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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

1 縄文晩期における生活立地と生活

 生活立地

 県下での低湿地の形成は、ほぼ縄文中期後半から後期初頭のころに始まる海岸砂州や浜堤の形成と深くかかわっている。この砂州や浜堤は、西瀬戸内沿岸部での海面安定期以後の著しい様相とされるが、河川側の沖積作用がさらに加わり、低湿地の進行に一段と拍車がかけられたと想定されている。すなわち、浜堤と扇状地との間を埋める低湿地化の傾向は、縄文後期の全般を通じて顕著に進行した。縄文晩期においては、それらをさらに進行させつつも、すでに現状に似た地形を現出させていたと考えられる。弥生前期の水田耕作をささえる低湿地農耕の基本的条件は、すでに縄文晩期前半の段階で整えられていたのである。(2―79)
 すでにみたごとく、県下での晩期遺跡のなかにこれら低湿地に進出したものがあり、その状況を如実に示す。船ケ谷遺跡の竪穴式住居跡のレベルは約三・七メートル、片山縄文遺跡(今治市)の海抜も一〇メートルを超えていない。
 船ケ谷遺跡で生業手段を示す遺物は、建て網ないしは地引き網の存在が推定される植物製網・木製浮子・石錘の検出や磨石の出土のほか、陸耕と一定の管理栽培を想定せざるを得ないサヌカイト質の石材を用いた扁平な短冊形の打製石斧と、平坦形削器(将来、摘器・刈器としての機能をもつ石庖丁状石器として細分される可能性をもつ)が存在した。これら遺跡で検出された晩期土器は、ともに中葉以降のものとされ、また現在、県下での良好な米作地帯に占地し、かつ稲作農耕の成立を告げる弥生前期初頭の遠賀川式土器の出土地域の属している。ここでは、生産性のうえでより優位な稲作農耕を積極的に受容し、ないしは受容することの可能な農耕の存在が強調されている。

 内陸部山神での生活

 一方、山間部では縄文後期からの系譜をひく晩期遺跡も多く存在する。その生活実相を久万町山神遺跡で簡単にみておこう。ここでは、従来からの生業を物語る遺物のほか、撥形・短冊形の打製石斧、平坦形削器などが検出され、山間部においても陸耕的生業が存在することを示唆している。しかし、ここでみられる狩猟・河川端漁撈・採集に加えた陸耕的生業を基盤とする生活は、そのまま弥生社会に発展する要素を構成し得ていない。長い系譜につらなる一本松町広見遺跡。茶道遺跡を始め多くの県下での縄文遺跡は、この時期をもってほぼその終末をつげるのである。
 新しい文化をめざす胎動は、縄文晩期に低地にむかって進出した人々によって開始されたとみるほかはない。たとえば、盛行をきわめた久万盆地周辺の縄文晩期の人々は、弥生期の遺跡として僅かに宮の前・千本などの遺跡を留めているに過ぎない。この時期を通じその大半は三坂を降り、低地での新しい生活の試みを開始したに違いない。そこでは伝統的な縄文社会の保持したタブーや技術の否定や脱却も存在したと考えられなくもない。
 しかし、伝統的な集団規制の側面をも弛緩したとは全く考えられない。たとえば久万盆地周辺での縄文社会は集団が拡散したのではなく、きびしい集団規制のもとで低地への集団移動が実施されたのである。しかもその占地は、おそらく前代から馬をも駆使し重要な運搬を生業の一端とした集団のもつ特質が生かされたにちがいない。
しかも弥生稲作農耕は、それ自体が社会を再編成するものでなく、むしろ集団規制された協業態勢と、固定的な占地性の上でこそ可能であった。稲作農耕が、縄文晩期文化の中で創造した農耕技術と結びついたものであるならば、縄文晩期での集団規制の側面を決してみのがしてはなるまい。また低地での立地選択は、前代に比べ拡大されたのではなく、その未熟な農耕技術の側面から推しても、むしろ限定されていたのである。山神をあとにした人々は新しい生活への期待に胸おどらせたに違いない。

 沿海部での生活

 船ヶ谷遺跡からは、集団祭祀を物語る好個な資料が検出された。その祭祀の実態は今後に究明さるべきところであるが、木偶と目されるもののなかに、杖ないしは石棒に着装されたと推定できる人頭をかたどった柄頭があり、赤漆塗の釧状遺物とともに族長の権威を示すものとも評価し得よう。
 県下での縄文晩期から弥生時代にかけての遺跡のなかで、強いて稲作農耕とむすびつかない一群のものが、越智郡の島嶼部に所在する。その地理的位置をも生かし、海面を対象とする特異な生業の確立が、すでにこの時期に完成していたと想定されている。

2-79 縄文晩期の主要遺跡

2-79 縄文晩期の主要遺跡