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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 村の広がりと住居の移り変わり

 屋内配置の変化

 五世紀中頃から六世紀にかけての住居は、古墳時代前期の酒津式や布留式に並行する土師器を出土した、福音寺遺跡の筋違A地区の竪穴式住居跡とは、同様の竪穴式住居ではあるが、住居内における遺物(生活器物)の出土状況も異なっており、家屋内の空間及び器物の配置が大きく変化している。竪穴式住居ではあるが、平面プランはやや広く、壁面にみられたベッド状の床面はなく、入口部は大きく突出する入口をつくり出している。さらに入口部を南面する家屋の東のすみに取り付けるという、家屋構造がこの時期での集落形態をなしている。室内に入ってすぐ左手に貯蔵穴があり、右手の壁面中央位置にはカマドが設置されていた痕跡があり、その両側には多量の生活什器片がこの時期の住居跡では検出され、しかも生活什器の一つである甑片が出土する。この甑は、底部は丸底であり、角状の把手をはりつけた土師器である。丸底の底部には中央に直径三~四センチの円孔をもち、その周辺に四孔の長楕円形の穿孔がなされている。この器物はあきらかに須恵器を模して製作されており、各地でよく角形の把手のみを出土していることから察して、普及度の高い器物であったとみられる。底部の穿孔状況からして、丸底の底部にサナを置き、上部に木蓋をおき使用したものと推察される。

 二間住居

 生活什器特に甑から見れば、四世紀にみられるものは中央部に一孔の小孔を穿ったものが、この時期では以上のように変化発展しており、入口は中央位置より左右いずれかに偏して作り付けられ、しかも周囲の壁面にベッド状の床面を配するものから、家屋内を二分する使用の方向がみられるようになる。なかには星ノ岡旗立Bにみられる竪穴式住居のように、入口部を有する床面がわずかに低く有段をもつ床面が検出されており、室内にしきりを付けた二間としての利用がみられた。このことはまた室内における生活什器の配置にも大きく変化を示しており、時期的な一つの傾向がみられる。
 愛媛県における土師器の編年はまだ緒についたばかりであり、各遺構にともなった厳密な調査が必要である。この調査により、古墳時代の各時期においての様相が明らかとなるであろうが、これら一連の作業にともなう一助として、今一つの見解は竪穴式住居跡においての主柱の位置からみる方法もある。このことは屋内の空間を利用面から見て主柱の位置と壁面との距離関係が、古墳時代においては、壁面距離に対して二分の一の比を示すものではじまるが、時代のすすむにつれ壁面距離に近づき、やがて壁面(竪穴)外に出るという一つの流れが見られる。しかし円形の竪穴式住居跡については、方形の竪穴式住居と異った様相を示している。この住居に共通するものとしては、入口部を除く周辺部は床面と壁面間にベッド状プランを具備するという共通性がみられる外に、中央位置に炉を持つという点に共通性がある。

 竪穴式住居と掘立柱建物の併置

 竪穴式住居にみられる貯蔵穴を家屋内にもつほかに、家屋外に円形または方形や長方形の土坑をもって、日用雑器類を収蔵する遺構が各所で検出されているが、これらの収蔵設備より一段と進んだものに掘立柱建物による建物がある。この掘立柱建物は束柱の柱穴をもたないところから、おそらく土間として活用した平地式の建物と推定されるものである。竪穴式住居に隣接して構築されており、建物の床面は固く踏み固められた状態から少なくとも作業場としても大いに活用された建物と推察される。この掘立柱建物と竪穴式住居の併置をみた遺構は、松山市星岡町北下遺跡・同市北久米常堰遺跡・久米窪田遺跡等で検出されている。星岡町北下遺跡の竪穴式住居は短径三・五メートル、長径四メートルの長方形の南北棟の住居であり、住居の西側面と北側面には小径の杭穴列が壁面と平行して検出されている。この杭穴からしておそらく切上げ桁による家屋が造られていたものと判断される。主柱の柱間は壁面に対して極端に狭く一・五メートルの方形であることからも、壁を持った家屋の空間を高くしたことによる柱間の縮約が欲求されたものと理解される。
 隣接する掘立柱建物は、梁間一間一・八メートル、桁行間二間三・五メートルの建物で北側の東梁柱位置で東へ三〇度偏した東西棟の建物である。この掘立柱建物の桁行間の平柱の位置が、やや異なった柱間を示しているが、等間とみて大差ない数値と思われる。建物の入口については不明であるが、建物内につくられた貯蔵穴からみて、平入の入口が妥当な位置を示している。
 またこの住居と建物の位置関係が平行しているものに、北久米遺跡の常堰Bの遺構がある。ここでは隅丸方形の竪穴式住居があり、これに接して南北棟の掘立柱建物があり、竪穴式住居からは須恵器も検出されている。

 高床式建物

 掘立柱建物は梁間二間四・五メートル、桁行間六・八メートルである。梁間は二・二五メートルの等間であり、桁行間も二・二五メートルの等間である。中央位置に二個の柱穴があり束柱とみられるところより高床式の倉庫が想定され、しかも柱穴の周辺部に穿たれた杭穴列からして外縁が設けられていたことと想定される。ただ両桁行側の中央位置に検出された径二〇センチの柱穴と、北側の梁間に検出された柱穴とはいずれも建物に対して内傾しており梯子と想定されるが、いずれもが入口に設けられた梯子とは思われず今後の課題である。だが前述の建物と異なり、高床式でしかも竪穴式住居との間隔も六メートルと保たれているなど、家屋の構造といい、配置といい発展していることがうかがわれ、住居としての家屋とみられる。
 おなじく星ノ岡遺跡の北下地区で検出された高床式建物を併置する遺構では、梁間三間四・五メートル、桁行間四間五・八メートルがある。竪穴式住居からは瓦器が検出されている。その他の土師器からして七世紀後半に比定されるもので、高台付椀にはロクロによるヘラ切りがみられるものである。
 掘立柱建物は梁間は一・六、一・四、一・五の左右が等間隔であり、桁行間では一・四、一・四、一・六メートルと左右は等間隔である。中央部に三個の束柱の柱穴があり高床式が想定されるが、建物には庇はみられない。

 村の広がり

 第二節の三で各地域の状況を見て、おおよその古墳時代村落の形成は把握できたと思われるが、古墳時代も時代の推移とともに、さらに生産性の向上をめざして新田の開発はもとより、道路や河川交通の発達にはめざましいものがあったと思われる。このことはいうまでもなく大和政権の拡大及び拡充に比例して、各地方文化の向上をみたとともに、大和政権における水利権の拡大が『日本書紀』応神七年九月条の
 高麗人、百済人、新羅人並来朝、時武内宿禰命、諸韓人等領池作、人因池名、韓人池号
という記事がある。築池・築堤の年代は明らかではないにしても、こうした大陸・半島からの渡来移住者集団による進んだ技術を駆使して、従来手の施しようもなかった沼地や洪水に対しても、しだいに治山治水の可能性をみいだしたものと推察される。しかし現在の技術からみればはるかに幼稚ではあるが、従来の段階からみれば格段の差がみられたものといえよう。こうした渡来者集団の多くは大和政権下に組して、その支配統率の下に各地の農耕生産社会の内に浸透していったと思われる。一方こうした開溝・治水事業が、大和朝廷の掌中に独占されていたものではなく、古照遺跡の堰堤にみられるごとく、大和政権の波及以前にすでに地方の共同体の首長や、共同体をさらに統制支配する族長によって行われていた。だがもともとは開溝・治水事業は、農民一人一人の農業生活上必須の条件であったが、各個の耕地をより熟田化するために共同作業によりその効率化を計ったことにほかならない。それでもやがて彼らの技術力や集団の力のみでは解決ができず、技術力のあるさらに支配統制力のある者の手に握られるようになった。いいかえれば古墳時代はこうした技術に長じた、しかも支配統制力のある者による支配体制の社会であった。このことがやがて水の管理支配を通じて農民を自己の支配下におき、確保した用水をもって共同体の構成員全体を支配する勢力へと発展した。