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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

3 住居と集落

 前期の集落

 弥生前期の遺跡は(3―21・3―23)で示す通りであるが、これら前期の遺跡がすべて完全な集落を形成していたものではない。場合によっては集落を形成する一つの部分、すなわち墳墓のみである場合もあるかもしれない。しかし、墳墓のみが単独で存在することはあり得ず、その周辺地域には必ず集落跡、特に住居跡群が所在するはずである。
 本県の弥生前期文化の様子は、最近まで出土する遺物によって知る以外に方法がなかったが、昭和五〇(一九七五)年代からの調査によって十分とまではいかないが、若干の遺構が発見されており、想像の域を出なかった事実がわずかずつではあるが明らかになりつつある。このような遺跡として鶴ヶ峠・石井東小学校・北久米・来住Ⅴ・窪田Ⅳ・同Ⅴ・西野Ⅲ・土壇原Ⅲ・同一七号遺跡をあげることができる。以上の遺跡はすべて松山平野に分布しており、県内の他の地域の状態は現在では明らかでない。
 住居跡は窪田Ⅳでわずかではあるが判明している。それによると一辺が約五メートル前後の隅丸方形のプランを有する竪穴式住居跡である。窪田Ⅴでも一辺約六メートルの隅丸方形の竪穴式住居跡が発見されているが、今なお前期のものと断定するには問題がある。窪田Ⅴではこの他、多くの竪穴状遺構が検出されている。このうち規模の大きな長方形や楕円形プランの竪穴状遺構は、これを土器の廃棄場所や土壙墓であるとしているが、土壙墓としては、西野Ⅲや土壇原Ⅲ・同一六号遺跡出土の土壙墓の形態とは合致せず、妥当な推定とはいい難い。これらは住居跡に類似するものと理解すべきものかもしれない。窪田Ⅳでは明らかな住居跡が検出されているが、これら住居跡は扇状地の扇端部に近いやや高燥な地帯に立地している。住居跡に伴って長方形や円形の土坑とみられるものが数多く検出されているが、これらについてはあとで触れることにしたい。

 環濠状遺構

 この他、来住Ⅴ遺跡では二重になった環濠と称されている遺構の存在が明らかとなっている。環濠状遺構は幅二・二~三メートル、深さ七〇センチ、濠の断面が「U」字状を呈している。発掘によって検出した部分は全長わずか一九メートルと二〇メートルであるので、環濠とするには釜ノ口遺跡の例からするとできない。この二重になった環濠状遺構は小野川の形成した河岸段丘面上にあり、二つの環濠状遺構の間隔は一八メートルであって、この部分には不整形な土坑が数多く分布している。これに類似する環濠状遺構は伯方町の叶浦からも発見されており、類似のものが今治市平山にもあったと報告されている。
 環濠そのものは北九州の板付遺跡でも発見されており、集落を取り囲む防御的な濠であるともいわれている。来住Ⅴでは環濠状遺構の内部の状態が調査地域外にあったため明らかでないので、いかなる目的を持っていたものか定かでない。これを板付遺跡と同様、集落を取り囲む防御的性格の強いものと把握する考え方があるがそうかもしれない。しかし、一方では環濠状遺構を防御的なものとみるには規模が小さ過ぎ、かつ浅過ぎる。平山では深さが一・五メートルもあったといわれているので防御的性格を考慮することも可能であるが、来住Ⅴでは集落内の単に境界をあらわすものと理解すべきではなかろうか。環濠状遺構の内部の確認がなされていない現在では、集落を取り囲む遺構と理解することも不可能である。環濠状遺構の床面に若干の砂を含んだ薄い地層が認められたことからすると 水が一時的にせよ溜まっていたか、流れていたとみてよい。来住Ⅴ周辺は瓦粘土の採取地であることからも理解できるごとく、土壌は粘性が特に強い。そのため、水が流れていたとしてもそれほど砂が堆積することはない。
 二つの環濠状遺構中には黒色の降下性火山灰土が流入堆積しており、この中に夥しい前期後半の土器片が層をなして遺存していた。土器片は細片であり、それがあたかも投棄された状態であった。土器片以外では磨製石剣片があるのみで、石鏃・石庖丁などの石器は唯一点も存在しなかった。
 環濠状遺構中の遺物の在り方からすると、遺物、特に土器を特別な意図を持って濠中に埋納したものでないことだけは確かである。破損して使用に耐えなくなった土器を濠中に廃棄したとすれば、防御的な性格を持っていたとされる濠を、彼ら自身の手で埋没させるという矛盾にみちた行為を行っていたということになる。土器類が自然に濠内に流入したとしても、防御を目的とする濠であるならば、少なくとも二~三年に一回は浚渫したとみなければなるまい。来住Ⅴの濠の規模であるならば、土器などを時々投入し、それが自然の状態で完全に埋没してしまうのは、どんなに長く見積ってもせいぜい五~一〇年間である。このことは濠中から出土する弥生式土器が第Ⅰ様式第4型式を中心とする時期のものであって、時間的経過もほぼ一致する。濠内の土器片は単に一家族や二家族の使用したものでないことはその量が示しており、濠の近辺には必ず住居跡群が分布していたとみてよい。濠と濠の間の広い平坦面には不整形な土坑があり、この土坑中に焼土と破損した緑色片岩の石棒が遺存していた。これは祭祀的性格の濃い遺構であるとみてよい。この祭祀的な遺跡の周辺、すなわち濠と濠の間の平坦面には他の遺構が認められず、濠の東部には土壙墓とみられる円形の土坑があることから、濠も土坑もともに祭祀的性格が濃厚である。
 来住Ⅴ遺跡は小野川の形成した河川段丘の段丘崖上に位置しており、西部の段丘面上や段丘崖下の低湿地に同時期の遺跡が広範囲に分布していることから、西野Ⅲと同様、集落の主要部は崖下の低湿地にあったものかもしれない。そして段丘面上の比較的高燥な場所が墓域として利用されたのであろう。こう考えると環濠状遺構は一種の聖域をあらわす境界の役目を持っていたともいえる。

3-37 弥生前期の久米窪田Ⅳ遺跡出土の住居跡

3-37 弥生前期の久米窪田Ⅳ遺跡出土の住居跡


3-38 来住Ⅴ遺跡の環濠状遺構

3-38 来住Ⅴ遺跡の環濠状遺構


3-21 第Ⅰ様式第1~2型式の弥生式土器を出土する遺跡分布図

3-21 第Ⅰ様式第1~2型式の弥生式土器を出土する遺跡分布図


3-23 第Ⅰ様式第3~5型式の弥生式土器を出土する遺跡分布図

3-23 第Ⅰ様式第3~5型式の弥生式土器を出土する遺跡分布図