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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

一 稲作のはじまり

 縄文晩期から弥生時代前期へ

 弥生時代は稲作と金属器の使用で代表される文化である。縄文時代に初源的な農耕が行われていたとしても、生活の基盤はあくまでも狩猟・漁撈・採集であって、自然環境に支配されるままの受動的生活であった。弥生時代になると自然環境を積極的に利用するようになり、能動的な生活が営まれるようになる。したがって、そこにはより高度の文化が開花するようになったといえる。
 愛媛県では、縄文晩期から弥生前期における遺跡で、稲作が確実に行われていたとする資料は現在までには発見されていない。しかし、遺跡立地をみると間接的にせよ稲作が開始されていたことが想像できる。
 弥生前期に先行する縄文晩期の遺跡立地は、山岳地帯に分布する一方、低湿地にすでに進出している。その代表的遺跡が叶浦・瀬戸浜・萩ノ岡・船ヶ谷・横田の各遺跡である。このうち叶浦・瀬戸浜・萩ノ岡は越智郡島嶼部の海岸に位置していることから、漁撈を生業とした可能性が認められるが、松山市船ヶ谷、宇和町横田遺跡は低湿地中にあり、その生業を稲作と理解する以外に立地要因が考えられない。
 弥生前期になると、遺跡の大半が沖積平野中か沖積平野を前面にする微高地上に立地するようになる。このことはすでに生活の基盤が沖積平野にあったとすることができる。特に松山市堀江・同三光遺跡や宇和町深ヶ川・西狭間里遺跡は低湿地中に位置していることから、水稲栽培以外の生活は考えられない。さらに低湿地を前面にひかえる微高地上に立地する今治市の阿方・片山・姫坂、北条市の南宮ノ戸、松山市の来住周辺の前期遺跡群、大洲市慶雲寺、宇和町金比羅山、南宇和郡御荘町法華寺の各遺跡も、その耕作の場は眼下の低湿地にあったとみてよく、そこで水稲栽培が行われていたと思われる。
 初期の稲作は小開析谷における谷水田や海岸近くに形成された潟湖、あるいは河川沿いの氾濫原で小規模に営まれていたとみるべきであろう。このためあまり広大な沖積平野でないところにも人びとが生活をしていたことが、大洲市の慶雲寺や八幡浜市の松柏に前期の遺跡が立地していることからも理解できる。
 弥生中期になると、県下の沖積平野面上ならびにその周辺の微高地上に遺跡が分布しているし、水利の比較的不便な河岸段丘上や扇状地周辺にさえも多くの遺跡が分布するようになることは、ほぼ現在と同じように、いたるところで生活が営まれていたことを物語っている。このように稲作が行われるようになると、縄文時代と異なって一定の食糧が確保されるため、食糧を求めて転々と移動する必要がなくなり、一定の個所に定住する生活が開始されるようになる。稲作開始当初は小規模の水田経営であったため、それほど水利に意を用いる必要はなかったが、より人口が増加するようになると、それに伴って農地が拡大するようになり、人工的に水を利用する必要が生じてきた。灌漑用水の確保は単に一家族でこれを行うことはできず、数家族が共同して行わねばならなくなってくる。この他、播種・収穫においても当然協業が行われたものとみられる。このように稲作がより発達するのに伴って協同作業が多くなる。協業化が進めば当然それをまとめるため指導者が出現するようになる。
 稲作という生産手段が指導者を中心とする新しい集団の形成を促したともいえる。稲作がより発達した弥生中期になると、人工灌漑もさらに大規模となったため、小さな集団では対処し切れなくなり、より大きな村へと統合が進んだものとみられる。ただ、これらを直接証明する集落跡などの発見はそれほど明らかとはなっていない。同じ村といっても道前・今治・北条・松山平野のごとく、沖積面の広い地域においてはより統合が進んだが、南予地方のリアス式海岸に面する地方の遺跡は小規模であるので、その統合も地形に左右されてあまり進まなかったのではなかろうか。
 『魏書』の「倭人伝」によると、弥生中期後半から後期にかけてはすでに小国家群が成立し、さらにこれがより大きな連合国家へと統一が進んでいたごとくみなされている。恐らく県内でも道前・今治・北条・松山・大洲・宇和の各沖積平野では、村々を統一した小国家的な集団が形成されていたとみてよかろう。特に平野の規模の大きい道前・今治・松山平野においては、かなりの規模を有する小国家がすでに弥生中期後半には出現していたとみるべきであろう。
 稲作が開始され、それが定着化すると、そこに余剰生産物ができるようになる。この余剰生産物の多寡や指導力の可否によって各農家間に貧富の差が発生した。このようにして弥生時代は徐々にではあるが、稲作を中心として階級社会が発生してくる時期である。小規模な村は血縁集団を中心に形成されたものであろうが、村がより大きく統合される段階においては、血縁関係に地縁関係が加わるようになったものといえよう。この当時の人びとにとっての紐帯は稲作に関係する水利や農耕儀礼を通じて強固なものとなったことは想像に難くない。

 稲作の開始と低地遺跡

 農業生産、特に稲作を母胎とする弥生文化の誕生については、それが大陸から朝鮮半島を経て輸入されたものか、あるいは日本の縄文文化がすでに独自の農耕を持っていて、これが大陸文化の流入によって刺激されて変質したものかは議論のあるところである。いずれにしても初期の稲作を伴う弥生文化は、北九州を中心とする地域で始まったことは否定できない事実であり、このことから考えると、大陸や朝鮮半島からの影響があったといえる。その際、稲作技術のみが伝えられたのか、稲作技術を持った人びとが北九州に渡来してきたのかなど、将来解決しなければならない問題を含んでいる。
 北九州に発生した稲作は前期末までにはほぼ西日本一帯に伝播しているが、その稲作を背景とする弥生前期文化の広がりの範囲が、縄文晩期の範囲と一致していることは、縄文晩期稲作論を考えるうえからも興味深い。このように北九州に発生した稲作が急速に伝播したことは、伝播しうるような共通の基盤があったことを示している。恐らく、その基盤は稲作以外の農耕が縄文後期から晩期にかけてすでに行われていたことを物語っている。遺跡立地論からみる限りでは中・南予地方では縄文晩期に水稲耕作が行われていたことがうかがえる。
 弥生前期初頭の遺跡は北九州に限定されるといわれているが、愛媛県内でも距離的に近い南予地方と中予地方、それに芸予諸島で発見されている。東予地方では瀬戸内海に浮かぶ伯方島の叶浦、中予地方では堀江・天山北、南予地方では大洲盆地の周辺でこの時期の遺跡が認められる。叶浦ではその立地から直接水稲栽培は考えられないが、堀江では堀江地溝帯中の標高四メートルの地表下約二メートルから発見されており、低湿地中に位置していたことが明らかとなった。恐らく当時は、浜堤内側の潟湖に面していたものであろう。天山北出土の土器は古墳の封土中に含まれていたものであるが、封土に利用されていた黒色土は古墳の北部の低湿地中に存在する火山灰土である。慶雲寺も肱川に突出する比高差三メートルの河岸段丘上にあるところから、水稲栽培には適した場所である。このように弥生前期初頭の遺跡立地は北九州の前期初頭の遺跡立地と同じ傾向を有している。
 これが前期前半から中葉になると、より広い地域に分布するようになるが、いずれも立地は共通して低湿地ないしは低湿地を前面にしている場所である。東予地方では蒼社川河床・阿方貝塚、中予地方では吉田・石井東小学校・御幸寺山麓、南予地方では金比羅山がこれに相当する。
 前期後半になると今治地方の阿方・姫坂・片山・高橋・町谷と低湿地を前面にする微高地上に立地するようになる。北条地方でも南宮ノ戸のごとく立岩川の形成した沖積平野を前面にする舌状台地端に立地している。松山平野では鶴ケ峠や吉藤のごとく、海岸に続く低湿地からのびた谷水田に面して立地している。
 他方、松山平野南東部では小野川の形成した河岸段丘面上に広大な遺跡が連続して立地するようになるが、そのいずれもが湧水地帯かそれにきわめて近接している地帯である。この時期になると河川沿いの氾濫原のみならず、やや水利の便の悪い高燥な洪積台地上にも立地するようになる。このことは前期中葉にはすでに湧水を利用した初歩的な人工灌漑が行われていたことを物語っている。
 南予地方では、八幡浜市松柏覚王寺や徳雲坊Ⅱのごとく、小開析谷に沿った微高地に遺跡が立地しており、リアス式海岸に面する封鎖的なところまで生活の場となっていたことは、稲作が行われたからにほかならない。宇和盆地では、前期前半の金比羅山のように低湿地に接した微高地から、上柳田池・横田・狭間里・深ヶ川のごとく低湿地中に遺跡が進出していることは、より稲作の行われる範囲が拡大したものと理解できる。宇和盆地のように地表下二メートルに遺跡が所在することから、日常生活のうえではやや多湿すぎるような不適な低湿地まで集落が進出しなければならなかった背景がそこに認められる。

 弥生前期の稲作の実状

 弥生前期に稲作が行われたことを証明する直接的な資料、すなわち稲そのものは発見されていないが、間接的に稲作が行われたことを示す石庖丁や石鍬は来住Ⅴから発見されている。また鶴ヶ峠の貯蔵穴からは壷の中にはいった麦の炭化遺体が発見されていることから、畑作も稲作に劣らず盛んに行われていたといえる。この畑作が焼畑であったかどうかは明らかでないが、かなり計画的に栽培されていたことは事実であろう。したがって、現在の米・麦中心の農業形態は弥生前期に形成されていたともいえる。
 弥生前期初頭から前半の人びとが生活するための基本的条件は、人工灌漑を必要としない水稲栽培に適した低湿地であった。それゆえ必ずしも海岸に面していなくともよく、低湿地であれば内陸盆地でも同じであった。このことは大洲盆地や宇和盆地に前期前半の遺跡が立地することからも理解できる。ただ、同じ内陸部でも標高差のある久万盆地では前期のみならず中期にいたるまで遺跡は存在しない。これは地形的に谷水田さえもなく、加えて気温の逓減率からくる気温不足や日照不足のゆえであろう。
 前期後半も前期前半と同じ様相を呈しており、河川沿いの沖積平野や谷水田を利用している。特に谷水田を利用しているのは河川の氾濫という自然の猛威からの逃避からでなかったろうか。人工灌漑の必要でなかった低湿地は稲作適地ではあるが、逆に常に洪水の時に冠水を余儀なくされるところであって、当時の人びとは自然の猛威と隣り合わせの生きるか死ぬかの生活を強いられていたともいえる。そのため、同じ低湿地でも自然災害の比較的少ない谷水田が初期の稲作適地として利用されたものであろう。
 松山平野では、やや高燥な沖積平野、すなわちごく低い河岸段丘面上や扇状地の扇端部に大規模な集落が成立する傾向をみせている。これは前述のごとく、人口増加に伴う農耕地の拡大が必要となったからであり、それに伴って人工灌漑も当然要求されるようになる。それが灌漑技術の発達につながったといえる。松山平野の久米地区の集落の在り方からすると、初期の人工灌漑は低湿地で行われたのではなく、比較的傾斜のある扇状地の扇端部や低位の河川段丘面上にある湧水を利用した灌漑を考える方が現実に適合している。もちろん低湿地でも同じように水稲栽培が並行して行われていたのはむろんである。
 このようにみてくると、縄文晩期から弥生前期にかけては、水稲耕作のためそのほとんどの遺跡が洪水のない低湿地ないしは低湿地を前面とする微高地上に分布しているといえる。ただ、叶浦・北条市高山・道後冠山はいささか立地が相違している。叶浦は海岸段丘上にあって谷水田の形成された可能性もほとんどなく、水稲耕作は考えられない。農耕が行われたとしても小規模な畑作が中心であったものであろう。叶浦は農耕集落ではなく、さりとて狩猟・採集に適した場所ではない。海岸に面することから漁撈が行われたことは当然であるが、貝塚の形成も現状では認められないことから、生活の基盤とはなり得なかったのではなかろうか。
 この時期、北九州に起こった弥生文化は、われわれの想像をはるかに越えた勢いで東進しているが、これは瀬戸内海の水運を利用したものであることは明らかである。文化の伝播の速さから考えると、文化伝播に介在した専門的集団がいたと理解するのが自然である。叶浦遺跡はこのような集団になんらかの関係があったものと推測される。そのため食糧は他地域から搬入してこれを補ったものと考えられる。

3-33 縄文晩期遺跡と弥生前期遺跡分布図

3-33 縄文晩期遺跡と弥生前期遺跡分布図