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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 古墳の成立

 古墳時代とは

 愛媛県における、古墳の営造は、日本全体から見れば時期的にやや遅れて発達したと見るべきであろう。このことはわが国における古墳の内で、最も特異な形態を持つ墳墓としての前方後円墳というものが発生し、しかもこの形式の墳墓はやがて統一王朝となった大和政権を中心として発達し、遺骸を埋葬する墳墓の新しい遺構を示すものであったからである。
 とはいえ古墳そのものの最終的な目的は、被葬者の遺骸を埋葬することであり、このために営造された遺構には前方後円墳のほかに色々な墳形をもつ墳墓が営造されたことはいうまでもない。たとえば大きく墳丘の形から見て、円墳・方墳・前方後円墳・双円墳・双方中円墳・上円下方墳などがある。そしてこれらの古墳には、古墳時代といわれる全期間に造られた円墳をはじめ、あるものはある限られた時期に大いに盛行し、やがて衰退するものなどがあり、古墳時代といわれる時代の内における様相は複雑である。これを知るためには、たとえば遺骸を埋葬する内部主体と副葬された被葬者への持ち物等を含めて、他の古墳との異同を明らかにしなくてはならない。さらにはこれらの古墳の営造されている立地状況や規模、そしてまた古墳の周囲(外部施設)の様相やら、内部主体にみられる構造の違いから、副葬品の類別等を検討することによって、はじめてそれぞれの違いを知ることができる。またこれらの古墳の広がりがどのように発展したかを考え合わせて、それぞれの地域における古墳時代の全貌を明らかにする一方、中央権力としての大和政権との関係を導き出し、愛媛における後世での役割や活動への姿を究明せねばならぬ。しかもこの古墳時代は或る日突然に発生したものではなく、先行の弥生時代後期に直接続くものとしても留意する必要がある。
 中央では大和政権が成立し新しい息吹きが胎動しているのに、本県ではなお営々として、前時代からの村落形態は営まれていたと見られる。たとえ倭国大乱の洗礼はあったとしても、各地における村落での生活は一変することなく継続されていたことは、いうまでもない。
 弥生時代における農耕生活の定着をみた稲作による水稲栽培は、日増しに発展をとげたことは考えられる処であるが、中でも弥生時代後期終末(三世紀の終末頃)より古墳時代にかけての愛媛県における稲作の発展にはめざましいものがあり、これを代表する遺構として古照遺跡がある。古照遺跡では明らかに生産遺構としての大規模な堰が検出された。この様な生産部門における発展は、ひいては古代人がよって立つ社会的構成を大きく変容させたことにも相通じるものがある。国家的には倭国大乱という統一国家への胎動は、やがて中央より新しい政治や文化が波及して来るが、波及に至る迄には少なくとも半世紀以上の時間的な隔たりが感じられる。また特定地域によっては一世紀に近い時間差をもって中央政権の直接的な支配関係の発生を見るに及んだとも考えられる。
 ともあれ統一国家の支配を直接受けるようになるまで各地域においてはそれぞれ独自の小国家的社会集団が形成されていたが、これらの集団結成は連綿として続く内での、大和政権への参加という変容をなしとげていく。言い換えれば各地方に前方後円墳という古墳の営造がみられるようになった時期が、一方では大和政権の政権波及の時期とも受けとめることができる。いわゆる高塚の発生である。
 高塚とは古墳をさすもので、従来より死者に対する埋葬は、それぞれの生活習慣を母体としながらも、また一方でそれぞれの生産母体と相まって、それぞれに特異性に立った墳墓が造られ、被葬者に対する埋葬主体部と主体部を被覆する外槨遺構としての墳丘部を築造して高く塚をなすことから、高塚を築く墳墓を一般に古墳と呼び、このような高塚を築造した墳墓形態が発展した時代を総称して古墳時代と呼ぶ。
 ではこのような被葬者を埋葬する主体部を被覆する厚葬の風習はいつ頃から発生したのであろうか。このことに関しては、早くより論究され今なお論議が続けられているが、埋蔵文化財の発掘調査が進むにつれ高塚式の墳墓は突如として発生したものではなく、前述したごとく弥生時代より徐々に発達し、特に生活基盤が水稲耕作という農耕生活の安定と共に発展したことはいうまでもないが、生活の安定と共に祖先に対する崇敬の念が高まり、時代の発展と共に厚葬への気風が生まれたと見るべきであろう。だが特に集落に対する指導者の権力は、また生産の向上と共に増大した。この族長的支配者に対しての厚葬への傾向は、より強く厚葬への拍車をかける結果となった。時あたかも族長的集団支配の連合体とも見られる各小国家群へと成長するに従い、その首長的支配者層が発生し、これらの首長はより優れた大陸文化の導入をと願う指導者間の時代的な風潮に左右された。他方大陸方面における相続く政変は、やがて朝鮮半島にも波及する。これら一連の政変を避けて渡来する人々は、朝鮮半島南部はもとより中国大陸の南部地域からの渡来人もあったと考えられる。
 これらの渡来人による、他国のより新しく、しかも優れた文化はいち早くこれら地域の首長連に摂取され、消化されたことであろう。このことは三世紀頃から大いに大陸との交流が試みられ、特に邪馬台国と魏との交流をはじめ、倭の五王(讃・珍・斉・興・武)による国交をはじめとして、当時各地方における有力な豪族間においても大いに交流が重ねられたものと思われる。

 前方後円墳と地方

 すでに弥生時代における墳墓形態が変容して厚葬への風潮が高まる中で、大陸風の厚葬への技術は各地の有力者間に導入され、またたくまに和風化される結果となった。大和朝廷では和風化と同時に、その充実した経済力と権力社会の表現として、わが国独自の前方後円墳という雄大な墳墓を築造したが、内部主体については前時代的様相を含みながらも、外形において特別な配慮がはらわれた、というべきであろうか。
 この畿内勢力=大和国家の全土に対する指導性を象徴しているものが、前方後円墳の発達と普及である。前述したごとく古墳の築造には大陸からの影響も考えられないではないが、前方後円墳は日本列島独自のもので、その起点が畿内地方にあり、ついで東西に波及したと見るべきであろう。各地の古墳の築造年代は厳密に決定することは困難であるが、遠隔の地における前方後円墳は、畿内のものを祖型として、それに地方色の加味されたものもみられ、年代的には下ることは確かである。すなわち前方後円墳の波及は、大和国家の勢力の伸展を反映しているといえる。
 しかし古墳の地方色は、大和勢力に抵抗する勢力が、それ以前にその地方に存在したことを物語るものであって、少なくとも列島において北関東(毛野)・出雲・北九州(筑紫)が畿内以外の三大古墳文化圏となっている。しかし昨今における埋蔵文化財の発見及び調査は、大規模開発に伴い調査対象面積も大規模となり、また調査方法が大きく発展したことと相まって、各地から地方色豊かな文化遺産が報告されつつある。
 愛媛県においても三世紀末から四世紀にかけての調査例も日々に増加しており、本県の古墳文化を一地方的特色として取り扱うことの可能性も次第に生まれつつあるかに思われる。しかし未だ多数の古墳そのものの基礎的調査さえも不十分で、わずかに緒についたばかりであるため、なお一般論と推論に終わるおそれが多分にあることを付言せねばならないのは遺憾である。