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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 祭祀遺跡の成立と分布

 瀬戸内海交通と魚島大木遺跡

 愛媛は三方が海に面した島国であり、しかも点々として続く、芸予諸島によって、本州と連絡している。これらの島々が早くから瀬戸内海を渡る船人達の寄港地とされたことはいうまでもなく、特に古墳時代は、海上交通の大いに発展をとげた時期として理解される。その主なる航海は農業生産物の向上と、それにともなう産業形態の変化がもたらした、物資の交流が激増したことにあるが、それにもまして国内統一をはじめ、海外出兵とも指摘されるものをも含め、大陸及び半島への進出はめざましいものがあったといえよう。
 これらの交通路は少なからず瀬戸内海を利用したに相違ないとすれば瀬戸内海沿岸の地はもとより、内海に浮ぶ島々は、これら航行する舟人達の寄港地として発展もし、また航海の安全を祈る祭場としても崇められた。
 大山祇神社は大三島町宮浦榊山に鎮座し、祭神は大山積神・大山津見神とも記し、三島大神・三島大明神とも称され、式内社である。大三島は本州と四国本土とのほぼ中央に位置しており、古くより瀬戸内海交通の要路として発達し、芸予諸島の中枢部にあたる。
 当所の大山祇神社は承和四年(八三七)には大山積神が名神に列せられ『続日本後紀』名神大社すなわち国幣大社となっている。創建については定かでないが、大山祗神を氏神とする伊予国における海上信仰の崇拝をうけたことにほかならず、特に乎知の氏神として祭祀されたことは確かである。また武運長久の祈願所としても、航海の安全を守る守護神としても崇められたことであろうが、今一つ鉱山の神として崇められる山の幸への守護神でもある。この事は谷那産の鉄材をすえながく貢ぐと誓った三七二年の千熊長彦に同伴した百済の使者の記録や、五六二年の任那の日本府滅亡後も「任那調」が大和にとどけられ、しかも大化三年(六四七)までも継続していたことを合せ考えれば、瀬戸内がいかに頻繁に利用されていたかがうかがえよう。これらはあくまでも時の中央との交流における記録によるものであるが、それ以外の対岸的な海上交通は枚挙のいとまもない程に、瀬戸内海を縦横に行われていたものと推察される。このことは燧灘の孤島である魚島に、大木祭祀遺跡が北岸の中央岬・城の鼻の付根にあり、ここからは古墳時代の土師器の粗製品の他に、手捏土器・滑石製有孔円板(鏡の模造品)や、臼玉・青銅鏡などをはじめ鉄鋌(輸入原料)なども祭祀されており、これらの遺物からして航海の安全を祈る神事がおこなわれたのであろう。

 西条祭ヶ岡遺跡と伝承

 西条市に船屋という地名があり、元船屋村で西条平野の東端に位置している。村の四分の三は磯浦山と呼称される低位丘陵より成り、北は燧灘に臨み、南西部は海岸低地である。さらに村境となる渦井川の上流になる隣村の下島山村(西条市玉津・下島山)から磯浦山の南端部に櫟津山がある。この櫟津岡に祀られた飯積神社にある社伝によれば、仲哀天皇、神功皇后西征の折、当地に巡幸し、神木の櫟で笏をつくり、鎮魂の祭を修めたという。
 してみれば古くより海運を生業とした一部族があり、瀬戸内海をはじめ外海にも進出したことは、西条市氷見の丘陵に鎮座する石岡神社があり、この岡もまた神功皇后が半島より凱旋された際、天神地祇を祀った祭ヶ岡であることも伝承されている。(祭が岡は古くは橘島とも呼ばれており内海に浮ぶ小島であった。)いずれにしても海運の無事を祈っての伝承で、明らかに海上信仰の聖地として広く知られる地域であり、さらに西条市朔日市には風伯神社があり、この神社も古くは海辺の守り神として風神を祀ったことと推察され、航海の安全を祈る祈願所であったことがうかがえる。かような意味で祭ヶ岡古墳にも時期はややずれるとしても祭祀遺跡としての若干のかかわりが考えられはする。

 子持勾玉

 一方伊予灘と宇和海をわかつ佐田岬半島が、九州にせまり豊予海峡をなす半島の西端部に三崎町がある。この三崎町三崎港(国道一九七号線の終点、九四フェリーの中継地)の岸壁から約二〇〇メートルの町並の中央部地下一メートル前後から、弥生中期の壷形土器をはじめ、緑泥片岩による箱形石棺が発見されたが、それらの間に交って古墳時代中期の遺品とされる滑石製の子持勾玉(全長九・三センチ、幅三・一センチ、厚さ二・六センチ)があり、この地もまた古くより祭祀行為がなされており、少なくとも五世紀頃までは継続されていたとみられる祭祀跡であろう。この他県内での滑石製子持勾玉を出土した地としては、伊予郡伊予村と伊予郡横田村とがあげられている。前者は犬塚又兵所有とされ、後者は江戸時代文化一三年(一八一六)農夫が井を穿ってこれを得たとある。いずれも今日の伊予郡松前町に含まれ、同町出作の古墳時代中期の祭祀遺跡などとの関連も考えられる。なお県内には今一つ今治市新谷付近出土と見られる子持勾玉の事例もあるが、これらすべてその出土状況が詳らかでないのは遺憾である。

 出作遺跡

 これは古墳時代における農耕信仰を物語ると見られる大規模な祭祀跡である。この遺跡は、昭和五二年(一九七七)一一月一二日、伊予郡松前町出作四七八―一番地~四八一番地にかけて、農業基盤整備徳丸圃場整備工事中に発見され発掘調査の結果、現在その資料の整理中である。遺跡の詳細については後にまたねばならないが、その概要をのべてみよう。
 遺跡の位置は予讃線北伊予駅北東約七〇〇メートルで、重信川左岸の標高一五メートル内外の沖積平野である。当地域には出作宝剣田遺跡が西方約五〇〇メートルの位置にあり、弥生時代からの祭祀遺跡としての関連が考えられ、しかも周辺地域において土師器等の出土もあり、また下っては、神崎の式内社伊予神社、徳丸の式内社高忍日売神社や、出作の恵依弥二名神社などがあり、神崎の伊予神社には鎌倉時代の経塚も境内にある。このように古くより祭祀に関係の深い土地であることが帰一するところでもある。
 遺構には一~三の祭祀遺構と竪穴式住居跡一基・木棺墓一基のほか自然流路とみられる溝状遺構が検出されている。祭祀遺構の第一は長さ約九メートル、幅四メートルの間に、祭祀に供献されたと思われる土師器(壷・甕・高坏・杯等)の他小型の粗製な手捏土器から、須恵(甕・器台・坏・高坏・はそうなど)の器をはじめ、滑石製の勾玉・有孔円板、剣形や臼玉の模造器物、さらには農工具の鉄製模造品もあり、砥石も大量に供献されている。第二遺構も長さ約五メートル、幅一メートルの範囲に完形土器を中心にして、土師器、須恵器、手捏土器の破損品が周辺を取りまき、その内には少量の臼玉や鉄製の模造品が供献されていた。
 第三遺構は長さ三メートル、幅一・五メートルにすべて完形品の土師器(壷・甕・高杯など)をはじめ勾玉、臼玉などが出土している。第一遺構と第二遺構は五世紀後半の古墳時代中期に比定されるが、第三遺構は、第一・第二遺構より、やや古く、五世紀中頃に比定できるとしている。さらに、第一遺構と第二遺構は共に同時期の遺構でありながら、遺物や規模のちがいは祭祀形態の多様性によるものと中間報告がなされている。
 さて、当遺跡の関係位置を重信川との関連において眺めると、重信川の旧河道についての村上節太郎・玉岡博一の調査研究によれば、現在の重信川は古くは、上林の山麓を迂回して西流し、松山市小村町の南を流れ、御坂川を合せた後、砥部高尾田に南流して低位丘陵の端部を浸蝕したのち、砥部川と合流し右折して、森松橋付近で再び西流し、麻生と八倉において行道山の北山麓部を浸蝕して、松前町の南限を流れる長谷尾川へ出る流れが、現在よりさかのぼり八〇〇年頃の河道であったと報告されている。

4-41 伊予郡伊予村(現松前町)出土の子持勾玉

4-41 伊予郡伊予村(現松前町)出土の子持勾玉