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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 国府の成立

 国府とは

 国府は大化改新(六四五)後の律令時代にあって、それぞれの国内を統治する国庁の所在地として計画的に造営された。国府は行政・軍事・交通・宗教・文化などの機能を集中させ、形態的にも方格状街路による条坊をもつ地方最大の小都城であった。
 国司は中央から派遣され、執務する国庁(国衙)は遠の朝廷と歌われ、国司の館は土佐の国府跡に小字名として残るように内裏とも呼ばれた。
 伊予の国府は「国府越智郡在」(和名抄)とあるように越智郡にあったことは明らかである。当時の越智郡には朝倉郷(越智郡朝倉村)・高市郷・桜井郷・新屋郷・拝志郷・給理郷・高橋郷・日吉郷・立花郷(今治市)・鴨部郷(越智郡玉川町)の一〇郷があった(和名抄)。しかし、越智郡内の位置については記されておらず、主として文献面から研究が促進されてきたが、最近では今治市上徳がその有力な推定地として認められつつあるように思える。そこでいま一度、国府の立地条件、形態などについて検討したい。

 地形・遺跡との関係

 国府は一般には平野部におかれる。なかでも山麓の扇状地や河岸段丘上に立地する例が多い。
 今治市は瀬戸内海に突出した高縄半島の東端に位置し、市の東部に唐子山(一〇五・三メートル)、南部に霊仙山、作礼山、西部には重茂山、近見山などの山塊がせまり、扇状地性の山麓から、蒼社川・頓田川によって形成された沖積平野が展開し、河口付近は広大なデルタ地帯となっている。両河川沿いには自然堤防が形成され、その後背地は蒼社川沿岸の小泉、高橋、片山、四村、中寺や頓田川沿岸北部の上徳のように標高一〇メートル内外の微高地となっている。これらの地域は弥生時代前期から後期にかけての遺跡分布地でもあった。
 古墳時代(四世紀~七世紀)の遺跡には下胡遺跡(今治市上徳)があるが、この遺跡は須恵器編年上、一期後半(五世紀後半~六世紀初頭)ごろとみられ、出土遺物は須恵器の高杯・蓋・杯、土師器の高杯・壷形土器、石墨片岩製の石製模造品(粗鏡)があり、祭祀遺跡とみられている。このことはこの付近一帯が古くから祭祀などをつかさどる特殊な地域であった可能性を秘めている。
 古墳群は唐子台遺跡群を中心に県下最大級の規模をもつ近見の相の谷前方後円墳群、越智郡朝倉村の野々瀬古墳群、多伎の宮古墳群などが分布しているが、その数は五〇〇基を下らないといわれる。なかでも唐子山一帯には前期の国分前方後円墳・雉之尾前方後方墳・中期の久保山前方後円墳・後期の治平谷一、二、三号墳などを含む唐子台古墳群があり、律令制以前の地方豪族の勢力圏を示している。
 律令時代の遺跡には桜井の推定・国分尼寺塔跡(白鳳期)、国分の国分寺塔跡(奈良~平安時代)、布目瓦を出土し、国分寺・尼寺との関係が考えられる国分の鳥越池窯跡(奈良~平安時代)、土師器が出土した高橋の根本遺跡(奈良~平安時代)などがあり、また、近年発掘調査された富田小学校々庭からは唐代の白磁高台片や軒丸瓦、布目瓦(奈良時代)が出土している。
 なお、唐子山(国分山)は頓田川に接した独立丘陵であり、東側に国道一九六号線、西側に県道乃万・桜井線が南北に通じている。乃万・桜井線は古代の南海道にほぼ一致している。唐子山の頂上からは瀬戸内海航路や今治平野を一望におさめることができ、越智郡(今治市)が政治、交通、軍事上の要衝に位置していたことが理解される。

 駅路との関係

 国府は中央との連絡上、国内の中央部よりも都に近い平野部に置かれることが多く、また、駅路に沿って設置されることが原則であった。
 京から紀伊、淡路、讃岐、伊予、阿波、土佐の各国府に通じる官道は南海道といわれ、三〇里(四里=約一六キロ)ごとに一駅が設けられた。讃岐の国府から伊予の国府に通ずる南海道には、大岡、山背、近井、新居、周敷、越智の六駅と馬各五疋が置かれていた(延喜式)。このうち、山背駅は土佐国府と連絡するために宇摩郡の山間部に設置された新駅であった。
 伊予国から土佐国への交通路は時代によって変遷をみた。まず、その移り変わりをみてみよう。
 養老二年(七一八)には伊予国経由は道も遠く、危険という理由で阿波国の東海岸経由に改められている(続日本紀)。したがって、養老二年以前は伊予国を経て土佐国府へ至るコースがあったと推測される。しかし、阿波国経由も延暦一五年(七九六)には廃止され、山間部に新道を通した(日本紀略)。翌延暦一六年(七九七)、阿波国駅家(駅数不明)、伊予国一一、土佐国一二の駅家を廃し、新たに土佐国に吾椅、舟川(丹治川)の二駅を置いている(日本後紀)。この年以降、山間部の山背駅が土佐国府への通過駅として設置されたものであろう。
 さて、廃止された一一の伊予国駅家は、一〇世紀に編さんされた「延喜式」にある大岡、山背、近井、新居、周敷、越智の六駅を除いた越智郡以西の久万山経由の駅家数とする説がある。このコースは越智郡にある国府から高縄半島の西海岸を南下し、現在の国道三三号線に沿って三坂峠を越えて土佐国吾川郡の仁淀川沿いに土佐国府にいたるものである。しかし、この行程は全長約九八キロで、令制にいう三〇里(約一六キロ)ごとに一駅を置く原則に照らしあわすと六駅となり、駅数があわない。一方、宇和郡から土佐国の幡多郡経由の説もあるが、この行程は約一八二キロあり一一駅が数えられる。延暦一六年に廃止された駅家数に見合い、また、宇和町には樫木駄馬古墳、前方後円墳ともいわれる小森古墳、奈良時代の岩木廃寺などの古代の遺跡群も分布しており、南予地方の文化中心地であったことや九州への陸上交通路の可能性を考慮すると軽視することはできない。
 駅路からみた伊予国府の所在地はすくなくとも、延暦一六年(七九七)以降は越智郡にあったことになろう。
 次に、とかく問題の多い周敷駅から越智駅にいたる南海道にふれておこう。この経路には二説ある。一つは周敷駅のあった東予市周布本郷(推定)から桑村を経て椎ノ木(標高八〇メートル)越をして朝倉郷から今治市松木にいたる越智駅松木説であり、他は桑村から国鉄予讃線、国道一九六号線に沿うて長者屋敷、医王山麓、孫兵衛作、長沢、郷桜井、国分を経て御厩にいたる越智駅御厩説である。前者は大道下、旦(今治市)、大道(朝倉村)の地名があり、また、松木を馬次の転誂したものとする説である。後者には孫兵衛作に道の上、道の下、長沢に道添、大道の下などの小字があり、御厩以北にも大道地名が続出する。これに加えて道沿いに古代山城永納山、国分寺跡、国分尼寺跡が存在する。このようなことからみて古代遺構と関連の深い越智駅御厩にいたるコースを官道すなわち南海道と考えるのが妥当と思われる。なお、「延喜式」九条家本には、越智駅は、私的には古波多と呼んだとある。竜登川近くに小幡の小字が残存している。

 条里との関係

 国府条坊の方格は条理と同様の六〇間単位が一般的であり、そこで条里界を基準に条里方格にしたがって国府が設定されたという学説がある。しかし、条里は地形の傾斜などに左右され、必ずしも南北方向をとらず、また、国府は南面することを原則とする関係から条里と合致しない場合も多い。
 今治平野の傾斜は北東方向で、条里割はこれに適応させて北で四五度東に偏している。ただ、今治乃万地区は条里の方向が相違し、北で二〇度東にかたよっている。このように地域によって条里の方向が異なっているが、今治平野は条里の分布においては県内で最も密度の高い地域である。
 条里の復原については不明なところが多く、困難であるが、坪の進行方向はわかっている。国分寺坪付帳によれば、青木里の項に「七坪寺内」、「八坪亀山」、「十八坪寺内」とあるが、亀山は現在の国分寺の所在地をいうので、このことから条里の呼称の仕方が判明する。すなわち、里の西南隅を一坪として東北(海岸)へ進み、七坪は六坪に接して南東に折り返している。したがって、条は内陸から海岸へ(海岸に平行)、里は日吉方面から桜井方面へと進む千鳥式である。条の起点は越智郡玉川町大野、舟戸口に求められ、そこから海岸へ一一条数えられている。
 地割形態は長地型、半折型の両者がみられるが、今治平野(越智郡)、松山平野(温泉郡)を中心に風早平野、新居浜平野、道前平野においては古い形態といわれる長地型が多くみられる。これらの地域には首長墓である前方後円墳の相の谷二号墳(今治市大浜)・久保山前方後円墳(今治市国分)、帆立貝式前方後円墳の観音山古墳(松山市平井町)、帆立貝式前方後円墳の樹の本古墳(越智郡朝倉下)、小竹八号墳(北条市浅海)、大日裏山一号墳(周桑郡小松町)などの中期古墳が存在するほか後期古墳の群集地となっている。
 古墳の分布状況で、興味深いことは、中期の首長墓と条里の長地型地割の分布がほぼ一致してみられることである。
 条里制の施行時期については、大化改新を境に改新前と改新後の二説に分かれており、今後、中期古墳の存在と条里制との関係が注目されるところである。

 古代山城永納山

 備中、備後、讃岐などでは国府近くに古代山城が設けられていた。山城は大和朝廷が六六三年(天智称制)の白村江の戦いで唐、新羅の連合軍に大敗し、以後、日本への来襲が予想される中で大野城(福岡)、基肄城(佐賀)、石城(山口)、常城(広島)、鬼ノ城(岡山)、城山・屋島城(香川)、高安城(大阪)などの山城が瀬戸内海沿岸を望む山頂部などに築城された。これら山城は西日本の古代海上交通の要衝に位置し、また、京、大宰府や各国府などの官衙所在地に隣接していた。東予市河原津の朝鮮式山城永納山城はこのような情勢を背景に築城されたと推測される。なお、山城は日本書紀など文献に記されているものとそうでないものの両者があり、この差も注目されるところである。永納山城などの名も記録にはみえない。

 城

 永納山(遺跡)は昭和五二年に発見され、翌五三年から五四年にかけて東予市教育委員会により発掘調査が実施された。しかし、調査の目的が列石(土塁)の確認と記録にあったため、全面調査にいたらず、遺跡の全容解明は将来にゆだねられた。永納山(標高一三二・四メートル)は燧灘に面し、海上、陸上交通上の要衝に位置している。山頂からは来島海峡の要衝はもちろん燧灘の全面、さらに、南部の周桑平野、北西部の今治平野の一部を望むことができる。永納山の北西には医王山(標高一三〇・二メートル)、西側には南北朝時代の大館氏明のこもった世田山城跡がある世田山(標高三四〇メートル)が南北に連なり、天然の要害地となっている。医王山と永納山の間には国鉄予讃線や古代の南海道が今治市方面に通り、河原津の海岸からは直線距離で三五〇メートルの位置にある。永納山の地形概要は次のとおりである。
 永納山(東西四七〇メートル、南北七二〇メートル)の北東部は谷が北に開き、谷川は北流して今治市孫兵衛作方面に向かう。医王山の東稜線もこの谷川にのぞんでいる。城内の水源はこの谷川だけであり、山城の水門の存在が想定されている。ここには、現在、民家が五戸あり、その周辺はみかん園として開墾されている。
 南東部は最も険しく岩壁のきつ立した地形であるが、その山麓は周桑平野が展開し、集落や古墳が存在し、海岸にも近い。
 南西部は隣接する世田山との間に台地が開け、集落があり縄文、弥生、古代―中世の遺跡も多い。北西部は医王山に面する部分であるが、列石線中、最も長い列石線が存在している。このように永納山や医王山の尾根、山腹に、山頂を囲むようにして土塁と列石が環状にめぐらされ、総長は二五〇〇メートルにも及んでいる。
 土塁はその基底部に花崗岩の根石(列石)や栗石を敷設し、その上に杵でつき固めた土層を三〇数層にも積み重ねた版築技法によって築成されている。根石(列石)は五〇~六〇センチ×一〇〇センチに及ぶものや三〇~四〇センチ大のものが多い。土塁中の根石は土塁の土留石としての機能をもっており、この技術は朝鮮(百済)式工法にみられるものである。土塁の目的を防御用とすることに無理はなかろう。朝鮮式山城である永納山(城遺跡)の外郭線は土塁であり、石塁ではない。もっとも朝鮮式山城にも石塁が築かれるが、その場合は粗割りの石組みであり、切石を整然と並列させる神寵石系山城とは異なっている。
 永納山(城遺跡)の列石の配石状態には一つの特色がみられる。地形が曲線にもかかわらず、列石線は直線状に配置されており、しかもその直線状の列石線の長さはすべて五・七メートル以上になっていることである。このことから築城の基準尺度が五・七メートルと推定されているが、これを尺に換算すると唐尺(一尺=約三〇センチ)の一九尺ということになろうか。ただし、調査報告書ではこれを周尺(一尺=一九センチ)としている。
 さて、永納山(城遺跡)の性格や築城時期についてはこれまでにあげたように一応の推測は可能なものの客観的な評価は困難である。しかし、あれほどの大土木事業は一豪族の手に負えるものでなく、国家的事業であることは明らかと思われる。国家的事業とすれば築城時期やその事情も推定可能となる。恐らくは当初にふれたように七世紀後半の国家的危機感を背景として、朝廷自らが百済など朝鮮からの渡来人を動員して築城したものと想定される。越智大領の祖、越智直が白村江の戦いで唐兵の捕虜になった物語(日本霊異記)や近くにあった伊予国府との関連も考慮する必要があろう。
 これら山城群は令の規定にはないが、律令期の軍制には中央に五衛府、地方には国ごとに一ないし数個の軍団がおかれていた。特に国府所在地の郡には一団が設置されたと考えられている。今治市旦(旧越智郡桜井村字旦)がその旧跡の一つと推定されている。この軍団制も律令制の衰退とともに健児制に変わった。

 在地豪族との関係

 大化前代の地方豪族は大和朝廷から各国の長官である国造に任命された。当然、国造の本拠地は国府設営の適地となったであろうが、逆に在地勢力をさけて、政治、交通の要地に設けられた場合もあった。
 伊予国には伊余、怒麻、久味、小市、風早の五国造があったと伝える(国造本紀)。伊余の国造は速後上命、小市国造には小致命が任ぜられ、越智郡の越智氏の祖となった(正倉院文書、日本霊異記)。
 今治市馬越の鯨山古墳は平野部の独立丘陵上に立地し、小致命の墳墓と伝えられている。天正七年三月付け三島大祝越智安任の手記「小千御子御墓在馬越邑」に由来するらしい。県指定史跡であるが、墳墓の形態、時期等異論の多い首長墓である。また、瀬戸内海沿岸地域や四国地方に集中的に居住していた伊予凡氏は、恐らくは、伊予郡を本拠地として宇摩、桑村、宇和の各郡に勢力を有していたものと思われる(正倉院文書、続日本紀)。
 律令期には在地の有力地方豪族の多くは郡司として律令体制に組みこまれていった。なかでも越智氏は、伊予国では最も上級郡である中郡の越智郡司に代々補せられたとみえ、天平八年(七三六)に越智直広国が大領従八位上とあるなど郡司としての越智氏の地位が推察される(正倉院文書)。

5-1 推定伊予国府と越智駅

5-1 推定伊予国府と越智駅


5-3 古代城塞遺跡分布図

5-3 古代城塞遺跡分布図