入ると、地域統一集団を率いた豪族的首長やその上にたつ盟主的首長が、青銅鏡をさきの巫呪的宗教的権威と共に、その地位権力の象徴またはその証拠として、これを中央権力者から受け地方に君臨していたと思われる。したがって今日地方の古墳での鏡の出土は、当時の墳主である首長が、その周辺においてより大きな統一集団社会を背景にその鏡をもって半ば公認的にその地域に盤踞していたことを物語るといえる。
 ところで、本県出土の青銅鏡は前掲一覧のように、弥生後期から古墳後期初めころまでに六〇余面を数える。これは香川五七、徳島三八、高知四面に比し現在では最多数を示している。しかしこれをどのように解するかはむつかしい。ここではとりあえず、さきに掲出の県内出土鏡を旧地域別に計出すると、宇摩二・新居二・周桑五・越智(今治、島嶼部を含む)二一・石手川流域一九・重信川流域一三・宇和三、計六五面となる。これらのうち、一墳丘で二面以上出土の例を整理すると出土地は六〇ヵ所となり、さらに弥生時代から古墳前期までのものを除き、古墳中期から後期初頭まで、いわば古墳盛期に限定すると、宇摩一・新居一・周桑四・越智一一・石手川流域一七・重信川流域八・宇和盆地三ヵ所となる。つまり五世紀から六世紀初頭にかけて、東予一七・中予二五・南予三ヵ所、鏡を権威的に保持した首長層を擁する少なくとも合計四五の統一地域集団が存し、自余の地域集団社会と共に継起興亡していたことが推定されよう。(6―1)
 これを次の考古学からみた歴史時代への歩みとしての第五章「律令国家と社会」に結びつけるのは無理かもしれない。しかし古墳時代と政治的文化的に繋がりのある仏教の発展を述べた第二節の古代寺院の分布状況をみると、七世紀後半まず東予に法安寺の創建があるが、初期寺院数では中予が絶対多数を占めて、さきの鏡の所有数の東・中予間の比とはほぼ平行するかに見える。
 この後、国府がこれら有力集団の多い中予の道後地方でなく、東予、いわゆる道前地方で優位を占める今治地域(確定位置未詳)に置かれたのは、既存勢力を敬遠してか、それとも中央との交通関係によるか、または当初の伊予総領として讃岐をも管掌した行政的立地からであろうか。これらのことは郡衙・駅舎・国分寺の規模、国分寺の位置、さらに地方社寺などと共に今後の研究によらなければならぬ。また条里制の詳細は次の古代Ⅱ・中世編で郡郷制などの問題と共に解明を期待し、さらに平安末期に貴重資料を供している経塚についても石経などと共に同編に譲り、ここには補説した青銅利器と青銅鏡の関連分布図だけを掲げ当時の集落分布への参考としたい。
 なお、以上の叙述は、県下において従来発掘された遺跡・遺構・遺物を中心に綴ったものである。しかし、これらは私たちの祖先が生活に用いたものの九牛の一毛にすぎない。従って今後、さらに目を見張るような考古学的資料が学術調査によって見出され、もって本編の充実される日を祈念して筆をとどめる。

6-1 青銅利器・青銅鏡出土分布図

6-1 青銅利器・青銅鏡出土分布図