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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 羽藤 栄市 (はとう えいいち)
 明治36年~昭和60年(1903~1985)副知事,衆議院議員,今治市長。明治36年6月25日,越智郡桜井村登畑(現今治市)で生まれた。大正11年熊本逓信所を卒業して逓信省に入り,昭和2年高文行政試験に合格した。熊本通信講習所長を経て24年に初代四国電気通信局長に就任した。 26年5月久松革新県政の副知事に迎えられたが,多数派野党自由党が「副知事を置かない条例」を可決したため29年2月県庁を去った。 30年1月社会党など革新からおされて,県知事選挙で久松定武と対決したが,大差で敗れた。 33年2月砂田重政・越智茂死去に伴う衆議院議員補欠選挙で社会党から出馬して当選したが,3か月後の5月第28回衆院選挙で次点に終おった。昭和37年1月今治市長に公選され,以後連続5期20年間,56年まで在職して,玉川ダム建設,瀬戸内海架橋促進などの業績をあげた。退職後,名誉今治市民となり,59年には県功労賞を受けた。昭和60年11月22日,82歳で没した。

 芳我 数衛 (はが かずえ)
 慶応3年~昭和14年(1867~1939)実業家・内子銀行頭取,県会議員。慶応3年3月11日喜多郡内ノ子村(現内子町)で酒類醸造・晒蝋製造業を営む旧家に生まれた。家業を継ぎ,喜多酒造会社を径営,大正5年には内子銀行頭取になった。大正4年9月~8年9月県会議員に在職,政友会に属した。昭和14年8月26日,72歳で没した。

 芳我 弥三右衛門 (はが やそえもん)
 享和元年~慶応3年(1801~1867)内子町の晒蝋の創業者。内子町八日市の俗称本芳我の祖先。弥三右衛門は襲名しているが,初代弥三右衛門は,芳我家の過去帳・位牌・系図・墓碑などを点検すると,享和元年に生まれて,慶応3年4月26日に没している。孝芳と称し,父は廿日市の庄屋曽根又三郎で彼は長男。母は芳我弥五七兼重の娘で和左という。弥三右衛門の幼名は秀太郎と称した。諡は高山遊野居士で,墓は内子の高昌寺にある。
 彼は生蝋を白蝋にする晒蝋法の蝋花式を発明したので有名である。ある夜手燭をともして厠に行き,手を洗った際に,生蝋の手燭の点滴が手洗の水面に落ち,白色の六花形結晶を呈した。彼はこれにヒントを得て,蝋焚きをして熱液の生蝋を水に落して蝋花を造り,天日で乾す蝋蓋式箱晒しを始めた。これがその後普通に行われている伊予式晒蝋法である。
 本芳我の二代目は孝直で,弥三八と称し後に弥三右衛門を襲名した。孝芳の長男で文政5年生まれ,幼名は芳太郎,母は正本庄之助の娘で磯,明治26年没72歳。孝直の妹の満智は文政10年生まれ,文久元年に上芳我として分家した。養子は大洲柚本の須田久平の弟で孝義と称す。家督在金晒場道具などすべて三分の一を与えている。
 三代目の孝清は,幼名を善右衛,後に弥三衛と称す。彼の時代が木蝋界の全盛期で,明治17年に今の本芳我の立派な本宅を建築し,白蝋を盛んに輸出した。シカゴ博覧会に出品し賞を得ている。経営規模は日本一で使用者67人の記録がある。芳我保が四代目で,大正9年に不況のため晒蝋業を廃業している。

 波賀 清太夫 (はが せいだゆう)
 生年不詳~元文3年(~1738)松山藩士。身分は徒士目付け。松山藩か幕府から預かった赤穂浪士が切腹させられた時,介錯をした松山藩士の一人である。名は朝栄という。切腹当時の模様を知人に送った手紙に「大守様へ御預り大,十人共に昨四日に切腹被仰付候。さてさておしき事候。一番に大石主税,此かいしやく拙者に被仰付,首尾好討之…略…」が残っているという。元文3年8月16日,江戸で死去。

 波多野 晋平 (はたの しんぺい)
 明治17年~昭和40年(1884~1965)俳人。明治17年7月3日に山口県萩市に生まれる。萩中学校卒業後,大阪商船に入社。別府支店を経て高浜支店へ転勤する。昭和7年,伊予商運株式会社を設立し,取締役となる。俳句は大正14年ごろから酒井黙禅の手ほどきを受け,塩崎素月の「葉桜」や「ホトトギス」に投句。虚子に師事してこの道に打ち込む。同20年「ホトトギス」同人。同23年秋,黙禅のあとを受けて「柿」を主宰し,愛媛ホトトギス会長となり,同35年村上杏史に後事を托するまで13年間俳道一筋に後進の指導に当たる。同31年古稀を記念して句集『初凪』を出す。昭和40年5月3口死去,80歳。

 波頭 夕子 (はとう たね)
 明治30年~昭和63年(1897~1988)教育者。明治30年,越智郡亀岡村(現菊間町佐方)に生まれ,大正8年,愛媛県女子師範学校を卒業し,同年越智郡岩城尋常高等小学校の訓導となる。昭和2年,師範学校専攻科を卒業し,同3年,愛媛県女子師範学校の訓導となる。同14年,大阪府へ出向し,昭和22年戦後,全国初の女性校長として,東京都品川区立第二日野小学校長に就任,同25年全国公立小中学校婦人校長会長となる。同30年,鈴ヶ森小学校長に就任。その後,同33年には全国公立小中学校婦人校長会名誉会長や視学委員(文部省初等中等教育局),昭和34年に退職して,梅の実会(全国退職婦人校長会)会長となる。同37年には学制90周年記念教育功労者文部大臣表彰を受け,同39年には全国教育女性連盟会長に就任,同44年,勲五等瑞宝章を受ける。同54年,愛媛県教育文化賞を受賞する。夕子は40有余年の長きにわたり義務教育に専心したが,特に,全国初の女性校長や全国婦人校長会,全国教育女性連盟を結成して,その初代会長となり,主任制,育児休業法,男女平等などの課題に献身的に取り組み,今日の女性教師の基盤確立に果たした功績は,全国的に高く評価されている。更に,愛媛における女性教師の教育観の確立と地位の向上を目指し,機会あるごとに郷土において,豊富な教育体験と卓越した識見をもって後輩の指導育成に専念し,愛媛の教育文化の向上に多大の貢献をした。昭和63年5月13日横浜市で死去,享年90歳。

 長谷川 竹友 (はせがわ ちくゆう)
 明治18年~昭和37年(1885~1962)画家。明治18年11月26日,下浮穴郡下林村(現温泉郡重信町)に生まれ,本名武次郎。若くして画才を示し,上洛して都路華香の内弟子となり本格的な絵の修業を始める。明治40年23歳の時第12回新古美術展に「渓間春色」を出品,四等賞を受賞,京都画壇の新鋭作家として活躍を期待される。ところが,彼はその後上京,洋画の研究を初め新機軸を形成,さらに大正5年(1916)から2年余インド写生旅行に赴き,帰国後昭和2年まで松山に在住。斬新な画風で当時の郷土画壇に大きい影響を及ぼす。その間,中国写生旅行も行い広範な旅の画家として健筆をふるう。その後暫らく大阪方面で活躍するが,昭和11年再び帰郷,県美術界元老として活躍。 27年県美術会結成とともに名誉会員に推載される。代表作に「裸婦」「重慶所見」「密林の朝」などがあり,画域も広く,郷土日本画近代化の推進力となり,その功績は大きい。昭和37年1月4日没。76歳。

 長谷川 与市 (はせがわ よいち)
 天保2年~明治8年(1831~1875)実業家,蚕糸業功労者。天保2年西条藩士の家に生まれ,幼名を親比といい,年少のころ江戸に出て昌平黌にて6か年余り学び,一方桃井道場において剣道を修行した。後,帰省し,儒官となり子弟の教育に当たる。幕末のころ,東奔西走大いに王事に勤めた。明治維新に際し,権大参事などの公職について活躍した。明治7年実業界に転じ,加茂地区吉居の銅山開発を行った。また,士族授産のため明治8年第四大区長であったとき,養蚕教師を長野県から招き,士族の秩禄金(明治6年家禄等に代えて希望者に現金及び公債を下付したもの)を資金とする養蚕飼育場を西条に建て,士族の子女を就業させるなど東予新居地方における蚕糸業発展の基礎を築いた。明治8年12月に死去,44歳。玉津の万福寺に葬られる。

 長谷部 九兵衛 (はせべ きゅうべい)
 生年不詳~宝永6年(~1709)野間郡波方村(現波方町波方)に生まれる。明暦2年(1656)父義信が隠居し同村庄屋役を継ぐ。松山藩浦手役として二人扶持を給される。波止浜塩田の創始者。甚七(郎),左兵衛,諱は義秀。遠浅の波止浜の地が塩田築造に適しているのをみて延宝9年2月,松山藩に築造の願書を提出,更に芸州の竹原で製塩技術を学んだ。天和2年(1682)6月,藩庁へ工事の計画書,見積書を提出し,翌年正月着工,3月には汐止めが完了して年内には33軒の塩浜が完成し,九兵衛は塩浜支配方の1人に任じられた。庄屋在役32年,貞享4年(1687)には嫡子義重に譲って隠居したが,この時藩から褒美の米を贈られている。宝永6年9月29口死没,墓は波方村宮の下にあり法名は楽邦祥雲居士。

 長谷部 倉蔵 (はせべ くらぞう)
 万延元年~昭和14年(1860~1939)県会議員・衆議院議員・町村長。万延元年10月27日,周布郡小松村新屋敷(現周桑郡小松町)で士族の家に生まれた。藩校養正館に学び,家業を継いで農業を営んだ。明治30年・郡制施行と同時に地主議員として郡会議員に選ばれ,同年10月県会議員にも選出されて周桑郡の自由党一政友会員の中心人物になった。 37年3月の第9回衆議院議員選挙に政友会公認で郡部選挙区から出馬,東予の票を集めて最高点て当選したが,次の41年5月の選挙には立候補しなかった。大正5年波止浜町町長,6年橘村村長を経て11年9月には郷里の小松町町長になり町政の発展に尽した。かたわら西条銀行取締役や周桑銀行監査役などの名誉職に推された。昭和14年2月8日,78歳で没した。

 長谷部 文雄 (はせべ ふみお)
 明治30年~昭和54年(1897~1979)経済学者。明治30年6月29日越智郡近見村(現今治市)に生まれる。生家は古くからの地主である。今治中学校から,第一高等学校文科に入るが,翌年英法科を受験し転学する。在学中,河上肇の『貧乏物語』などを読み人道主義に目を開かれ,大正9年,京都帝国大学へ進み河上肇の門下生となる。三木清・戸坂潤らと交友を深め,学生時代にタウシッグの『経済原論』を翻訳して出版する。同13年同学大学院を退学して,同志社大学法学部に勤める。東京へ転居後は外務省の外郭団体嘱託などもやるが同19年帰郷する。第二次世界大戦後は立命館大学・広島商科大学・竜谷大学で経済学を講義する。長谷部の最大の業績は『資本論』を長期にわたって労作,完訳の作業である。昭和3年から着手して,途中治安維持法によって検挙され,入獄し,同9年出獄して完訳に着手し,同25年の完成出版まで実に22年間心血を注いだ力作である。科学的で正確な訳語・訳文は国際水準を超えるもので高い評価を受けている。外柔内剛で無欲恬淡,名利に捉われない正義感あふれる人柄はその道の学者・学生から慕われた。訳書に『剰余価値学説史』『帝国主義論』など多数ある。昭和54年6月13日,81歳で死去。

 萩原 西畴 (はぎわら せいちゅう)
 文政12年~明治31年(1829~1898)教育者。今治藩の儒官。名は裕,通称は英助。江戸の儒者萩原楽亭の子として生まれ,壮生になって今治藩主松平定法に仕えた。幼少より学を好み,長ずるに従って経学文章をよくした。今治には3~4年居住しただけであるが,子弟の教育に尽くすとともに学制を改革し,文教をおし進めるだけでなく藩政にも参与して多くの献策をなした。彼の日本外史の評価はきびしく,その所見を公表して世に問うたことは有名である。著書も多く,『献替録』『東波外伝』『虚字解』『女訓』などがある。明治31年2月19日,東京で死去。 69歳。

 秦ひ登 浄足 (はたひとの きよたり)
 生没年不詳 天平神護2年(766)3月,同族11人等と阿倍小殿朝臣への改姓を申し出,認められた。その理由として浄足は,孝徳朝に朱砂の採掘のため伊予国に派遣された大山上安倍小殿小鎌は,秦首の娘を聚り自分たちの祖である伊予麻呂を生んだが,伊予麻呂は母姓により,父姓をつがなかったのであると主張している。この時従七位上。
 この史料から,伊予の在地豪族秦氏による鉱産資源の採掘技術の保持を想定する見解もある。天平神護3年4月には越中目,正七位下,神護景雲元年(767)には越中目,同国調使,正七位上とみえ,国司解などに署名している。

 畑中 政春 (はたなか まさはる)
 明治40年~昭和48年(1907~1973)ジャーナリスト。明治40年9月1日に伊予郡下灘村(現双海町)に生まれる。松山商業から神戸高商を卒業。教員生活を1年した後,昭和5年ハルビン日々新聞の記者となり,この時代にロシア語を学ぶ。同7年朝日新聞に入り,第二次世界大戦中は北京特派員やモスクワ支局長になる。在ソ中に独ソ開戦にあい,その後の4年間の在ソ体験が彼の生涯に大きな影響を与えた。戦後は朝日新聞労組の結成に参加し,日本ジャーナリスト連盟書記長として活躍したが,同25年レッドパージによって朝日新聞を退社する。その後,日朝協会理事長,日ソ協会常任理事,原水協代表理事を歴任する。主著に『ソ連の国民生活』『国際通商戦』『平和の論理と統一戦線』などがある。昭和48年3月6日死去,65歳。

 秦   一景 (はた いっけい)
 生年不詳 貞享3年没。(~1686)松山藩御用商人,俳人。名を十太夫直昌といい,道般庵と号す。伊勢桑名の人で,寛永12年(1635)松平定行の松山移封とともに松山に移る。屋号を楠屋と称し,長く松山藩の御用を達したようである。明暦頃から熱心に句作に励むようになり,同2年の『崑山集』への入集を皮切りに貞門派の俳書に多く入集している。藩主定行の俳友であったばかりでなく,松山黎明期の第一人者であった。寛文8年(1668)11月21日に巻かれた定行追悼俳諧連歌では,定長の発句に続いて一景が脇句を詠んでいるところから,俳諧の指導的地位にあったとみられる。その名は広く知られていたようで,談林派の惟中や三千風が松山に来遊した時にも挨拶を受けている。貞享3年2月23日没し,正宗寺に葬られた。

 秦 勝三郎 (はた かつざぶろう)
 文化11年~慶応4年(1814~1868)西条藩士。山本道友の三男として文化11年5月10日に生まれ,名は友久。天保年間に秦氏へ入る。江戸へ出て,武道八般を修業し,剣,槍の術に秀れ,帰藩して指南役となり,門人の数1万にも及んだという。その武技ますます有名になり,「伊予の鬼勝」といわれた。長州征伐には兵300を率い,大奮戦で勝利し,中国地方の童謡にまでうたわれたという。「長州征伐大野の原で,戦して勝つ伊予西条云々」勝三郎の人となりは,剛勇だけでなくて品性高潔で,金銭に恬淡で,禅僧も及ばなかったといわれ,花も実もある天晴れな武士とほめ讃えられたという。慶応4年9月5日,54歳で死去。

 畠田 昌福 (はたけだ まさとみ)
 明治30年~昭和51年(1897~1976)昭和戦時下の県知事。明治30年6月26日,兵庫県津名郡仮屋町久留麻で畠田勝平の三男に生まれた。大正11年東京帝国大学法学部政治学科を卒業,福井県属を振り出しに群馬県理事官,愛知県・東京府事務官,秋田・福島・福岡・神奈川・大阪各府県警察部長,内務省地方局監査課長を歴任,昭和16年11月4日愛媛県知事に就任した。 12月8日太平洋戦争が開始されたので決戦遂行・挙県一致の覚悟を強調する告諭を発した。17年1月には大政翼賛会の改組強化を図り,4月衆議院翼賛選挙を執行,7月1日からは県庁出先機関として9地方事務所を開設するなど,開戦時の県政を慌だしく遂行して17年7月7日陸軍司法長官に転出した。ついでジャワ軍政監部内務部長に任じ,20年2月内務調査官に転じ,4月新潟県知事になった。 22年1月公職追放に該当して退官した。昭和51年7月14日,79歳で没した。

 服部 正弘 (はっとり まさひろ)
 文政4年~明治29年(1821~1896)今治藩首席家老として1,000石を給された。稲富流砲術皆伝,『今治拾遺』全50巻の編者,『続今治夜話』の著者。その祖半三正種は足利義晴に仕え,その子半三正成は家康に属し,鬼の半三と呼ばれる勇将であった。伊織正純の時,今治藩に家老として迎えられ,文政4年10月26日生まれた正弘は,その七代に当たる。天保14年家老に就任し,安政5年と元治元年に病身のため引退したが,藩政多難のため数年で復帰し,明治4年廃藩置県の大変革を終了して隠居するまで約30年間もその任にあった。第一次長州征伐では二番手隊長として出船,また藩主の代理として征長総督へ国論建白書を提出した。戊辰戦争では銃隊を率いて入京し,京都を警衛した。版籍奉還前後は軍制・禄制・学制など藩政改革の中心となり,藩債の処理,藩札の回収なども行った。明治3年5月には自ら1,520坪の屋敷のうち603坪を上地した。隠居後は藩史の証人として修史事業に没頭し,明治27年には『今治拾遺』を編集して旧藩主に呈上した。また年代は不明であるが戸塚政興の『今治夜話』に続く文政以降の『続今治夜話』を執筆した。明治29年2月,74歳で東京で没した。墓所は東京都台東区谷中霊苑乙第2号の1種1-2,法号弘臺院毅伯白水居士。

 花屋 権六 (はなや ごんろく)
 生没年不詳 姓は猪川氏。現在の西条市朔日市,室川の西岸に開拓された近江屋新開と呼ばれる新田地帯がある。その地先にある群小新田の一つに花屋新開がある。開発者・開発時期ともに不明であるが,享保17年大飢饉に際して西条藩が困窮者救済事業として多喜浜塩田の築造を実施した際,尾道に派遣されて米穀5,000石を購入することに成功した人物として花屋権六の名が知られており,彼が新田開発の中心人物であったろうと推定されている。菩提寺は西条市光明寺。

 祝  安親 (はふり やすちか)
 生没年不詳 鎌倉時代末期から南北朝時代の武士。幕府御家人,在庁官人。彦三郎。大祝家の出であるが,大祝にはならず祝と称した。大祝家は,三島神社(大山祇神社)の最高の神宮である大祝職を出す一族であり,越智氏の一族であるという。大祝氏は神職だけでなく,在地領主でもあり,鎌倉時代には幕府御家人でもあった。
 元弘の乱が起こると,得能通綱・土居通増・忽那重清らと共に反幕府軍として挙兵。元弘3年(1333)閏2月,長門周防探題北条時直の来襲か予想して,土居・忽那氏らとともに越智郡府中城(現今治市)に守護宇都宮貞宗を攻撃,同郡石井浜に上陸しようとした時直を撃破して敗走させた。(石井浜の戦)その後直ちに兵をかえし,忽那氏らとともに喜多郡の根来城に宇都宮貞泰(貞宗の弟)を攻めて,3月これを陥れた。また同月,再度来襲してきた時直軍を,土居・忽那氏らと共に久米郡石井郷付近で迎え討ち,これを撃破し,敗走させた。(星岡合戦)5月には,通綱・通増らとともに,讃岐国鳥坂(香川県三豊郡三野町と善通寺市の境)で幕府軍と戦う。安親は,通綱や通増と異なり,建武政権下においても上京せず,在地にとどまっていたようで,建武2年(1335)4月,忽那氏らとともに北条氏の与党の籠る周敷郡赤滝城(現周桑郡丹原町)を攻め,6月にこれを陥れている。
 しかし,足利尊氏が建武政権に反旗をひるがえすと,安親も従来の態度をかえて武家方となり,建武3年2月から3月にかけて,宮方の合田貞遠を伊予郡松崎城(現同郡松前町)に,さらに由並城(現伊予郡双海町),柚田光宗の館,河内人道宗性の館を攻め,これを攻略している。

 浜田 国太郎 (はまだ くにたろう)
 明治6年~昭和33年(1873~1958)労働運動家。越智郡生名村善太郎の長男として生まれる。明治18年,12歳のとき帆船為朝丸の給仕となり,その後英国,ノルウェー船の外国船に転乗したのち日本郵船に入る。明治39年,佐渡丸火夫長時代に郵船会社の火夫長に呼びかけ,機関部倶楽部を創立し,その後機関部同志会と改名した。 41年頃に甲板部員を網羅する共済会という団体が生まれ,ここに甲機の二つの組合が誕生した。しかし,同一産業に働いているすなわち一家族であるべき者が,自然対立的となることはまぬがれないということから,機関部同志会を解消して日本船員同志会と改め,全海員を網羅して,会長に代議士海軍少将の井上敏雄を迎え,副会長に浜田が就任した。 42年賃上げ要求闘争後会長となり,停船ストによって要求実現をめざし,水上署に検束されるが,船員の昇給は実現する。大正元年に,鈴木文治によって友愛会が創立され,同3年に海員部長となる。大正9年I.L.O第2回国際労働総会を海事総会として開くにあたり,代表としてイタリアのジェノヴァに赴く。大正10年(1921)日本海員組合が結成され,浜田は副組合長に選任されるが同年10月辞任。昭和2年より10年まで組合長就任,昭和3年最低賃金制の確立をめざしゼネストによって社外船365隻停船のすえ協定実現,昭和4年のI.L.O.第13回国際労働総会にも代表として出席,昭和7年には日本労働組合会議議長となり,名実ともに日本労働運動界のチャンピオンとなる。その後,生来の信仰心と祖先崇拝の気持から剃髪して神戸市雷声寺の住職となる。
 「気骨稜々の士」として「近代の倭寇」と呼ばれ,昭和10年には生名村に銅像が建立され,今日「報海国」の台座が残っている。戦後は,司法保護司など,青少年の育成事業に精力を注いだ。昭和33年85歳で没する。小学校も卒業せず,字もよめなかった彼が船員という特殊な環境の中でのし上がり,日本労働界にさんぜんと光を放つ功績をあげたことは偉大といわなければならない。戒名大真了功居士。

 浜田 辰雄 (はまだ たつお)
 明治40年~昭和58年(1907~1983)元松竹映画美術監督。喜多郡肱川町予子林に生まれる。父は朝鮮と東京で手広く事業を興し,母は宇和島出身で日本女子大を出ている。昭和6年,松竹蒲田撮影所に入り,昭和42年引退するまでの36年間,松竹映画の美術監督として200本を超える作品をつくる。東京美術学校を卒業して専門家として入社したが,お茶くみからデザインまで何でもやる。戦前,戦後,多くの監督と仕事をしたが,忘れられないのは小津安二郎とのコンビ作品である。ふすまや障子の小道具製作,庭木の用意,戦後はとくに製作経費の切りつめ等にずい分と苦労する。浜田にとっての最後の作品は「千恵子抄」(昭和42年松竹映画)。毎日映画コンクール美術賞,アジア映画祭美術賞を受ける。昭和58年11月22日死去,享年76歳。

 浜田 祐太郎 (はまだ ゆうたろう)
 明治10年~昭和13年(1877~1938)漁業功労者。宇和海においてまき網漁業を動力化した先覚者。明治10年7月24日,父岩崎祐蔵,母フシの長男として宇和郡内海浦大字内海の内申浦(現御荘町中浦)に生まれる。明治35年4月12日,浜田清太郎とその妻トラの二女ツ子と婿養子の婚姻を結ぶ。祐太郎が婿養子となった頃は御荘湾の菊川沖や内海湾が主漁場のいわし網を経営していたが,大正3年38歳のとき朝鮮巨済島に渡り,いわしバッチ網(船びき網の一種)を径営していた。しかし大正5年に事業成績芳しからず,経営的にゆきづまり帰国した。その頃地元では次々といわし揚繰網が始められ,同10年にはこの揚繰網の集魚燈としてカーバイトが使われ夜間操業も行われるようになった。大正12年浜田祐太郎は今後いわし網漁業は漁場が岸近くの地びき網,船びき網から漸次沖合に移動して行くことを察知し,将来は遠い沖合漁場までの往復に要する時間の削減をはがらなければ到底いわし網漁業の経営は成り立たないことに着眼した。祐太郎はここで新しい試みとして船団を動力船でえい航することとし通い船として宇和島と九島の間に就航していた古発動機船を購入し,いわし揚繰船団の一切をえい航する方法を採用した。この結果操業時間の効率化が非常に進み,われ先にとこのやり方が行われることとなり,宇和海における揚繰網漁業はこれによって大きく前進していった。昭和9年3月宿毛湾入漁問題に関し,32統の東西外海村いわし揚繰網の入漁が許可となったにもかかわらず,内海村は入漁できないこととなっていたので,宿毛湾入漁の実現と経済上の利益を増大するため,網主組合の組織化が不可欠と考え,村内網主を中浦に招集し,協議した結果,内海村の沖取網(小型のまき網の一種),揚繰網,巾着網主組合を結成し,その組合長に就任して奔走した結果,ついに昭和12年11月年来の宿望をある程度達成し,10統の内海からの宿毛湾入漁が可能となったことは同氏の献身的な努力のたまものといえる。昭和13年3月29日中浦にて没,60歳。祐太郎には4男4女がいたが,長男の清は大正15年2月若くしてこの世を去ったので,次男の憲三が家業を継ぎ現在の大浜グループをつくりあげた。目下小袖漁業(社長,憲三)浜田産業(社長,憲三)大浜漁業(会長,憲三。社長,憲三の次男,素司)大祐漁業(社長,憲三の長男,祐功)等を経営し,八戸,銚子,下関,福岡,青方(長崎),松山の6営業所と宇和島に鉄工所を置き従業員は船員412名,陸上106名計518名である。大中型まき網16統,うちニューギニヤ沖操業の海外まき網1統を有して,年間水揚約55億円に達する全国屈指のまき網会社に発展している。

 浜本  浩 (はまもと ひろし)
 明治23年~昭和34年(1890~1959)小説家。明治23年8月14日に松山市松前町で生まれる。父の利三郎は愛媛県尋常中学校(後の松山中学校)の体操教師であった。誕生後,両親離婚のため戸籍上は父の弟となっている。父の転勤で小学時代は高知市ですごし,中学は同志社へ入学したが中退する。明治42年,18歳で博文館に入り,「中学世界」の記者となる。その後,信濃毎日,南信日日,高知新聞などの記者をやり,大正8年「改造」の記者となって,昭和6年に退社,それ以後作家活動に専念し,同9年「十二階下の少年達」を書き,同12年長編小説「浅草の灯」で第一回新潮社文学賞を受賞。浅草を題材にした作品が多く「浅草ものの作家」と言われた。戦争中には海軍報道班員としてラバウルへ行く。本県へも文芸講演会に来県。昭和34年3月12日, 68歳で死去。

 早田 知時 (はやた ともとき)
 天保4年~明治37年(1833~1904)県会議員。天保4年6月17日,江戸麻布龍王町で宇和島藩士の家に生まれた。御坊主役から御徒目付に進み,明治維新の際少補吏・刑法属官に任じた。廃藩置県後,宇和島小区,14大区副区長・学区取締を経て,南宇和郡役所書記になった。明治23年2月~25年3月県会議員に在職,改進党に所属した。明治37年9月11日,71歳で没した。

 林 喜佐治 (はやし きさじ)
 元治2年~昭和13年(1865~1938)実業家,県会議員。元治2年1月11日,宇和郡喜佐方浦(現北宇和郡吉田町)で清家徳太郎の次男に生まれ,明治4年,宇和郡松渓村(現東宇和郡野村町)林重郷の養子になった。明治23年以来村会議員,27年3月~30年10月県会議員に在職した。また40年以来郡会議員を務めた。大正8年酒造会社を設立,11年郵便局を開設した。その他,中筋製糸会社社長・宇和商業銀行頭取や野村商事・野村銀行取締役などを歴任した。昭和13年10月2日,73歳で没した。

 林  実正 (はやし さねまさ)
 明治15年~昭和34年(1882~1959)医師,県会議員。明治15年1月26日,伊予郡徳丸村(現松前町)で生まれた。松山中学校を経て40年大阪高等医学校(現大阪大学医学部)を卒業,京都帝国大学医科で研究を続けた後,帰郷開業した。実直にして人望厚く,大正8年9月~12年9月県会議員に在職して衛生行政の向上を専門的立場で勧告した。伊予郡医師会長・県医師会代議員を務め,学校医として地域の医療に貢献した。昭和34年11月23日,77歳で没した。

 林  傅次 (はやし でんじ)
 明治24年~昭和34年(1891~1959)教育者。明治24年12月5日福井県今立郡南中山村(現今立町)林文三郎の長男として出生。明治41年福井県師範学校に入学,大正5年3月東京高等師範学校(国語漢文部)を卒業し,同年4月愛媛県師範学校教諭となる。校長山路一遊の薫陶をうけ,「人生の師として終生仰ぐべき方にめぐりあうことのできたのは,私の至幸至福といわなければならない」とのべている。同13年愛媛県視学,昭和3年地方視学官を務める。大正10年3月「愛媛教育」誌に「わが教へ子わがすべて」と題して,教育者の心境を記したり,大正13年1月号~昭和6年12月号の巻頭言を42回にわたって述べるなど,愛媛県師範学校教諭視学官時代に愛媛の教育界に貢献した。その後,昭和8年東京府視学員,同11年地方視学官を務め,同14年8月愛媛県師範学校長となり,師範教育を通して愛媛の教育界に指導的働きをする。昭和11年愛媛県師範学校本館前に建てられた山路一遊元校長の顕彰碑「師道鑽仰之碑」の碑文を撰文した。(現愛媛大学教育学部校庭にある)少年時代から『近古史談』『日本外史』『世界偉人伝』をはじめ,熱心な読書家で,年々読書目録に記録し,例えば昭和28年には,83巻読んでいる。広く深い読書人であったことがうかがわれる。また,短歌の制作ならびに詩歌論にも優れ,「把翠」と号した。昭和18年4月郷里の福井県師範学校長,同青年師範学校長を兼務,同20年10月文部省図書監修官,教柱書局第一編集課長,同23年3月埼玉師範学校長,翌24年5月埼玉大学教育学部長,同32年7月中央教育審議会臨時委員,同33年3月退職,4月埼玉大学名誉教授,同34年8月22日,東京駿河台三楽病院にて永眠。67歳。従三位勲二等を授与される。

 林 源太兵衛 (はやし げんたべえ)
 生没年不詳『建本治農』によれば,林喜左衛門弟与力,風早郡柳原に居住し,地理に詳しい人物であったとされる。延宝7年2月松山藩奉行高内又七が領内に「新令二十五か条」を発して税制を改革し,春免を推進しようとした時,税の負担能力を均等化するために地坪制度を勧めた。野間郡波止浜塩田の開発にも活躍,先任の代官園田藤太夫時代(33軒築造)に続いて,貞享4年から元禄4年まで源太兵衛の指揮による10軒の塩浜が造成された。野間郡代官当時,今治藩の要請により,同藩の地坪(松山藩で実施した方法を伝授)を指導した。「歴俸仕禄」には元禄8年,藩政を批判して解雇されたという。その後安芸国に行き,新田開発をもって仕官しようとしたが,都合よく運ばず,浪々の身となった。伝承によれば零落しで猿舞をしながら東海道を江戸に向かっていたが,三島を過ぎて清水において病死したと伝えられる。

 林田 哲雄 (はやしだ てつお)
 明治32年~昭和33年(1899~1958)日本農民組合に参加して農民運動に専念,戦後衆議院議員。明治32年10月6日,周桑郡小松村新屋敷(現小松町)の明勝寺住職林田孝純の次男に生まれた。幼年で父を失い母に養育されて小松小学校・西条中学校を経て京都の大谷大学に進んで僧籍を目指したが,大学在学中全国水平社創立大会に参加,大学を中退して帰郷,水平社運動を起こした。大正11年賀川豊彦・杉山元治郎らが日本農民組合を組織すると12年これに参加して農民運動を進め,14年には別子銅山大争議を支援した。 15年4月日本農民組合県連合会を創立して会長になり,同年労働農民党県連合会を結成,昭和2年日本農民組合中央執行委員・労働農民党中央委員となった。3年2月初の普通選挙である第16回衆議院議員選挙に労働農民党候補小岩井浄を擁立して奔走したが,その直後に検挙された。また5年八・一五事件で2年8か月の刑に処せられるなど,検束されること70余回,獄に繫がれること5年2か月に及んだ。昭和13年小松町会議員に当選,戦後,日本社会党・同県支部連合会の結成に参加,21年4月の第22回衆議院議員選挙に立候補して当選したが,以後の選挙では落選した。戦後の民主化の中で農民運動の再編成に努力しているうち,病魔に犯され,昭和33年2月14日58歳で没した。 41年12月,「先駆者たる君が功績は石鎚の峯の如く不滅の光芒を放つ」偉業を顕彰するために小松町内に顕彰碑が建てられ,闘友井谷正吉が撰文した。

 林原 耒井 (はやしばら らいせい)
 明治20年~昭和50年(1887~1975)教育者,俳人。明治20年,12月6日,福井県に生まれる。旧姓は岡田,名は耕三。第一高等学校から東京帝国大学英文科に進む。漱石の門下生の先達的存在であった。大正9年から同14年,まで松山高等学校教授をつとめ,のち台北高校や明治大学の教授を歴任する。松高時代川本臥風と松高俳句会を作り,臼田亜浪門に入って「石楠」で句作や俳論を展開する。句集『蜩』や俳論随筆『芭蕉を超えるもの』『漱石山房の人々』など多くのものがある。昭和50年4月23日,87歳で死去。

 原 真十郎 (はら しんじゅうろう)
 明治15年~昭和43年(1882~1968)波止浜町長,地方改良・波止浜塩田功労者。県会議員。明治15年1月26日,野間郡波止浜村(現今治市)で原武七の四男に生まれた。松山中学校に学んだが,長兄秀四郎(のも文学博士)はじめ兄たちが進学したので,中学を修了しただけで家業の製塩を継いだ。大正3年波止浜町会議員,4年郡会議員になり,6年波止浜町長に就任,以後30年間にわたって町政を担当した。その間,役場を新築して事務改善と帳簿整理を行い,納税義務の心得を説いて成績向上に努めた。社会事業にも意を用い文化講座・通俗講習会・活動写真などを通じて町民の知識啓発・思想善導を図った。また町営住宅の建設や農工業商就業資金の供給を行って窮民の救済策を講じ,町自治会を組織して生活の改善や勤倹奨励の実行に当たらせ,波止浜公園を造成して町民の慰安の場とした。特に勧業面では奨励金を交付して波止浜塩業の振興に努め,昭和13年には波止浜塩業組合を設置して自ら組合長になり,17年合同製塩工場を設立するなど製塩業の近代化・合理化を推進した。大正15年地方改良功労者として県知事表彰を受け,その後も県町村会長や大政翼賛会越智郡支部長などの要職を歴任した。昭和3年10年村瀬武男の補欠で県会議員になったが,政党の争いを嫌って以後県会には出なかった。昭和43年5月7日,86歳で没し,波止浜公園に胸像が建てられた。

 原   尚 (はら ひさし)
 明治25年~昭和49年(1892~1974)教育者。明治25年5月6日北宇和郡宇和島町北町(現宇和島市大宮町)に生まれる。宇和島中学校(現宇和島東高校)を経て広島高等師範(現広島大学)を卒業。大正5年京都の旧制中学をはじめ中等教育一筋に歩む。昭和13年から終戦まで,今治高等女学校(現今治北高校)松山高等女学校(現松山南高校)今治中学校(現今治西高校)の各校長を務める。戦後は今治第一高校,宇和島東高校長を歴任する。専門は理科で,理科教育に大きく寄与して,昭和29年,退職する。 38年間の教職生活を去ってからは,地域社会の文化振興に努力し,社会教育委員や文化財保護委員として郷土文化の発展に寄与する。昭和40年には勲四等瑞宝章,同42年,県教育文化賞を受賞する。昭和49年12月30日, 82歳で死去。

 原 秀四郎 (はら ひでしろう)
 明治5年~大正2年(1872~1913)学者。越智郡波止浜町(現今治市)原武一郎の長男として明治5年7月18日に生まれる。幼時より非凡で,松山中学校から第三高等学校を経て,明治31年東京帝国大学文科を卒業,さらに大学院に入って,歴史,地理学を専攻研究した。東北奥羽地方を踏査し,同38年に「王朝時代における東北地方拓殖に関する史蹟の研究」という論文で文学博士となる。彼は脱俗の風があって社交的でなく,栄職を求めないで,全くの学者肌であり,一時,学習院その他二,三の大学で教鞭をとったが,すぐに辞め,日夜書斎にこもり研究に没頭した。大学卒業後妻を迎えたが,離別し,その後ついにめとらず独身を続けた。同44年病気のため帰郷したが,大正2年3月2日,死去,40歳。

 原島 聴訓 (はらしま とものり)
 弘化2年~明治25年(1845~1892)農業指導者,県会議員。弘化2年12月21日,今治藩江戸詰藩士知聴の長男として生まれる。廃藩置県と同時に今治に引きあげ,種子交換会を開設して農産種苗の改良普及に努めるほか,縄を用いる稲作の正條植の奨励,種籾の塩水選の実験と普及,施肥法の研究,麦鎮圧器の考案,製糖,乳牛の飼育など農業の改良に尽瘁。特に養蚕業奨励のため私財を投じて桑苗を育成して地方の有志に無償で配布して桑園の改良増植を図るほか,蚕種の製造,製糸技術者を養成の養蚕伝習所を創設して子弟の教育に努めるかたわら,先進地へ留学生を派遣するなど蚕糸業の振興に貢献す。
 明治14年に東京で開催の全国農談会,同15年に開催の全国集談会,同23年の全国農談会に本県の代表者として三たび出席,老農として活躍。県会議員に当選4回,兵事,教育の委員として県政に尽した。明治25年12月23日,47歳で逝去。同32年に知事大庭寛一より篤農家として生前の功を追賞された。長男鋻吉も越智郡農友会長として農業の振興につとめた。

 原田 佐之助 (はらだ さのすけ)
 天保11年~慶応4年(1840~1868)新撰組隊士。松山藩士に仕える若党で低い身分の出身である。文久2年出奔して江戸の近藤勇の武衛館道場に出入した。これが契機となって,近藤勇が翌3年,京都郊外の壬生で新撰組を結成した際,副長助勤,のちに十番組長となった。宝蔵院流の槍術の使い手で,元治元年6月尊攘派の主勢力を壊滅させた池田屋事件をはじめ,新撰組の残虐な襲撃事件には常に名を連ねていた。慶応3年6月には,佐之助らを含む新撰組は幕吏に加えられた。この年の11月15日,坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された。この斬り付けた際,「こなくそ」と叫んだ伊予方言,佐之助の所持した蝋色の刀の鞘が現場に遺留されていたことから,彼の仕業と推測されている。翌年正月の鳥羽・伏見の戦に従軍し,江戸に逃れてから,甲陽鎮撫隊に加わり甲府で戦ったが敗れた。再び江戸に帰り,靖兵隊を組織して会津に向かったが,官軍に阻止され江戸に引き返した。江戸で彰義隊に合流し,上野寛永寺に籠った。5月15日の官軍の総攻撃で,数か所の鉄砲傷を負い,2日後の17日,江戸本所旗本神保伯者守邸で28歳の生涯を終えた。

 馬場 東圃 (ばば とうほ)
 享保15年~文化3年(1730~1806)西条藩士・豊田流砲術指南。あらゆる方面に能力を発揮した英才で,特に書をよくしたといわれている。名は彦,通称彦兵衛,字を子俊といった。文化3年7月22日,76歳で没。墓は西条市の林昌寺にある。

 馬場 文耕 (ばば ぶんこう)
 享保3年~宝暦8年(1718~1758)江戸中期の講釈師・戯作者。伊予の生まれであるが,詳しい出生地,経歴は不明の点が多い。本名は中村文右衛門,左司馬とも称した。そもそも馬術指導が本業であった。文筆をよくし,江戸松島町に居住し講談を業とするようになった。特に諸大名の家政を批判した。「軍事批判講」を開き,権力的社会を風刺して人気を集めた。美濃国八幡藩主金森頼錦は,賄賂で幕閣や美濃郡代を動かし,その権威をもって年貢増徴による財政建て直しを図ったが,農民の激しい抵抗にあってとん挫した。この郡上事件を題材して「珍説森の雫」を発表し,さらにこの騒動のてんまつを記し,幕府の処置の不公平を論じた「平仮名森の雫」の冊子を著して講談の席亭で販売した。この罪で捕らえられ詰問されたが,これに屈せなかった。このため宝暦8年12月25日,ついに町中引き廻しのうえ獄門となった。時に40歳であった。

 塙  直之 (ばん なおゆき)
 生年不詳~元和元年(~1615)通称団右衛門,出身地出生年不明,豊臣期の武人。『武者物語抄』では「もと横須賀衆,牢人して時雨左之助と名乗り加藤左馬助嘉明の歩小姓に出る」とある。
 『武功雑記』には「団右衛門は元来上総ヨフロノ崎の者とし朝鮮の役に従軍したことを記す」とある。
 関ケ原合戦の時,指図の場より前に足軽を出して主君嘉明から「一代将師にはなれぬ者」と叱責されて松山を立ち退いた。その時,大床に「遂に江南の野水に留まらず 高く飛ぶ天地一閑鴎」と大書して,嘉明の立腹を買い,朋輩の大名を廻り団右衛門の仕官の途を断った。遂に牢人して京都妙心寺の大竜和尚の門下に入り常に衣体に刀脇指を帯した。ある時の法会の時間に遅れて師の怒りを買ったが,「一鞭遅れて到るも骨怒するなかれ,君は大竜に駕し我は鉄牛」と即興詩で詠んで感嘆させたという。
 『武辺咄聞書』に大坂夏の陣に直之は蜂須賀至鎮の陣に夜討をかけ,家老中村右近を始め屈強の24人を討ち取り,本町橋上の床几に腰かけ角取紙の馬印で士卒を指揮した。旧知の林半右衛門がかつて団右衛門が「大名になるとも自身槍をとり太刀を振わぬは勇士の本意にあらず」と豪語したことを語ると涙を浮かべ「今度の夜討に大将の仕形をしたのは加藤嘉明からおのれは一代人数を引廻す大将には成れぬと叱られたことを無念に思い,一生に一度釆配をとる姿を嘉明に見せたいと手の痒さを忍んで釆配を取った。もはや望みたりた上は,事あらば太刀は目釘の耐えるまで,槍ははがねの抜るまで働いて林に見せよう」と言ったが,果たして元和元年4月29日泉州(大阪府)樫井合戦に天晴なる討死して名を雲井に揚げたという。

 盤珪 永琢 (ばんけい えいたく)
 元和8年~元禄6年(1622~1693)大洲冨士山如法寺の開山禅僧。播磨国揖保郡浜田(現姫路市)生まれ。幼名は母遅,受戒後の名は永琢。17歳赤穂郡隨鴎寺の雲甫全祥について受戒得度,本格的な修業に入り諸方を行脚,26歳で隨鴎寺に帰り参究苦行し,大悟徹底した。 29歳の時,長崎崇福寺に行き明国の道者超元に参禅し,吉野の山中や美濃の草庵に籠って心術を練った。大洲第二代藩主加藤泰興は槍術の名手で,その修道の究極は槍禅一如の境地を得ることであった。盤珪の座下に参じて,大いに悟るところがあったので,以来帰依を深め,明暦3年(1657)大洲遍照院を建立して招請し,信徒の数が増加したので,寛文9年冨土山如法寺を開山,播磨から来洲入山した盤珪は,藩主とともに直接山中を巡察して寺域の経営構築にあたり,禅林大道場としての規模を充実するとともに,領民の教化にあたり,如法寺を中心とする信仰は,領内に深く浸透するに至った。寛文12年妙心寺の住持となり,元文5年(1740)には大法正眼国師の号を贈られた。

 パークス (Sir Harry Smith Parks)
  (1828~1885)幕末~明治初期の駐日イギリス公使・総領事。イギリスのスタッフォート生まれ,幼少の頃両親を失なう。父の兄に引きとられるが,この伯父も10歳のとき亡くなる。キングエドワード校に学ぶ。従姉が中国で布教中の宣教師と結婚したので,これを頼り13歳で中国に渡り,この宣教師から中国語を学んだ。18歳で福州領事館の通訳生として採用された。以後中国各地でイギリス領事館の通訳官を歴任した。 1865 (慶応元年)3月,駐日公使,総領事に任命され。7月横浜に着任した。フランス公使ロッシュに対抗してイギリス外交を展開した。パークスの宇和島来航は慶応2年であるが,このきっかけになったのは,宇和島藩家老松根図書がたまたま長崎滞在中,薩摩藩の五代才助を通じて,パークスと知り合ったためと言われている。パークスはキング提督の率いるサラミス号(835トン)等軍艦3隻を従えて,同年6月25日宇和島港に入港した。これを迎えた宇和島人の驚きようが手に取るようにわかる。パークスは藩主宗徳,前藩主宗城らと歓談した。また城内三の丸にイギリス兵を招き,宇和島藩兵と共に相互に操練を実施して親交を深めた。このパークスの宇和島藩訪問は,伊達宗城らの活躍に大きな影響を与えた。明治16年清国公使に栄転して日本を去る。この2年後1885年3月,北京で57歳の生涯を終えた。ロンドンのセントポール寺院に記念碑と共に葬られている。