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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

4 地下に眠る青銅器

 埋納された青銅器

 県内出土の青銅器、特に銅剣・銅鉾については前節ですでに触れたところであるが、それがすべて弥生中期に属するものでないことはすでに述べた。銅剣・銅鉾について考える場合、留意しなければならないことが三点ある。その一つは形態である。形態によってこれらの青銅器がいつ鋳造されたかがほぼ明らかとなる。その二はそれらが農耕儀礼の祭器として使用されていたのはいつであるかである。この使用時期と形態、すなわち製作時期との間には直接的関係はない。もちろん製作される前に使用されることがないのは当然であるが、製作時期が使用時期を拘束するものではない。その三は祭器としてのこれら青銅器が、地下に埋納された時期がいつであるのかである。
 県内出土の銅剣や銅鉾、それに県内からは未出土である銅鐸が農耕儀礼の祭器として使用されたのは、中期後半から後期中葉までであろう。それが地下に埋納されたのは、地域によって相違があるかも知れないが、恐らく後期中葉以降であろう。銅剣・銅鉾・銅鐸の地下への埋納の目的が、何であったのかを明らかにする確実な資料は発見されていない。そのため種々な考え方がある。現在有力な説は、小国家が統一され、より大きな統一国家ないしは連合国家が形成される過程で、これら小国家のシンボルであった青銅器を必要としなくなった背景があったからであろうとされている。銅剣・銅鉾・銅鐸は小国家のシンボルでもあり、共同体の農耕儀礼用の祭器を兼ねていたが、統一後、統一国家のシンボルがあらたに設けられ、統一される以前の共同体のシンボルは不要のものとして集められ、地下に強制的に埋納させられたものであろう。
 県内では、これら青銅器が埋納されているものを調査で検出した例は現在まで皆無である。したがって埋納の目的をうかがうことすらできない。だが、宇摩郡土居町津根立石からの銅鉾の出土状況は他県の埋納状況ときわめて類似している。埋納場所はどこでもよかったのではなく、農耕、特に水と関係ある祭器であったことから、埋納場所も当然水に関係深い場所を選んだのではなかろうか。農耕儀礼のなかには雨乞いに類似する祭祀もあったであろうから、山頂や山腹を埋納場所にした場合もあったことは想像される。川之江市柴生や東予市大黒山・東宇和郡宇和町大窪台などはこのような観点からも検討してみる必要があるのではなかろうか。
 弥生中期に集団ないしは小国家のシンボルとして、また小国家の行う農耕儀礼の祭器として重要視されていた銅剣・銅鉾・銅鐸が、後期になって全国的規模で意図的に地中に埋納されていたことは、これらをシンボルや祭器とする祭礼が行われなくなったことを意味している。祭祀や葬送儀礼はもともと保守的な性格を持つものであるにもかかわらず、これが弥生後期に一律に行われなくなったことは、祭祀形態ならびに祭祀の対象が変わるという一大宗教改革が断行されたとみるべきであり、その背後には大きな政治的変革があったとみなければなるまい。政治的変革を断行する力は、単なる連合的国家のようなものではなく、武力を背景とした強力な国家の意識が作用しているとみてよい。このように考えると、銅剣・銅鉾・銅鐸が地中に埋納された段階が、統一国家の誕生の時期をあらわすと考えることもできる。いずれにしても、将来検討を加えるべききわめて重要な問題であるといえる。
 地下に眠る青銅器としてはこのほか銅鏡がある。弥生時代の銅鏡としては川之江市瓢箪山・今治市唐子台・松山市井門・同土壇原Ⅴ・同西野Ⅲから各一面ずつ発見されている。このうち土壙墓内から出土したものは瓢箪山・唐子台・土壇原Ⅴ・西野Ⅲの各遺跡であり、他は工事中や農耕中に偶然発見されたもので、出土状況ならびに伴出遺物も不明である。時期はその大半が弥生後期に属するものとみられ、唐子台のみは古墳時代への移行期のものである。土壙墓に副葬されていたものは内行花文鏡の仿製鏡であるが、唐子台のは重圏文鏡である。瓢箪山・土壇原Ⅴでは半分に破砕されたものが重なった状況で出土しており、西野Ⅲからは小破片が出土したのみである。
 中期の組み合わせ式箱形石棺内に銅鉾が副葬された北九州的な例はあるが、銅剣・銅鉾のほとんどは埋納されていて墳墓への副葬が認められなくなる反面、後期になるとこれにかわって仿製鏡の副葬が行われるようになった。このことは銅剣・銅鉾が流入した段階は別として、銅剣・銅鉾は村落共同体の所有物であったのに対し、銅鏡は個人所有であったことを物語っているといえる。

3-119 瓢箪山遺跡出土の小形彷製鏡拓影

3-119 瓢箪山遺跡出土の小形彷製鏡拓影