データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)
4 山神遺跡
遺跡の位置
山神遺跡は北緯三三度○分五〇秒、東経一三二度五三分二八秒の交差する周辺一帯で、その行政的位置は上浮穴郡久万町東明神山神乙三一三番地を中心とする地域にある。
遺跡は、松山市から三坂峠を越えて久万盆地にぬける国道三三号線沿いの左側山麓、明神小学校の北方約三〇〇メートルほどの場所である。
山神遺跡は三地区に分けられるが、それらを地形的にみておこう。山神山(六九〇メートル)に発する山神川は、山神山の東側と西側を流れ、久万町中組から本組にかけての河岸段丘を開析しつつ下流で合流し久万川へと流入する。遺跡は、東・西山神川の幼年期の侵蝕谷に取り残された南に緩傾斜する河岸段丘上に位置する。まず、海抜五八二~五八五メートル、約一〇度前後南に傾斜した場所に山神遺跡Ⅱ区がある。また、ここから東北方向に約三〇〇メートル離れ、比高差一九メートルを測る高位の河岸段丘上に山神遺跡Ⅰ区があり、さらに、ここから東山神川に沿い、約四〇〇メートル北に遡り、その左岸幅四〇メートルほどの帯状の河岸段丘上に山神遺跡Ⅲ区がある。山神遺跡Ⅲ区の海抜は六二〇~六二五メートルを測る。
昭和四八年(一九七三)実施された発掘調査区域は、久万カントリークラブのゴルフ場建設との関連で設定された。すなわち、Ⅰ区は遺跡の主要部を修景施設として現状保存し、その延長部を発掘調査する。Ⅱ区は主要部を開発計画区域から除外し、これを緑地帯として残し、西方向の三分の一を発掘調査する。Ⅲ区は開墾・農耕・河川による侵蝕などによる遺跡崩壊がはげしいことから、比較的精緻な表面採集をもってこれにあてることとした。
したがって、遣跡をめぐる周辺の環境は、発掘時の様相を留め得ないものの、遺跡の主要部はゴルフ場施設のなかにはっきりと位置づけられている。
山神遺跡の遺構と遺物
遺構の状況について若干述べておこう。第一層は、礫をほとんど含まぬ一〇~二五センチにわたる黒色ローム層、第二層は地元で通称「赤色オンジ」と呼ばれる降下性火山灰の堆積土で一〇~一六センチを測る、暗褐色ローム層であった。この火山灰土層は、すでに「海水準の上昇と沖積・地殼変動」の項で触れたごとく、Cの一四乗測定で七六八〇±一四〇B.Pの数値が出され、すくなくとも縄文前期にはすでに堆積が安定していたものと推定されている。第三層は、砂礫を含む洪積層とし得る黄褐色粘土層でいわゆる地山であった。
ここからの出土遺物は、まず耕作土層たる第一層から縄文後期末の土器片、第二層からは同様な土器片のほか、乳棒状磨製石斧、石庖丁状石器、削器、石鏃、の出土をみたほか、環状列石三基、小土坑状遺構二基の遺構を検出した。なお第三環状列石とされたものの列石内部から、馬歯・馬骨が採集されたが、これについては後述したい。第三層は、一部遺構の掘り込みが認められたものの無遺物層であった。
Ⅱ区におこる層序は、第一層から第五層に分かたれた。第一層はⅠ区同様の黒褐色ローム層で、一〇~二八センチを測った。第二層は暗褐色細砂質土層で八~一七センチにわたった。ついで九~三六センチを測る黒色ローム層、第四層は黒褐色粘性土層で六~二七センチにわたった。第五層は地山で黄褐色粘土層であった。
遣物は、第一・二層から縄文晩期初頭の土器、後期末の土器(Ⅰ区のものも含め山神Ⅱ式土器と呼称され、県下における縄文後期末の標式土器とされている)第三・四層から縄文後期中葉末の土器(南予での伊吹町式土器に対比され中瀬戸内の彦崎KⅡ式土器を含むことから県下では上野Ⅳ式土器と呼称されるが、ここでは山神Ⅰ式土器という)の出土のほか、これらの層で、石鏃、臼玉、石錘、磨石、削器、砥石などが検出され、第四層からは円形状、帯状の集石遺構、第五層地山部分に各種の土坑状遺構群、それにピット群、溝状遺構が検出された。
Ⅲ区採集の遺物は、在地の研究者採集のものも含め多量にのぼっている。出土土器は、縄文後期初頭の六軒家Ⅰ式土器を始め、川原谷式土器、上野Ⅲ式土器が採集され、その他、玦状耳飾、勾玉、石鏃、バナナ形を呈するスクレイパー、石鍬状石器、石斧、削器などが採集された。