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愛媛県史 原始・古代Ⅰ(昭和57年3月31日発行)

2 動植物相の変容

 動物相の変容

 人類が最初の土器の使用を開始した時期にほぼ相当する沖積世初頭は、すでに後氷期から始まる気温の暖化現象、さらにそこから起こる海水準上昇と地形変化、また植物相の変容などが、洪積層後半、列島に生息した動物群への著しい影響を余儀なくさせた時期でもあった。
 あるものは、当然ながら新しい環境に向けての適応の試みを開始し、あるものは、いわゆる大陸との陸橋の消失や食料源の枯渇からその消息を絶ち、さらにあるものには、汎地球的な規模からみて種の根絶という事態すら生起したに相違ない。特にツンドラ針葉樹林の分布と密接に関連するマンモス動物群は、その植物相の北への後退に伴い、それに従って北上し、また垂直方向への上昇移動をも開始したであろう。津軽海峡を東西に分け、北海道をシベリア亜区とする、いわゆるブラキストン線と呼ぶ動物地理区線は、かつて本州に生息していたヒグマ・ナキウサギなどが、現在わが国では北海道以外には生存しないことを示し、その間の消長の激しかったことを如実に物語っている。
 にもかかわざず、その様相を微細に知り得る資料は少ない。ようやく上浮穴郡上黒岩岩陰遺跡で、縄文早期中葉(押型文Ⅰ期土器―上黒岩Ⅲ式土器を出土)の層に比定される第四層から発見されたオオヤマネコ(シベリアヤマネコ)の骨格は、ほぼこの時期を下限とし、四国地方の山岳地帯での生息を確認し得るものだけに、きわめて貴重である。また、長野県野尻湖底や山口県秋芳洞などでの出土の様相から、先土器時代終末にほとんど絶滅したとされるオオツノジカの歯牙が、東宇和郡穴神洞遺跡第八層(この遺跡での最下層で、縄文草創期に位置づけられる微隆起線文土器―穴神Ⅰ式土器を出土)から発見され、広島県帝釈馬渡岩陰遺跡(第四層)の同例とともに、縄文時代に入っての生存を証し得るものとして、これまた貴重である。このオオツノジカは、左右の掌状角の最大の間隔が三メートルにも達するものもあるとされ、森林帯での棲息は困難視されている。このことからも、この時期に四国山地・中国山地にツンドラ的な植相を示す部分の残存が、指摘し得るであろう。
 ちなみに、ここで、縄文時代に入ってからの動物相を知り得るひとつの指標として、前述の上黒岩岩陰遺跡で採集確認された動物遺存体の種名を示しておこう。
 
 一、脊椎動物
  a 魚 類 ウナギ・マサバ
  b 肥虫類 アオダイショウ
  c 両棲類 ヒキガエル
  d 鳥 類 キジ科の一種
  e 哺乳類 ニホンジカ・カモシカ・イノシシ・カワウソ・アナグマ・テン・ツキノワグマ・タヌキ・ヤマイヌ(ニホンオオカミ)・ニホンイヌ・ノウサギ・キュウシュウムササビ・オオヤマネコ(シベリアヤマネコ)・ハタネズミ・モグラ・ニホンザル
 二、節足動物
  a 甲殼類 サワガニ・モクズガニ
 三、軟体動物
  a 腹足類 アワビ
  b 斧足類 カキ・ハマグリ・オキシジミ
  c 淡水貝類カワニナ・マシジミ・ヤマトシジミ・イシガイ
  d 陸産貝類ヤマキサゴ・ヤマクルマ・ヤマタニシ・コベソマイマイ・コンボウギセル・シリオレギセル・セトウチマイマイ

 
 植物相の変容

 つぎに、これら動物群と深いかかわりを持ち、かつ人間の生活をも規制し得る今ひとつの要因たる植物相とその変容について、若干瞥見しておこう。
 すでに前章において述べられた上部洪積世の末葉、マキシマムウルム亜氷期の最寒冷期の植物相から、ほぼ現状のごとき植物相への推移は、微視的には把握されていない。しかし巨視的には、マンモス動物群の生息基盤を形成していた冷温帯広葉樹林の北への後退、また西日本の山岳地帯を中心とする温帯落葉樹林の拡大、さらには関東以西の海岸地方での暖温帯照葉樹林の波及として把握されている。しかしながら、その間一定期間の低位の気温安定期はもとより、小規模な寒冷期、また現状を越える温暖期を含むものであったことは、すでに述べたところであり、北に向かう植物相のテンポは級数的なそれではなく、ある時は停滞し、ある時は後退し、またある時は急激な北上をみせるなど、決して一様な様相として把握し難いところである。
 そこでの微妙な植物相の変容は、県下でも植物学的にみて洪積世からの残存種として貴重な、チョウジガマズミ(八幡浜市大島・宇和島市戸島などに自生)やエヒメアヤメなどの存在からその一端がうかがえる。
 より微視的な植物相の変容の様相については、典型的な層序を示す地点での花粉分析学的成果から知り得る。これに関しての日本各地から提出された知見からは、洪積世末から沖積世にかけてL・RⅠ・RⅡ・RⅢa・RⅢbの五花粉帯に分けるのが妥当のようである。ここでは、本章にかかわるLからRⅡに至るまでの様相を瞥見し、RⅢ帯については付記するに留めたい。
 L帯は、年平均気温が現在よりほぼ3℃ないし6℃低下していたものとされ、ゴヨウノマツなどを主とするマツ、トウヒ、ツガ、モミなどの花粉で特徴づけられ、その下限年代はCの14乗により一〇五〇〇±五〇〇B.Pとされる。さらにRⅠ帯は、漸進的な暖化傾向が知られているものの、なお現在より1℃ないし2℃の年平均気温の低下が認められ、ブナ、ナラ属等の広葉樹性花粉の増加とトウヒ、シラビソ、コメツガ等の針葉樹性花粉の減少を特徴とし、その下限年代は約九五〇〇B.Pとされ、考古学的には縄文早期初頭に比定し得る。RⅡ帯は、針葉樹性花粉の比率が著しく低下するとともにブナ、ナラ、サワグルミ、ニレ、シナノキ、ケヤキ類の花粉で特徴づけられ、その下限年代は四〇〇〇~四五〇〇B.Pとされ、年平均気温で2℃ないし3℃も高い温暖期で、これは約五〇〇〇B.Pを頂点とする縄文前期海進期に相当し、縄文早期中葉から縄文中期初頭にわたる時期に比定し得る時期でもある。RⅢa帯は、現在より年平均気温で1℃~1.5℃程度の低下の見られる減暖期で、栽培型のイネ科植物やソバの花粉の出現でも特徴づけられ、その下限は約一五〇〇B.PとされておりRⅢb帯は、マツの花粉の急増や人間による森林破壊からの花粉の絶体数の減少が目立っている。
 つぎにここで、四国南部の様相を知り得る卑近な例として、高知市東方、伊達野及び野市の地下の含花粉層を調査した例(中村・一九六五)を記しておこう。ここでは、対象を沖積層のみに限り、RⅠ(より低温期)RⅠ―RⅡ (移行期)RⅡ(温暖期)RⅢ(現在)の四花粉帯で報告されている。
 RⅠ帯(一二〇〇〇~八〇〇〇B.P)
 ・モミ―ツガ―トウヒ時代
 ・モミ―ツガ時代
 RⅠ―RⅡ帯
 ・コナラ時代
 RⅡ帯(八〇〇〇~三OOOB.P)
 ・アカガシ―ツブラジイ時代
 RⅢ帯(三〇〇〇B.P以降)
 ・モミ―ツガ―アカガシ―ツブラジイ時代
 ・マツ―コナラ―ツブラジイ時代
 ここでも、沖積層初頭RⅠ附帯においては亜高山性針葉樹で、現在四国に自生していないトウヒが残存していたこと、RⅡ帯での暖地性樹木の卓越等から推して、植物相の変容の激しさが推定し得よう。
 いずれにしても、他の学問的分野の協力による総合的な学術発掘調査の中で、すでに述べた論拠からしても、縄文期文化層の花粉分析学的調査は必須のものとして位置づけられるものであり、今後のこの面での研究集積が強く望まれている。

2-2 オオツノジカ

2-2 オオツノジカ