データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)
1 船ヶ谷遺跡
遺跡の立地
船ヶ谷遺跡の絶対位置は、東経一三二度四四分二八秒、北緯三三度五二分一一秒の交差する周辺で、行政的位置は松山市安城寺町七〇六番地、国鉄三津浜駅と伊予和気駅のほぼ中間部あたりに位置している。
遺跡は、高縄山塊西端部と太山寺山塊との地溝面に立地し、太山寺山塊側での断層崖下にあたる旧河川の左岸部と、これに北接する旧河川部を狭む右岸と目される個所とに所在した。これらの地表面は、海抜四・二七メートルを測り、旧河川を完全に埋没しほとんど傾斜をもたぬ平坦面を形成していた。
太山寺山塊側、つまり旧河川左岸の層序は第五層まで細分され、縄文晩期の遺物と遺構は、黒褐色含灰粘性土層の第四層と褐色粘土層の第五層(地山面上)から検出された。左岸部での遺構は、地山面上にまで掘り込みをもつ方形プランの縄文晩期の竪穴式住居跡であり、その左側部分は、河川からの侵食を受け欠落していた。
遺構と遺物
すでに述べたごとくこれに接する北側部分は旧河川跡で、この時期、河床レベル二・八メートル、水深四〇~六〇センチ、幅七~九メートル程度の規模をもつ河川が所在したと想定される。この河川跡の層序は、第七層を数えるが、植物遺体を多量に含む砂層の第六層下限面上から、縄文晩期土器・石器・木器類などが検出された。この第六層は、レベル的には当然ながら相違するものの、南部での第四・五層に対比される層であり、おそらく、左岸上に存在した住居跡中の遺物が、波浪によって侵食されずり落ちるように流入し、そこで堆積したものであろう。その出土遺物の磨滅度の少なく緩やかなずり落ちが堆積されることから、この旧河川は、古堀江湾へとつながる沼沢的性格の強いものであったかと想定される。
旧河川跡での遺構は、数本の大きな木が河川に直交する状態で残存し、その中央部に長さ約一メートル、径一五センチの交差する二本の杭が、第七層にまで達して打ち込まれたものであった。
旧河川右岸と目される場所からは、大小一二本の杭が列状の状態を示して残存していた。これらは、右岸部上で検出された貯蔵穴やピット状遺構とほぼ同一レベルであったことから、護岸を目途に構築されたものとされるが、今後に、縄文晩期での水稲農耕にかかわる遺構とし得るかどうか、究明さるべき側面が多い。
なお、右岸部での径六〇センチ、深さ約五〇センチのピット状の貯蔵穴からは、イチイガシの実が多量に検出されている。これらは、縄文晩期における採集生活の一面を示唆するとともに、この期の土坑状遺構の中で、明確にその設営の目途が判明した例としてきわめて貴重である。
この遺跡からは、県下における縄文晩期Ⅱ期とされる土器が多量に検出されたほか、縄文晩期を物語る多様な石器、また岩偶や土偶、さらには木偶、釧状木器など本来残りにくいとされる植物性遺物も多量に検出され、西日本における有数の低地縄文遺跡として評価されている。
発掘調査は昭和五〇年(一九七五)に実施され、遺跡の現状は、温泉青果組合の敷地となっている。