データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)
9 埋葬形態
中期の墳墓
弥生中期も弥生前期と同様、北九州や山口県周辺を除いて墳墓はあまり明らかにされていなかった。県内においてもまた同じであった。しかし、最近の調査によって次第にその状態が明らかとなりつつある。県内の弥生中期の遺跡で発見される墳墓としては乳幼児を埋葬した甕棺、壷棺とか、土壙墓・箱形石棺・方形周溝墓が主なものである。このうち箱形石棺・方形周溝墓を除けばいずれも県内の前期の墓制を母胎として発展したものである。
西野Ⅲ遺跡で発見された土壙墓は住居地域に接して所在しており、円形の石詰土壙墓が一九基集中していたが、いずれも二~三基ずつのグループ化が認められた。円形土壙墓は全体的に小さいため、屈肢座葬の直葬であったとみられる。土壙墓内に川石が詰められた状態で遺存していたのは、土壙上面に墓標として置かれた石が落ち込んだものとみられる。土壙墓内にはほとんど副葬品はなく、かつ特異な土壙墓が認められないことから、まだ墳墓に階級の発生を認めることはできない。ただ、特徴のある点は、これら土壙墓群の周辺に土器が副葬されており、土壙墓外で埋葬後、死者に対する葬祭が行われたことがうかがえる。この葬祭は個人を対象としたものではなく家族単位に近い祭祀が行われたものであろう。この円形土壙墓は現在までのところ松山平野を中心とする地域にのみ分布しているが、その母胎は西野Ⅲ遺跡の前期の土壙墓ではなく、土壇原Ⅲ遺跡の円形土壙墓の流れを汲んだものであろう。
西野Ⅲ遺跡の土壙墓群は西野台地上に分布する六棟の集落の人びとの墳墓と理解すべきである。したがって、住居と墳墓は至近距離にあったといえる。谷田Ⅳ遺跡でも長方形の土壙墓が一基発見されているが、これが住居跡に関係があるものとすると、住居に隣接して墳墓を設けたということになる。この土壙墓とて副葬品といえるものはなく、わずかに青銅器の小破片が一点出土したのみである。
釈迦面山南遺跡の墳墓群
松山市釈迦面山南遺跡は、中期後半の集落跡と墳墓群のある釈迦面山遺跡の南約八〇メートルの丘陵の稜線上に立地し、一二基の土壙墓と箱形石棺からなる弥生中期後半の墳墓遺跡である。いずれも長方形の土壙墓であるが、長さが一三〇~一五〇センチ、幅七〇~八〇センチ、深さ四〇~五〇センチである。これらの土壙墓群のなかに小形の組み合わせ式箱形石棺が一基と、集石遺構が一基所在していた。一二基の土壙墓群のなかには床面に数個の石が遺存するものもあり、周辺に柱穴を二~三本持つものも認められた。数個の石のあるものは比較的土壙墓の規模も大きく、内部の木棺を固定させるための石とみられるが、柱穴は墓標ないしは祭祀に係る遺構でないかとみられる。
これら土壙墓中に一基のみ所在していた箱形石棺は、長さ一一〇センチ、幅二五センチと小形であり、使用されている石もこの周辺で一般的に使用されている板状の緑色片岩でなく、川石六個で構築されている。その規模から、この箱形石棺は幼児用のものであるとみてよい。土壙墓群は南北に延びる稜線上の東斜面上に分布しており、稜線上と西斜面上には分布していない。これは単なる偶然の一致ではなく、そこには意図的な面が強く働いているといえる。土壙墓群のほぼ中央には斜面を平坦化した部分に、板状の緑色片岩を小さく破砕したものを直径八〇センチの形に縦に叩き込んだ遺構が発見されている。この遺構には遺物は全く伴っていないが、墳墓祭祀に係る祭祀の場そのものであったといえる。
このような事例は釈迦面山南遺跡が初見であるが、中期後半の墳墓祭祀の形態をあらわしているといえるし、西野Ⅲ遺跡の円形土壙墓周辺に副葬された土器群との関連性が認められる。
なお、釈迦面山南遺跡の所在している丘陵の稜線上から西斜面にかけての地山上には、灰白色粘土塊と、川砂利の集石遺構が発見されている。この両遺構の西部に隣接して黒色灰土層があり、この灰土層中に弥生中期後半の土器片が散乱した状態で遺存していたが、器形を完全にうかがうことのできるものはなかった。この黒色灰土は地山上にあるところから、播火ともとれなくもないが、冬季の墳墓構築の際の焚火の跡と理解することもできる。
これらの遺構は釈迦面山南遺跡の箱形石棺や、北接して発見された弥生中期末から後期初頭にかけての方形周溝墓の、内部主体である箱形石棺を構築するための材料を保管しておく場所であったといえる。このことからすると、箱形石棺を構築する際にはあらかじめ粘土や砂利を山頂に運びあげていたということになる。このような事例も県内はもとより、全国的にもめずらしいといえる。
甕棺墓
北九州の中期は甕棺墓が墓制の中心となり、この影響が東九州の大分県まで及んでいるが、県内ではその影響はあまり認められない。地理的に九州に近い南予地方での調査が十分でないので断定的なことはいえないが、逆に東予地方の一部に甕棺が発見されている。東予市上市新池西遺跡と同水谷遺跡、同市安用佐々久山遺跡から甕棺が発見されているが、これらは調査して明らかになったものでなく、前二者は山土採取の際に偶然発見されたものであり、現在ではその場所は完全に消滅している。佐々久山は現状のまま残っているが、発見された一基以外の状況は不明である。水谷と新池西は合わせ口甕棺であり、甕は大きく高さは八〇センチ前後はある。佐々久山も合わせ口甕棺ではあるが、こちらは幼児用の甕棺である。このように甕棺墓は東予地方のうちでも道前平野西部にのみ集中している。これがいかなる理由によるのかは明らかでないが、中細形銅鉾や中細形銅剣が出土していることと無関係でないように思われる。いずれにしてもこの地方の中期の墓制の在り方を示唆しているといえ、興味深い問題である。将来の調査、研究に大いに期待したい。
中予地方では北条市老僧の丘陵上に壷棺墓群が所在しているが未調査である。この壷棺墓群の分布する丘陵の西部に突出している丘陵上には横穴式石室を内部主体とする円墳と、弥生時代中期から後期にかけての箱形石棺群が所在している。壷棺墓群が箱形石棺群とは丘陵を異にして分布していることは、それが時代差によるものか、それぞれの墳墓を形成した集団の性格の違いによるものかは現在の段階では不明である。だが、北条地方においては甕棺墓はあまり盛行せず、壷棺墓がその主流になっていることは間違いなかろう。
なお、南予地方においては中期の墓制の資料は現在まで皆無の状態であって、垣間みることさえできない。しかし、中期後半では文化そのものが東・中予地方とは大きく異なっており、それがどのように墓制に影響を与えているのか興味ある点である。