データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)
5 磨製石剣
本県出土の磨製石剣
県内からは今までに多くの磨製石剣が発見されており、北九州地方につづいてその数は多い。北九州においてはこれら磨製石剣は朝鮮半島の鉄剣を模倣したもので、いずれも前期のものであるとする考え方が多くなった。ひるがえって県内の石剣をみると、ほとんどが弥生中期に属するものと理解されていたが、それを証明するものは何もなかった。それゆえ、ここではとりあえず前期のものとして以下説明を加えたい。
県内で現在までに発見されている石剣類は合計三〇本で、形態的には有柄式石剣・鉄剣形石剣・銅剣形石剣の三つに分類される。このうち宇摩郡土居町大地山出土の石剣は、正確には石墨片岩製の銅剣形石剣で、その作りも粗雑であり、弥生中期から後期前半にかけて東・中予地方に普遍的に分布する平形銅剣を模倣したもので、他の磨製石剣とは趣を異にしている。磨製石剣の出土地は(3―42)に示す通りであるが、そのほとんどが松山平野、それも南部に集中しているといっても過言ではない。
松山平野北部では、弥生中期から後期にかけての時期の平形銅剣が二〇本も集中して出土しているのに対し、松山平野南部ではほとんど出土していない。そのため今までは松山平野北部出土の平形銅剣に対比して松山平野南部出土の磨製石剣を理解しようとしていた。松山平野北部は稲作に恵まれたため経済的基盤も早くから確立し、それに基づいてより強力な村落統合がなしとげられていた。それらの共同体が農耕儀礼を行うために祭器として多くの平形銅剣を保有していた。これに対して松山平野南部は北部に対して全般的に開発が遅れ、銅剣を入手するだけの経済的基盤も統合も行われなかったため、これにかわるものとして石製模造品を作り代用としたのではないかと考えていた。このような考え方は、現在までに発見された石剣のほとんどが、工事中や農耕中に偶然発見されたものであったので、共伴する遺物も不明で時期を明らかにできなかったからにほかならない。それとともに石剣の出土地近くに弥生中期後半の遺跡が分布していたため、これに関連づけようとした推測の結果である。
最近調査された松山市来住Ⅴ遺跡の環濠状遺構の床面から弥生前期の土器とともに破損した磨製石剣が、これも破損した環状石斧とともに出土している。この磨製石剣は基部に二つの円孔を持った鉄剣形石剣である。このことからすると磨製の鉄剣形石剣や有柄式石剣は弥生前期のものとみてよい。磨製石剣はあくまでも鉄剣を模倣したものであって、実戦用の武器ではなく、祭器の一つであったとみてよい。来住Ⅴの出土状況や伊予郡松前町出作の出土状況からみると、稲作に伴う農耕儀礼の祭器として用いたものであろう。しかし磨製石剣の使用の背景には、当時の人びとの鉄器への強い願望があらわれているともいえる。