データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 農耕具にみられる変化

 労働力としての農工具類

 水田耕作の発展をみた耕地の拡張は、とりもなおさずこれらの共同作業を可能にならしめた政治力と経済力との支配体制の確立という、農民による労働力の徴発なくしては実施できなかったことは明らかであるが、今一つにはこれら農業土木工事を可能ならしめた重大な要素には、農具の改良及び鉄器の導入というこれまた大陸文化による所産であることはいうまでもない。大陸文化の流入はあまりにも銅鏡や武器及び宝玉類に目を奪われがちであるが、それにもまして当時最も重要視されたものの一つとして、人的資源に頼るほかない農業共同体制における労働力の徴発が最大の支配者による制御という社会構造だったことを充分に理解しておかなくてはならない。当時の社会体制での二重構成が大きく支配者層の一般的通念として支配体制にうごめいていたことは明らかである。いいかえれば先進地における朝貢にもうかがえるごとく、支配者層の階級的な身分の安定を図ると共に先進国の新しい技術を導入することにより、より大いなる変革をみたことといえる。このことはまず大陸においてすでに普及化している農具はもとより、農耕全般における知識のほかに、より高度な技術を導入することにまず最大の関心をはらったことといえよう。
 農耕具としての鉄器の導入は、弥生時代より行なわれていたことはいうまでもないが、古墳時代における農耕具の改良及び発展は、弥生時代とは考えも及ばない程に進歩をみたことは、これまた自明のことである。
 特に古墳時代における農耕具の発展は、水田耕作地の開拓はもとより水田耕作地での種々の機種の発展がみられる。この農耕具の最大の変化は、いうまでもなく組合せ式の工具の発展がその普及率を高めたとも考えられる。前項で既にふれたごとく、農業土木工事に徴発し得る労働力とはいずれも可動しうる労働力を指すものであり、それぞれの労働作業に適した労働工具である。種々の開拓から土木工事に必要な工具類を持参しての農民の徴発であったと見るべきであろう。農民層が手にする農業用工具は、いかにして入手し得たか問題がある。この問題についての記録もなく、また農業用器具としての工作用具等については、全くといってよい程に文献的な資料に欠けるが、近年大いに問題化されるところでもある。

 組合せ式工具の発展

 これら多大の労働効果をもたらした農工具類生産用具はいずれも組合せ式の農具であり、特に木器と鉄器の組合せが古照の場合四世紀以後は特に発達したと見るべきであろう。これらの農工具類のほとんどは、墳墓に副葬されたものが多く、これらの副葬品としては、鍬先をはじめ鎌及び工作用工具としての鉄斧・鉇・刀子がみられる。また住居跡より出土した農耕具には、鉄器の内手鎌、平鎌と少量の鉄鋌と思われる鉄塊などが検出されている。木器では平鍬、鋤、鎌の柄がみられるが、これらはいずれも鉄が腐触して木質部が残った状態で出土したものとみられる。また平鍬の柄や鋤の柄、鉄斧の柄が出土しており、木部に鉄の着装部を持つものと、これに柄を着装して工具の完成した状態の農耕具をはじめ工作工具類を作り出している。
 工作工具としての細工作業に使用された刀子は、出土例も最大であり、ほとんどの墳墓より出土していることなどから推して、当時の人々は携帯品として肌身につけて行動していた用具の一つと見るべきであろうか。刀子は今日のナイフであり、当時の携帯必需品であったとみられ、皮革に納めるかまたは木鞘に納めて携帯し、柄は木を用いている場合が多いが、中には鹿角を装填した柄類を作るものもみられる。さらには刀子の器種も千差万別で実に一定した数値は得難い工具である。また生産用具として大いに活用されたものに鉄斧がある。
 これらの古墳時代に出土をみる鉄器は、そのほとんどが鍛鉄によるものであることは肉眼でも観察できる。これら鍛鉄の原料については輸入または国産によるものかについては、今後の資料の増大化をもって決定されるべきであろう。
 だが四世紀中頃以後においては、日本においてもかなり広範囲な地域において、国内の砂鉄による製鉄が行なわれていたと考えられる程に、鉄器の出土数は急激な増加をみるが、現在ではなお科学的な分折結果をみるに至っておらず、単なる推測の段階ではあるが、ともあれ古代の製鉄過程を保持している出雲のタタラをはじめ、岡山県月の輪古墳出土の鉄器の科学分折等により国内産による製鉄の可能性がうかがわれる。他方、「魏志」の東夷伝弁辰の記事についてみるならば、
 「国、鉄を出す、韓・濊・倭みなしたがってこれを取る、諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用るが如し、またもって二郡に供給す。」とある。
 既に朝鮮半島における製鉄の発展をみており、しかも通貨に使用している点の記述がみられるが、果して日本においての製鉄の事実については製鉄遺跡の確実な発見例がなく、未だに不明の分野といえようが、古墳時代においては少なくとも国内での製鉄作業は開始されていたとみるべきであろう。このことは木製品にみられる刃先はいずれも鉄器を着装できる溝や袋部をもつものから、茎に穿孔をみるなど明らかに組合せ工具を示しており、弥生時代にみられた木製品そのものの利用という工作具及び生産用具がみられる内で、明らかに古墳時代における鉄の普及率の高まりを示している。これら鉄製農耕具により溝を掘り、また新田の開発が効率的に実施されたことであろう。また一方組合せ工具をはじめ、木工具や建築用財等にみられる鉄製工具によっての木器が盛んに製作され、枘を利用した組合せ工具をはじめ生活用具類や家屋の木組に至るたでの鉄器の活用がうかがわれる。我が国における生産工具類をはじめ生活用具類をみるに、青銅器はそのほとんどが一般大衆を対象とした工具類としては利用されることなく、逆に一般大衆の生活の向上に助力したものは鉄器であったといえよう。これらの鉄器の導入は大陸及び朝鮮半島での影響によることは疑う余地のないところである。
 いいかえれば古墳時代は鉄器文化による農耕文化の推進期をみるべきである。これら大陸文化の影響をうけた諸地域での銑鉄の輸入から銑鉄の加工という過程を経て、鉄器文化の摂取は、やがて生産用具の原料を占有する者と生産と使役を分担する者との二段階的な支配階層が発生したと思われる。
 鉄器文化の発展は、既にふれたごとく大陸文化の導入という段階を経て初めて可能な文化であったことは自明の事実である。とすれば、時の勢力がいずれにあるとしても、瀬戸内海の役割は実に大きな影響を持って来たと考えられるところである。当時の為政者(支配者)は、製鉄技術を持たない支配者層として鉄器の原料である鉄鋌(銑鉄)の形でこれを朝鮮半島などから求めたことは明らかである。これらの鉄の輸入については、中国大陸にせよ朝鮮半島にしろ、瀬戸内海を通り大量の物資が大和朝廷のもとに運ばれ、渡来民の集団により武具と農具・工具・馬具の生産が鍛冶部により作り出されたが、これらの原料をはじめ加工前の運搬に大きく瀬戸内海の役割がみられる。舟運の発達は目ざましいものがあったとはいえ、これらの航海には多くの困難と危険を伴ったことはいうまでもなく、魚島における祭祀遺跡は当時の内海交易を物語ると共に航海の安全を祈願した所でもある。この祭祀跡にみられる遺物の中に鉄鋌そのものが納められており、明らかに輸入物資の一端をうかがいうる。