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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

5 弥生文化の地域性

 九州・山陽・畿内との関係

 稲作と鉄器を伴った弥生文化は北九州から瀬戸内海を経て畿内へと発展したものである。畿内に伝播した弥生文化はさらに高度に発達し、中期以降には逆に瀬戸内海沿いに西進したと一般にいわれている。愛媛県はこの弥生文化の東西への伝播波及の渡廊部分にあたる瀬戸内海に細長く面しており、その伝播の経緯を理解するうえでは重要な位置を占めているといえる。加えて、瀬戸内海に面する海岸線の直線距離は東西一六〇キロメートルと最長であり、文化の伝播の推移を理解するうえにはまたとない地域である。
 愛媛県は地理的には北九州と畿内の中間にあるため、弥生文化そのものも複雑性を有している。弥生前期前半においては、北九州の文化がいち早く大洲盆地や松山の海岸地帯に及んでいるが、前期も中葉以降になるとすでに畿内の影響が中予地方まで及んでいるといわれている。しかしはたしてそうであるのかどうか疑問がないわけではない。

 弥生時代前半の文化

 北九州の文化が伝播の途中で変化をし、これが東進したと理解することもできるからである。弥生前期中葉の土器のなかに北九州や山口県一帯で盛行する貝殼施文を施した北九州系統の土器が松山平野からまとまって出土しているので、北九州の文化が想像以上に強い影響を及ぼしている。
 宇和海に面する南予地方は、より北九州的ないしは東九州的色彩が濃厚となっていることは、出土する遺物が如実にそれを物語っている。前期後半から中期初頭になると阿方・片山・叶浦の各遺跡を中心に、箆描き沈線文や凸帯文、さらに櫛描き多条文を施文手法とする土器が東・中予地方を中心に発達し、これが瀬戸内海沿岸一帯へと大きく伝播しており大きな特色となっている。

 弥生時代後半の文化

 弥生中期中葉以降になると東・中予地方はそれほど文化の違いに差はみられないが、高縄半島を境として若干趣を異にしており、どちらかといえば高縄半島以東は香川・岡山両県の影響が認められ、中予地方はより独自の文化が形成されている。南予地方は一部、中予地方の影響が認められるものの、後半になると一段と地方色を有する文化が発展し、これが後期へと継続されている。この南予地方の中期後半のより強い地方色は、地形的に隔絶された環境にも起因しているが、それとともに統治制度の差にも一因があるように思える。
 弥生中期末から後期になると、畿内を中心とする銅鐸文化圏と、北九州を中心とする銅鉾文化圏が形成され、その両文化圏が愛媛県内で交差しているとされている。しかし、現実には県内からは銅鐸は現在までのところ全く出土していず、機械的に銅鐸文化圏に含ますことには問題がある。銅鉾は南予地方の宇和盆地を中心に、一部東・中予地方にもその分布がおよんでいるので、南予地方を中心に九州の文化圏の影響が濃厚であったことは事実である。
 東・中予地方は銅鐸・銅鉾にかわって銅剣の出土が集中するようになり、中部瀬戸内を中心とした平形銅剣文化圏とでも称しうる文化圏を形成している。これらの平形銅剣文化圏と凹線文土器が盛行する範囲、さらに分銅形土製品の出土範囲が同じであることは偶然の一致ではなく、独自の文化の存在を考える必要があるのではなかろうか。
 以上、弥生時代を通観すると、その最大の特色は前期は北九州や山口県との関連性が強く、伊予灘や周防灘を中心に文化圏が形成されており、中期は高縄半島を中心に燧灘を取り囲む一帯に平形銅剣と凹線文土器・分銅形土製品を持つ文化圏が想定され、他方南予地方では地方色を有する文化が芽ばえた。後期になると、大形特殊器台が出現する点では、岡山県辺りとの関係が濃厚となるが、複合口縁を有する壺の盛行からみると、再び周防灘・伊予灘・安芸灘を中心とした文化圏が想定される。