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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

3 中期の南予地方

 大洲地域

 南予地方は前期と同様同じ県内にあっても東・中予地方とは相違している。特に中期後半になると地方色を強く持つ土器文化が隆盛するようになる。大洲地域の中期は、古くから都遺跡出土の都式土器でもってその文化的特色をとらえていたが、中期全体からみると今一つ不明確である。特に中期前半にその傾向が強い。これは前期から中期前半にかけての遺跡が低湿地に分布しているため、発見が遅れたからであろう。大洲盆地は肱川とその一支流である矢落川の氾濫原から形成されており、最近までしばしば洪水の際に冠水を余儀なくされた地域である。したがってこの時期の遺跡は氾濫原の地下深く眠っているといえる。
 中期初頭の第Ⅱ様式第1型式の土器を出土する遺跡としては大洲市大又がある。大又遺跡は肱川左岸の後背湿地に続く谷水田に面する丘陵上にあって、谷水田からの比高差は約八メートル弱である。ここから、頸部から胴部にかけて半截竹管状の工具による重弧文を持った壺が出土している。文様そのものは重弧文であるが箆描きによるものでなく、器形も口縁がやや大きく開いており、中期初頭の時期に比定するのが無難のようである。大又からは住居跡ないしは高床式の倉庫跡が発見されたともいわれているが不明な点が多く、今後の研究に期待すべきであろう。
 大又出土の土器に続くものは不明であるが、中期中葉、すなわち第Ⅲ様式第1型式として古くから都式土器と呼ばれている都遺跡出土の土器のなかに、古い様相を持つ土器がわずかではあるが認められる。それは深鉢の口縁下に平行沈線文と山形沈線文を持っているものである。この施文手法は中予地方の第Ⅰ様式第5型式を母胎として発達した第Ⅱ様式第1型式そのものであって、中予地方の影響が浸透していることをうかがわせる。
 中期中葉の第Ⅲ様式第2型式の土器は都式土器と呼ばれているもので、南予地方の指標土器となっている。この都遺跡は矢落川の川底一・五メートルに所在しているが、河川改修の際に偶然発見されたものであって、詳細は不明である。都式土器といわれている土器のなかに、より古い様相を持った土器が含まれていることから、都式の文化層の下層により古い文化層が存在していることが考えられる。都式土器は九州の中期の須玖式土器の影響下に発展したものだといわれているが、松山市アイリ遺跡出土の土器や山口県出土の土器のなかにきわめて類似するものがあるところから、周防灘・伊予灘を中心とした地域の地方色ある土器と把握する方がより自然である。現在までのところ、この都式土器は都遺跡以外では発見されていないが、この系統を引く土器は大洲市村島遺跡から出土している。
 大洲市菅田村島遺跡から出土する土器は、都式土器の流れを汲むものの、甕において大きく変化しており、明らかに東・中予地方の土器とは識別されるものである。この頃から南予地方特有の土器が発達するようになる。村島と同じ土器を出土する遺跡としては肱川を隔てて相対する根太山の山腹にある根太山遺跡がある。村島遺跡や根太山・西谷・慶雲寺Ⅱ・都谷の各遺跡はその立地からするといずれも高地性遺跡である。これらの遺跡の機能は、瀬戸内海に面する高地性遺跡とはその性格が若干相違し、通信的な機能も考えられないことはないが、その中心は肱川の洪水からの逃避や、春から夏にかけての川霧からの逃避であろうとする考え方もあり、東・中予地方の高地性遺跡とはその成立要因に異なる点があるようである。
 村島遺跡は肱川の氾濫原を眼下にする山腹斜面上に所在し、多くの石斧とともに石斧の未成品が異常に多く出土している。このことから村島は石斧製造跡ではないかと古くからいわれているが、恐らくそう理解して間違いなかろう。大洲地方はいうに及ばず、八西地方や宇和地方から出土する石斧がすべて村島出土の未成品と石質が同じであり、形態も同一である。このほか、村島からは琴の駒に類似する土器が出土しているし、炉跡の一部も発見されている。

 八西地域

 西宇和郡から八幡浜地方にかけては中期の第Ⅱ様式第1型式の土器を出土する遺跡は発見されていない。中期の第Ⅱ様式第2型式の土器は三崎町中村遺跡から出土している。中村出土の土器は三崎湾頭の浜堤上から出土したもので、壺は上胴部に貼り付けによる三角凸帯四本を持ち、その下限に菱形の貼り付け文を持っている。深鉢は口縁下に刻目を有する貼り付け凸帯を持つものと、口縁端に刻目を持つ口縁が大きく外反し、上胴部に箆沈線文を三本と、その下限に斜行する刻目列点文を持っているものがある。底部は甑として利用したのか孔が穿たれている。これらの土器のうち、壺は大洲地力の都式の壺に先行するものであり、深鉢は東九州の下城式の影響を多分に受けている。甕は東九州にも県内にも類似のものは発見されていない。しかし、箆描き沈線や口縁端の刻目は瀬戸内的色彩が濃厚であり、口縁の刻目は南予地方の第Ⅳ様式から独自に発達するが、その素形は先行する八幡浜市徳雲坊Ⅱ遺跡出土の甕にあるのではなかろうか。中村遺跡出土の土器が瀬戸内的な様相と東九州的な様相を持っているのは、その地理的環境によるものであろう。恐らく、東九州と四国を結ぶ交通の拠点としての立地要因があったものであろう。だが、海上交通と陸上交通の結節点としてではなく、中継地としての役割を持ったに過ぎないのではなかろうか。
 中期中葉の第Ⅲ様式第1型式の土器は、八幡浜市徳雲坊Ⅱ遺跡から出土している櫛描き文の発達した土器がこれに該当する。平岡遺跡や徳雲坊Ⅱ遺跡から、東予地方を中心に発達した櫛描き文が出土していることは、櫛描き文文化が強い文化であったことをあらわしているが、土器そのものは持ち込まれた可能性が大である。東・中予地方の中期後半の凹線文土器は大洲地方とともに全く認められず、村島式や岩木式という南予地方特有の土器が保内町磯岡や愛宕山などから発見されている。八幡浜市愛宕山遺跡はかつては三本松遺跡ともいわれており、八幡浜湾を眼下に望む高地性遺跡であるが、ここからは蛇紋岩の小形の勾玉と土製の管玉が出土している。

 宇和地域

 宇和盆地を中心とする地域の前期の土器が比較的明らかであるのに対し、中期初頭から前半にかけての遺物・遺跡はほとんど発見されておらず不明である。ただ、金比羅山遺跡から東・中予地方の第Ⅱ様式第2型式とみられる甕の破片が出土しているのみである。中期中葉末の第Ⅲ様式第2型式の土器は宇和町坂戸や田苗真土遺跡から発見されている。これらのうち田苗真土出土の土器のなかには凹線文を持っているものがある。このような凹線文を有する土器は東・中予地方の第Ⅲ様式第2型式の土器のなかにも一部認められる。第Ⅳ様式第1型式に相当する土器が出土する遺跡はあまり発見されていないが、第2型式の岩木式と呼ばれている土器は、岩木洞穴遺跡を中心に全地域に分布している。この時期になると宇和町入宇遺跡から器台形土器も出土している。
 宇和地方出土の銅鉾が中期後半のものであるのか、後期に属するものであるのかは定かでないが、宇和町大窪台から六本とその周辺から一四本と、山間部の野村町四郎谷から一本出土している。宇和盆地の中期後半の土器は東・中予地方とは明らかに相違しているが、これは土器のみにあらわれた特徴ではなく、銅器にも違いが認められる。このようなことから、凹線文土器と銅剣を持った東・中予地方とは大きく文化内容が異なっており、祭政面で相対立する勢力集団が形成されていたのかもしれない。この中期の後半には岩陰や洞穴を利用する傾向が多分に認められ、この点でも他地方とは若干異なっている。当地方の岩陰・洞穴遺跡は、岩木洞穴・深山Ⅱ洞穴・城楽岩陰遺跡などがあるが、将来これ以外にも発見される可能性がある。

 その他の地域

 高知県と接する南宇和郡御荘町の縄文時代の貝塚である平城貝塚から、凹線文を持つ第Ⅳ様式第2型式に類似する土器が出土しており、同町八幡野と日枝神社からも櫛描き文を有する土器が出土している。日枝神社の長頸壺は第Ⅳ様式第1型式の土器であるが、平城貝塚出土の土器は厳密には次の型式にずれ込む可能性が強い。南宇和郡地方の中期の遺跡の発見は最近山頂部付近で相ついでおり、将来はより明確になると思うが、現在はその様相をわずかにうかがうことができるのみである。

3-106 西谷遺跡出土の大形打製石斧

3-106 西谷遺跡出土の大形打製石斧