データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)
3 長田遺跡
遺跡の概要
長田遺跡の絶対位置は、東経一三二度四七分二六秒、北緯三三度四六分の交差する周辺で、行政的位置は伊予郡砥部町原町二二一から二二二番地とされ、海抜は四九~五四メートル、伊予灘から直線距離は約九キロを測った。
松山平野南部に連なる四国山脈の黒森山(一一五四メートル)、水梨山(七四二メートル)などの北斜面を水源とする砥部川は、深いV字谷を形成しながら北流し、やがて重信川にと合流する。この砥部川は下流部東側で釈迦面山麓、原町あたりの河岸段丘、西側に本遺跡を含め、後出する三角・水満田・拾町Ⅰ・Ⅱ遺跡へと広がる段丘平坦面を形成している。さらにその西側は、三角古墳群・柳瀬山古墳群などの所在する丘陵部へとつらなる。
長田遺跡での層序は、二〇~七〇センチほどの茶褐色有機質土の堆積する第一層(耕作土層)につづき、層厚三〇センチ程度の黄褐色細砂質土層、その第三層は茶褐色細砂質含礫土が約二〇センチにわたって堆積しており、第四層はやや粘性をもつ白色砂質含礫土で地山層を形成していた。遺構は第二層上面から古墳期、第三層・第四層に掘り込んで縄文期のものが存在した。
検出された遺構は、古墳七基、土壙墓一五基、土坑状遺構二四基、それに柱穴群・列石群である。これらを概観すると、遺跡の南半部に土壙墓が、北半部に土坑状遺構、柱穴群が集中している様相が観取され、聖域とし得るものが区分されて存在したことをうかがわせた。また遺構は、北側・低位の河岸段丘上にむかってさらに広がるものと想定された。
さて本遺跡を縄文晩期の主要遺跡とし得る所以のものは、さきの土坑状遺構中より多くの縄文晩期に集中する遺物が検出されたことによる。もとより、本遺跡から検出された縄文土器は多岐にわたり、注目すべき縄文早期土器(上黒岩Ⅲ式・土壇原式・穴神Ⅱ式土器)、前期土器(中津川式土器・彦崎ZⅠ式土器)、後期土器(六軒家Ⅰ式・小松川式・六軒家Ⅱ式・川原谷式・上野Ⅲ式・上野Ⅳ式・山神Ⅱ式土器)が検出されているものの、数量的に縄文晩期土器の検出が圧倒的に優位を占めた。ここでの縄文晩期土器は、現状として四期に細分された県下での晩期土器編年に該当するものが出そろっている。
出土状況をやや微細にみると、七基を数える長田古墳群のうち二基を除いた古墳封土のなかから、縄文早・前・後・晩期の土器と石器、一五基もの土壙墓中からは、縄文晩期を中心とする遺物が、土坑状遺構の大半から縄文期土器を中心とした縄文早・前・後期土器と僅かの弥生中期土器が検出された。また遺跡第三層からも、ほぼ同様な様相で遺物が採集された。
発掘調査は昭和五三年(一九七八)から五五年(一九七〇)にわたって実施され、遺跡の現状は、一般国道三三号砥部道路の道路敷の一部となっている。