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愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)

 田内 栄三郎 (たうち えいざぶろう)
 文久3年~昭和4年(1863~1929)実業家。松山市萱町に久次郎の長男として文久3年6月21日生まれる。幼少のころから神童といわれる。明治8年松山英学所入学,明治12年五十二国立銀行に勤務,その間大阪の銀行にて簿記を学び,これを初めて松山に導入した。明治25年銀行を辞めて,翌26年田内機織所を設立,伊予絣の製造をはじめる。また伊予絣の研究所(のちの工業試験所)を設立,機織法の改良に努めた。大正10年,中予織物会社を設立,練綿機業を起こし,クレープ,広幅綿布を製造し,翌11年東洋染業会社を設立,捺染木綿を製造し,中国大陸,南洋諸島にまで販路をのばした。その功により,産業功労者として大正天皇より金杯を下賜された。実業界での活躍と同時に政治,教育,文化と幅広く活躍した。松山市会議員,松山商工会会頭,伊予織物同業組合長,愛媛教育協会評議員のほか松山商業銀行取締役,三豊銀行取締役,丸亀商業銀行監査役,国際連盟会愛媛支部評議員など多方面の要職についた。松山夜学校の危機にさいしてはその理事となって財政的援助を惜しまなかった。実業人であるが,利欲に恬淡で,藍川,青川と号して書道をたしなみ,書画を収集するなど文人的趣味をもつ人物であった。「一通り人と世にとはつくせしも希望と理想一空に帰す」の辞世の句を残して昭和4年8月17日,66歳で没した。

 田内 董史 (たうち ただふみ)
 寛政11年~弘化4年(1799~1847)松山の儒者。教育者。通称求馬。愛南と号す。初め漢学を杉山熊台に学び,のち大坂に出て篆刻・医術を学ぶが,医は真心に背く業であるとこれを捨てて,京都に上り,香川景樹に和歌国学を学ぶ。松山に帰り,伴氏の女幸子と結婚,石見の浜田に招かれ,次いで伊予小松にも招かれて滞留。天保9年松山を出て諸国を遊歴しながら江戸に至り,宮原桐月に経学を学ぶ。同13年6月帰松して,野間一方の創めた城北松前町の立本舎をついで子弟の教育に当る。清廉気骨の人であったが,弘化4年10月27日48歳で没した。和歌をよくし『田家日記』一冊が遣る。妻の幸子も和歌にすぐれ,夫没後の悲しみを綴った『蜑のすさび』がある。

 田岡 俊三郎 (たおか しゅんざぶろう)
 文政12年~元治元年(1829~1864)幕末の小松藩士,勤皇家。文政12年5月7日,小松藩士田岡表蔵久凱の子として生まれた。父は中小姓格に列せられ,御徒士目付,御代官仮役などを勤める中士であった。俊三郎は,幼名を佳太郎と称し,長じて久恒と名乗った。小松藩儒官近藤南海に儒学を学び,同藩槍術師範佐伯孫太夫から一旨流の槍を修めた。弘化4年,一柳頼紹に出仕,嘉永3年から,槍術修行のため近畿,中国,九州地方を巡歴し,帰国後は藩士への槍術の指導にあたった。文久2年,情勢探索のため京都へ派遣され,藤本鉄石,松本奎堂ら他藩士との接触を深めるとともに,先に京都に派遣されていた同藩の一柳健之助らとも連絡を保ち,尊攘運動に活躍した。後に脱藩して沢宣嘉に従い,8月18日の政変後は,七卿とともに長州へ下った。生野の変が失敗に終わると,沢を護って美作,備前,讃岐を経て伊予に帰り,宇摩郡蕪崎村の医師三木俊三宅,同郡北野村の尾埼山人宅,新居郡垣生村の医師三木佐三宅に沢を匿った。その間,俊三郎は再び出国し,讃岐,備前方面に潜行していたが,元治元年,沢の長州移動とともにこれに合流した。その後,同年7月,蛤御門の変に際して長州藩兵とともに出陣し,7月19日,戦死した。享年35歳であった。明治36年に正五位を追贈された。

 田頭 半窓 (たがしら はんそう)
 文政6年~明治26年(1823~1893)今治の俳人。諱は繁武,通称は武三郎。半窓のほか馬乳園とも号す。弓削島大庄屋の出で,父城繁は幼時に失明したが,御職総検校まで勤めた人。武三郎はその長男で,文政6年8月3日生まれ,今治にあって25歳頃から半窓と号して俳諧にいそしみ,宗匠格として活躍した。文久2年(1862)には今治藩より郷士に列せられ,また黒住教の先生ともなった。『黙々集』『阿讃伊土集』『四時行』『西本集』等にも出句し,讃岐の島谷や松山の鶯居等多くの俳人と連句を巻いている。門人も多かった。明治26年6月19口69歳で没す。今治市北新町の神供寺に葬られる。「最一声まこゝろきかせ郭公」が辞世の句。

 田川 鳳朗 (たがわ ほうろう)
 宝暦12年~弘化2年(1762~1845)俳人。宝暦12年熊本に生まれ,熊本では綺石に,自らは越人の系統と『芭蕉葉ふね』に記すも,寛政9年(1797)江戸に出て道彦門。俳諧のほかに絵画もよくし,諸国を遊歴した。成田蒼虬・桜井梅室と天保の三宗匠と称せられ,当時の江戸俳壇を風靡し,著書に『蕉門俳諧師説録』『自然堂千句』,門人西馬編『鳳朗発句集』『鳳朗発句集後篇』などがある。弘化2年11月28日没,84歳。伊予には天保6年(1835)に来遊し,藩家老奥平鴬居・岡葵笠・高部可等(松山),長谷部映門(小松)などその教えを受け,天保6年には葵笠の『かわ掃除』に序を書き,天保14年(1843)映門編『名兄弟』には,老松の下に句碑の鳳朗の絵を載せている。

 田窪 桜戸 (たくぼ おうこ)
 嘉永6年~明治42年(1853~1909)神職・歌人。越智郡上朝倉村の神職田窪賢雄の長男として,嘉永6年4月22日に生まれる。名は勇雄。幼少より学を好み,半井梧菴に師事して国学を修め,和歌に長じた。目にふれ,耳に聞くものたちまち歌となったという即詠の妙を得ていたという。明治21年,今治吹揚神社の社司となったが,その学徳を慕って遠方より来り学ぶものが多く,楳戸鴬宿など門人が多い。今治地方に歌道の発展盛大なるをみたのは,そのたまものであると言われている。温厚な人柄で,しかも雄弁家であって地方神職界の重鎮として活躍した。明治42年10月28日死去,56歳。今治天保山に葬られる。

 田窪 藤平 (たくぼ とうへい)
 文政11年~没年不詳(1828~)塩業。文政11年6月波止浜に生まれる。 13歳から23歳までは父とともに塩田労働に従事する。当時の塩田労働者は「浜子」と呼ばれて,しいたげられた存在であった。入り浜式塩田の製塩法の改良を考え,伊予,讃岐,芸備の塩田を転々と働きながら調査研究し,従来の方法に改良を加え,大三島の井ノロや宗方で塩田の指導をする。宗方流,藤平流と呼ばれるほど好評であった。しかし郷土では浜子の息子という階級意識によっていれられなかった。明治20年,広島県の松永塩田の立て直し,竹原塩田の改良もやる。明治20年,藍綬褒章を受ける。同30年鹿児島県の試験塩田の新設,同34年には農商務省塩業調査所の招きで,千葉県津田沼試験場の築営をする。竹原には藤平の記念碑がある。終焉の地は広島県忠海町といわれているが,不詳。

 田窪 八束 (たくぼ やつか)
 明治19年~昭和19年(1886~1944)神職・歌人。父は今治市吹揚神社の宮司で地方歌道の発展に貢献した田窪桜戸で明治19年に今治で生まれる。神宮皇学館を卒業し,亀岡教員養成所の教師を務め,また大阪市の国語調査員にもなった。帰郷して朝倉村飯成神社の神職を経て,今治市吹揚神社の宮司となる。幼時より,父桜戸について歌道を学び旭吟社を継承主宰し,歌誌「旭光」を発刊する。歌人協会の顧問もつとめる。昭和19年,58歳で死去。

 田坂 善四郎 (たさか ぜんしろう)
 明治9年~昭和6年(1876~1931)我が国月賦販売業の創始者。父文蔵の六男として越智郡桜井村(現今治市桜井)に明治9年8月5日生まれる。父文蔵は漆器を製造,自ら椀舟にのって九州方面で行商をする。善四郎も明治27~28年ころから椀舟に乗って行商に従事。親子二代の椀舟屋である。明治37年,父からわずかの資本を出してもらって独立,行商から転じて福岡市上土居町に「丸善」の屋号で店をかまえる。彼は10人一組となって連判する「講売式販売」という商法で人気を博寸。そこから更にすすんで20回掛けという20回払い月賦販売を創始した。この販売方式は月給生活者にとって便利なものであった。当時これは革新的商法であり,田坂が「月賦販売の創始者」と言われる所以である。また販売商品を5日~7日間ぐらい1か所に陳列・販売する出張販売方法を開拓し,佐賀,長崎,門司,下関など各地で行って評判となった。明治45年1月1日。「安全便利な月賦大売出し」とうたった広告を新聞にのせ,以後,この新聞広告を積極的に行った。田坂の丸善商店には同郷の人々が集まり,田坂商法を働きながら学びとった。田坂の片腕であった南条宗一郎,村上栄吉,大日方丈太郎,宇高音一,武田浅吉,渡部清一郎,日浅数馬らがそうである。彼らは田坂商法を身につけて,丸善を退店,独立して東京,大阪などで月賦販売業をはじめる。彼らのもとで,また同郷の人々や他県の人々が働いて革新的商法を学んで独立していく。わが国の月賦販売業のほとんどが直接,間接に田坂善四郎に結びつき,「すべては田坂に通ず」と言えよう。田坂は本来の漆器販売から呉服,織物,来,石炭などにも手を広げていく。また汽船を購入して船舶部を置いたり,住宅の月賦販売を計画するなど総合商社的な経営に向かっていった。彼の企業家としての一面をうかがい知ることができる。昭和6年8月24日55歳で死没。昭和00年桜井志島ケ原天満宮の境内に「月賦販売発祥記念の碑」が建立された。

 田坂 輝敬 (たさか てるよし)
 明治41年~昭和52年(1908~1977)実業家・新日本製鉄社長。明治41年5月27日,越智郡日吉村別宮(現今治市本町)に生まれた。今治中学校(現今治西高),松山高等学校卒業。昭和8年東京帝国大学法学部法律科卒業。野村生命,理化学興業に勤務した後,昭和17年日本製鉄入社。昭和25年,日本製鉄が八幡製鉄と冨士製鉄とに解体された時,富士製鉄側に残り昭和32年取締役,昭和37年副社長となり永野重雄の片腕として力量を発揮した。昭和39年藍綬褒章受賞。新日本製鉄合同に尽力し,昭和45年新日鉄副社長。昭和51年,石油危機後のきびしい不況の時期に社長に就任し,その手腕が期待されたが,一年も経たずに病を得て昭和52年1月18日急逝。68歳。経団連常任理事,経済同友会幹事として財界にまた,中央公害対策審議会委員など要職を歴任し「前だれ商法」を唱え,「清心寡欲」をモットーとし,国内はもとより国際的にも関係業界のまとめ役として期待されていた。囲碁を愛した。日本棋院8段,日本将棋連盟6段。

 田坂 初太郎 (たさか はつたろう)
 嘉永4年~大正10年(1851~1921)海運界の先駆者,衆議院議員。嘉永4年12月15日,越智郡下弓削村浜都(現弓削町)に生まれた。家は父祖代々島民の世話役として今治藩から特権を与えられていたが,父富五郎の代に家運が傾いた。これに発憤して明治4年19歳のとき神戸に出て,郵便汽船会社の千里丸に水夫見習として乗り組み,9年水夫長となり,14年には甲種船長免状第1号を得た。工部省の帆船千早丸などの船長を経て17年三井物産の保有船開成丸の船長になり,近海はもちろん遠くケープタウンまで航行した。ついで運送業者秋田藤十郎の下で佐渡丸船長として日本一周航路に従事した。 25年この船を購入,田坂回漕店を起こし日清戦争に便乗して大きな利益をあげた。 31年日本ペイント製造会社を設立して社長に就任,品川銀行頭取や因島船渠会社(現日立造船因島工場)・弓削商業会社などの社長も兼ね,北海道で水田200余町歩・畑180余町歩の田坂農場を経営するなど,事業家として活躍した。明治41年5月第10回衆議院議員選挙に国民党公認で出馬したが,42年2月因島船渠の船舶買収問題が刑事事件に発展したので代議士を辞した。郷里のためには明治34年の弓削海員学校(現弓削商船高等専門学校)の設立と資金援助,明治40年の小学校建設の資金援助などを行った。大正10年11月24日小田原の別荘で没し,下弓削自性寺に葬られた。 69歳。自己の精神修養をおろそかにせず,実社会において触れる体験を通して学ぶことを大切にした。また,代議士当時,四阪島製錬所による煙害問題解決に努力した。

 田中 蛙堂 (たなか あどう)
 明治9年~昭和30年(1876~1955)愛媛川柳の始祖。松山城下に生まれ,旧姓上野氏,本名七三郎。号を時雨子,時雨楼,蛙堂と称す。海南新聞の職工から,のち編集長になり,海南新聞に初めて川柳欄を設け,明治40年ごろ窪田而笑子を選者として連日その選句を発表する。また同30年,柳原極堂創刊の「ほととぎす」にも関与し,川柳のみならず俳句もよくした。松山市会議員や職業紹介所長などの公職や,伊豫史談会・子規会の幹事なども務める。松山藩士上野平之丞の子として生まれる。のち田中益の養子。5歳で父と別れ。,独学で記者となり,昭和6年退社。市議,職業紹介所長を務める。昭和30年5月26日没,79歳。

 田中  佳 (たなか あきら)
 明治40年~昭和46年(1907~1971)労働運動家。明治40年6月1日越智郡宮窪村(現宮窪町)に生まれる。昭和11年新居浜市の住友化学工業新居浜製造所の工員となる。戦後,住友化学労組の新居浜支部副組合長を経て,愛媛地評結成に尽力し,結成と同時に副会長となる。同28年から31年まで会長,同33年から37年まで副会長,議長を務める。県下の多くの労働争議に活躍し,人柄のよさとともに「田中のカーさん」と親しまれた。同26年,社会党から新居浜市会議員に当選し,同34年から連続三期市会議員を務める。一方,社会福祉の活動にも熱心で,自ら,新居浜市肢体不自由児父母の会会長をやり,「はげみの家」を開設した。新居浜労働会館理事長や,新居浜一般合同労組委員長も努めた。戦争中の中国人労働者の遺骨送還や「住友別子中国人浮虜殉難者慰霊碑」の建立にも奔走する。昭和46年11月27日死去,64歳。

 田中 一如 (たなか いちにょ)
 明和6年~弘化3年(1769~1846)幕末期の松山藩士,心学者。明和6年松山藩士田中員里の子として生まれた。名を道平,諱を利久といった。年8歳の時に失明したので,家督を弟の一命に譲り,大坂に遊学して,易筮を習得した。年25歳のころ,京都に上り明倫舎において心学の研究に没頭した。学業を終わって松山に帰り,道後に六行舎を開いて心学を講じた。その対象は,藩校に入学を許されなかった足軽・中間以下の庶民階級であって,就学者は多かった。藩主松平勝善はその経営を助成し,藩校に準ずるものとして優遇した。塾舎が狭隆となったので,小唐人町に移転した。藩士の就学するものが多くなったので,受講日を指定したほどであり,つねに六行舎にも出講し,一般庶民の教養の向上に貢献した。彼は弘化3年9月に年77歳で没し,妙清寺に葬られた。

 田中 勘兵衛 (たなか かんべえ)
 明治29年~昭和51年(1896~1976)飛行家。明治29年5月5日,伊予郡北山崎村(現伊予市)に生まれる。所沢陸軍飛行学校から陸軍士官学校へ進み,卒業後,昭和5年,川崎造船所(現川崎重工業)の飛行機部にテストパイロットとして入社,第二次世界大戦終了まで試作戦闘機の試験飛行をやり,日本におけるテストパイロットの草分け的存在であった。川崎KDA 5戦闘機(92式戦闘機)で時速320キロメートルの最高を記録したり,1万メートルの成層圏に突入して,日本新記録を打ちたてた。戦後テレビ小説にモデルとして出演したり,映画の吹き替え役として出演したりする。戦後は川崎航空機の岐阜工場につとめた。昭和51年11月10日死去,80歳。

 田中 九信 (たなか きゅうしん)
 明治17年~昭和50年(1884~1975)医師。生涯を辺地医療に尽くした。明治17年4月16日,北宇和郡三浦村(現宇和島市)で生まれた。明治41年京都府立医専卒業後,北里研究所員などを径て,大正6年朝鮮釜山府で開業,同府医師会長を務めた。この間,学費をためてスイスのベルン大学に留学した。また故郷のため昭和16年図書館建設資金を寄付,蔵書を送り続けた。 20年郷里に引き揚げ,西三浦に診療所を開設,段畑農業の重労働のため農民が下股変形と背柱湾曲異常(オー・パイン)になっているのに気付き,その治療に専念,データを集めて『百姓病オー・パイン』(県農村経済研究所刊)を著して解明した。また西三浦公民館長として「西三浦ユートピア・プラン」の論文を自費で懸賞募集するなど社会教育にも貢献した。辺地医療の父として日本医師会最高優功賞・愛媛新聞賞などを受賞した。昭和50年5月31日91歳で没し,その徳を敬慕する地域民は同地の加茂神社に胸像を建てた。

 田中 秀央 (たなか しゅうおう)
 明治19年~昭和49年(1886~1974)学者。明治19年3月2日,北宇和郡三浦村大内(現宇和島市)にて出生。旧制第三高等学校を経て東京帝国大学文科大学言語学科卒業,大正9年京都帝国大学講師,助教授を経て昭和6年教授に就任,同21年定年退官,同22年名誉教授となり,同24年から京都女子大学文学部の教授として勤務,以来49年3月まで25年間教鞭をとる。ラテン語の権威として『新羅甸文法』の名著が岩波書店から出ている。その他『英語語源漫筆古典語篇』大学書林刊がある。左右の銘として「Festina Lente」ゆっくり急げがある。昭和49年8月6日,88歳で死去。

 田中 大祐 (たなか たいゆう)
 明治5年~昭和31年(1872~1956)博物研究者。香川県観音寺市で明治5年6月11日に生まれる。明治24年(1891)より新居郡西条町(現西条市)において煙火師として煙火の製造を行うかたわら,少年時代から興味をもっていた博物研究に没頭し,特に,鉱物の採集,発見は数多く,学界に役立つものが極めて多い。それらの収集・調査はすべて私財をもって行い,しかも,その所蔵標本のほとんどすべては,県内の博物館,学校などに寄贈するなど,社会教育,学校教育に寄与した篤志家である。
 現在,西条市立郷土博物館には,氏の寄贈による貴重な資料が所蔵されているが,氏は自ら率先して所蔵品を供覧し,講演会を開催する県内移動博物館を計画実行するなど,民間の博物研究者として地方文化の向上に貢献した。西条市立郷土博物館名誉館長(1953~1956)にもなる。愛媛県教育文化賞を受賞。昭和31年12月25日死去。 84歳。

 田中 忠夫 (たなか ただお)
 明治31年~昭和53年(1898~1978)松山高等商業学校校長・愛光学園初代校長。明治31年4月13日,岡山県小田郡矢掛町に生まれ,その日に洗礼を受けた。第三高等学校を経て大正12年東京帝国大学経済学部を卒業して,松山高等商業学校教授に赴任した。昭和5~7年経済学研究のためドイツに留学,敬虔なカトリック教徒として学校内外で親しまれた。昭和9年10月,前校長渡部善次郎退任をめぐる不祥事件で学校が危機にひんした時機に教授会の一致した推薦で三代目校長に就任,初代校長加藤彰廉の人格とこれを助けた新田長次郎(温山)の意図を忠実に守ることを内外に宣言して,学校の建て直しにまい進した。松山高等商業学校を関西私学の雄といわれるまでに県内外に名声を高めたのは田中校長の識見と手腕に負うところが大きい。昭和18年松山経済専門学校に改組した後も引続き校長にとどまり,戦時中の苦難な学校経営に当たった。昭和22年2月,教員適格審査で戦時中大政翼賛会の県役員であったことが問題となり,公職追放を受けて校長を辞職した。 24年11月追放解除となり,松山商科大学教授に復帰,33年退職して同大学名誉教授になった。昭和28年,カトリック・ドミニコ修道会が松山に私立愛光学園を設立の際に初代校長に要請されて25年間在職,私学英才教育の愛光学園の名を全国に高めた。昭和53年12月1日, 80歳で没した。

 田中 虎次郎 (たなか とらじろう)
 元治元年~昭和4年(1864~1929)河野村長・地方改良功労者。元治元年8月21日風早郡善応寺村(現北条市)で生まれた。明治18年以来村役場に勤め,23年河野村助役を経て27年7月同村長に就任,大正11年4月まで多年にわたり村政を担当した。その事務は確実で周密敏速,部下の指導宜きを得,公平な村治に終始したので紛争を生じたことがなく,逐年自治の発達を見た。大正4年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。昭和4年1月25日,64歳で没した。

 田中 好賢 (たなか よしたか)
 明治8年~大正4年(1875~1915)教育者。明治8年11月8日,愛媛県租税課六等属田中好治長男として松山城下の鉄砲町(現松山市)に生まれる。雁木と号した。明治27年愛媛県松山尋常中学校卒業後川上・三津・松山各小学校訓導を歴任後,同34年3月愛媛県立松山高等女学校助教諭となり,同年10月東京高等師範学校国語・漢文科入学,同37年愛知県第一師範学校教諭に任命,翌年東京高等師範学校研究科・入学,同39年廣島高等師範学校附属中学校教諭に任命され,大正4年1月死亡まで勤務した。在職中研究に励み,蟹江博士の助手として「孔子研究」の遍述にたずさわり,『万葉時法論』・『金石文の研究』・『雁木遺稿』などの著書がある。作詞した「烈女松江の歌」,景浦稚桃と共に作詞した「伊予鉄道唱歌」・「愛媛唱歌」・「義農唱歌」・「薩摩琵琶歌烈女松江」などは広く県民に愛唱された。このほか「愛媛県立松山高等女学校校歌」・「広島高等師範学校付属中学校校歌」などを作詞した。大正4年1月5日,39歳で死去。松山市御幸1丁目龍泰寺墓地に葬る。

 田中 林斎 (たなか りんさい)
 生没年不詳 藤堂高虎が大津に在城していた慶長2年~慶長13年の時代に高虎に仕えた部将である。大津(現大洲市)の城下町をつくるのに貢献したようである。「城甲文書」によれば,慶長10年(1605)7月28日,高虎の命を受けて,大津に塩専売の塩屋町を設けたことが載せられており,すでにこの年大津で町割を始め,後の城下町の先駆をなすものと考えられる。ちなみに,高虎は慶長8年(1603)2月に今治にも町割を始めており,同13年には大洲には泊りの宿や人馬の食事を提供する場所があり,大津にはすでに城下町としての町割りがなされていたことがうかがわれる。人物の詳細については不明。

 田中朝臣 法麻呂 (たなかのあそん のりまろ)
 生没年不詳史料上確認できる最初の伊予国国司。持統天皇元年(687)正月,直広肆で遣新羅使に任ぜられ,同3年正月帰朝後,8月には伊予総領としてみえ,讃岐国三木郡で捕えた白燕を放養せしめられている。次いで同5年7月,伊予国国司として宇和郡御馬山の白銀3斤8両,あらがね一寵を献じている。つまり伊予国国司として伊予総領を兼任,伊予,讃岐両国を管轄していたわけである。
 総領は7世紀末,瀬戸内海地域の支配強化を目ざして,伊予以外にも筑紫,周防,吉備などに設置されたといわれる。その後,文武天皇3年(699)10月,越智山陵営造使に任じられたのが史料にみえる最後である。時に直大肆。

 田部直 五百依 (たべのあたえ いおより)
 養老7年~没年不詳(723~)久米郡石井郷戸主田部直足国の戸口。天平勝宝2年(750)4月造東大寺司に貢進された。 28歳の時である。当時平城京では造東大寺司を中心に造寺造仏,写経事業が盛んに行われており,畿内近国を中心に,得度や下級官人としての出仕を求めて民間の在俗者の貢進が数多く行われていた。五百依の場合もその一例であり,さしあたって優婆塞の資格を得るために必要な労を積むため,造寺司に貢進されたものとみられている。その仏教的素養は,当時の久米郡一帯が伊予国における仏教文化の中心の1つであったという環境の下で培われたものであろう。

 田宮 嘉右衛門 (たみや かえもん)
 明治8年~昭和34年(1875~1959)鈴木商店重役・神戸製鋼所育ての親。明治8年8月29日,新居郡立川山村(現新居浜市)で山村治助の四男に生まれた。小学校を卒業して明治23年住友別子銅山立川分店に勤めたが,25年大阪に出て,区役所・神戸商品取引所・住友樟脳精製所などを転々とした。 37年鈴木商店支配人金子直吉に挙用されて,樟脳製造工場・製糖工場主任を経て38年神戸製鋼所支配人に進んで会社建て直しを計り,別会社・分工場を順次増設して性能優秀な鋳鍛鋼部品や神鋼式セメント機械の製作で業績をあげた。昭和2年親会社鈴木商店の倒産で一時雌伏時代が続いたが,昭和9年社長に就任,播磨造船所・神鋼兵器工場などを傘下に置いて軍需生産に励んだが,昭和20年終戦後公職追放により社長を辞任した。解除後,神戸製鋼所顧問,神戸銀行役員・経済同友会名言会員などにあげられた。昭和34年4月13日83歳で没した。墓所は新居浜市の端応寺と芦尾市の三条墓地にある。神戸市葺合区脇浜町の「田宮記念館」には多くの資料が公開されている。

 田向 十右衛門 (たむけ じゅうえもん)
 生没年不詳 大坂の住友吉左衛門の支配人。住友は泉屋の商号で知られた銅商・銅山師で,元禄3年に備中の吉岡銅山で稼行していた。旧向十右衛門は稼行がはかばかしくなくて頭を悩ましていた矢先,図らずも阿波生まれの長兵衛という廻切夫から予州の幕府領宇摩郡別子山村の足谷山中にすばらしい大鉱脈があるとのしらせをうけた。十右衛門は手代の助七という老巧な配下の人達と共に長兵衛に会って仔細に聴いてみるとかなり信用のおける話のように思われた。十右衛門自身が手代・坑夫頭と案内役をつれて備後の輛の津から川之江に渡り,足谷山に入って銅鉱の露頭を尋ねあてた。その後,十右衛門は住友家に報告し,川之江代官に採鉱出願手続をとり,いよいよ開坑の運びとなった。このように別子開坑の現場の万端の指揮をとり,自らは吉岡銅山を離れることができず,別子が大丈夫と見定めて一切の業務を手代の杉本助七に引き渡して吉岡に帰った。

 田村 昌八郎 (たむら しょうはちろう)
 嘉永7年~昭和3年(1854~1928)果樹園芸功労者。興居島村リンゴ栽培の先駆者である。嘉永7年8月16日和気郡興居島村由良(現松山市由良町)に生まれる。明治16年愛媛県勧業課より,リンゴ苗数種を興居島村に配布,これを田村昌八郎等が試作した。その後明治23年東北地方を視察し,リンゴ栽培法を研究帰省した。翌24年東京・岩手・青森などよりリンゴの苗木(31種を比較研究)を導入栽培をはじめた。明治29年にも,リンゴの本場弘前(菊地後凋園)を訪ねて3日間研究した。興居島は,明治30年代には暖地リンゴの特産地として有名となったが,その中心的役割りを果たした。明治26年から42年にわたる果樹経営状況を詳細に記録した「田村特耕園日記]は,貴重なものとされている。それによると晴耕園のリンゴは,明治24年209本,25年546本, 26年981本,27年1,269本になったことが記録されている。明治32年同業者により「興居島果樹協会」を組織して会長となった。明治43年伊沢知事より果樹功労者として表彰され,その功労者総代として答辞を述べている。昭和3年7月31日,73歳で死去。

 田村 只八(十代) (たむら ただはち)
 明治13年~昭和20年(1880~1945)漆器功労者。田村家は代々新屋の屋号をもつ商家として栄え,越智郡桜井村が明和年間に松山領から天領になったころより廻船問屋として活躍し,文政以後椀船に転換し,更に明治以後漆器製造卸問屋として繁栄している。十代只八は先代只八,先々代只八のあとを受け一段と充実した経営をするとともに伊予桜井漆器工業のため率先努力を傾け斯業の隆昌発展に寄与すること大であった。即ち先代只八は桜井漆器の品質向上のため蒔絵技法の導入にも貢献し,又明治9年(1876)能登輪島より沈金師高浜儀太郎を招聘し,桜井漆器に沈金模様を導入した。高浜は来桜後自己の持つ優れた技法を各種漆器に表現し,桜井漆器の質の向上に貢献すると共に沈金師の養成にも力を尽くした。こうした先代の後をうけ,先代を乗り越え活躍を続けたのである。
 大正5年(1916)当時最高の売れ行きをあげていた丸物(木皿,吸物椀)の品質が問題視されたのをいち早く察知した彼は桜井漆器業組合に品質の向上と改良を図るべく率先業者をリードし,組合内に丸物部を結成しこれが目的達成に尽力した。大正11年桜井漆器業組合が発展的に解消し,桜井漆器同業組合となるや二代組合長として不況情勢に対応し漆器工業の衰退に歯止をかけるべく必死で取り組み,その一貫として桜井漆器の販路拡大を国外に求め同業者の中心となり輸出向け丸盆類を製造し,大阪商人田中宗兵衛らの手を経て清国に輸出し業界の発展を図った。このように彼は経済界の動向を常にキャッチし家内漆器工業の進むべき道を模索し方向性を与える先導者の役割を果して来たのである。ところがまだ多くの仕事をかかえこれからというとき病魔の侵すところとなり,業界から惜しまれながらこの世を去った。 65歳であった。時に昭和20年6月8日,「恭謙院慈本秀圃居士」として浜桜井墓地に葬られる。

 多々羅 杏隠 (たたら きょういん)
 文化10年~明治23年(1813~1890)医師・江戸末期の種痘医。周布郡三津屋村(現東予市)で生まれた。名を正誠,字を良碩という。幼時から学問を好み・小松藩儒近藤篤山について漢学を学び,のち大坂に出て医学を修業した。弘化3年宇和郡三瓶本町で医業の門を開いた。庄屋宇都宮重右衛門はその人柄を敬慕して後援者となり,医業のかたわら漢学の私塾を開かせた。伊達宗城はその才を惜しんで藩に招こうとしたが,町医で終わることを望んで辞退した。弘化年間村人を説得して種痘を行い,その先駆者としても知られる。恬淡無欲で清貧の中に詩文を作り,画筆に長じ,中でも和歌・狂歌にすぐれた作品を残している。晩年請われるままに北宇和郡三浦村(現宇和島市)の村医になり,辺地医療に尽くした。明治23年11月4日77歳で没し,西宇和郡三瓶村朝立の高台に葬られた。

 多田 不二 (ただ ふじ)
 明治26年~昭和43年(1893~1968)詩人。茨城県結城市に,明治26年12月15日に生まれる。第四高等学校から東京帝国大学心理学科を卒業。時事新報学芸記者やNHKの教養部長を務め,松山放送局長にもなる。その後NHKの理事で退職。退職後,愛媛県観光連盟の創設に参画して理事長,専務理事となる。著書には『心理学と児童心理』『観光の愛媛』などがある。松山放送局長時代のつながりで,愛媛に在住し,愛媛の観光に多くの功績がある。詩人として,「卓上噴水」「感情」の同人となり,「帆船」「馬車」を主宰する。訳詩集には『リヒト・デーメル詩集』がある。不二の詩は優美繊細な感覚を観念的に象徴化するもので,彼の詩集には『悩める森林』『夜の一部』等がある。昭和43年12月17日,75歳で死去。

 高市  茂 (たかいち しげる)
 明治25年~昭和46年(1892~1971)移民功労者。アルゼンチンに移住して活躍。明治25年8月30日温泉郡荏原村(現松山市荏原)に生まれる。明治44年県立農学校卒業,大正元年東京高等農学校農芸化学分析講習所卒業,同3年文部省農業教員検定試験に首席合格,母校松山農学校教諭に就任。同5年10月7日アルゼンチン視察のため渡航,ブエノスアイレスの市立植物園の園芸係に採用された。同8年花弁園を経営,邦人花卉園芸の草分となった。その後園を増設,同14年には邦人最初にして最大(5万粒)のシクラメン栽培者となり,昭和3年蘭栽培にも手を染め,温室総面積5,000㎡に発展。一方では,社会公共事業にも尽力,在亜農業研究会長,在亜日本人花卉組合連合会長,亜国花弁産業組合長,在亜日本人会長,日本戦争罹災者救恤委員長等を歴任。同14年日本教育会会長,同15年松岡外務大臣,秋田拓務大臣,日本産業協会伏見宮博恭王殿下等より表彰された。同41年春勲五等瑞宝章を贈られ,同42年5月16日には訪亜中の皇太子殿下同妃殿下の高市園訪問の栄に浴した。昭和46年1月10日,78歳で没した。

 高市 次郎 (たかいち じろう)
 明治9年~昭和32年(1876~1957)教育者。温泉郡小野村(現松山市)に生まれ,明治30年愛媛県師範学校卒業。同33年から新居浜の住友経営の私立惣開小学校訓導,同38年,素鵞尋常小学校(松山市)訓導兼校長となる。同39年,退職して上京,神田区立橋本小学校に上席訓導として奉職40年,麹町区飯円町で白丸屋を個人で開店。後に九段へ移り,「フレーベル館」と称し,幼稚園用恩物,材料等,学校用品類の販売に当たる。大正9年,株式会社フレーベル館を設立し,社長となって,玩具,遊具の考案発売に力をいれ,特に「観察絵本キンダーブック」を発刊し,幼児教育に大きく貢献する。昭和12年社長を辞任し,高市慶雄にゆずって自適の生活に入る。昭和31年,全国児童福祉大会で,厚生大臣賞を受け昭和32年,81歳で死去。

 高市 盛之助 (たかいち もりのすけ)
 明治26年~昭和42年(1893~1967)新聞人。新聞「大衆時代」を発行。明治26年12月26日,風早郡五明村菅沢(現松山市)で生まれた。松山高等小学校を卒業して,明治44年海南新聞社に校正係として入社,やがて記者として活動した。のち,愛媛新報社に転じて編集主幹を務めたが,14年解雇された。同年大衆新聞社を起こして旬刊新聞「大衆時代」を発刊,無産者側の立場に立ち,しばしば発行停止を受けながら180号まで続け,労働者・農民を励まし,部落解放運動を支援した。昭和42年6月14日,73歳で没した。

 高市(武智)俊教(則) (たかいち・たけち としのり)
 生没年不詳 平安時代末期の武士。高市氏は,新居氏と同族の越智氏の一族で,越智郡高市郷を本拠として発展した。高市氏の中には近江・御谷・吾川を名乗る者や,石井・井門・浅生を名乗る者が出てきており,伊予郡や浮穴郡へ進出していった者もあったようである。
 『予章記』によると,俊教(則)は元暦2年(1185)平氏方として,伊予郡鴛小山に河野通信と戦って敗れたとされる。高市氏は一族の多くが平氏方として戦ったことが『平家物語』や『予章記』により窺われるが,俊教は,「与州新居系図」に「太上入道清盛烏帽子子」の注記を有して平家の有力家人の一人であったと考えられる盛義の兄俊義と同一人物であると考えられる。

 高尾 謙次郎 (たかお けんじろう)
 明治6年~昭和30年(1873~1955)金生村長。宇摩郡下分村(現川之江市)で生まれた。明治25年金生村役場書記になり,明治32年~大正2年助役を務め,大正2年~昭和15年金生村長に連続して就任した。その間,自作農創設事業,山林保護育成,飼谷池改修事業など村政に尽くした。また大正13年9月銅山川疏水事業推進のため町村組合を設立して事業実現に貢献した。昭和15年村政功労者として銅像が建てられた。昭和30年4月30日,82歳で没した。

 高門 嘉夫留 (たかかど かおる)
 昭和4年~昭和62年(1929~1987)果樹農業指導者・県議会議員。昭和4年1月1日,西宇和郡伊方村川永田(現伊方町)で生まれた。昭和21年松山農業学校を卒業した。 31年伊方町農業協同組合長,45年西宇和郡青果農業協同組合長を経て,52年1月県青果農業協同組合連合会長に就任した。温州ミカンの過剰に対応して適地適作を基本とする品種改良,生産流通施設の総合整備,果樹製品輪出の振興などに尽力,オレンジ果樹輸入自由化・枠拡大阻止運動で陣頭に立った。 53年から日本果汁農協連会長,60年5月から日本園芸談協連会長の要職に就き,全国果樹農業界のリーダーとして活躍した。昭和46年4月以来県議会議員になり4期連続して在職した。政界・農業界の次代を担うニューリーダーとして嘱望されながら,昭和62年2月6日,58歳で没した。

 高木 秀雄 (たかぎ ひでお)
 明治28年~昭和56年(1895~1981)社会福祉事業家。明治28年3月23日北宇和郡丸穂村(現宇和島市)野川で,高本行正・ツルオの長男として出生,父(明治15年~同17年,愛媛県会議員)が政治運動に挺身して家財を費し,明治37年ころ一家は松山市に転居した。大正3年(1914),県立松山中学校卒業後,松山税務署に勤務したが,大正6年には台湾総督府属となり,後に台湾の新竹郡・虎尾郡の郡長や屏東市長を務め,昭和14年(1939)行政官を辞し,台湾拓殖㈱参事・海南拓殖㈱常務を務めた後,昭和21年裸一貫で松山に引き揚げた。
 内地引揚げ後,焦土と化した日本で,世のため,人のために半世を捧げることを決意,社会奉仕の精神に燃え,愛媛県社会福祉協議会(県社協)の前身である愛媛県社会事業団の創設に奔走,戦後における愛媛県の社会福祉事業の基礎は,彼によって築かれた。すなわち,県引揚者更生会理事長・県社会事業団理事・県社協理事・県共同募金会評議員などを歴任し,愛媛社会事業館や愛媛母子館の建設に尽力,また県下の民生委員活動を促進するため,県当局と協力してその指導研修に努め,県社協を名実ともに本県民間社会福祉事業の中心的存在たらしめた。このほか,老人福祉・心身障害者福祉にも力を注ぎ,昭和33年の県老人クラブ連合会の結成を推進,同36年には日野博行とともに松山市に精神薄弱児の施設日野学園を創設した。
 昭和51年4月,甥(養子)の住む東京都へ転居,同53年には『私の八十年』と題する一代記を出版,同56年5月30日,墓参に帰県し松山で没した。86歳。墓所は東京都港区白金の立行寺。

 高倉  要 (たかくら かなめ)
 安政6年~昭和19年(1859~1944)中之庄村長。銅山川疎水に尽力した。安政6年1月三島神社社家に生まれた。神職になったが,のちこれを辞し,宇摩郡金砂・富郷・別子山各村の戸長を拝命した。明治23年町村制施行とともに初代中之庄村長に就任,26年まで在任,ついで新居郡神郷村長・三島町助役などを歴任した。明治40年1月,三島町長・中之庄村長・金砂村長らを促し銅山川疎水を計画,大正4年銅山川分水を知事に出願,9年銅山川疎水期成同盟会の結成を提案するなど,疎水実現に奔走した。昭和19年10月85歳で没した。

 高志 大了 (たかし だいりょう)
 天保5年~明治31年(1834~1898)新義真言宗大本山根来寺座主。天保5年7月11日温泉郡高岡村(現松山市高岡町)に生まれる。俗姓河合氏,幼名相次郎。諱は章範,初め智盛ついで大了と号した。高志姓は後の自称である。14歳で興居島弘正寺,16歳で麻生理正院に入門,18歳で大和長谷寺で修学する。20歳で業を終えると,奈良新薬師寺を経て帰郷,明治8年石手寺第37世になり,在任8か年の間寺務を院代にまかせて大教院教導職に出仕。やがて東京護国寺第44世,その後長谷寺,京都東寺に歴任の間大僧正,真言宗長者になり,護国寺に帰山して根来寺座主を兼任した。のち護国寺に隠棲中発病,療養中の那須温泉で明治31年8月25日没した。 64歳。著作に『野根教相和会論』『因明入正理論講義』がある。

 高須 直市 (たかす なおいち)
 明治12年~昭和7年(1879~1932)実業家。越智郡橘村(現今治市)の豪士高須又市の長男として,明治12年8月に生まれる。高須家は今治藩の藩士であったが祖父の代に郷土となって橘村に住んだ。父は蒲柳の質で20歳になったとき隠居したので家督をついだ。今治の阿部合名会社の社員となり,明治39年までの9年間,綿織物に関する経験と素養を積む。同年資本金10万円で今治織物合名会社を創立し,若干28歳で,鉄織機120台と250数名の職工を有する会社の代表者となり,華々しく工業界に乗り出したのである。明治43年には,かねて2~3の人々と匿名組合組織で精米業をやっていたが,放漫経営で大負債を負うに至り,今治綿織物会社をやめ,精米業の建てなおしを図って努力したが破産のうき目に会った。妻子と別れ単身大阪に出て,藤本合資会社に入り,一から出なおしをはじめ,ついに支配人となり,釜山の支店に務める。この時から朝鮮米の有望なのに着眼して,大正9年福島合名会社を設置し,米界の猛者となった。昭和7年9月23日,53歳で死去。

 高須 峯造 (たかす みねぞう)
 安政5年~昭和9年(1858~1934)弁護士,県会議員・衆議院議員・愛媛新報社長,民権運動で政治に目覚め,普選運動の中心に立ち,学生運動・無産運動にも理解を示した時代の先覚者であった。安政5年3月25日,越智郡近見村(現今治市)で高須吉一郎の四男に生まれた。農業手伝いの傍ら漢学塾に学び,明治11年21歳の時大阪の難波学舎に入学,ついで12年慶応義塾で経済・政治学を修めて15年帰郷。16年越智郡選出議員欠員に伴う繰り上げ当選で26歳の若さで県会に列し,17年と21年の選挙で連続当選,才気活発な論客として頭角を現した。代言人仲間の藤野政高と親交を持ったが,鈴木重遠帰県後藤野らが松山士族中心の党派を組織するに及び不快を抱き,小林信近・井上要らと提携して改進党の組織づくりに奔走した。 23年井上と共同で法律事務所を開業,以来終生の交わりを続けた。明治23年7月の第1回衆議院議員選挙に出馬して落選したが,25年2月の第2回衆院選挙で第2区から当選した。しかし27年3月と8月の選挙ではいずれも落選したため,井上に後事を託して政界の第一線を退いた。その後,代言人を営む傍ら「愛媛新報」の編集に従事,37年社長になり,社会問題の記事を掲載するなど紙面の刷新に努めた。大正2年12月立憲同志会が結成されるとこれに共鳴して愛媛支部長となり,同志会が憲政会に発展した後も引き続き支部長を務めた。この間,愛媛鉄道会社・松山瓦斯会社・久万索道会社の社長を歴任したが,会社経営難と相いまって経済活動は失敗の連続であった。大正7年還暦を機会に弁護士を廃業し,憲政会愛媛支部長・愛媛新報社長も辞職した。このころから普通選挙運動に従事し,8年に知識人・言論人・労働団体と呼応して愛媛県普通選挙期成同盟会を結成,〝普選博士〟と異名をとる本県出身の今井嘉幸を招いて普選促進演説会を開催,9年5月の衆議院議員選挙に普選派候補押川方義を擁立して大方の予想を覆して当選させるなどの成果をあげた。 10年10月には普選運動の宣伝機関として「四国毎日新聞」を発刊したが3か月で廃刊。一時武藤山治の実業同志会支部長を務め同会から推されて衆議院議員選挙に立候補落選した。その後,社会主義運動に関心を示し,大正15年の松山高等学校ストライキ事件で学生を支援し,昭和3年の普通選挙では私財を投じて無産政党の小岩井浄を応援した。このため官憲の監視下に置かれ,家計にも窮して居宅も手離した。3年8月住み馴れた松山を去り長男の住む神戸に移った。昭和9年5月14日横浜市鶴見の寓居で76歳で没した。親友水野広徳は「時代に容れざるは先覚者の誇りである。彼れ,生きて思想に老ひず,死して後世に生く。敢て〝古稀の新人〟と呼ぶ」と評した。

 高須賀 穣 (たかすか ゆづる)
 元治2年~昭和15年(1865~1940)衆議院議員,のちオーストラリアに渡り米作りに成功した。元治2年2月13日,温泉郡藤原村(現松山市)に生まれ,高須賀家の養子になった。明治18年愛媛県師範学校を卒業して1年有半小学校に奉職したが,20年1月慶応義塾理財科に入り,26年2月アメリカに留学,デボー大学・ウェストミンスター大学に学んだ。 29年6月米国文学士の学位を受け,欧米諸国とインドなどを漫遊して帰国した。明治31年3月自由党から推されて第5回衆議院議員選挙に第1区から立ち当選,31年8月の衆議院議員選挙でも再選されたが,35年8月の選挙では大選挙区制の下での運動のわずらわしさを嫌い出馬しなかった。 38年3月オーストラリアで貿易に従事するため妻と2人の子を連れて故国を離れ,メルボルンで貿易会社を興すかたわらストット・ビジネス単科大学で日本語を教えた。 39年メルボルンから200キロメートル離れたスワンビルに移り川沿いの荒地を開拓して米の栽培を始め,苦難に遭遇しながら45年日本から取り寄せた25種の稲のうち3種の収穫に成功,その銘柄に父の名をとって「カヘイ」と名付けた。その後も洪水・干ばつなどにはばまれて米作栽培思うにまかせず,昭和9年ベンディゴ地域でのトマト栽培に切りかえた。一時帰国中の昭和15年2月15日75歳で没した。長男昇がその遺志を継いでトマト栽培を同地方の代表的産業に発展させて36年オーストラリア国籍を与えられ,41年ハントリ郡の郡長に選ばれた。今日オーストラリアでは米は重要な輸出産業に育ち,「ミスター・タカスガは,オーストラリアで初めてライスを作った歴史上の人物だ」として,その顕彰碑が建立された。

 高田 熊良 (たかだ くまよし)
 大正5年~昭和55年(1916~1980)畜産功労者。大正5年1月3日北宇和郡広見町大字北川に生まれ,北宇和地方における酪農の先覚者であって,模範的酪農径営者であり,また地域のよき指導者でもあった。彼は昭和8年より耕種農業に従事し,終戦の痛手で国民が茫然自失の状態にあるとき,後進性の強い地域農村の開発復興には酪農振興は必須の課題であるとして,率先酪農経営を志し先進地の視察など研究を重ね,自信を得て地域の有志を募って乳牛の共同導入を行って酪農経営をスタートした。その後関係農家とのよき相談相手となり,また研究会を作るなど,技術の向上,経営の合理化,優良系統牛の導入保留,自給飼料の確保に重点を注ぎ,確固たる基盤が構築されたので,更に施設の革新を目指して公社牧場(5戸)を建設し,あるいは後継者育成に意を用いて選択的発展への恩人とも言われる人となった。その後地元農協の監事理事専務を務めるほか,町会議員農業委員,PTA会長など畜産以外での幅広い活動も高く評価されており,県畜産功労者表彰をはじめ,多くの賞状を受けたが,惜しむらくは65歳を待たずして昭和55年6月2日急逝した。

 高田 春男 (たかだ はるお)
 明治13年~昭和45年(1880~1970)泉村長・県会議員。明治13年11月20日北宇和郡興野々村(現広見町)で高田伊十郎の長男に生まれた。大正4年9月~6年5月県会議員に在職した。昭和8年11月~12年11月泉村長を務め,自作農創設や省営バス乗り入れに尽力した。昭和45年1月8日,89歳で没した。

 高月 虹器 (たかつき こうき)
 宝暦3年~文政8年(1753~1825)俳人。吉田の高月家(法華津屋・三引)九代目の主人。名は古右衛門。芙月斎。滄浪亭・丈頭斎等とも号す。書,画,生花にも造詣が深く,生花はとくにすぐれて吉田千家を起した。文化9年華甲(還暦60歳)記念として『虹器年賀集』を出版した。伊予のみならず江戸,大阪,京都,近江,出雲などの知人から寄せられた詩歌俳諧に,みすがらの文章,画(生花の画)を載せて,豪華な賀集となっている。版木も自分で彫り刷ったものだという(出版は翌年)。高月家は古くからの吉田藩の御用商人で,その富にまかせて高い文化教養を身につけた文人が多く出た。虹器の曽祖父俳号狸兄も淡々流の俳人として知られる。その一族叶高月家長徳も和歌漢詩にすぐれ,本間游清らと親交があった。

 高内 親昌(又七) (たかない ちかまさ)
 寛文ころ~延宝元禄ころ(17世紀の後半)松山藩士で農政改革家。若年の時,松平三代城主定長から特にその事績を表彰された。このころ藩領内では,延宝3年(1675)年の飢饉,翌4年の洪水,同6年の大風があり,民家1,800軒が破壊された。四代城主定直は藩財政の窮状を打解するため,目付の彼を奉行に抜擢して,藩政の再建に当たらせた。彼は藩の歳入の確保をはかる目的から従来の検見取をやめ,定免制に復帰する方針をたてた。かつて藩では寛文年度に定免制を実施した経験があったが,歳入をはかることに全力を注いだために失敗し,検見取に復帰していた。彼は寛文年度の場合を綿密に調査し,農民の負担の均衡による下層農民層の救済と,彼らの生産意欲の向上による増産を期待した。彼は定免制を成功させる方便として,土地割換制を採用した。その全貌を詳述したのが,翌7年(1679)に布達した「新令25条」である。そのなかで,彼は検見法による藩吏接待の冗費,農繁期における農民の失費を力説するとともに,贈賄および藩吏の廻郷を厳禁した。さらに天災の場合は,検見取の非常措置をとる旨を明言した。また荒廃地の再開発,貯水池の構築等の積極策を励行した。19年にわたる農政改革は成功し,毎年10万俵余の借財を弁済できた。この政策は松山藩領で以来長く実施された。

 高野 金重 (たかの かねしげ)
 明治3年~昭和7年(1870~1932)弁護士,衆議院議員。明治3年12月松山で生まれた。 19年広島英学校に入り23年帰郷,松山市の吏員となったが,25年再び広島に行って「芸備日々新聞」の記者を務めた。 27年上京して英吉利法律学校(現中央大学)に入学,31年弁護士試験に合格して,花井卓蔵法律事務所に属した。明治45年5月の第11回衆議院議員選挙に際し松山市区選出の代議士加藤恒忠が再出馬辞退を伝えたので,急きょ知己の井上要らに懇請されて立候補,中立を標ぼうして政友会系の八東可海を破り当選した。大正4年3月の第12回衆議院議員選挙でも柳原正之(極堂)に勝って再選されたが,6年4月の第13回選挙では尾崎敬義に敗れた。以後,東京で弁護士業に専念して日本弁護士協会理事などを務めた。昭和7年4月4日,61歳で没した。

 高野 幸治 (たかの こうじ)
 天明5年~明治6年(1785~1873)畜産功労者。上浮穴郡久万町上野尻に生まれる。資性快活で頭脳明晰,公共心に富み商才にたけていたという。12歳の時,博労(現在の家畜商)白石新七について牛馬の良否の見方や売買の要領を習い,翌年13歳で独立営業を始めた。当時,牛は牛肉の需要も少なく,専ら農耕用として飼育され,運搬用としては馬が多く,その売買も農家の庭先取引で手数や冗費も多かったので氏は集合売買を計画し,秋祭りを定期日として馬市を開いたのが野尻市の始まりとなった。開設時の誠意あふれる世話方今適当な馬が求め易い等から非常に評判がよくて「幸治市」とも呼ばれたという。その後牛馬資源が増大するにつれて野尻市は繁昌し,特に年2回の野上げ大市(6月12日13日,10月30日31日)は県内はじめ高知,九州からも売買客が馳せ参じて日延べをする大賑わいを呈し,地域ぐるみの一大行事として関心を呼んでいたという。こうして氏は野尻家畜市場の開祖として尊敬されている。没後同じ野尻の人,高泉勝三郎が後をつぎ,上浮穴郡畜産組合も大正2年発足し,市場の拡充を機に大正13年6月15日上浮穴郡畜産組合,上浮穴郡牛馬商組会,野尻家畜市場後援会が建設発企者となって,氏の功績をたたえる頌徳碑を野尻家畜市場内の中央に位置して建立した。明治6年5月13日, 88歳の生涯を閉じた。

 高野 島太郎 (たかの しまたろう)
 文久3年~昭和18年(1863~1943)地方自治功労者。文久3年10月7日喜多郡五十崎町大字古田の高野平八郎の長男に生まれる。家業は晒蝋業であった。幼にして俊敏,学を好み,17歳で五十崎小学校の訓導に採用された記録がある。明治31年に五十崎村の三代目の村長に就任,以後32年間にわたり,村政発展に尽力した。その間一期県会議員に当選している。
 彼の尽力したのは児童に愛林思想を涵氏し,藤本松太郎・山本松衛・山本卯太郎らの協力を得て,神南山の村有林300haに松杉扁柏などを植林し,労力は古田地区の人々の奉仕によったことである。また避病舎の改築・矢ヶ谷線の道路・消防組の設置・坊屋敷坂石線の道路計画・小学校の改築・下水道の設置・役場の移転・耕地整理など多方面に貢献した。
 昭和18年12月18日80歳で死去,地方自治功労者として勲六等瑞宝章を授与された。昭和28年10月1日町民により,翁の胸像が役場の一隅に建立され,後に今の五十崎町中央公民館の庭に移された。

 高野 長英 (たかの ちょうえい)
 文化元年~嘉永3年(1804~1850)江戸時代後期の蘭学者。文化元年5月5日,陸奥国水沢の後藤実慶の子として生まれ,母方の伯父高野玄斎の嗣となった。名を譲といい,青年時代は卿斎,後に長英と称した。瑞皐,驚夢山人,幻夢山人と号した。杉田玄白門下であった養父玄斎から蘭学を学び,文政3年江戸に出て,杉田伯元,吉田長淑について蘭方内科を修めた。文政8年長崎に赴き,鳴滝塾に入門,シーボルトの指導をうけた。文政11年のシーボルト事件後は江戸に帰って医を開業し,天保4年ころから渡辺華山,小関三英らと親交を結んで尚歯会を結成した。天保9年。長英が『夢物語』,華山が『慎機論』を著して幕府の対外政策を批判したことから,翌年,いわゆる蛮社の獄によって捕えられ,長英は永牢の判決をうけた。しかし,弘化元年,出火に乗じて脱獄し,嘉永元年,宇和島藩に匿われることとなった。すなわち,彼は,羽州浪人伊東瑞渓と称して宇和島に潜み,藩士への蘭学教授のかたから,『知彼一助』『三兵多古知幾』『砲家必読』などの兵書の翻訳にあたった。また,御荘砲台(城辺町久良)の設計,築造にも従事した。宇和島滞往9か月の後,翌2年,広島を経て鹿児島に入り,島津斎彬の保護のもとに『兵制全書』を翻訳,さらに伊予国卯之町在住の蘭学者で,ともにシーボルトの門に学んだ二宮敬作を訪れて滞在の後,江戸に帰った。江戸においては薬品で顔面を焼いて人相を変え,沢三伯と名乗って医業と翻訳に精進していたが,嘉永3年10月30日,捕吏に襲われて自殺した。享年46歳であった。

 高橋 一洵 (たかはし いちじゅん)
 明治32年~昭和33年(1899~1958)教育者,俳人。明治32年4月1日松山市に生まれる。本名は始。早稲田大学政治経済学部を卒業し,松山高等商業学校ついで松山商科大学に勤め,フランス語,政治学を教える。印度哲学の研究では全国にその名を知られていた。俳句も一洵と称し,自由律俳人で層雲同人となり,種田山頭火と親交があり,晩年は山頭火の面倒を最後までみた。昭和33年1月26日死去,58歳。松山市御幸町長建寺に句碑がある。墓は松山市千秋寺にある。

 高橋 英吉 (たかはし えいきち)
 明治31年~昭和56年(1898~1981)弁護士,県会議員・衆議院議員。明治31年1月15日,西宇和郡八幡浜大黒町(現八幡浜市)に生まれた。経済的に恵まれず,44年13歳で大阪の平井呉服店に丁稚奉公したが,1年後に上京。弁護士を志して大洲出身の尾中勝也法律事務所で書生をしながら日本大学法科に入り苦学した。大正9年23歳で弁護士試験に合格, 11年帰郷して八幡浜で法律事務所を開業した。 14年町会議員となり以来市会議員・議長と任を重ね,憲政会一民政党に所属して選挙運動や町政に関与した。昭和8年12月補欠選挙で県会議員になったが,八幡浜町長浦中友治郎の疑獄事件に連座して10年9月の任期満了と共に県政界から退いた。以後,弁護士を専業とするかたわら鉱山事業を手伝い,武知勇記の要請で愛媛新報社長に就任したりした。政界の野望絶ち難く,昭和17年4月の第21回衆議院議員選挙に立ったが落選した。戦後,昭和21年4月の第22回衆議院議員選挙に自由党公認で再出馬して初当選,念願の代議士になった。21年11月佐々木長治らを誘って八幡浜で愛媛民主党を結成,これが発展して県政界保守派の統一団体となった。 22年4月の第23回衆議院議員選挙でも第3区で再選され,以後,47年12月の第33回衆議院議員選挙で落選引退するまで9回当選を果たした。国会では法務委員長など法務畑で活躍,自由党支部長・自民党県連会長を歴任して県政界に寄与した。勲一等瑞宝章を受章し,48年には県功労賞に選ばれた。昭和56年5月14日,83歳で没した。

 高橋 作一郎 (たかはし さくいちろう)
 明治20年~昭和51年(1887~1976)実業家。明治20年2月17日北宇和郡小松村(現広見町)で松本伸治の四男に生まれ,延川の高橋家の養子になる。郵便配達,西条警察署巡査などをしながら独学,44年上京して日本大学法科(夜間)に学ぶ。卒業後再び警察官となり大正15年39歳で松山警察署長に就任。昭和2年警察界を去り宇和支庁長となり,同5年から8年まで宇和島市長を務め,次いで10年西条町長に迎えられ,倉敷レーヨンの誘致に成功するなど東予工業地帯の発展に力を尽くした。 16年の市制施行により初代西条市長として18年間にわたり地方自治行政に貢献した。この間昭和10年に南豫無尽の取締役となり金融界とのつながりをも,21年に愛媛無尽取締役会長,23年に社長となり,26年愛媛相互銀行移行後も社長・会長として同行発展の基礎を築いた。愛媛選挙管理委員会委員長などの要職を歴任した。高い識見と優れた先見性で功績をあげた。昭和36年黄綬褒章,昭和43年県功労賞など数々の賞を受けた。昭和51年5月6日,89歳を以て没した。

 高橋 茂樹 (たかはし しげき)
 嘉永6年~昭和10年(1853~1935)歌人。越智郡日高村(現今治市)の人で,神職の家に生まれ,幼時より学問を好み,今治の半井梧菴についで和漢の学,和歌,文章,書道に秀でていた。明治2年,大須伎神社の神主を世襲し,神社の経営につとめること数十年,この間,後進子弟の指導に力を尽くし,国学歌道の振興を図り,地方の精神文化に大きな影響を与えた。昭和10年6月14日,82歳で没した。

 高橋 周桑 (たかはし しゅうそう)
 明治33年~昭和39年(1900~1964)画人。明治33年12月23日,周桑郡庄内村(現東予市)旦之上に生まれる。本名は千恵松。9歳の時父の事業の失敗で家産を失い,一家を挙げて九州佐賀に移住する。小学校卒業後は,陶石の採掘,旅館の番頭,菜園の手伝いと仕事を次々と変えながら一家を支える。炭鉱での過酷な日々を送っていた18歳の時,速水御舟の絵に接して感激し,絵を描きはじめる。当時院展の最尖鋭作家であった御舟に弟子入りを乞う手紙を書き続け,入門を許される。大正10年21歳の時,師の命名で出身地にちなんで周桑と号す。御舟に随伴して武蔵野野火止の平林寺に仮寓し,制作と修業につとめるなど,師の殊遇を受けながら写生を学ぶ。昭和3年第15回院展に「春閑」を出品し初人選を果たす。昭和5年の「秋草」で院賞を受け院友となり,その後「銀座」「競馬」など,斬新で近代的な感覚の作品を次々と発表,注目を集める。しかし昭和10年速水御舟が40歳の若さで急逝し,師一筋に生きてきた周桑に大きな試練の時がくる。苦境をのりこえ院展出品,同時に「九皐会」や「丹光会」の新鋭作家グループに加わり,精力的に制作に打ちこむ。昭和22年の院展に出品した「陳列室」は,その重厚な作柄が激賞され,同人が約束されるが,院展を振り切って日本画界革新のため「創造美術」を結成する。その理論的指導者として,毎回斬新な作品を発表。画業も名実共に花開かんとする時病のため昭和39年2月27日,63歳で没した。

 高橋 新吉 (たかはし しんきち)
 明治34年~昭和62年(1901~1987)詩人。明治34年1月28日,西宇和郡伊方町に生まれる。父は当時,伊方尋常高等小学校長。6歳の時,八幡浜に移り,大正2年,松柏小学校を卒業し,八幡浜商業学校に入学。同7年,上京し卒業間際に退校。同9年,「万朝報」の懸賞短編小説に「焔をかかぐ」が当選。8月,ダダイズムについての新聞記事を読み衝撃を受ける。同10年,金山出石寺の小僧になるが退山。『まくはうり詩集』DA1を刊行。同11年10月の「改造」に「ダダの詩三つ」を発表。翌12年『ダダイスト新吉の詩』を出版。言語の脈絡を破壊する強烈な詩精神は,詩壇の注目を集めた。新吉のダダイズムは,第一次大戦後,ヨーロッパに起こった前衛芸術運動に触発されたものだが,根本的には,禅に通じる虚無思想に発するものといわれる。以後,『祇園祭り』(大正15年), 『高橋新吉詩集』(昭和3年),『戯言集』(同9年),『新吉詩抄』(同11年),『父母』(同18年)などの詩集を刊行。戦後も,『高橋新吉の詩』(同24年), 『胴体』(同31年),『鯛』(同37年),『雀』(同41年),英訳詩集『残像』(同46年)を刊行。『定本高橋新古全詩集』(同47年)で芸術選奨文部大臣賞を受賞。同57年には『高橋新吉全集』全四巻が刊行された。一方,小説も書き,『ダダ』(大正13年),『狂人』(昭和11年),『潮の女』(同36年),『猩々』(同年), 『女釣り』(同57年)などがある。詩碑は,八幡浜高校の「るす」など3基ある。同62年6月5日死去,86歳。墓地は宇和島泰平寺にある。

 高橋 精一郎 (たかはし せいいちろう)
 明治4年~昭和20年(1871~1945)町長。明治4年久万町福井の酒造業をしていた高橋家に生まれた。自らも大酒家であったが,感ずる所があって一滴の酒も口にしなかった。他人にも飲ませることは良くないと考え,酒造業を廃業した。夫人はフミといい京都蚕糸校を卒業して高橋家へ嫁いで来た人である。酒造業をやめた高橋家には収入の道がなかった。蚕の種を育成し,これを全部売り出すことを思いついた。当時,70人いたと伝えられる使用人たちは皆心から夫人を尊敬していたといわれる。養蚕業を郡内に広めた功績と,皇室の使用する良質の蚕糸の生産に尽くしたことが認められ,藍綬褒章を受けることになった。精一郎はまた熱心なクリスチャンで,上浮穴郡へ初めてキリスト教を伝道したのは彼であった。このような性格や識見が生かされて,町長になってから次々と立派な業績を生んでいった。業績の第1は,久万町有林130ヘクタールを造り上げ,その後学校建築など大きな事業経費の必要な時に,その町有林から収益を充当し,町民の負担を軽減することができた。第2に久万町農協の基礎造りをしたこと。最初は久万信用組合として出発し,農業振興の大きな柱となった。第3の業績は,久万町と菅生村の合併を成し遂げたこと,そして合併後も人々に推されて久万町長として尽くした。その後,町長を退いた後乱広く政界に活躍し,民政党首尾崎行雄を久万に招き演説会を開催したこともある。23有余年久万町政に尽くした精一郎は昭和20年2月22日多くの町民におしまれながら他界した。74歳であった。

 高橋 節之助 (たかはし せつのすけ)
 文化13年ころ~明治20年(1816ころ~1887)能楽師。名は方訓。号は閑景という。高橋家は宇高家と共に松山藩世襲の喜多流能大夫家であった。若くして江戸に修業し,流儀の実力者黒川市郎右衛門・白井平蔵に習って流儀の正統を誇り,明治期の松山能楽人を眼下に見下し,ワキ方吉田寛古・太鼓方升久九郎太夫と共に三元老と云われ,和尚の名を奉られたという。独り高く居てその門は閑散とし,若い士分の娘等を教えて能を舞わせたというから進歩的な処もあった様である。荻山権三・崎山龍太郎・川崎利吉もその教えを受けたというが,荻山が一時羽振りを利かせ高橋の弟子達を好遇しなかったので,中にはその門を離れる者も出て晩年は余り恵まれなかった様である。幕末彦根藩能役者喜多文十郎(喜多分家)が書き残した喜多流全国能役者の中に節之助の名が明記されている。明治20年7月10日死去。家祖には元禄13年(1700)藩能大夫に取り立てられた高橋甚七及び嫡子左源太の名があり、甚七は宝暦9年(1759)松山城三之丸能舞台での町人能で主要曲6番を舞っている。墓所は道後宝厳寺にある。

 高橋 丈雄 (たかはし たけお)
 明治39年~昭和61年(1906~1986)劇作家・著述業。明治39年10月31日、東京で生まれる。大阪の北野中学校を卒業し、早稲田第一高等学院独文料を中退する。本名は武雄。卒業後、東京で作家活動を行ない、昭和4年、雑誌「改造」に戯曲『死なす』を書き懸賞に当選する。昭和18年松山に疎開して劇団「かもめ座」を主宰し、職場・農漁村の自主劇団を指導する。昭和21年に愛媛新聞に小説『雛歌』『花眼』を連載したり、同22年以降はNHK松山放送局に多くのラジオ・ドラマを執筆し放送される。昭和27年再び上京し、同28年には『明治零年』を書いて文部大臣賞を受賞し、歌舞伎座で公演された。また文芸同人誌「アミーゴ」を主宰し、著作として『死なす』『鳥と詩人』『カラマゾフ狂想曲』などがあり、戯曲作品として『鉄砲記』(新国劇)『祈りと怒り』(文化座)が上演される。古典音楽や絵画の鑑賞にすぐれた趣味を持っていた。折にふれ「テレビは大衆化して、純粋な芸術性を追求する手段ではなくなり、逆にラジオドラマの方が演劇的なもので考えさせるものを表現できる」と語っていた。昭和61年7月7日、79歳で死去。

 高橋 恒麿 (たかはし つねまろ)
 慶応2年~大正13年(1866~1924)医師,歌人。松山の医師であるが風雅を好み,恬淡にして仙土の風格があって,地方きっての奇人と言われる。さかんに狂歌を作り,楽しんだ。狂歌のみならず,狂詩,俳句,川柳などにも巧みでその作品は数千首に上るといわれる。「天下の青人・四国さる人」などと号し,多趣味で画にも興じ,楽焼も作った。また,植物の採集家,山草の研究家としても知られた。大正13年5月22日,58歳で死去。

 高橋 貞次 (たかはし ていじ)
 明治35年~昭和43年(1902~1968)刀工。明治35年4月14日西条に生まれる。本名金市。大正7年,16歳で大阪の月山貞一に入門し,3年間修業ののち中央刀剣会の養成工に採用され,更に5年間修業し,さらに2年間お礼奉公をして腕を磨く。昭和14年,刀剣界の大御所本間順治博士の目にとまり,その紹介で満州国皇帝に作品を献上した。戦後は同26年,熱田神宮から宝刀の依頼があり,果然,有名になり,同30年5月12日,人間国宝(重要無形文化財)に指定され,同年,東京の新作刀展で特選第一席に選ばれ,名実ともに日本一の座につく。同34年皇太子殿下御成婚と翌35年浩宮ご誕生のときお守刀を献上する。彼の作品は優美と洗練された味に特徴があり,戦時中も軍刀には無関心で美術刀作りに精魂を傾げた。また刀剣の彫刻にも秀れていた。長刀は備前伝,短刀は山城伝,相州伝を得意としていた。昭和43年8月23日死去,66歳。兄も有名な刀工で高橋義宗。

 高橋 桐陽 (たかはし とうよう)
 文化13年~明治19年(1816~1886)儒学者。高橋復斎の子として松山に生まれる。通称は弥平次,父復斎は松山藩の儒官で明教館の教授であり,藩主松平定通の侍講を務めた人物で,桐陽は,江戸の昌平黌に学び,帰藩して儒官に列し,明教館の教授として多年育英に尽くした。明治19年7月死去, 70歳。

 高橋 彦之丞 (たかはし ひこのじょう)
 明治7年~昭和21年(1874~1946)教育者。明治37年9月3日。新居郡神戸村(現西条市)に生まれる。愛媛県師範学校卒業後,神戸小学校を振り出しに,師範学校訓導,小学校長,県視学,実践女学校,青年学校等の校長を歴任して,教育界に活躍し,郷里の子弟教育に大きく貢献した。一方,歴史研究に熱心で,新居浜郷土研究会や西条史談会を創立する。著書に『東豫史要』がある。また『西条誌』の出版などにも大きな役割を果たし,郷土の歴史研究に功績があった。昭和21年8月5日,71歳で死去。

 高橋 秀臣 (たかはし ひでおみ)
 元治元年~昭和10年(1864~1935)言論人,衆議院議員。元治元年4月26日,西条明屋敷で藩奉行同心高橋林三郎の長男に生まれた。小学校卒業後上京,壮士として政治運動に従事,苦学して明治32年35歳で明治法律学校(現明治大学)を卒業した。新聞記者になり政治評論に健筆を振るい,足尾鉱毒事件で田中正造を支援する論陣を張った。 45年5月の第11回衆議院議員選挙に愛媛県郡部候補として国民党公認で立ったが落選した。大正デモクラシー期には今井嘉幸らと普選運動に従事した。昭和4年東京市会議員,5年2月第17回衆院選挙に東京3区から立候補当選して,ようやく念願の代議士になった。昭和10年11月15日,71歳で没した。

 高橋 復斎 (たかはし ふくさい)
 天明8年~天保5年(1788~1834)江戸時代後期の松山藩士,明教館教授。彼は名を栗,字を子寛,通称を善次,号を復斎といった。はじめ崎門学の宮原竜山について学んだが,藩命によって昌平黌に入り,古賀精里について朱子学を習得した。帰国ののち藩主松平定通の侍読となり,明教館の創設により,日下伯巌とともに教授に任命され,藩における学問の興隆に努めた。天保5年10月年46歳で没した。著書には『読易私記』・『学庸私記』・『論語私記』の外に詩文集があった。復斎の子桐陽(名を熀という)も,昌平黌に学び明教館の教授となり,文運の振興に功労があった。

 高橋 孫太郎 (たかはし まごたろう)
 慶応3年~昭和21年(1867~1946)難波村長,県会議員・副議長。慶応3年7月11日,風早郡上難波村(現北条市)で高橋丈太郎の子に生まれた。村会議員などを経て明治32年9月県会議員になり, 40年11月には難波村長に選ばれた。村長を辞して44年9月再び県会議員に返り咲き,副議長に選ばれて大正4年9月までその席にあった。党派は愛媛進歩党に所属した。7年再び難波村長に就任して12年6月まで在任した。昭和21年11月18日,79歳で没した。

 高橋 真男 (たかはし ますお)
 明治20年~昭和40年(1887~1965)大協石油㈱取締役会長。明治20年11月15日喜多郡宿間村(五十崎町)の旧里正,父高橋三保,母タケヨの次男に生まれる。平岡小学校・県立大洲中学校第一回卒(明治39年3月)。熊本五高を経て東大法科大正3年卒。小橋一太の紹介で北海道拓殖銀行に入社し,樺太大泊支店長を最後に大正6年横浜の第七十四銀行に移る。同9年財界パニックで同銀行倒産。同10年愛知銀行東京支店長。昭和6年伊勢電鉄(後の近鉄)専務取締役,同8年越中電鉄専務取締役,同11年ハルビン麦酒㈱社長,同13年江戸川石油㈱社長,北京麦酒社長となり大陸にも雄飛している。昭和16年大協石油江戸川石油を合併し取締役社長となる。同20年四日市工場戦災を受く。同24年復興再開,同32年朝日運油㈱設立社長,同34年9月26日伊勢湾台風四日市製油所被災。同35年1月大協石油㈱取締役会長,同36年大協和石油化学㈱設立会長。同38年藍綬褒章受章,同40年12月21日肺炎にて逝去78歳。戒名「大機院剛山真隆居士」。同12月29口青山葬儀所にて社葬,同41年1月21日正五位勲三等瑞宝章を追贈された。以上の如く彼は石油業界と銀行界で活躍し,郷土を忘れず晩年に次の如く寄付している。昭和37年には新制中学校にブラスバンド一式を寄贈する。同39年には1,000万円を寄付し,五十崎町はこれを記念プールと中学校に高橋図書館建設に使用している。彼の父も弟の鉄磨も天神村の村長を務め,兄子尺は村の開業医で奉仕していた。なお彼は昭和39年11月3日付で吉岡由太郎五十崎町長より「名誉町民」の称号を贈られている。

 高橋  士 (たかはし まもる)
 明治43年~昭和52年(1910~1977)愛媛新聞社長。新居郡神郷村の出身。明治43年8月13日生まれ。生家は造り酒屋。昭和7年松山高商卒業。昭和20年,愛媛新聞入社,昭和38年から昭和52年まで14年の長期にわたって同社の社長の職に在り,愛媛新聞の発展に大きく貢献した。この間,中央のジャーナリズム業界にも知られ,日本新聞協会常任理事,共同通信社理事にも就任した。県文化懇談会会長,県立美術館運営委員長,県体育協会会長などを歴任し,愛媛県下の文化・スポーツの振興にあずかって力があった。武徳会剣道七段教士。名前の士を「さむらい」と呼んで敬愛する人が多かった。昭和52年5月19日,社長在任中急逝,66歳。

 高橋 三保 (たかはし みつやす)
 文久元年~昭和19年(1861~1944)天神村長・五十崎町長・地方改良功労者・県会議員。文久元年2月27日,喜多郡宿間村(現五十崎町)で庄屋高橋茂平の三男に生まれた。維新前に庄屋を継承した。明治15年村会議員,24年4月隣村五十崎村長に就任,31年1月天神村長に転じ8期26年にわたり自村の村政を担当した。村治では学校の整理,道路の改修,部落有財産の統一,耕地整理,産業組合の経営などに良好な成績をあげた。大正9年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。その間,明治29年3月~30年10月,40年9月~44年9月県会議員に在職,内子銀行取締役を務め天神養蚕会社を設立した。昭和9年5月~14年3月五十崎町長に在任,町役場を移転して天神村との合併の機運をつくった。喜多郡畜産組合長・大洲乾繭倉庫組合長なども歴任した。昭和19年10月26日,83歳で没した。

 高橋 雄豺 (たかはし ゆうさい)
 明治22年~昭和54年(1889~1979)内務警察官僚・読売新聞社副社長。明治22年11月3日,新居郡橘村西禎瑞高丸(現西条市)で農家の長男に生まれた。西条中学へ進み,3年のとき転校して北予中学(現松山北高校)を卒業,42年警視庁巡査となり,東京の警察署に勤務した。勤務の間に独学して大正4年文官高等試験に合格,静岡県警視を振り出しに警察畑を歩み,9年8月~11年10月警察制度研究のため欧米に留学した。 12年内務省警保局警務課長,昭和2年静岡県内務部長,4年警視庁警務部長を経て6年6月香川県知事になり7年1月退官した。8年正力松太郎に誘われて読売新聞社外信部長ついで副社長に就任,20年辞職して公職追放されたが,26年同社顧問で復帰,30年6月~40年10月代表取締役副社長として読売新聞社の実質的最高責任者を務めた。その間,日本新聞協会長にも推され業界の発展に寄与した。著書に『明治警察史研究』など警察制度の研究家としても知られ,33年法学博士の学位を受け,警察大学名誉教授であった。熱心な小選挙区制論者で選挙制度調査会副会長・同審議会会長として選挙制度の改善に努めた。その他,地方制度調査会会長・公明選挙連盟理事長など政府・民間の各種審議会・団体に関係する一方,プロ野球読売巨人軍の社長も務めた。昭和40年勲一等瑞宝章,43年にはNHK放送文化賞を受けた。昭和54年4月23日,89歳で没した。

 高橋 吉衡 (たかはし よしひら)
 嘉永3年~大正11年(1850~1922)教育者。嘉永3年12月19日喜多郡内子村(現内子町)に生まれる。通産大臣となった高橋龍太郎の父でもある。祖先は,近江国神崎郡の城主であったが,のち伊予国五百木村に移住し,大洲城主から五百木一円の支配を命ぜられ,代々庄屋として維新まで続く。内子へ移住後は五百木屋と称し,酒造業を始める。家産が増加し,家の格式は六万石の大洲藩の家老と同位であったといわれる。豪盛な家で使用人も多く,常に遊人が集まっていたほどである。維新の変化で高橋家も没落した。明治4年桜ヶ丘校開設とともに訓導となり,20余年町内の子弟の教育に私財をはたいて献身する。同12年化育小学校が設立されると初代校長として人格教育に敏腕をふるう。町民は〝内子聖人〟と敬称した。大正11年1月30日死去,71歳。

 高橋 義宗 (たかはし よしむね)
 明治30年~昭和21年(1897~1946)刀工。新居郡大町村(現西条市大町常心)で百姓高橋喜平の五男として生まれる。生来刀剣が好きで,学校の勉強よりも刀の勉強に励んだ。大正2年,母が死亡して3日目,備前長船横山潜龍子源祐定に師事するため,16歳で家を出奔する。刀工の修業のきびしさは格別なものであるがよく耐え忍び不眠不休の努力剣昔まなかった。3年目には師祐定と二人で打った刀を東京の乃本神社へ納めるほどに上達した。8年修業後,岡山で逸見竹貫斉義隆に学び,その後上阪して,延寿太郎国俊に山城伝の秘法を学び,あわせて鑑定学も修めた。昭和10年,上野美術館で第一回新作日本刀展覧会が開かれたが,義宗は,備前伝の一刀を出品し,文部大臣賞を得た。戦後西条へ帰郷して鍛錬場をつくり愛媛を全国第一位の刀剣王国となさしめた。高橋貞次は実弟。昭和21年2月27日,49歳の若さで死去。

 高橋 龍太郎 (たかはし りゅうたろう)
 明治8年~昭和42年(1875~1967)実業家。後に政界に入る。
 愛媛県喜多郡内子村(現内子町)に明治8年7月10日生まれる。明治21年,京都第三高等中学校(三高の前身)卒業。ビールの本場ミュンヘンに留学し,醸造学などを学ぶ。帰国後,国産ビールの改良に大きく貢献してビール王とよばれるまでになった。昭和12年,大日本麦酒社長,昭和21年,日本商工会議所会頭となる。戦中戦後を通じて,我が国の産業界において指導的地位にあった。昭和22年,参議院全国区に立候補して当選,昭和26年,第3次吉田内閣の通産大臣を努めた。また人間として静を愛し書をよくし,在田と号して文人の風格を備えていた。熱狂的な野球ファンで,プロ野球が2リーグに分裂した当初のパ球団のオーナーになったことがある。その球団は高橋ユニオンズと称した。昭和42年12月22日,92歳で長寿を全うした。

 高畑 誠一 (たかはた せいいち)
 明治20年~昭和53年(1887~1978)実業家。貿易業で大きく活躍した。愛媛県喜多郡内子村(現内子町)で明治20年3月21日生まれる。明治38年,西条中学卒業。明治42年,神戸高商卒業。神戸の鈴木商店に入社。語学力抜群で頭角を現し,大正2年(1913),口ンドン勤務,大正5年には弱冠28歳でロンドン支店長となる。彼の働きで,鈴木商店は三井,三菱と伍する大商社にのし上った。大正6年には鈴木商店の年間貿易額は15億円余りに達し,三井物産を抜いて日本一の座に着いた。昭和2年(1927),金融恐慌で鈴木商店は倒産。大口債権者台湾銀行などの協力を得て,高畑らは,日商(後の日商岩井)を創立して貿易部門の再起をはかった。昭和20年(1945),日商の代表取締役会長に就任,昭和38年に会長を退くまで,鉄鋼・造船・石油の輸出入において確固たる地位を築いて日商をわが国屈指の総合商社にした。彼の業績の中で特筆すべきは,昭和23年に,同じ鈴木商店系の帝人の顧問に就任し,ICI社(イギリス)からのテトロン技術導入に際して,ICI社との鈴木商店以来のコネを生かして自ら折衝に当たり,これを成功に導いたことである。彼は,我が国のゴルフ界の草分けであり,本場仕込みのプレーヤーであった。大正10年,訪英中の皇太子(昭和天皇)に世界一流プレーヤーのプレーをご覧に供し,その時の写真が残されている。 愛郷の念深く,社会教育に私財を投じるとともに,昭和48年母校内子小学校開校百年を記念して,高畑奨学資金の制度を設けた。大学に在学する子弟を対象に1人当たり月額2万円を4年間貸与するもので,多くの学生がその恩恵を受けている。昭和53年9月19日没,91歳。

 高浜 虚子 (たかはま きょし)
 明治7年~昭和34年(1874~1959)俳人。明治7年2月22凪旧松山藩士池内信夫の四男として温泉郡湊町(現松山市)に生まれた。本名清。松山の能楽を継承した信夫は父,中央で能楽を再興した池内信嘉は兄である。生後間もなく一家は風早郡柳原村西の下(現北条市柳原)に移り,明治15年祖母の家を継いで高浜姓を名乗る。明治21年伊予尋常中学校(後の松山中学校,現松山東高等学校)に河東碧梧桐らと共に入学,文学に興味を持ち,15歳の時,回覧雑誌「同窓学誌」を出し,河東碧梧桐とも文学上の交わりを深めた。在学中に正岡子規を知り,碧梧桐の紹介で明治24年子規と文通をはじめ,夏には松山俳句会で指導を受け,「虚子」の号を与えられ,子規に兄事するようになった。第三高等学校(京都)に入学後,碧梧桐と一緒に下宿し,その下宿を虚桐庵と号して俳句に熱中し,わらじ履きで近郊の名所旧蹟を散策したりした。学制の改革で仙台の第二高等学校に碧梧桐と共に移ったが,わずか二か月で退学した。上京し,正岡子規の文学運動に参加し,新聞社に職を得た。子規は自分の後継者とみなして,道灌山で対談したが,虚子は断った。明治31年柳原極堂か松山で創刊した子規派の俳誌「ホトトギス」を東京に移し,虚子は編集に従事し,子規の志を継ぐようになった。明治35年子規の死没後自立。明治38年夏目漱石の『我輩は猫である』ついで『坊っちゃん』を「ホトトギス」に掲載,虚子自身も『風流懺法』『斑鳩物語』などの小説に熱中して,一時俳句から遠ざかった。大正2年初志に帰り,「春風や闘志いだきて丘に立つ」の句をよんで,俳壇に復帰した。虚子の主宰する「ホトトギス」は大正昭和期には,全国一を誇る俳誌となり,水原秋桜子・山口誓子・中村草田男など多くの俊秀を輩出し,ホトトギス王国を築いた。その足跡は近代俳句史そのものといえよう。昭和12年日本芸術院会員,昭和29年文化勲章を受けた。小説『俳諧師』『鶏頭』.著書に句集『虚子句集』『句日記』『俳句の五十年』など。昭和34年4月8日,85歳で死去。生前故郷松山にしばしば帰省。旧松山藩主松平定行の造営になる東野の「竹のお茶屋」跡に「ふるさとのこの松伐るな竹切るな」,少年期をすごした北条柳原に「この松の下にたゝずめば露のわれ」,正宗寺に「笹啼が初音になりし頃のこと」などをはじめ,全国各地に句碑が多い。『定本高浜虚子全集』15巻,別1巻。

 高浜 年尾 (たかはま としお)
 明治33年~昭和54年(1900~1979)俳人。明治33年12月16日東京神田猿楽町に生まれる。高浜虚子の長男で,年尾は正岡子規が命名。大正13年,小樽高等商業学校を卒業して,会社勤務をするが,昭和9年退社して俳諧の道に入る。俳句は大正2年の開成中学の時代,ホトトギス発行所で起臥していて多くの俳人に接して,「ホトトギス」に投句をしていた。俳句の生活に入ってからは,芦屋市に住み関西俳句界の中心的人物となる。昭和13年「俳諧」を創刊主宰し,俳句のほか俳諧詩や俳句の英・仏・独の三か国訳を掲載するなど独特,多彩な編集をする。
 のち「ホトトギス」に合併し,同21年その経営,雑詠選を虚子に代わって担当し,名実ともに主宰者となる。松山へは子供のころから父に連れられ,たびたび来松,虚子の没後も毎年墓参に来松,子規顕彰全国俳句大会には主選者として俳句の唱道に務めた。また「愛媛俳壇」の選者として活躍し,才気あふれる平明な写実による円熟な句風で知られた。萬翠荘の苑内には「なつかしき父の故郷月もよし」の句碑がある。著作には『俳諧手引』『年尾句集』『父虚子とともに』などがある。昭和54年10月26日,78歳で死去。

 高畠 華宵 (たかはし かしょう)
 明治21年~昭和41年(1888~1966)画家。明治21年4月6日宇和島市裡町に生まれ,幼時から絵を好み,明治36年京都市立美術工芸学校日本画科に入学。途中父の死にあい退学するが38年同校に再入学。生計に苦しみながら修業。同43年「華宵」の号で描いた順天堂の中将湯の広告画が好評を博し一躍有名となる。大正2年(1913)から「講談倶楽部」,「少年倶楽部」,「面白倶楽部」,「婦人倶楽部」,「現代」などの雑誌に挿絵を描き,独自の美少年,美少女の絵を創り上げ,大正から昭和初期にかけ華宵の美人画は一世を風靡する。大正15年,華宵便箋・封筒が売り出されさらに反響を,「銀座行進曲」で「華宵好みの君も行く」などと歌われる。昭和34年渡米,36年帰国,39年明石愛老園で老後を過す。東京文京区の私邸に彼の遺作を収蔵し記念館として開放している。昭和41年7月31日,78歳で没した。

 高畠 亀太郎 (たかばたけ かめたろう)
 明治16年~昭和47年(1883~1972)実業家,県会議員・衆議院議員・宇和島市長。明治16年2月6日,宇和島裡町に生まれた。挿絵画家として著名であった高畠華宵は弟である。39年父の跡を継ぎ生糸商を営んだ。 44年から宇和島町会議員,大正9年9月から昭和6年9月まで3期連続県会議員を務め,党派は政友会に属した。昭和11年2月宇和島商工会議所会頭に推された。 12年4月の第20回衆議院議員選挙に第3区から政友会公認で立候補し当選,明治17年4月の翼賛選挙で再選された。 14年6月宇和島市長に選ばれて就任,17年4月退任した。その間,製糸工場を興し18年6月宇和島木工会社に切り替えて死去するまでその経営に当たった。明皎々と号し書と俳句をよくし,文化人でもあった。昭和47年9月23日,89歳で没した。

 高松 阪市 (たかまつ さかいち)
 明治37年~昭和57年(1904~1982)柔道功労者。松山市生まれ。大正13年(1924)旧制松山中学校卒業。短躯ながら柔道を志し河東叡太郎に師事。左釣り込み足の得意技は師匠譲りで巨漢を倒すカミソリ足技として知られる。昭和3年京都武道専門学校卒業後,福岡県立浮羽中学校で柔道を指導,同16年文部省派遣教師として中国北京市に渡り青少年に柔道を教える。戦後,松山市役所に勤務,昭和32年~同52年(1857~1877)常盤同郷会で柔道を通じ青少年の健全育成に努める。接骨医も開業,余暇に尺八を嗜む。昭和39年松山市スポーツ功労賞,同41年文部大臣賞,同42年県スポーツ功労賞を受賞。同57年8月31口死去,78歳。

 高円朝臣 広世 (たかまどのあそん ひろよ)
 生没年不詳 旧姓石川朝臣。天平宝字4年(760)2月,同族の広成らと共に改姓されたと思われる。尾張,山背,播磨,周防等の国守を歴任した後,神護景雲3年(769)6月,阿倍朝臣弥夫人の後を承けて伊予守に補任された。時に従五位上。なお平城宮址で,この時の新規任官者18名の新官職を列記した記録木簡の一部が発見されており,広世も伊予守として記載されている。 在任中の神護景雲3年11月,配下の国郡司らと共に白鹿を献じている。これは翌宝亀元年5月祥瑞としてとりあげられ,上瑞と認定されたため,国郡司らの叙位一階と神護景雲3年以往の伊予国の正税未納の免除のことが決定され,これに基づき同年10月,広世は正五位下に昇叙された。この献瑞は,その末期を迎えた称徳天皇一道鏡政権が政権維持のために打った一石と考えられ,政治的色彩の濃いものであった。宝亀2年7月の文屋真人忍坂麻呂の伊予守就任までが,広世の在任期間であったと思われる。

 高山 長幸 (たかやま ながゆき)
 慶応3年~昭和12年(1867~1937)実業家,衆議院議員。慶応3年7月28日,大洲城下中村(現大洲市)で士族高山文兵衛の長男に生まれた。幼名亀太郎,孤竹・潮江と号した。生後1年にして父を失い,母の厳しい教育の下に成人した。明治13年共済中学校(現大洲高校)に入学,17年中学校を卒業して小学校で教鞭をとった。 19年母を連れて上京,慶応義塾理財科に入り,22年卒業した。老母の望郷の念にひかれて大洲に帰り,喜多学校の教師になった。 26年上京して三井銀行に入り,函館・三池・大津・長崎各支店長を歴任したのち,帝国自動車会社を設立して社長になった。明治41年5月第10回衆議院議員選挙に郷党から推されて立候補当選,政友会に所属した。 42年5月大日本製糖会社取締役となり,同窓の社長藤山雷太を助けて〝日糖事件〟で破綻にひんしていた同社を再興した。その後,帝国商業銀行会長に就任した。国会議員は明治45年任期満丁とともに実業多忙と病後を理由に辞していたが,大正9年5月原敬の懇望で政友会から第14回衆議院議員選挙に再出馬して当選,以後昭和5年2月の第17回衆議院議員選挙まで連続当選した。その間,政友会政務調査会長・院内総務などにあげられた。党人風とは類型を異にして高潔な人柄は,政敵関係にあった民政党員からも慕われた。政界引退後の7年3月東洋拓殖会社総裁に推され,以来,朝鮮及び満蒙の拓殖開発に貢献した。 11年8月満鮮視察の帰途京城で発病,昭和12年1月19日69歳で没した。遺骸は東京多摩霊園に葬られた。政治・実業の傍ら,書道に徹し絵をたしなみ,俳諧の道に通じ,茶道を解し,庭園にも造詣の深さを示した。

 高階 重紀 (たかしな しげき)
 明治45年~昭和59年(1912~1984)画家,教育者。岩手県水沢市に明治45年6月12日に生まれる。7歳の時父の転勤で宮城県栗原郡築館町に移り住む。昭和5年築館中学卒業後上京,川端画学校に入り本格的に絵の勉強をはじめる。昭和7年東京美術学校(現東京芸術大学)本科油絵科に入学,岡田三郎助の教室に入る。昭和10年第22回二科展に初出品し入選。翌年も連続入選し先鋭的な作家とし注目をあびる。又同年には前衛絵に意欲的な同期生で「レ・リラ」を結成するなど,在学時代から官展的立場を排して絵画の新しい動向を吸収,意欲的な作家活動を行う。東京美術学校卒業の昭和12年結核性股関節炎にかかり,故郷の病院で4年間の療養生活を送る。昭和16年に再び上京し制作活動を開始するが,戦争激化の中で昭和19年夫人の実家のある今治市常盤町に疎開,定住する。昭和22年二紀会の創立に参画。以後二紀会愛媛支部を育てながら,37回展まで連続出品,会の中心で活躍する。昭和27年の愛媛県美術会の結成に尽力,評議員,審査員として同会の発展に力を注ぐとともに昭和40年には県内作家の作品錬磨と美術革新を目指して「愛媛現代美術家集団」を結成するなど,県美術界の発展に貢献する。また,昭和21年今治中学校(現今治西高等学校)教諭を皮切りに今治南高等学校教諭,愛媛大学講師,桃山学院短期大学教授等を歴任,美術教育の向上に尽くすとともに多くの教育者,芸術家を育てる。昭和59年6月21日,72歳で死去。

 鷹尾 吉循 (たかお よしゆき)
 文政9年~明治26年(1826~1893)明治初期の老農。下浮穴郡佐礼谷村の庄屋に生まれる。青年時代,小松藩の儒学者近藤篤山に学び帰郷して家業を継ぎ,廃藩後は戸長,村長として村治に尽し,かたわら私塾至誠会を開いて青年教育に努める。一時銅山の経営に当るも挫折し以後は農業の振興に専念。明治14年に東京で開催の全国農談会に県代表として出席,閉会後,有栖川宮から特に召されて農業の実際について下問にし,記念にネクタイを贈られ今も同家に家宝として保管されている。農談会後は老農として知られ地方の農業振興に努め,養蚕,果樹(みかん,桃,枇杷)の奨励のほかフランス南部の海岸の地中海松の種子を導入して郡中の海岸に植え,愛知県があから宮重大根の種を入れ近辺で増殖を図るなど多くの事績を残す。森盲天外と親交があり,明治12年~同14年,盲天外を佐礼谷小学校の教員として迎える。明治10年ころ内子,佐礼谷間の道路開設を願い,自費で測量機を購入して県に提出。現品が松山東高に保管されている。明治26年2月1日逝去, 67歳。

 滝   庸 (たき いさお)
 明治31年~昭和36年(1898~1961)学者。明治31年12月6日,松山市萱町に生まれる。大正7年愛媛県師範学校を卒業し,西宇和郡真穴村犬島(現八幡浜市)の小学校に1年間勤める。この時すでに大島で貝類の採集を行い,これが彼の将来の軟体動物研究につながる。広島高等師範学校から京都帝国大学農学部生物学科に進み,卒業後東京帝国大学動物学教室の助手となり,貝類,とくにヒザラガイ類の研究に専念する。昭和13年には陸奥湾産のヒザラガイ類の研究論文で理学博士となる。同17年中国国立中央大学教授兼中国南京博物館主任研究員となる。のち上野国立科学博物館にもつとめ日本の動物学発展に多大の貢献をした。新種の発見も多く,本県ではセカヤスリヒザラガイ(郡中)タキギセル(高縄山)があり,『改訂増補日本動物図鑑』(昭和22年)では軟体動物の多くの部門を書いている。また日本貝類学会を創設したりこの方面での研究の第一人者であった。昭和36年5月18日,62歳で死去。

 滝   勇 (たき いさむ)
 明治19年~昭和38年(1886~1963)実業家・四国ガス社長。明治19年3月5日香川県香川郡川部村(現高松市)で生まれた。関西大学商科を中退して明治36年大阪ガスに入社,広島ガス電軌などを経て昭和20年四国瓦斯の初代社長になった。ガス普及宣伝のため陣頭に立って奮闘すると共に「高圧装排炭装置」など一連のガス製造設備の革新的な改善発明をして,四国ガスの基礎を築いた。 日本ガス協会副会長,今治商工会議所,県商工会議所連合会会頭などの要職に就き,今治ユネスコ協会長・今治ロータリークラブ会長・ボーイスカウト県支部連盟理事長などを歴任して社会事業にも献身,昭和31年県教育文化賞を受けた。昭和38年2月8日,76歳で没した。

 瀧本 誠一 (たきもと せいいち)
 安政4年~昭和7年(1857~1932)日本経済学史の先駆者。安政4年9月27日,江戸麻布の宇和島藩邸に生まれた。明治7年ころ宇和島の不棄学校で中上川彦次郎について英学を修め,14年慶応義塾卒業生の資格をもって和歌山の自修私学校に英語教師として赴任した。 20年末広重恭の紹介で「朝野新聞」に入り,大同団結運動に共鳴して政治運動に参加,やがて「東京公論」の主筆として条約改正問題などに鋭い論陣を張った。かたわら日本経済学史研究のための資料集めを続けた。大正3年同志社大学教授,7年法学博士の学位を受け,8年慶応義塾に招かれて生涯同大学で研究生活を続けた。この間,東京商科大学や立教・専修大学の講師・教授を兼ねた。昭和7年8月20日74歳で没した。著書に。『日本経済史』『日本経済学史』『日本経済思想史』『日本貨幣史』などがある。また『日本経済叢書』39冊,『日本経済大典』54冊などを編さんして江戸時代の経済,社会思想関係の学者と著作を紹介し,日本経済学界のパイオニアとしての業績を残した。

 佗美  浩 (たくみ ひろし)
 明治24年~昭和45年(1891~1970)軍人。明治24年松山市大手町に生まれる。明治45年陸軍士官学校を卒業,歩兵少尉に任官した。累進して昭和13年には歩兵第88連隊長に,同15年12月には少将に昇進して歩兵第23旅団(第18師団隷下)長に就任した。太平洋戦争へき頭には佗美支隊(歩兵第56連隊基幹)を指揮し,三亜港を出航してマレー半島コタバルに強襲上陸を敢行した。時に昭和16年12月8日午前1時30分,海軍による真珠湾攻撃に先だつこと1時間50分であった。その後マレー半島を南下し,翌17年2月中旬にはシンガポールに上陸占領した。同年9月,善通寺俘虜収容所長となり,翌18年7月まで開戦初期の俘虜の管理に当たった。同19年3月,一度は現役を退いたが,翌20年3月,羅南地区司令官となり,終戦を迎えた。昭和45年12月没。享年79歳。墓所は山形市。

 竹内 重利 (たけうち しげとし)
 明治4年~昭和26年(1871~1951)軍人。大洲加藤藩の微禄をはんだ父実太郎の長男として,明治4年11月19日生まれる。廃藩置県後の生活は苦しく,子どものころはたんぼのドジョウをすくって本代にしたという。明治19年,上京,神田,三田の英学校に学んだが,同22年。海軍兵学校へ入学する。日清,日露戦争に転戦し,日本海海戦では参謀として抜群の功を立てる。同39年,海軍軍令部参謀,大本営海軍参謀を歴任し,米国駐在武官となる。続いて大正3年の日独戦争,同10年のシベリヤ出兵にも参加し,海軍中将に昇進,12年5月予備役となる。退役後は海軍思想の普及と,日米協会の一員として日米親善に一役をかった。郷土愛も強く,両親なきあと屋敷を大洲市田ノロの天満宮に寄贈する。昭和26年3月3日,東京の自宅で死去。79歳。天満宮に「竹内園」の記念碑がある。

 竹内 鳳吉 (たけうち ほうきち)
 明治10年~昭和6年(1877~1931)県会議員・衆議院議員。明治10年5月31日,宇摩郡川之江村(現川之江市)で,竹内雅三郎の長男に生まれた。33年神宮皇学館を卒業,県社八幡神社社掌の傍ら,香川県立丸亀中学校,宇摩郡立農林学校(現土居高校)の教職を兼ねた。大正12年9月県会議員になり,昭和2年10月には副議長に選ばれた。昭和3年2月の第16回衆議院議員選挙に政友会所属で第2区から立候補して当選,県会を辞して国会に進出したが,5年2月の第17回衆議院議員選挙では落選した。昭和6年4月17日, 53歳で没した。

 竹内  仁 (かけうち じん)
 明治31年~大正11年(1898~1922)文芸評論家。明治31年8月8日松山市唐人町(現三番町)に生まれる。片上伸(天弦)の弟でもある。幼時には一家をあげて北海道に住み,千島にも渡る。 13歳で単身上京して,大正5年早稲田中学から第二高等学校(現東北大学)に優秀な成績で入学する。その後竹内家の養子となり,更に東京帝国大学法学部政治学科に入り,のち文学部倫理学科に移る。そのころよりボルシェビズムの研究に没頭し,左傾思想を有し「知より行に」を強調する。当時,阿部次郎と論争し,大正教養主義を批判して論壇に大きな波紋を投じた。少壮評論家として将来を注目されたが,苦悩の果てに大正11年11月10日自殺する。24歳。評論に『阿部次郎の人格主義を難ず』『再び阿部次郎氏に』『竹内仁遺稿』がある。

 竹内 立左衛門 (たけうち りゅうざえもん)
 寛保元年~寛政6年(1741~1794)西条藩郡奉行。禎瑞新田開拓者。西条六代藩主松平頼謙の家臣。民政に留意した父の志を継いで開拓事業を藩に建策,その力量が抜群であることを認められ,安永5年6月郡奉行15石・足米10石・金15両)に任せられた。安永7年1月16日新田築方御用掛に任命され,加茂川・中山川の河口部に3か年で300町歩余の新田を開拓した。新田開発の最大の難工事でめった汐留は安永9年に成功し,完成までに要した人夫は延130万人,経費は2万両であった。造成地は地区の名称より禎瑞新田と名付けられたが,六代藩主松平頼謙の家産としての性格上,開拓村として取り扱われず,西条藩が禎瑞方という役所を設けて直接支配した。立左衛門は新田経営の中心となり,天明2年からは塩崎盛蔵・長谷川与市・真鍋半左衛門が経営陣に加わった。また禎瑞方役所には南蛮樋の番人小林弥作以下の樋番10人が常駐して水の管理を行った。この間立左衛門は安永7年御馬廻格(30石)・天明2年御馬廻組頭格(45石,新田御用と郡奉行兼任)と昇進し,天明4年には御徒頭格・御勝手奉行差添(45石・足米15石・金20両)になった。彼は民政面においては裁判の公平を期するため,神に祈ったという。寛政6年2月9日逝去,藩主はその功績を顕彰するため新田に早苗神社を建てその霊を祀った。

 竹田 博文 (たけだ ひろふみ)
 嘉永3年ころ~大正5年(1850ころ~1916)狂言師。士族吉野一貫の次男として嘉永3年ころに生まれる。通称は栄五郎。松山藩抱え世襲狂言方竹田熊之助の養子となる。家業柄義父よりその芸を習ったものと思われるが,本業の狂言に関する記録は少なく,明治42年夏,茂山忠三郎良豊父子が道後湯治に来松して狂言会が行われた際,吉枝尚徳・山本盛信と共に「三人片輪」のシテを演じた記録があるのみである。彼の子竹田文平が家伝の流儀秘伝書『大倉流衣裳附全』を古川久平に寄贈して現存しており,その巻末に「天保五午歳二月上旬写之竹田博方所持」と署名があるが,博文の生没年代から見てこの竹田博方は家祖で別人と思われる。池内信嘉の語る処では,博文はワキ吉田寛古と能「車僧」の間狂言で,笑わせる・笑わないで酒一升の賭をして勝ったと云う逸話もある。本人は家業の道を長袖者のすることだと嫌い,武術に専念して剣道・水練に長じたと云う。幕末の長州征伐,剛青戦争に私費で旧藩主の供をし60円の終身年金を貰っている。特に神伝流水練に秀れ藩子弟の修練の世話役となり,その水練場「御圍池」を賜ったが後に松山市へ寄附しており,日露戦争時には江田島海軍兵学校で教えたという。維新後は家業の道に窮して実業面で活躍し,伊予鉄道の重役を務め,松山蚕糸会社を創立したりした。又伊予史談会の前身松山尚齢会の世話役もやり,城山に午砲を備えさせたりしている。晩年には旧藩主へ遺詠を捧げ,家族へは「来て見ても帰りて見ても同じ事今はこゝらで死むで行かうぞ」と狂言方らしい辞世歌を残し,大正5年9月で世を去った。墓所は松山市朝生田の善宝寺にある。

 竹田 芳松 (たけだ よしまつ)
 明治32年~昭和56年(1899~1981)愛媛県におけるはまち養殖業元祖,城辺町地域の水産功労者。
 明治32年11月18日,南宇和郡東外海村久良(現城辺町久良135)において父竹田角太郎,母ハンの長男として生まれる。父は魚の小売業を経営して御荘村(現御荘町)方面に行商を行っていた。芳松は大正2年3月東外海村尋常高等小学校を卒業後,直ちに家事に従事した。その当時15歳であった芳松は父角太郎とともにイリコ(煮干いわし)の加工業を営み,漸次事業規模を拡大していった。大正6年~12年の間イリコその他の海産物問屋を経営するほか久良湾内で無動力船による小型のまき網漁業も行っていた。芳松は資性温厚にして商才に秀いで,創造力,指導力,決断力に富み強固な意志と社会への奉仕精神はきわめて旺盛であった。昭和7年4月周囲から推されて久良農業協同組合長に就任し9年間にわたって地区農業経営の改善と生産技術の向上を図って地域農業の発展に寄与した。昭和10年5月東外海市場株式会社を創設し,12年4月に竹芳水産有限会社を設立し社長に就任,沿岸まき網・遠洋底びき網漁業を経営し,漁法の改良に務めた。 15年8月には愛媛県の鮮魚運搬業者の統一を図り,組織の強化と経営の改善,運搬の迅速化の指導に当たった。昭和16年4月東外海村漁業協同組合の理事に選任され,漁港の整備,市場施設の拡張に努めた。太平洋戦争集結後の昭和26年6月県は東外海村深浦に初めて漁業用海岸局をつくり,免許人は指導用は知事,漁業用は県漁連会長であった。翌27年1月愛媛県一円を地区とする愛媛県無線漁業協同組合が東外海村深浦に設立され,同年3月開局のうえ,県漁連の業務を引き継いだ。この初代会長として竹田芳松が36年12月までの10年間就任し,無線による情報の伝達と海難の防止に当った。昭和25年8月~27年8月までの間愛媛県における第1期海区漁業調整委員として宇和海区の地区代表として選任され,漁業制度の改革と漁業補償,漁業調整等の面で活躍した。昭和27年12月27日愛媛県一円を地区とし,かつお,まぐろ漁業及び以西,以東底びき網漁業を営みまたはこれに従事するものを組合員として愛媛県海洋漁業協同組合が東外海町に設立せられたが,優秀な大型まき網船を建造し漁場の開発と漁法の研究に努め今日にみられるような大型まき網漁業への先駆者として寄与した。その後かつお,まぐろ漁業は昭和33年ころから漁獲不振となり,以西,以東底びき網漁業も中国にだ捕されたりして不振がつづいている。竹田芳松は今後漁業の活きる道は「とる漁業」から「つくる漁業」にあると考え,南宇和郡海域の立地条件を活用して昭和36年より県下で初めてはまち養殖を本格的に開始した。そして当時は誰もが手かけていないモジャコ(はまちの稚魚)採取も自分で始めこれを成功させた。同年におけるはまち養殖は城辺町1,宇和島2,津島町1,三瓶町1,明浜町1の計6か所で約7万3千尾が養殖された。竹田芳松はこのうち3万尾を城辺町久良のシダオで仕切網方法により約3,000坪の海面を利用して養殖を開始した。しかしこの方法は昭和42年以降現在のような小割イケスによる養殖方法で行われるようになった。他の地区はいずれも小割イケス養殖で引き続き養殖が行われている。昭和61年愛媛県のはまち養殖の生産額は約310億円で日本一を誇っているが,この基礎を築いた先覚者としての功績は大きい。氏は数々の水産功労のため昭和31年黄綬褒章,54年勲五等瑞宝章を受章したが昭和56年1月26日,81歳で没した。

 竹鼻 正脩 (たけはな せいしゅう)
 延享元年~文化2年(1744~1805)江戸時代中期の小松藩士。延享元年12月5日,小松藩士矢野就純の三男として生まれ,一家を立てて,父の実家の姓である竹鼻(竹花)を称した。通称を富次といい,後に左膳,さらに厚次,堅蔵と改めた。字を見遠,号を藍谷,淡齋と称した。宝暦11年上京し,崎門学派の石王塞軒門の山田静斎に学び,その間,藩から学資,書籍料を給された。京都遊学は足かけ5年に及び,明和2年,藩命によって帰国,翌3年,中小姓格として初めて召出され,10石2人口を給されて,世子頼欽の侍読となった。以後,藩主頼壽,頼欽の信任をうけて累進し,近習頭,御側用人などを経て,天明4年奉行を命じられ,100石を給された。当藩における奉行とは,家老の次に位置して,政務,財政の実務を統轄する要職である。享和2年,藩主頼親に建言して藩校培達校を設立,同校は,翌3年,内容を拡充して養正館と改称された。一方,その運営の中心人物として,尾藤二洲門下の近藤篤山を招き,正脩,篤山両者の協力のもとに,小松藩の文運は盛況の時代を迎えた。文化2年5月12日死去,享年60歳であった。小松の藍刈山に埋葬され,その墓誌は,近藤篤山撰,外孫である一柳亀峰筆になっている。

 竹場 好明 (たけば よしあき)
 弘化2年~大正12年(1845~1923)県官・北宇和郡長。弘化2年2月8日宇和島藩士西村家に生まれ,竹場拾六の養子になった。埼玉県知事などを務めた西村保吉は実弟であった。通称於蒐一。明治2年宇和島藩民政掛少参事,3年権少属,4年二番小隊長として東京出張探索方を拝命した。廃藩置県後,5年神山県権少属,6年愛媛県少属,7年権中属,8年中属として租税課正租係兼地租改正係を担当した。 10年三等属,13年二等属,14年一等属に昇進した後,14年9月南宇和郡及び北宇和郡長になり,30年4月南宇和郡役所が分離した後も北宇和郡長を継続,32年4月退任するまで17年余の長きにわたって同一郡役所で郡治を担当した。その間,町村合併を指導し宇和教育義会を設けて明倫館中学校を経営した。郡長退官ののち川之石の第二十九銀行頭取になった。大正12年8月26日,78歳で没した。

 竹葉 秀雄 (たけば ひでお)
 明治35年~昭和51年(1902~1976)教育者。明治35年3月20日,北宇和郡三間村宮野下(現三間町)に生まれる。大正11年3月,愛媛県師範学校を卒業し,三間小学校訓導となる。かたわら三間村塾を開いて青年の指導に当たった。昭和2年4月,東京小石川の金鶏学院の創立とともに入学,学監安岡正篤(昭和期の国家主義運動家)の感化を受ける。三間村塾を中心に,塾生かちと寝食を共にし,日本人として生きる道を教えた。三間村長・県社会教育委員・県公安委員を経て,県教育委員会委員長(昭和31年~44年)に就任,県教育界の発展に尽くした。県教育文化賞・県功労賞を受賞。昭和51年12月18日死去,74歳。

 竹村 原水 (たけむら げんすい)
 生没年不詳 宇和島の酒造家竹村氏の女として生まれ,名は源。幼時より鋭敏で才に富んでいた。長ずるに従って,茶道,挿花,絲絃の諸芸に通ずるとともに和歌,俳諧の道をたしなみ,絵も上手というように才女の誉れが高かった。はじめ上甲振洋に嫁したが,のち別れて,備後三原の老職戸田六左衛門(慶山)に再嫁した。明治中期に活躍したが,死没年は不明。

 竹村 黄塔 (たけむら こうとう)
 慶応元年~明治34年(1865~1901)教育者,漢詩人・俳人。
 松山藩校明教館教授河東静渓の三男として慶応元年11月23日子舟町に生まれた。河東可全,同碧梧桐の兄である。母方の竹村家を嗣いた。正岡子規より2歳年長で,子規五友のうちの「敬友」である。本名は鍛,通称は稽三郎,漢詩号は松窓または錬卿,俳号は其十といった。
 少年時代,父静渓の「千舟学舎」に入り,子規らと詩作に励んだ。明治18年松山中学校を中退後上京して「斯文黌」に入り漢学を修めた。常盤会寄宿舎に入り,野球に興じたが,千舟学舎で子規らと回覧雑誌『五友雑誌』を出していたころの経験から,本格的に俳句を始め,子規にならって三津浜の大原其戎主宰『真砂の志良辺』に投句するようになった。
 文科大学(現東京大学)国文科選科修了後,明治25年秋神戸師範学校の教官となり,ついで東京府立中学校に勤め,後富山房編集局に入り芳賀矢一(1867~1927)らと辞書の編さんに携わった。明治33年3月東京女子高等師範学校教授となり再び教育者生活に入ったが,結核を患い子規に先立ち明治34年2月1日35歳で病没した。子規はその死を悼み,明治34年2月『ホトトギス』第4巻第5号に黄塔の遺稿小品「吾寒国」を載せ,黄塔の人物,交友の状況などを回想している。黄塔は,早くから近藤元脩主宰で父静渓も加入している「六稜吟社」に入り,清澄の良詩をのこしている。また良友武市幡松の叔父英俊の主宰する『風詠集』にも当時の師範学校教諭久保薙谷選で多くの漢詩をのこしている。造作集に,「伝」・「序」・「学餘漫吟」・「ゆめ物語」・「日本辞書の評論」の五部作を編さんした明治36年刊行の『松窓餘韻』がある。

 竹村 秋竹 (たけむら しゅうちく)
 明治8年~大正4年(1875~1915)俳人。本名修。明治8年9月に松山で生まれ,第三高等学校時代,虚子,碧梧桐と交わり俳句に傾倒する。同28年金沢の四高に転じ校友会誌や鴎外の「めざましぐさ」に投句,北陸の地に子規派俳句の結社「北声会」を結成した。四高から東京帝大に進み,子規庵に出入りし,子規から高い評価を受け,「俳人の錚々たる者」12人の中に秋竹を挙げたほどである。同34年2月『明治俳句』を出版したことから,子規とその一門から問責され,ついに子規から離れていった。各県の旧制中学に勤務し,大正4年11月27日死去,40歳。俳句は「俳句二葉集」「新俳句」「春夏秋冬」に見える。

 武井 五郎左衛門 (たけい ごろうざえもん)
 生没年不詳戸田・福島・加藤の各大名の御用商人。宗五郎ともいい,落髪して宗意と号した。松前地区の日蓮宗妙円寺跡に宗意庵を建立して晩年を過ごした。元禄元年「伊予郡24ヶ村手鑑」の中に,筒井村宗意新田として石高・面積(48石2斗4升6合・3町2反1畝22歩)が記されており,現地名に宗意原・宗意新畑・宗意箱新田があるところからみて,彼が新田開発に努力したことが窺われる。天正15年9月,戸田勝隆は彼宛の書簡で喜多郡粟津郷土谷山村(長浜町)高180石の下代官に任命し,年貢米の徴収・売却・換金を適正にやるよう命じている。天正18年7月小田原役に参戦中の勝隆から彼に宛て寄贈された鰻200尾の御礼状が出されている。文録2年5月朝鮮出兵中の福島正則から,年頭の祝儀として彼が贈った酒樽の御礼状が認められている。松前・松山の城主であった加藤嘉明からは,寛永5年2月会津転封後,在松中彼が万事奉公だてをしたことに対し,満足の意を示し,御礼の志として上様から拝領した八丈縞一反と茶料銀子10枚を贈るという書簡をよせている。このように彼は,戸田勝隆・福島正則・加藤嘉明ら在中予の諸大名の許に出入りし,親交を結び,それぞれの御用商人として活躍したものと思われる。墓は松前町筒井妙寛寺にある。

 武井 周発 (たけい しゅうはつ)
 元禄7年~明和7年(1694~1770)絵師。押川由貞の四男として生まれ,初め作之丞と称し,後半三郎といい,常美とも号す。正徳5年武井家を継ぎ,2年後23歳で藩主定直の次小姓となる。つづいて藩主定英・定喬に仕え,元文元年43歳の時周発と名乗り,隨園の後を承け四代目の藩絵師となり10石3人扶持を給せらる。明和7年有医格となり,隨園の孫隨可に藩絵師を継がせ,同年9月3日,76歳で没す。墓は菩提寺の味酒町長久寺にある。周発が継いだ武井家は隨園の親戚に当たり,彼の絵の手引,特に江戸の浜町狩野門下での修業も隨園の推挙によるものと思われる。
 彼の遺墨は今もかなり多いが,その代表作は長久寺旧蔵の『日蓮上人一代記』であろう。おしいことに戦災のため灰燼に帰したが残された図録によっても,縦九尺三寸,幅一丈二尺という,その巨大さにも彼がこの作にかけた熱意のほどがうかがわれる。一条の雲が渦巻き状をなし,その中央に五重の塔と女神,神将を配し,それを背にして日蓮が座す。画面の右上から上人の歩んだ波乱の生涯を絵巻風に表し,日本絵画のあらゆる様式を統合する彼の力量がうかがい知れる。その他の遺墨にも隨園に似た江戸狩野の緊密な構想,明るく瀟洒な色感がうかがわれなかなかの健筆である。
 もう一つ彼の功績として特筆すべきものは,彼72歳の著『武井周発自伝』である。画業一筋の彼の歩みと歴代藩主や狩野家とのかかわり合いなど,当時の藩絵師の実態を克明に記録したものであり,愛媛の美術資料としてはもとより,全国的にも珍しい名著である。

 武市 庫太 (たけいち くらた)
 文久3年~大正13年(1863~1924)県会議員,衆議院議員に5期当選,子規の学友として俳句・漢詩をたしなんだ。文久3年10月25日,伊予郡永田村(現松前町)の庄屋武市元衛(英範)の長男に生まれた。諱は英髦,号を幡松または子明,雪燈(俳号)ともいい,蒼軒老人と自称した。幼少のとき叔父武市英俊について勉学,のち郡中の武智五友の私塾に通い,漢学を学んだ。上高柳の墨水小学校で村井俊明の教えを受けて松山中学校に入学,同校教諭となった村井に再び国語・漢文を学び,村井を生涯の師と仰いだ。また同校で正岡子規と親交を結び,のち子規の指導で俳句に親しむ機縁となった。京都の同志社に進んだが,父の病気で帰郷,16年家を継いで村会議員となり,勧業委員・徴兵参事員・学務委員・助役などを歴任した。 27年3月自由党所属の県会議員に選ばれ,30年10月にも再選された。 29年には県農会の創設に伴い初代会長に推された。明治31年3月第5回衆議院議員選挙に自由党公認で第1区から立ち当選,31年8月の衆院選挙でも再選されたが,35年8月の選挙では自由党を離れて帝国党に所属したことも災いして落選した。 36年3月の第8回選挙で雪辱を果たして代議士に返り咲き, 37年3月,41年5月,45年5月の衆院選挙でいずれも再選されて,前後6期国政に参画した。公明正大な人柄で私財を投げうって社会事業に貢献するところが多かった。 33年住居を東京に移したが,故郷の風物・人情を大切にし,旧屋敷のそば岩舗天満宮境内の古松を詠んだ俳句・漢詩が多い。大正13年10月20日,60歳で没した。

 武内 作平 (たけうち さくへい)
 慶応3年~昭和6年(1867~1931)衆議院議員,民政党県支部長,若槻内閣の法制局長官。慶応3年10月23日,今治城下蔵敷(現今治市)で士族武内浩治の長男に生まれた。明治15年越智中学校に入学したが,17年同校が廃校になったので広島中学校に転じた。 20年大阪に出て関西法律学校(現関西大学)に学んだ。30年12月弁護士を開業,32年には憲政党大阪支部の創立に参加した。 35年8月の第7回衆議院議員選挙に郷里愛媛県郡部から憲政本党所属で出馬して当選,36年3月に再選されたが,37年3月の選挙で落選した。 39年6月の補欠選挙,41年5月の選挙でも敗退したが,45年5月の第11回衆議院議員選挙で当選して代議士に返り咲いた。大正2年国民党から立憲同志会の結成に加わり,4年4月の選挙で再選して,同年9月の愛媛支部結成式には本部幹事長として総裁加藤高明らと列席した。6年4月の第13回衆議院議員選挙では予想に反して落選。翌年大阪弁護土会会長に推されたのを機会に選挙区を大阪に移し,大正9年5月の第14回衆議院議員選挙以降昭和5年2月の第17回衆議院議員選挙まで,4回連続して当選した。この間,大蔵政務次官・予算委員長などの重職を勤め,民政党の大阪府・愛媛県両支部長を兼ねた。昭和6年4月若槻礼次郎内閣の法制局長官になったが,在任中の6年11月8日,64歳で没した。民政党総裁若槻礼次郎は,「君は誠に物分りの好き人にて同時に人触りの好き人なりしが故に物事を取纏る天才」と評した。

 武田 耕雪 (たけだ こうせつ)
 明治22年~昭和48年(1889~1973)画家。桑村郡徳田村(現周桑郡丹原町)の生まれ。本名は規太郎。西条中学を卒業後京都絵画専門学校に学び,卒業後も引続き菊地芳文に師事。大正10年(1921)郷里に帰る。伊予美術展・愛媛美術工芸展の運営審査委員として活躍。戦後は愛媛美術協会,愛媛日本画研究会結成発起人とし,戦前・戦後を通じ郷土日本画発展に尽くす。石鎚・面河渓など郷土の風物に格調高い独自の画境を示し,その温厚な人柄とともに愛媛の日本画に大きい影響を与える。昭和48年3月15日,84歳で死去。

 武田 成章 (たけだ しげあや)
 文政10年~明治13年(1827~1880)幕末の洋学者・兵学者で,函館五稜郭を築造した。文政10年9月15日,大洲中村で藩士武田勘右衛門敬忠の次男に生まれた。通称斐三郎,字成章,号竹塘。藩校明倫堂に入学する傍ら山田東海に儒学・漢詩を学んだ。弘化5年大坂に赴き緒方洪庵の適塾に入門,嘉永3年には江戸に留学して伊東玄朴や佐久間象山に学んで洋学・兵学を修得した。嘉永6年浦賀でペリーの黒船を見学した後,幕府に出仕,長崎に出張してロシア使節プチャーチンに応接した。安政元年箱館御用詰となり,この年同地を訪れたペリーやプチャーチンの接待に当たった。安政3年洋学塾設立の建言が入れられて,箱館奉行諸術調所の教授になり,蘭学をはじめ聞きかじりの英・露語で語学,航海術,測量術,砲術などを教え,山尾庸三・前島密・井上勝・新島襄など全国から箱館に馳せ参じた若き学徒を指導した。同年弁天崎砲台を着工,更にオランダ式築造術を駆使して元治元年(1864)五稜郭を完成させた。五稜郭は我が国最初の西洋式城郭で,五稜星型の土塁からこの名が付けられた。箱館奉行小出秀実が居城したが,戊辰戦争の際幕臣榎本武揚らがここに拠り,新政府軍に抗戦したことはよく知られている。文久元年信教丸に乗り,日本人で初めて黒龍江を視察,元治元年五稜郭完工を見て箱館を去って江戸に帰り,開成所教授・関口大砲製造所頭取に任ぜられ,王子反射炉を建設し慶応3年にはナポレオン砲の国産化に成功した。明治維新後,新政府の兵部省に出任して,大阪兵学寮教授・幼年学校長などを勤めて陸軍士官の養成に当たった。明治13年1月18日52歳で没した。遺体は儀仗兵に守られて,浅草新谷町智光院境内の墓地に葬られた。著書に『蝦夷入北記』『黒龍江記事』『洋貨考』などがある。特別史蹟函館五稜郭には「竹塘武田成章先生」碑が建立されて肖像レリーフカ刻まれ,城内函館博物館に斐三郎の資料が展示されている。

 武田 千頴 (たけだ ちかい)
 寛政7年~慶応3年(1795~1867)歌人。新谷藩士,三好甚左衛門の子で大洲藩士武田維則の養子となる。実名は足穂。通称は助右衛門。江戸の村田春海について国学を修め,和歌に秀でて,地方きっての歌人であり,同門に本間游清がいる。長男に豊城がいる。豊城は西南の役で西郷隆盛を支援して捕えられる。千頴の歌「風ふけば露もこぼるゝ蓮葉の かたむきやすき夏の夜の月」は有名。慶応3年9月12日死去。 72歳。

 武田 徳太郎 (たけだ とくたろう)
 安政4年~昭和3年(1857~1928)九和村長・県会議員。
安政4年10月17日,越智郡与和木村(現玉川町)で庄屋武田弥平太の長男に生まれた。桜井村長曽我部右吉は実弟である。維新期里正ついで戸長を拝命した。明治21年7月県会議員に選ばれ,32年9月まで県会に議席を持ち,改進党一進歩党に属した。 27年九和村長に就任。 31年病気のため辞職したが,36年村長に復帰,大正12年まで在任して村の発展に尽力した。その間,越智郡会議長,郡農会長などを務めた。昭和3年11月6日,71歳で没した。

 武田 豊城 (たけだ とよき)
 天保2年~明治19年(1831~1886)西南の役に呼応して明治10年国事犯事件を起こした。天保2年11月25日,大洲城下浮舟谷で武田助右衛門の長男に生まれた。父は千頴と号し村田春海門の歌人であった。本名維楙,号は寿仙。幕末・維新の際微禄ながら大洲藩勤王派の一翼を担い,明治7年陶不窳次郎らの集義社に同志として加わった。陶らが集義社を土佐の立志社と通ずる民権結社に発展させようとしたことに反発して同社の団結を解除,永田元一郎・築山弘毅・渡辺八尋らと時世を憂える同志的結合を強めて土佐の正義党大石圓らと交流した。やがて時世を憂える吉田の飯渕貞幹,宇和島の鈴村譲らと気脈を通じ,隠密謀議して武器・弾薬を収集して決起に備えた。明治10年西南の役が起こると西郷軍を応援すべく準備したが,露見して同志18人と共に逮捕拘引され,裁判で懲役5年の刑に処せられ服役した。松山監獄での獄中の生活は囚中日記『花加多満』で知ることができ,獄中の歌に「君が世の民安かれと思ひ入る,ひとやに月の影ぞとひ来る」とある。出獄後,獄中記を著述するうちに明治19年4月,54歳で没した。大洲八尾の墓地に葬られた。

 武田 敬孝 (たけだ ゆきたか)
 文政3年~明治19年(1820~1886)勤皇家。幕末大洲藩で藩主の命を受け国事に奔走した。大洲中村で藩士武田勘右衛門敬忠の長男に生まれた。通称亀五郎,号熟軒。弟は斐三郎成章である。常磐井厳戈の古学堂で勤王の気慨に接し,また経史詩文を山田東海に学んだ。天保10年父の代勤として江戸在番の機会を得,大橋訥庵に従ってその説に心酔した。やがてその学識と時勢洞察の卓見とが認められて,足軽小頭の軽輩から異例の登用を受け,明倫堂教授に進み,かたわら藩主の侍講として勤王の大義を説いて藩の方向を決めさせた。藩命で土佐・長州などと友好の折衝を重ね,京都で情報を収集して藩当局に多くの報告書・建白書を提出,藩の去就を誘導した。維新後,胆沢県(岩手県)の権知事に任ぜられたが,ほどなく宮内省に出任して静寛院宮(和宮)の家令などを勤めた。明治19年2月5日,66歳で没した。

 武田 義孝 (たけだ よしたか)
 明治44年~昭和18年(1911~1943)体育功労者。明治44年2月25口越智郡朝倉村生まれ。松山商業から日本体操学校(現日体大)に入学し,同校を昭和6年(1931)卒業,東京の中学で教師を務めながら器械体操に励み翌7年ロサンゼルス五輪に日本初の体操選手として桧舞台を踏んだ。同11年(1936)ベルリン五輪に連続出場,日本体操団主将として個人総合43位(日本選手で首位)。鉄棒,平行棒が得意。日本体操草創期の第1人者で昭和18年8月22日,32歳で夭折した。

 武田 和三郎 (たけだ わさぶろう)
 文化3年~明治31年(1806~1898)宗教家。越智郡朝倉村の人で,車龍,米谷と号した。幼時より学問を好み,詩歌文章を垂水仙水に,国学神道を沼崎誠則に学んだ。 20歳のとき志を立てて諸国を遍歴する。江戸に上って細川家に任官すること3年。のち甲府へ出て篆刻を学ぶ。再び江戸へ出て,徳川斉昭の家臣に仕える。 38歳のとき京都に行き挿花を習い青山流の宗匠の免許を受け,静月亭秀雅と称した。後年,帰郷したが,郷党に容れられず,また中国,九州を旅して垂加神道を流布し,挿花,篆亥Uによって身を立てた。晩年再び郷里に帰り,黒住教の教師となって布教に従う。
 明治31年4月25日死去,92歳。

 武知 勇記 (たけち ゆうき)
 明治27年~昭和38年(1894~1963)県会議員・衆議院議員で雄弁家として鳴らし,岸内閣の郵政大臣に就任した。明治27年7月10日,伊予郡南伊予村(現伊予市)に生まれた。北予中学校から明治大学法科に進み,大正2年卒業した。学生時代から政治家を志し,帰郷して立憲愛媛青年党を組織した。8年松山市議,9年27歳で県会議員に当選した。以後,昭和4年まで県会にあって,憲政会の雄弁家として活躍,民本主義に基づく鋭い論旨は県理事者をたじろかせ,政友会の清家吉次郎との論戦が〝県会座の名物〟として県民の関心を集めた。昭和3年2月初の普通選挙による第16回衆議院議員選挙に勇躍して立ったが,時の田中政友会内閣による官憲の干渉で民政党に利あらず落選した。6年2月の第17回衆議院議員選挙に再出馬して第1区で最高点当選,以後,昭和17年4月の第21回衆議院議員選挙まで連続5回トップ当選を果した。その間,11年広田内閣の文部参与官,15年米内内閣の逓信政務次官を務め,地元のために銅山川疎水事業実現などに奔走した。戦後追放になり,解除の後,昭和27年10月の第25回衆議院議員選挙に再起を期し,国会に返り咲いた。自由党から岸信介らと日本民主党結成に参加,昭和29年第一次鳩山一郎内閣の郵政大臣になり,県人初の党人大臣といわれたが,30年2月の第27回選挙で苦杯をなめ〝現職大臣落選〟と話題になった。 33年5月の第28回選挙で再び国会に復活したが,以後の選挙は健康を害して立候補を断念した。政界で活躍するかたから,愛媛新報副社長,愛媛新聞社長,山下汽船・大王製紙顧問などを歴任した。昭和38年10月11日,69歳で没した。

 武智 勝丸 (たけち かつまる)
 文久3年~昭和3年(1863~1928)神官。伊予郡上三谷村(現伊予市上三谷)の広田神社の社家に生まれ,明治17年家職を継ぐが,小学校の教師も兼ねた。明治45年,特命により石鎚神社社司に任命されたころは社運は衰微の極であった。乱脈を極めた石鎚神社の財政を確立し,神徳を発揚させる為,氏子,崇敬者の組織の改善からはじめた。神社から交布してある会符の整理,登山保護料の納付,崇敬組合の整備等,多額の債務の解消,基本財産の造成に尽くし今日の隆盛の礎をつくるに至った。今日全国屈指の神威輝く神社となったのは勝丸の偉大な人格と光輝ある業績によるものである。昭和3年3月24日惜しまれながら逝去,65歳。

 武智  鼎 (たけち かなえ)
 明治24年~昭和30年(1891~1955)実業家・伊予鉄道第九代社長。明治24年2月19日伊予郡松前村大字北黒田(現松前町)に生まれる。松山商業をへて大正2年神戸高商を卒業。当時の伊予鉄道社長井上要の知遇を得て,大正3年同社傍系の伊予索道会社に郡中駅長として入社,3か月後に,その人物・手腕・学識を認められて伊予水力電気会社に引き抜かれた。大正6年伊予鉄道と伊予水力電気が合併して伊予鉄道電気株式会社として新発足したのに伴い同社に移り,7年会計課長, 11年副支配人(庶務課長兼務),昭和4年支配人,同7年,常務,8年専務と累進し,同19年11月伊予鉄道社長に就任(この間16年8月配電統制令が出され,翌17年4月電気事業を分離して四国配電と伊予鉄道がそれぞれ設立され,武智は四国配電副社長に就任していた)。20年7月26日の松山犬空襲で伊予鉄道は大きな被害を受け,武智の自宅も全焼したが,ひるむことなく復旧に立ち上がり,市駅地下道を本拠として陣頭指揮をとり,数日後にほぼ正常に復せしめた武智の功績は大きい。終戦後は21年伊予鉄マーケット開業,22年軌道花園町線開通,25年本社・水駅新築落成,郡中線電化完成,29年森松線・横河原線ディーゼル車運転など,精力的に復興と輸送力増大を図り,これを実現した。また自動車時代の到来をすばやく予見し,バス路線の拡大をはかる一方,トラックの中予運送会社を傘下に収めた。苦労したのは労働開題であったが,武智はその重要性を認識して昭和22年同志と図り,愛媛経営者協会を設立し,会長に就任した。そのほか昭和21年10月,松山商工会議所の初代会頭に選ばれ,同22年1月には県商工会議所連合会の初代会頭に就任した。また昭和28年,南海放送の設立に参画し会長に就任したが病死するまでの約2年間無報酬で通しかことは有名な話である。野人の風貌と多才な趣味人(ダンス・ゴルフ・長唄・釣りなど)の両面をもつ魅力ある経営者として広く世人の敬愛をあつめた。人情に篤かった。昭和30年11月9日,現職のまま64歳で病死。

 武知 五友 (たけち ごゆう)
 文化13年~明治26年(1816~1893)漢学者。文化13年4月1日,松山藩士武知矩方(朴斎)の子として生まれる。名は方獲。字は伯慮。幼名を清太郎,号は五友,愛山,清風などと称した。幼時より学問が好きで近藤逸翁について学び,長じて日下伯巌に師事し,藩校明教館に入る。天保10年江戸に上って昌平黌に入り,天保13年帰藩して大小姓となり,明教館で程朱を講ずる。維新後は職を辞し,明治5年上高柳村,更に三津,明治15年には郡中に私塾を開き子弟の教育に当たる。当時教えを乞う者は150人に及んだ。五友は正岡子規の師でもある。人となりは簡直で気骨があり,うわべを飾らず,洋風を好まず,流行を追わなかった。博学で,詩文・和歌・書画にも堪能で遺墨も多い。明治26年1月3日,76歳で死去。墓は伊予市栄養寺にある。

 武智 惣五郎 (たけち そうごろう)
 明治19年~昭和37年(1886~1962)南伊予村長として大谷池の開発に尽くした。県会議員。明治19年1月14日伊予郡上三谷村(現伊予市)で生まれた。同40年南伊予村書記になり,収入役・助役を経て大正10牛10月村長に就任,15年まで在職,その後昭和4年11月再び村長に返り咲き21年11月までその職にあって村政に尽くした。その間,伊予郡購買組合連合会長をはじめ各種産業組合の役員を務め,伊予郡町村会長や全国町村長会理事などに推された。町長として特筆すべき功績は大谷池の開発で,生涯を賭して種々の難関を乗り越え,昭和7年県営事業として工事を開始,戦時下の苦難を克服して20年3月に完成させた。大谷池の堤防には長年の功労とその徳をたたえて頌徳碑が建てられた。昭和15年12月県会議員補欠選挙で議席を得,21年12月まで在職した。党派は民政党に属し,武知勇記を後援した。昭和30年伊予市の発足に伴い,初代の市議会議長として市政の発展を見守った。昭和37年8月30日76歳で没し,伊予小学校の校庭に胸像が建てられた。

 武智 太市郎 (たけち たいちろう)
 慶応3年~昭和12年(1867~1937)浮穴村長・地方改良功労者,県会議員。慶応3年11月26日下浮穴郡森松村(現松山市)で生まれた。明治33年学務委員,36年助役を経て37年4月浮穴村長に就任,以来昭和7年まで長期間にわたって村政を担当した。村長就任当時浮穴村は貧村で税の滞納者が多かったので,勤倹貯蓄組合を設け農事の改良を督励して農家経済の挽回に努め,35年には他町村に先駆けて納税組合を設けて徴税方法の改善を図った。こうした事績で大正7年地方改良功労者として県知事表彰を受けた。温泉郡畜産組合長,伊予繭糸蚕種販売組合長などを歴任,昭和5年5月~6年9月短期間ながら県会議員に在職した。昭和12年9月14日,69歳で没した。

 武智 二鶴 (たけち にかく)
 安政5年~大正13年(1858~1924)神職,俳人。本名は盛榮。二鶴は俳号。安政5年5月13日生まれ。伊予郡松前町西古泉の玉生八幡大神宮社宮司。当地の庄屋役の野沢喜久三朗が松楽庵二鶴と号して俳諧を指導していた後をついで,松楽庵二代二鶴と称した。玉生八幡大神社絵馬殿に,追善発句奉納永頷がある。
辞世 色替へぬ松にも秋の夕かな 二鶴
大正13年1月17日,享年65歳で没した。

 武智 雅一 (たけち まさいち)
 明治8年~昭和31年(1875~1956)松前町長。明治8年8月29日,伊予郡北黒田村(現松前町)で武智又二郎の長男に生まれた。政治家を志し東京専門学校(現早稲田大学)に学んだが,父病没のため志半ばで家業を継がねばならなかった。村会議員・郡会議員を経て昭和2年1月松前町長に就任した。以来13年4月まで3期12年間松前町の発展のため尽力,工場誘致に命運をかけ,12年東洋レーヨン愛媛工場の誘致に成功した。昭和31年1月17日,80歳で没した。 27年町制30周年記念祭典に際し,松前町役場前に銅像が建立された。

 武智 雅一 (たけち まさかず)
 明治38年~昭和59年(1905~1984)教育者。明治38年12月17日,温泉郡久米村高井(現松山市)で生まれる。旧制の松山中学校から松山高等学校,京都帝国大学文学部を卒業する。昭和8年から46年まで,松山高等学校,愛媛大学文理学部,法文学部の教授を務める。退官して名誉教授となる。その間,愛媛大学図書館長や愛媛国語国文学会会長を歴任し,県教育文化賞を受賞する。専門は万葉集と子規短歌の研究で,著書には『熟田津之歌私考』『子規と万葉集』があり,にきたづの位置については和気堀江説をとり,論戦をはった。性来,豪放らいらくで,斗酒なお辞せない人物として多くの人々より愛せられた。昭和59年12月31日,79歳で死去。

 橘  華子 (たちばな かし)
 明治17年~昭和41年(1884~1966)俳人。温泉郡浮穴村井門(現松山市)に生まれる。家は農家で,早くから浮穴村の役場に勤める。独学で
俳句を学び,のち高浜虚子に文通で指導を受ける。昭和24年「ホトトギス」2月号の巻頭句を飾る秀句により,ホトトギス同人に推薦された。波多野晋平をたすけ俳誌「柿」の課題句選者となったこともある。昭和41年5月2日死去,82歳。

 橘  公業 (たちばな きみなり)
 生没年不詳 鎌倉時代の宇和郡の地頭。右馬允橘公長の子。小鹿島姓を名乗ることもある。橘氏は,もと平家の家人であったが,源平合戦の最中に源氏方に身を投じ,数々の軍功をあげた。鎌倉幕府成立後は,公業も有力御家人の地位を確保し,鎌倉に常駐して諸行事に参加した。奥州藤原氏の討伐の際に勲功賞として出羽国小鹿島(現秋田県男鹿半島)を与えられ,承久の乱後は,長門守護,薩摩守,下野守等を歴任した。 橘氏と宇和郡のつながりがどのようにして生じたのかは明らかではなく,先祖橘遠保が藤原純友を討取って以来宇和郡に居住したとも,源平合戦後頼朝から宇和郡地頭職を与えられて以来ともいう。嘉禎2年(1236),伊予知行国主西園寺公経の要求によって地頭職を停止せられ,そのかわりに肥前国長島荘(佐賀県武雄市)を与えられた。一族の主力はそちらへ移ったものと思われる。

 橘  遠保 (たちばな とうやす)
 生年不詳~天慶7年(~944)天慶3年(940),遠江掾として平将門の乱の鎮定に功績があり,賞せられた。続いて翌4年6月,伊予国警固使として,大宰府での戦いに破れ,逃げ帰って来た藤原純友らと合戦し,純友および息子重太丸を斬殺,翌月首を都に届けた。この時散位とみえる。純友誄伐の功により与えられた所領が後の宇和荘であると伝えられるが,その前身は純友の私営田ではなかったかともいわれる。天慶7年(944)2月6日夕刻,帰宅途中に斬殺された。この時美濃介。事件の背景に純友残党の関与を考える見解もある。

 立川  明 (たつかわ あきら)
 明治32年~昭和51年(1899~1976)実業家,県議会議員・議長。明治32年6月22日伊予郡松前村(現松前町)で生まれ,温泉郡三津浜町(現松山市)立川家の養子になった。松山中学校を中退して缶詰製造販売業を始め,昭和6年以来映画館新栄座を経営した。14年~19年松山市会議員になり,戦後22年4月県会議員に当,30年4月まで連続2期県議会に在職した。その間23年5月~26年3月,26年5月~27年5月議長の重責を担った。また愛媛民主党幹事長として戦後保守政界の先頭に立ち,白石春樹らと反青木知事勢力を形成した。25~26年松山商工会議所会頭・県商工会議所連合会会頭に推された。 30年5月松山市長選挙に出馬したが,黒田政一に敗れ,政界から退いた。中央愛媛新聞社を経営したが,晩年は不遇だった。昭和51年2月16日,76歳で没した。

 谷  世範 (たに ぜあん)
 天保11年~大正7年(1840~1918)宇和島藩医。天保11年3月8日,宇和郡平城村(現南宇和郡御荘町)で医師山本文碩の子に生まれた。幼名文策,字は子木,通称を世範また諒亭と称した。5歳のとき父を失い困窮したが,母方の叔父岡村松軒の下で医術修行をした。 18歳のとき砂沢杏雲の門に入って蘭医学に触れた。翌年杏雲に従って江戸に行き,竹内玄同の門に入り,傍ら蘭学を学んだ。慶応元年岡村松鶴と名乗り,長崎留学中後継者に窮していた藩医谷決堂から養子縁組みの申し込みがあり,慶応2年帰国と同時に谷家に入籍した。藩の種痘医を拝命し,明治元年には箱館出兵の軍医になった。4年宇和島藩医学校・病院設立とともに教授になり,7年県から委託されて松山病院収養館の開設に奔走,直医として勤務した。8年八幡浜に私立病院を開設,傍ら医学塾を開いて医学生を養成した。明治30年医業を長男谷泰吉に譲って隠居した。大正7年11月25日,78歳で没した。

 谷  了閑 (たに りょうかん)
 宝暦元年~文化2年(1751~1805)宇和島藩儒医。三代目了閑(諡号「玄津院誠誉諦念居士」)の息。
 谷家は,代々藩医中最高の禄高と特別処遇を受ける家柄であった。四代目了閑,本名は哲斎。了寛,了簡伯行,南嶽,槐堂と号した。藩内にあっては,儒学を研学安藤陽洲に受け,大坂,京都,江戸に遊学して蘭医学を修めた。
 安永3年(1774)家業相続,同8年「丁閑」襲名,天明2年には「法橋」に叙せられ,「藩御医師座上」に任ぜられた。藩主村候,村寿の信任はきわめて厚く,侍医を務め,藩内医療,後進指導にもあたった。
 著書に享和元年刊行の『養生談』がある。了閑は,儒学,書道,篆刻にも造詣が深かった。文化2年9月17日死去。
 諡号「定誉法橋谷信大徳」宇和島市内霊亀山大超寺に埋葬された。

 谷口 泰庵 (たにぐち たいあん)
 天保6年~明治24年(1835~1891)宇和島藩蘭方医。天保6年,代々小児科御番医として医家相続してきた谷口家に生まれた。幼名泰元。初め大洲の鎌田玄台に学び,嘉永元年江戸の伊東玄朴に入門して蘭医学を修業した。安政4年父右庵の死去で跡目相続,種痘医に任ぜられ,祖父の名泰庵を継いだ。,慶応3年長崎に赴き蘭医ポードワインについて実習した。明治4年宇和島藩の医学寮一等教官になり,廃藩ののち神山県病院長,ついで県立松山病院医官,医務取締として防疫医療と後進の指導に当たった。明治24年10月56歳で没した。養子谷口長雄は熊本医学校を創設した。

 谷口 長雄 (たにぐち ながお)
 元治2年~大正9年(1865~1920)医学者・熊本医学校校長。元治2年4月6日,宇和島藩士告森桑圃の三男に生まれ,藩医谷口泰庵に望まれ養子になった。松山中学校を経て明治23年東京帝国大学医科大学を卒業した。翌年本県に帰って県立松山病院長になり外科手術など近代医術を導入した。 28年熊本県立病院長に転じ翌年熊本医学校創立と共に校長に就任,熊本医科大学に発展する基礎を作った。 35年ドイツに留学してベルリン大学で内科学・動物学を研究,帰国後風土病肺ジストマ及びフィラリア症の究明に努め,39年医学博士になった。大正9年1月14日,54歳で没した。熊本医科大学(現熊本大学医学部)の校内にその功績をたたえて銅像が建てられている。兄告森良・清水隆徳は官界・政界で活躍した。養子谷口彌三郎は日本医師会長などを務めた。

 谷本 義光 (たにもと よしみつ)
 明治31年~昭和53年(1898~1978)県議会議員。明治31年2月5日喜多郡肱川村名荷谷に生まれる。宇和川北尋常小学校卒業後,農業に従事しながら同僚と夜学に励み,自主共同研修により充実した青年期をすごす。 28歳で宇和川村会議員に当選。その後同村の助役を努め合併肱川村の建設に尽力する。肱川村成立後は村会議員となるが,戦後は村長となり,町内4小学校校舎改築,大洲高校肱川分校の設立に努力する。昭和22年より2期8年愛媛県議会議員となる。その間,農林業の振興に力を尽くすが,とくに肱川木炭の声価を高らしめる業績は大きい。農林大臣表彰を受け,昭和47年には勲五等瑞宝章も受章する。また正山小学校下には記念碑が建立されている。昭和53年4月15日, 80歳で死亡。

 種田 山頭火 (たねだ さんとうか)
 明治15年~昭和15年(1882~1940)俳人。本名は正一。山口県防府市で明治15年12月3日生まれ。破産,事業の失敗で一家離散し,大正13年熊本の報恩寺で禅の修行をし,翌年出家した。味取観音寺守となったが,1年余でこれを捨て行脚に出る。俳句は大正3年から荻原井泉水に師事して「層雲」に投句していたが,以後の流浪の旅は彼の自由律俳句に深みと真実味を与えることとなる。九州・中国を行脚し,一時山口県小郡の其中庵に入ったこともあるが,昭和14年10月1日,高橋一洵・藤岡政一・大山澄太の計らいで松山に来て,野村朱燐洞の墓に詣で,四国を一周して12月15日,松山北郊御幸寺境内の一草庵(後に大山の命名)に入った。行乞,句会,酒と,山頭火はここで初めて落ち着いた晩年の生活ができるようになる。 15年10月10日の夜,句会「柿の会」の後,酒に酔って寝込んだ山頭火は,そのまま望みどおりの「ごろり大往生」を遂げた。翌朝4時頃(昭和15年10月11日)と推定されている。 57歳。句集『草木塔』のほか日記集『愚を守る』『あの山越えて』等があり,作品のほとんどは『定本山頭火全集』全7巻に収められている。

 玉井 浅一 (たまい あさいち)
 明治35年~昭和39年(1902~1964)軍人。松山中学校を経て大正13年海軍兵学校を卒業し,少尉候補生時代は「浅間」に乗り組んだ。その後航空に転じ,戦闘機操縦技術を練磨した。昭和16年9月には筑波海軍航空隊飛行長兼教官を,同17年4月には第6航空隊飛行長を,同18年9月には第204航空隊司令を歴任した。同年10月には第263航空隊司令となり,同隊を松山市吉田浜に開隊して指揮下の零式戦闘機の猛訓練を開始した。サイパン島が玉砕した同19年7月,在比島の第201航空隊副長となる。10月25日,海軍神風特別攻撃隊が初めて米空母群に体当たり攻撃を敢行したが,その隊員はかつて263空において鍛えた愛弟子達で,彼等に祖国の命運を託したものであった。またこの隊長には同郷の後輩の関行男大尉を選んだ。同20年2月には第1航空艦隊司令部付,つづいて第205航空隊司令を歴任して終戦を迎え,大佐に昇 戦後は同21年2月から6月まで,松山地方復員人事部に勤務し,復員業務に従事した。同39年12月没。享年62歳。

 玉井 修立 (たまい しゅうりつ)
 文化2年~明治7年(1805~1874)儒学者。今治藩士で,通称は吉衛。年17歳で江戸の昌平黌に入り,帰郷して藩校克明館の教授となる。のち学頭に進み,藩主世嗣の教養につとめる。明治元年参謀となって藩主に従って京都に出陣し,朝廷に仕えた。廉直な人柄で公に尽したので今治藩大いに振いたったという。明治7年3月,伊勢の雲津で客死する。 69歳。

 玉井 千蘿 (たまい せんら)
 文政6年~明治40年(1823~1907)俳人。文政6年11月10日伊予郡松前村(現伊予郡松前町)の商家,久米蔵の長男として生まれる。通称は源七郎,鶴屋卯兵衛。桂迺舎宗匠ともいう。幼時より学問を好み,独学で学殖を深め,嘉永2年より伊予郡余土村(現松山市)に招かれて村内の子弟を教育すること8年,のち,父が死んで家に帰り商業のかたわら松前町で私塾の教師をつとめ,後小学校の教師となる。仲田蓼村に師事し,中予地域俳壇の指導者となる。奥平鴬居・大原其戎とも親しく,「花の曙」の選者補助にもなる。草書にすぐれ,奉納掲額17面,月刊雑誌「松の美登里」肖像入り句集『連縁集』を刊行する。明治40年6月11日,83歳で没す。

 玉井 卓一 (たまい たくいち)
 万延2年~大正13年(1861~1924)愛治村長・県会議員。万延2年1月23日宇和郡上畑地村(現津島町)吉良宗馬の次男に生まれ,明治7年清水村(現広見町)玉井安蔵の養子になった。養父は県会議員・衆議院議員を務めた。明治23年愛治村(現広見町)会議員に当選,大正3年1月まで6期連続当選した。明治27年2月愛治村長に選ばれたが,9月辞任した。明治32年9月~44年9月県会議員に連続3期在職,最初愛媛進歩党に所属したが,のち政友会に変わった。大正元年9月~4年5月再び愛治村長に就任して村政を担当,地方産業の振興,交通機関の整備,村有林の造成,区長の設定などを図った。特に愛治村経由日古線道路改修の実現に尽力した功績は大きかった。大正13年11月14日,63歳で没した。昭和3年愛治小学校下に記念碑が建てられた。

 玉井 春枝 (たまい はるしげ)
 文政6年~明治4年(1823~1871)神道家。和気郡山越村(現松山市)還熊八幡神社の南社家玉井順応の次男に生まれた。名は清太郎・数馬・勘解由,大弘・大綱と号した。幼少より学問を好み,国学に精通し,諸国の勤皇の志士とも交わった。元治元年3月,国情を憂いて堀内匡平とともに時事を歎いた一文を草し,これを松山札之辻と町奉行所に掲げたために,藩政非難の嫌疑によって捕縛された。ために松山城北郭に幽閉されるが,慶応2年に許され,松山藩校明教館の皇典科・所長に任ぜられた。明治4年12月,48歳で没した。箸書に『報告論』がある。

 玉井 正興 (たまい まさおき)
 嘉永4年~明治39年(1851~1906)弁護士,県会議員。嘉永4年12月8日,久米郡松瀬川村(現温泉郡川内町)で玉井正員の次男に生まれた。代言人の資格を得,明治19年2月県会議員に選ばれ,32年9月まで連続して議席を保持した。その間,大同派一自由党の活動家として藤野政高らと行動を共にした。明治39年2月19日,54歳で没した。

 玉井 安蔵 (たまい やすぞう)
 天保6年~大正9年(1835~1920)県会議員・衆議院議員。天保6年6月1日宇和郡清水村(現北宇和郡広見町)で庄屋玉井常四郎の長男に生まれた。維新後,父のあとを継いで里正・戸長を勤め,明治13年3月県会議員となり, 25年まで途中補欠当選の場合もあったが,ほぼ連続して県会にあった。15年9月郷里清水村農民から無役地返還を求めて訴えられ,地主側の代表として無役地事件にも関係した。 21年国会開設を前に本県でも政治運動が活発になると,宇和島地方の大同派の有力者として坂義三・山崎惣六らと党勢拡張に奔走した。 25年2月の第2回衆議院議員選挙第6区で自由党から推されたが堀部彦次郎に敗れた。 27年3月の第3回衆院選挙で当選したが,僅か3か月で衆議院解散となり27年9月の第4回選挙には資金難を理由に出馬を辞退した。その後,宇和島運輸会社・愛媛県農工銀行・宇和島銀行などの重役や郡農会会長を歴任し製紙会社を創設するなど,南予の産業経済の発展に努めた。かたわら軍人遺族授護会・海員披済会など,福祉の増進にも貢献した。晩年家を嗣子に譲り隠居して宇和島に居住した。大正9年1月5日,84歳で没した。

 玉井 吉久 (たまい よしひさ)
 弘化3年~明治44年(1846~1911)戸長・県会議員・弘化3年5月7日,喜多郡新谷村(現大洲市)の庄屋の家に生まれた。村の里正,維新後戸長を務め,明治12年2月県会開設と共に議員に選ばれたが13年8月退いた。その後も14年4月~17年5月,20年1月~21年3月,27年3月~30年10月と県会議員に在職し,党派は改進党に所属した。32~40年には喜多郡会議員であった。明治44年4月20日,64歳で没した。

 玉貫  寛 (たまき ひろし)
 大正5年~昭和60年(1916~1985)医師,作家。大正5年松山に生まれる。京都帝国大学医学部を卒業し,昭和16年軍医として応召,満州に赴き,同20年高知へ転属,終戦を迎える。戦後,同21年松前町東洋レーヨン附属病院に勤務し,外科医として〝盲腸の玉貫〟と異名をとる卓抜した技量をもっていた。同28年開業し医師会理事として健保行政に尽力する。松山中学入学前から俳句に親しみをおぼえていたが,兄の公寛の影響で本格的にはじめたのは京大へ入ってからである。山口誓子主宰の「天狼」に参加したり「炎昼」にも加わる。
 第81回芥川賞候補となったのは「蘭の跡」で寛の63歳の作で,季刊「芸術」の冬号に発表されたものである。昭和40年には文芸同人誌「文脈」に加入し,同人となる。明快で端正なものを好み,作風にもそれがみられ,晩年は病臥にあって気魄でもってしなやかに躍動するものがあった。昭和60年5月20日, 69歳で没す。没後,同61年,第一回愛媛新聞出版文化賞特別賞をうける。著書には『罪業』『交響』などがある。

 玉田 栄二郎 (たまだ えいじろう)
 明治12年~昭和39年(1879~1964)郷土史家。明治12年9月1日岐阜県大野郡丹生川村634に生まれる。今治地方考古学の開拓者。明治25~29年丹生川村白井小学校教員。同34年3月岐阜県立斐太中学卒業,同年4~9月大野郡高山小学校代用教員。同9月国学院本科入学,同37年7月卒業。 38年1~7月路鉱学堂(私立清国留学生養成所)講師嘱託。明治38年~昭和10年7月県立今治中学校教諭,同7月~昭和16年3月同校嘱託。昭和22年4月~昭和32年12月今治明徳高等学校教諭。今治での教職50余年,高潔な人格と情熱溢れる態度で生徒を導き,郷土史研究ことに考古学的探究と古文書調査に全生涯を捧げる。昭和4年今治市で開いた講座を『今治市・越智郡郷土史要』として出版。今治史談会を率いて展墓会を組織,昭和7年『今治郷土人物誌』を刊行。後に県指定史跡とされた「伊予阿方貝塚」や国宝に指定された玉川町の「奈良原山経塚遺物」の最初の発掘調査結果を『考古学雑誌』に報告し,また「伊予史談」にも「桜井町発掘古銭調査」などの寄稿が見える。昭和39年3月25日没。享年84歳,今治市風早町4丁目満勝寺に葬られる。

 玉柳  実 (たまやなぎ みのる)
 明治36年~昭和35年(1903~1960)内務官僚・県農地部長・経済部長,参議院議員。明治36年10月27日,温泉郡味生村南斎院(現松山市)で玉柳政吉の長男に生まれた。松山中学校を経て大正12年,大阪高等商業学校(現大阪市立大学)を卒業した。内務省に入り,岩手県・北海道の食糧課長,厚生省各課長,興亜院北京駐在一等書記官,福島県経済部長などを歴任した。戦後,郷里に帰り愛媛県農地部長・経済部長になった。昭和26年5月久松定武知事当選に伴う参議院議員補欠選挙に自由党から推されて無投票当選,残りの任期2年間在職した。以後,松山市で弁護士を開業した。昭和35年3月15日,56歳で没した。

 丹  美園 (たん みえ)
 文政8年~明治8年(1825~1875)教育者。文政8年。熊本藩士野津隆岱の娘として江戸永田町細川公邸内で生まれる。父は漢学者で「鎮山人」と号して南画も描いた。6歳のとき父が死去し,兄の玄貞が家督を継いだ。兄は佐久間象山の門弟であった。美園の夫である小松藩士丹信積は,近藤篤山の高弟であった。天保14年,19歳で信積と結婚し翌年,娘の文が生まれる。夫妻ともに俳諧もよくしたようで,嘉永4年に出た小松藩士で俳人の長谷部映門の句集「別れ霜」には二人の句が出ている。また夫妻は能筆で習字の手本も共同作成する。安政5年江戸詰めを終えて信積と美園は小松に帰る。帰藩して丹屋敷で婦女子のみを教える寺子屋を開いた。これは近代愛媛の女子教育草創のことである。妻の名で自宅に寺子屋をひらくことは,失信積の格段の理解と当時の小松藩一柳頼紹のひごがあったことはいうまでもない。美園は「美人であるとともに博学で,いろいろな芸事もよくでき,御殿にあがって姫君や奥女中たちに教えていた」という云い伝えも残っている。美園の教育信条には近藤篤山の「四如の喩」があったと考えられる。明治4年の廃藩後も寺子屋をつづけ,学制頒布後毛「女児校」として公認される。明治6年,県内69校の小学校のうち女児校は4校があったが小松の女児校は77名の女生徒がいたという。このように小松における女子教育機関は県内第一号としての美園の寺子屋創立にあったといえよう。明治8年12月,5O歳で病没し,小松町藍刈の丹家墓所内に夫の墓とならんで葬られている。

 丹下 光亮 (たんげ みつすけ)
 文政4年~明治11年(1821~1878)今治藩心学者。今治藩士以心流剣術指南役丹下光明の次男として文政4年5月5日に生まれた。幼名は巳之助,長じて環,兄早世のため家を嗣ぐ。8歳藩校克明館に入った。このころ父死亡。釣りに出て日射病にかかり併せて跛となる。剣術を捨て学問を志願,22歳,心学に志し,大島巡講中の田中一如に入門,六行舎生として修行,弘化3年(1846)12月「三舎印鑑」を受け,講舎に「新民舎」の舎号印可。以来藩主邸,町方役人,越智郡各地を道話巡講,松山心学と緊密に連絡をとりつつ,江戸より参前舎都講松山寂庵などの心学の大家を招くなどして地域に心学の普及をはかった。安政2年(1855)9月1日大島庄屋池田僖左衛門の招請により,藩許を得て新民舎を犬島に移し,心学を講じ,その普及をはかり庶民教育に専念した。
 光亮は後継者の養成に意を用い,広瀬忠兵衛,夏目右京らに三舎印鑑を受けさぜ代講を務めさせ,いかなる階級,身分性別を問わず来り学ぶ者を平等に教えた。従って農民,神職,僧侶,女性ら各層の入門者相つぎ門弟350余名に達する盛況であった。その上,寺子屋方式を採用し,漢学,書道,算盤等も指導した。
 安政3年には菊間より妻を娶り,松山六行舎主近藤平格亡き後は,伊予心学の最高指導者として松山領内にも心学を講じ,新民舎は繁栄をきわめた。
 明治維新後講舎が廃止され,明治3年(1870)9月11日今治刑法局北新町徒刑者教諭方に任命され,明治9年光亮が中風で倒れるまで教えを請う者が相ついだ。著書に『順邑記并旅宿簿』,『教論録譬論之分』,『心学要語集』がある。
 昭和53年,住民等光亮の徳を称え大島吉海町に頌徳碑を建立した。

 丹下 光精 (たんげ みつやす)
 文政7年~明治29年(1824~1896)歌人。文政7年8月1日今治城三之丸に生まれる。名を重次郎と称したが,のち喜右衛門と改め,致仕して逸翁と号した。父は今治藩の剣術指南役丹下光長で,その次男である。光精も武技に秀れるとともに,俳諧,歌道をたしなみ,文武両道の達人であった。明治4年以降悠々自適の生活に入ったが,交友の文士も多く著書には『藻塩草』『陸奥土産』『薩摩日記』『長夜のつれづれ』など20余種がある。明治29年10月27日死去,72歳。墓は今治市風早町の西蓮寺にある。

 丹波 南陵 (たんば なんりょう)
 享保15年~天明8年(1730~1788)儒者。名は成善のち成美,字を収蔵初め順長と称した。号は南陵である。剔髪して京都に赴き,医学を学ぶ。また伊藤東所(仁斎の孫)の施政堂に学んで,古学派の儒学を修める。学成って帰り,藩命によって蓄髪して藩の書簡役となる。安永4年9月,藩主定静は文武奨励策を発表した。この中で家中に対する教授制度を確立し,三の丸大広間で月3回あて,経書の月次講義を始めさせた。この儒者4人の中に彼が選ばれている。作兵衛が餓死してから45年後に当たる安永5年,藩は義農作兵衛の事績を永久に顕彰するため,頌徳碑を建立し,翌年完成した。作兵衛頌徳の撰文は彼の作成したものである。天明8年58歳で没した。

 擔   雪 (たんせつ)
 元治元年~昭和19年(1864~1944)小松仏心寺(臨済宗)の僧。諱は物初,至道・擔雪軒と号する。元治元年愛知県中島郡大里村加藤彦左衛門の三男として生まれる。17歳で愛知県清洲総見院樵山を師として得度,20歳のとき本山妙心寺大教校に入って内外典を攻究する。 22歳で業を終えると美濃虎渓山専門道場に入り,34歳でついに毒湛の印可を受けて嗣法する。明治30年のことである。同年,もと小松藩主一柳氏の菩提寺に請ぜられ,教化は東予地方を中心に中予にまで及んだ。大正10年臨済宗大学学長に任ぜられ,やがて虎渓山永保寺に住し,さらに,昭和8年南禅寺派管長に補せられたが,昭和15年病を得て退任,以後仏心寺に自適の生活をおくり,同19年遷化,80歳,墓は仏心寺と虎渓山にある。遺著に『指雪軒老大師語録』がある。

 太宰 孫九 (だざい まごく)
 明治12年~昭和17年(1879~1942)宇和水電会社を中心に事業を拡大,のち伊予鉄道会社社長,県会議員・衆議院議員。明治12年10月8日北宇和郡大内村(現三間町)で旧庄屋太宰文治郎の長男に生まれた。大分尋常中学校(現上野ヶ丘高校)を経て金沢の第四高等学校に入学したが,33年の父死去により退学して帰郷,家督を継いだ。 39年村会議員となり,41年渡辺修・今西幹一郎らと宇和水力電気会社を設立して常務に就任,43年12月から二名村村長になって村政を担当するかたわら,大正4年宇和製氷会社・宇和島畜産会社,5年宇和島製糸会社,6年宇和島木材会社など次々と事業を拡大して取締役・社長に就任した。大正6年7月県会議員になり12年9月まで在職して,10年12月には副議長に選ばれた。13年5月第15回衆議院議員選挙第7区で政友本党から出馬して当選したが,代議士在職中宇和水電を伊予鉄道電気会社に合併して副社長に就任,宇和島製氷冷凍会社を設立して社長になり,穂積銀行の頭取に推されるなど実業面で多忙を極めたので,昭和3年2月の第16回衆議院議員選挙には立たなかった。8年6月井上要引退の後を受けて,伊予鉄道電気会社社長に就任した。 17年3月電力統制法で同社の電気部を分離して運輸部門による新会社伊予鉄道会社を創立,初代社長に就任した。昭和17年11月27日63歳で没した。伊予鉄道社葬・二名村葬の後,祖父ヶ峰の墓地に埋葬された。

 太宰 游淵 (だざい ゆうえん)
 生年不詳~寛永15年(~1638)北宇和郡成妙村(現三間町)の生まれ。名は義祐,もと宇和郡の領主西園寺公廣の家臣であったが天正年間に主家滅亡し,游淵は農業にかえり,成妙村に居住した。後宇和島藩伊達秀宗より仕官をすすめられたが,二君に仕えずとしてこれを固辞して生涯,地方の開発,農事の改良に尽くす。寛永年間ころより,この地方は用水に乏しく年々旱害を受けてきたが,游淵はこれを憂い大用水池を造るべく八方奔走して.4か年の歳月を経て,ついに中山池を掘設した。游淵はこの池の竣工するにあたり,自ら人柱に立ったものと伝えられ,墓が池の畔りの小丘にある。寛永15年4月10日死去。池畔に頌功碑が建てられている。

 伊達 順之助 (だて じゅんのすけ)
 明治25年~昭和23年(1892~1948)軍人。明治25年1月6日,宇和島藩八代藩主伊達宗城の孫で,東京に生まれる。剣道・拳銃・馬術にすぐれていた。東洋哲学,王陽明の思想を学び,近衛篤麿らと粛親王の清朝回復運動に奔走し,大正13年,満州馬賊,蒙古軍,大陸浪人,予備役陸軍将校,下士官を糾合して,「満蒙決死団」を結成して,東北軍閥の総帥張作霖の暗殺を企図して失敗する。のち張作霖の軍事顧問になったり,満州国軍中将,山東自治連軍総司令・大将となって3万余の軍勢を率いて全満州で日本軍の別動隊として活躍する。昭和6年には中国に帰化して張宗援と称し,同7年満州国建国とともに陸軍少将となる。同12年退役して山東省で「山東自治連軍」を結成し,日本の大陸経営に陰の力となって活躍する。5・15事件で陸軍士官学校を追われた篠原市之助(川之江市出身)は自治連軍の参謀長であった。生涯を大陸に身を置き,〝満蒙〟の独立運動に活躍したが,第二次世界大戦後,中国の上海監獄で戦犯として処刑された。昭和23年9月9日56歳のことである。壇一夫の著『夕日と拳銃』のモデルともなった人物である。

 伊達 武四郎 (だて たけしろう)
 慶応4年~41年(1868~1908)衆議院議員。慶応4年8月13日,宇和島で旧藩主伊達宗徳の四男に生まれた。 19年3月ドイツへ留学,ベルリン大学ついでライプチヒ大学に学び,ドクトル・ユーリスの学位を受けた。またイギリスにも留学し,29年9月帰国した。 35年8月第7回衆議院議員選挙に際し,郷党の依頼で無所属で立ち最高点て当選して国会議員になり,36年3月第8回衆議院議員選挙でも再選された。 38年9月伯爵松浦詮の娘と結婚して一家を立てたが,明治41年7月25日,39歳の若さで没した。

 伊達 秀宗 (だて ひでむね)
 天正19年~明暦4年(1591~1658)宇和島藩1O万石の初代当主。幼名を兵五郎といい,義山と号した。天正19年9月25日,伊達政宗を父とし吉岡局を母として生まれた。文禄3年(1594)秀吉に謁見しその人質となる。文禄5年秀吉の猶子となり,聚楽第で元服,秀吉の一字を賜って秀宗と称し,従五位下侍従に任ぜられた。慶長5年(1600)関ヶ原の戦の時,父政宗は東軍として上杉景勝討伐に参加,秀宗は人質として宇喜多秀家の邸に止められた。慶長7年伏見においてはじめて家康に謁見,つづいて江戸に移った。この時,政宗は秀宗の守役に細かな教育方針を指示している。慶長14年(1609)彦根藩主井伊直政の娘と結婚する。慶長19年(1614)大坂冬の陣に際し,父政宗とともに出陣する。同年12年28日,政宗の勲功と秀宗の忠義を賞し,宇和郡10万2,154石を与えられた。慶長20年-3月18日板島丸串城に入る。同年の夏の陣では在国している。
 入部時の家臣団は,給知侍200人余,同格扶持切米名侍480人余,足軽770人余であった。桑折左衛門を中心に,桜田玄蕃を侍大将,山家清兵衛を惣奉行とし,政宗より分けられた家臣を中核に編成されている。元和年間(1615~1624)に板島は宇和島と改称され,寛永年間(1624~1644)にかけて城下も整備されていった。元和4年(1618)藩政の重点として,地方知行,大衆行跡,江戸元賄銀子をあげ,なかでも家臣団の統制を重要としている。元和6年山家事件がおこる。秀宗入部の時の諸経費は,父政宗よりの借り入れ金て充当したが,その返済方法で藩論が分かれた。結局山家清兵衛の意見で,政宗の生存中3万石を隠居料として送ることで結着した。この問題や大坂城石垣修築問題等がこじれ,山家清兵衛が秀宗の命で討たれた事件である。承応2年(1653),清兵衛のために山頼和霊神社が創建されている。在職中の御手伝普請としては,元和6年の大坂城石垣工事や寛永13年(1636)の神田橋石垣工事があり,軍役としては寛永14年島原の乱に出兵している。元和8年(1622)遠江守に任ぜられ,寛永3年(1626)従四位下となる。明暦3年(1657)致仕し,7万石を世子宗利(二代宇和島藩主)に,3万石を五男宗純(初代吉田藩主)に譲り,明暦4年6月8日江戸で死去した。家臣4名が殉死している。法名等覚寺殿義山常信大居士。宇和島の龍泉寺(のち等覚寺と改名)に葬られた。

 伊達 満喜子 (だて まきこ)
 安永7年~嘉永3年(1778~1850)古田六代藩主伊達村芳室。下総関宿城主久世広明の女。 17歳で村芳に嫁し,本間游清に和歌を学ぶ。文政3年28歳で夫に死別して出家し,香雲尼と称す。侍女に横山三千子(のち桂子)がいる。游清の編著『雑詠百首歌』『五百重波』は満喜子に供するためのものである。満喜子の歌も数子首あったというが,游清のすすめによってその中から70首ほどを選んで出版したのが『袖の香』である。風雅なサロンに生きただけでなく,游清らを用いて,国学の風を藩士にも興したという。嘉永3年12月72歳で没した。東福寺に葬られる。

 伊達 宗徳 (だて むねえ)
 文政13年~明治38年(1830~1905)宇和島藩第九代藩主。幼名扇松丸のち兵五郎。諱は初め紀周,宗周のち宗徳。文政13年閏3月27日,第七代藩主宗紀の三男として生まれる。天保8年(1837)第八代藩主宗城の世子となる。弘化3年(1846)従四位下,大膳太夫に叙任される。安政5年(1858)安政の大獄に関連して隠居した養父宗城の跡を継ぎ,遠江守と称す。同年侍従となる。流動する幕末維新の中にあって,養父宗城の政治活動を支え,藩内治に務めた。元治元年(1864)長州征伐にともない領内の伊方浦へ出陣している。明治2年(1869)宇和島藩知事となる。これと前後して数回藩職制の大幅な変更を実施し人材の登用を図ると共に,従来の十組による農村支配をやめ五郷に改編している。しかし明治3年大規模な世直し一揆である野村騒動かおこるなど混乱は続いている。明治4年7月15日廃藩置県に伴い知藩事を免ぜられ,東京に移る。明治24年帝国議会に名を連ねている。明治17年伯爵,同24年,養父宗城の勲功により侯爵となっている。官位も累進し明治33年従二位となった。明治36年宇和島に転籍,同38年11月29日死去,同日勲四等・旭日小綬章を授けられた。法名,霊照院殿旧宇和島城主正二位馨山宗徳大居士,金剛山大隆寺(現宇和島市)に葬られる。75歳。

 伊達 宗純 (だて むねずみ)
 寛永13年~宝永5年(1636~1708)伊予吉田藩初代藩主。幼名は長松のち小次郎。宇和島藩初代藩主伊達秀宗の五男として江戸藩邸に生まれる。母は吉井氏。明暦元年従五位下に叙され宮内少輔となる。明暦3年宇和島藩10万石のうち3万石を分知され吉田藩主となる。分知のいきさつは明らかでないが,秀宗の寵愛深く,その御墨付を受け,さらに仙台藩や彦根藩の仲介があって成立したものらしい。しかし,宇和島二代藩主の宗利は,秀宗が長病で筆のとれない状態であったとして,御墨付を偽物と考えており,両者の意見は対立している。万治元年より吉田陣屋および陣屋町の建設を始める。この年,酒井宮内大輔忠勝の娘と結婚。翌年古田陣屋に入る。幕府より3万石の朱印状を受けたのは,貞享元年のことであった。藩の草創期にあたり,また宗家宇和島藩との対立関係,さらに驕慢といわれた彼の性格もあいまってか,治世中は多事であった。万治元年分知とともに目黒山(現北宇和郡松野町)境界論争が藩段階の問題として浮上した。寛文5年幕府の決裁によりようやく落着している。寛文11年伊達騒動の関係者である伊達市正宗興(兵部の嫡子)の妻とその子息3人を預かる。これは吉田藩が願い出たものであり,仙台藩さらに伊達兵部との親密な関係を思わせる。延宝年間には高禄の家臣の整理を行っている。分知時,不相応に高禄の家臣をさしむけられていたこともあって,延宝元年1,300石取の家臣に暇を出したのを手始めに,次々に高禄の家臣に暇を出し,同時に知行高の制限を行っている。天和3年山田騒動が起る。もと土佐の浪人で医者であった山田仲左衛門が,宗純の病気治療に成功して召抱えられ,みるみる昇進して筆頭家老となって藩政を握った。これが発端で,仲左衛門暗殺計画とその失敗,さらに仙台藩への出訴事件がおこった。結局仲左衛門は専横の儀をとがめられ,仙台藩へ御預となった。この事件の事後処理は仙台藩の連絡で宇和島藩が執り行っており,宗家の発言権が増大したであろうことがうかがえる。
 対幕府関係では,寛文元年仙洞御所の御手伝普請を命ぜられ,巨額の費用を費やしている。寛文5年日蓮宗不受不施派の僧,日述と日完を幕命により預かる。天和2年朝鮮通信使の接待を命じられるなどがある。元禄4年致仕,宝永5年10月21日吉田にて死去した。享年71歳。法号大乗寺殿鎮山宗護大居士。墓は玉鳳山大乗寺(現北宇和郡吉田町)にある。

 伊達 宗紀 (だて むねただ)
 寛政4年~明治22年(1792~1889)幕末の藩政改革を推進した第七代宇和島藩主で書家。幼名は扇千代丸,扇松丸さらに主馬。実名は初め候止,宗正のち宗紀,蘭台・春山と号す。寛政4年9月16日六代藩主村壽の長男に生まれる。文化7年(1810)世子となり,同9年元服,同年,末に従四位下大膳大夫となる。文政7年9月12日放封,遠江守のち侍従となる。
 襲封とともに当時窮乏の極にあった藩財政の再建に取り組む。すでに倹約中であったが,文政9年より5か年の厳略(厳しい倹約),引き続き天保2年(1831)再度の5か年厳略を命じる。文政12年(1829)借財を無利息200か年賦償還とし,大坂商人の承諾を取り付ける。また,家臣の窮状を救うため,御貸下の米金・民間の相対借ともに20か年以前のものは引き捨てを命じる。一方殖産興業に意を用い,文政8年木蝋専売制を実施,同11年漁業振興のため船板用材の支給を増加させ,天保2年には農村復興のため内扮検地を命じている。さらに天保6年には融通会所を設立する。その他,木綿座・塩座・綿座・木地挽座・錫座などを興し,巨額を費した2度の御手伝普請をのり切って,借財の返済を進めた。天保14年天明以来郷中より差し出された御用金の返済を開始。隠退の時には6万両の蓄財が残ったと言う。新知識の吸収にも尽力している。天保9年藩士小池九蔵を佐藤信淵に入門させ,多くの経済書など信淵学の導入をはかり,同門の藩士若松惣兵衛を代官に抜擢している。天保13年には板倉志摩之助等を下曽根金三郎に入門させて砲術を学ばせ,弘化元年(1844)には火薬製造所を開設している。また,文武を奨励し,藩校明倫館に培寮・達寮の寄宿舎を設置すると共に,施設を拡充して藩士教育の充実をはかった。天保2年には伊達家刑律の改正を行っている。弘化元年7月16日致仕,養嗣子宗城に封を譲り,剃髪して伊予入道のち春山と称した。嘉永6年(1853)ペリー来航時の幕府の下間に対し,攘夷の不可能・期限を定めた貿易・武備の拡充・幕政改革を説き,将軍継嗣問題でも宗城と連携を保ちながら井伊直弼に働きかけている。明治7年(1874)6月以降は宇和島に定住した。翌年製産場が廃止になって以来,旧領内の田地や金禄公債の購入を行い,伊達家経済の確立に意を用いた。明治13年正四位,翌年従三位,同20年正三位,同22年正月従二位,同年11月25日正二位に累進し,同日死去した。享年97歳,百歳翁と称した。法名,霊雲院殿前宇和島城主春山宗紀大居士。宇和島金剛山大隆寺(現宇和島市)に葬る。

 伊達 宗利 (だて むねとし)
 寛永11年~宝永5年(1634~1708)宇和島藩二代藩主。幼名は犬松のちに兵助。寛永11年12月18日,初代藩主秀宗の三男として生まれる。兄達の死去で承応2年(1653)世子となり,翌3年従五位下,大膳太夫となる。明暦3年(1657)7月21日襲封。弟宗純に古田3万石が分知されたため,実質7万石の領主であった。万治元年(1658)美作国津山城主松平光長の娘稲姫と結婚,寛文3年(1663)侍従,遠江守となる。治世中,藩政各方面の整備が一段とすすめられた。前代からの土佐藩との境界論争があった沖之島と篠山の問題も,万治2年には幕府の裁許で解決している。新たに古田藩との間におこった目黒山境界論争も,寛文5年(1665)には決着を見ている。また寛文年間(1661~1673)には宇和島城の大改修を行い,藩主の居館である浜屋敷の築造も行っている。諸法令もこの治世中に定められたものが,多く後代の基本となっている。寛文10年(1670)から同12年にかけて行われた八十島治右衛門による内ならし検地は,鬮持制という独特の土地所有制度を生み出している。しかし,元和元年(1681)には「新古の未進三万石」を赦免しているように凶作が打ち続き,藩財政はかなりに窮迫し,度々の倹約令が出される状況になっている。元禄6年(1693)致仕して封を養嗣子宗贇に譲った。宝永5年(1708)12月21日宇和島で没す。享年74歳。法名,天梁院殿賢山紹徳大居士,等覚寺(現宇和島市)に葬られた。

 伊達 宗城 (だて むねなり)
 文政元年~明治25年(1818~1892)宇和島藩第八代藩主。文政元年8月1日,幕臣山口直勝の子として生まれる。幼名亀太郎,のち知次郎,兵五郎と改名した。実名宗城,藍山と号す。文政12年第七代藩主宗紀の養子となる。第五代藩主村候の子直清か山口氏へ養子となり,宗城はその孫であったと言う血縁による。天保5年元服し,従四位下大膳大夫に任ぜられる。天保11年佐賀藩主鍋島斉直の娘猶子と結婚する。天保15年襲封,遠江守に任ぜられ,弘化3年侍従となる。襲封以来,文武を奨励し,特に蘭学の導入に意を用いた。砲術では,板倉志摩之助を登用,弘化2年には,大砲鋳造所,火薬製造所を設立し,のち藩内砲術諸流派を威遠流に統一した。医学では伊東玄朴に学んだ冨沢礼中などを登用し,藩内に種痘所を設置している。嘉永元年高野長英を招いて蘭書の翻訳や教授を行わぜ,さらに同6年には大村益次郎を招いて同様の業務に従事させるとともに,軍艦製造の研究を行わせている。藩内からは前原巧山を登用して蒸気船の作成にあたらせ,安政6年に完成している。また産業奨励にも意を用い,安政3年物産方役所を創設し,また薩摩藩より田原直助を招き「宇和島出産考」を編纂させている。将軍家定の継嗣問題がおこると,松平慶永・山内豊信・島津斉彬らとともに一橋慶喜の擁立を図ったが不成功に終わる。安政5年,安政の大獄に関連して隠居,宗紀の三男宗徳にその職を譲り,伊予守と称した。文久2年11月朝命を受けて上京する。以来,幕末多端の折から,同3年11月,慶応3年3月,同年12月と4度の朝命をうけて上京している。その間,幕政参謀や朝政参与を命じられ,朝幕間で斡旋に尽力した。慶応3年12月28日新政府の議定となって以後。明治4年までの間に,軍事参謀,外国掛,外国事務総督,大阪裁判所副総督,外国官知事,参議,民部卿,大蔵卿を歴任あるいは兼任している。この間,明治元年には堺事件を処理し,明治2年には鉄道敷設資金を英国より借り入れるための全権を務めている。明治4年清国欽差全権大臣となり,日清修好条規を締結した。その後は,国事諮詢のため麝香間詰を主として務め,外国皇族の接待などにも従事している。明治22年勲一等に叙せられ,同25年従一位となる。同年12月20ロ東京今戸の邸にて死去。享年74歳。東京谷中の墓地に葬り,遺髪を宇和島龍華山等覚寺に葬る。法名,靖国院殿旧宇和島城主従一位勲一等藍山維城大居士。

 伊達 宗孝 (だて むねみち)
 文政4年~明治32年(1821~1899)伊予吉田藩第八代藩主。幼名,鎬之輔,伊織。楽堂と号す。文政4年3月17日,幕臣山口直勝の三男として生まれる。天保10年(1839)七代藩主宗翰の養子となる。山口家は3千石の旗本で,宗孝の祖父直清は,宇和島五代藩主村侯の次男であり,山口家に養子に行った関係があったためである。実兄(一説に実弟)の宗城は,この時宇和島藩第七代藩主宗紀の養子となっていた。天保14年6月24日,襲封,同年12月従五位下和泉守に叙任される。弘化2年(1845)若狭守となる。同年,日向国佐土原藩主島津忠寛の娘と結婚している。
 『落葉のはきよせ』に「好東厭西の性僻」と評されたのは,その経歴が旗本出身であったということに由来していると思われる。市井で評判の板前を御料理方に登用し小唄や端唄を好むなど,江戸風に浸り藩政を等閑にした。「いずくにか10万石に足らずの城を持たざる大名あらん」の言葉(同上書)は,10万石を継いだ兄宗城へのわだかまりがあったのかも知れない。宗城が尊王派として活動している時佐幕派の立場をとり,鳥羽伏見の戦でも動かず朝廷の疑惑を招いた。慶応4年(1868)6月上京,宗城のとりなしで朝廷に陳謝,同年7月23日致仕,養嗣子宗敬に封を譲った。その後,吉目陣屋に居住したが,廃藩置県で東京に移住,のち天皇の侍従などを務めている。明治32年5月20日死去,享年78歳。同日付けをもって従三位を贈られた。法名,總宜院殿楽堂達孝大居士。高輪東禅寺(現東京都)に葬られた。

 伊達 宗翰 (だて むねもと)
 寛政8年~弘化2年(1796~1845)伊予吉田藩第七代藩主。幼名,駒次郎,右京,伊織。諱は壽保のち宗翰。寛政8年(1796)6月19日,宇和島藩第六代藩主伊達村壽の四男として宇和島で誕生。宇和島藩第七代藩主宗紀の実弟である。文化13年(1816)伊予古田藩第六代藩主村芳の長女於敬と結婚,婿養子となり,同年11月6口襲封。同年12月従五位下,紀伊守に叙任される。 前代以来の財政難に対し,文政5年(1822)倹約令と農政事務の簡素化を布達し,同6年富裕者よりの借上金を行っている。また家臣に対しては内職を奨励し,下士には研師・鞘師・屋根葺等職人の技術見習いを勧めている。また農漁業の生産拡大にも意を用いた。両度の江戸屋敷類焼などのこともあったが,藩財政は一応の立ち直りを示している。村芳夫人満喜子のすすめもあって,儒学者井上四明に師事した経歴を持ち,教育に熱心で,儒教的色彩を持つ政策も見られる。藩学時観堂に四明門下で当藩出身の村井則民を登用して教授とし,伊尾喜鶴山を儒員とするなどその興隆に努めている。また,天保3年(1832)の大旱魃による貧窮者を救うため,翌年希望者に御在館交わりの川浚を行わせて米を支給している。天保6年大飢饉の影響で米価が高騰したため津留を行い,領内で余った米に対しては藩が買い上げる一方,貧窮者に対しては天保3年同様の救済策をとっている。天保10年柿本山口相模守直勝の三男伊織を養子とする。天保14年6月24日致仕,弘化2年7月8日死去。享年49歳。法名犬大法院殿前紀州大守演巌宗義大居士,墓は大乗寺(現古田町)にある。

 伊達 宗保 (だて むねやす)
 延宝元年~元禄6年(1673~1693)伊予吉田藩第二代藩主。幼名九十郎,主計。諱は宗義,宗重のちに宗保。初代藩主宗純の次男として誕生する。母は奥村氏である。元禄4年家督を相続し,同年従五位下能登守に叙せられる。同5年公家衆接待役を命ぜられる。同6年田村右京太夫建顕の娘と結婚。同年10月2日江戸において死去。 20歳。治世わずか2年で特に見るべきものはない。東禅寺(現東京都)に葬られる。法号法性院殿知隨禅縁大居士。

 伊達 宗敬 (だて むねよし)
 嘉永4年~明治9年(1851~1876)伊予吉田藩第九代藩主。嘉永4年2月23日幕臣山口丹波守直信の次男として出生。明治元年(1868)第八代藩主宗孝の養嗣子となる。養父宗孝は実父直信の弟であり,宗敬にとっては叔父にあたる。同年7月23日襲封,同2年従五位下若狭守に任ぜられ,同年華族に列せられる。同年6月20日版籍奉還により吉田藩知事となる。明治3年(1870)宗孝の長女信と結婚。
 明治2年藩学時観堂を文武館と改め,従来別施設であった武術場を合併,さらに士分の入学のみ認めていたものを士庶共学とした。明治3年三間騒動がおきる。藩税制の改変要求に始まり,庄屋層の非法糾弾に発展したこの農民一揆に対し,藩は軍隊を出動して鎮圧している。明治4年7月15日廃藩置県により知藩事の任をとかれ,東京に移住する。明治9年宮内省勤番を命じられたが,同年8月29日死去,亨年25歳。明治17年嗣子宗定か子爵に列せられた。法名,天性院殿順宗敬大居士。墓は高輪東禅寺(現東京都)にある。

 伊達 宗贇 (だて むねよし)
 寛文5年~宝永8年(1665~1711)宇和島藩第三代藩主。幼名は辨之助のち主馬。諱は基弘,宗昭のち宗贇。寛文5年正月15日,仙台藩主伊達綱宗の三男として誕生。貞享元年(1684)宇和島藩二代藩主宗利の養嗣子となる。宗利が50歳になっても嗣子がなかったためである。同年,将軍綱吉に拝謁,宗贇は無官であったが,「四品の次御譜代四品の先」の格式で処遇され,これが後世の先例となった。貞享2年(1685)従四位下,紀伊守に叙任される。元禄3年(1690)宗利の次女三保姫と結婚。元禄6年11月4日襲封,同年遠江守となる。元禄9年,10万石高直しが幕府より許可される。吉田藩に2,万石を分知し7万石となっていた家格をもとの10万石に復帰させたのである。理由は,新田改出の増加,従来より幕府に対し10万石並の奉公をしてきたことを上げているが,目的は家格維持のためであろう。同年侍従となる。この後,近家塩田の築造や樺崎新田,長者ヶ駄馬新田その他の新田開発が進んでいるが,治世中の藩財政は窮乏の度を加えている。商人や在浦からの借財,倹約令や家臣の減封があいつぐ状況になっている。宝永8年(1711)2月18日,隠居の宗利没後2年余で没した。享年46歳。法名太玄院殿天山紹光大居士。等覚寺(現宇和島市)に葬られる。

 伊達 村候 (だて むらとき)
 享保10年~寛政6年(1725~1794)宇和島藩第五代藩主。幼名伊織。譚は初め村房のち村隆・村候・政徳・政教さらに村候に復した。天合・楽山・南強と号す。享保10年5月11日,四代藩主村年の長男として誕生,母は仙台藩主吉村の娘富子である。享保20年満10歳で襲封。元文2年(1737)従四位下大善太夫に叙任され,寛延2年(1749)遠江守となる。翌3年佐賀藩主鍋島宗茂の娘護と結婚する。宝暦2年(1752)侍従となり,天明6年(1786)左近衛権少将となる。治世中は,藩政改革を推進した。寛保3年(1743)初めて入部の時,倹約と共に武士の心得を25ヵ条にわたって示し,士風をひき締めている。同年,鬮持制をやめ高持制に復帰した。多田組での試行を終え,百姓の土地所有を自由化することに踏み切ったのである。また教育を奨励し,他所へ修業に行く者には修業扶持,弟子教育の者には弟子扶持を支給することを布達している。延享4年(1747)には古義堂の伊藤蘭嵎門下の安藤満蔵(陽州)を儒臣として招き,寛延元年(1748)藩学内徳館を創設している。また,仙台藩より末家の待遇を受けることを不当とし,幕閣の調停により対等の別家であることを認めさせている。藩財政の再建にも尽力している。延享2年(1745)7か年の倹約令と棄捐令を出す。殖産興業では保内組を中心に唐櫨の植林を奨め,宝暦4年(1754)櫨実などの他所売りを禁じ,一方で城下の3商人に晒蠟座を結成させて仕入販売を独占させた。また宝暦7年には泉貨紙を専売制とし,同9年には山奥・野村・川原淵各組の生産する紙をすべて藩庫に納め,大坂蔵屋敷で売りさばくよう命じている。これらの治績が認められ,寛政4年(1792)幕府から馬一匹が贈られている。しかしこの改革も天明の大飢饉以降ゆきづまり,百姓一揆や村方騒動が頻発し,庄屋が豪農化していくようになった。三百諸侯中屈指の良主といわれ,「甲子夜話」や「耳袋」にも逸話がのせられている。文武にすぐれ『楽山文庫』『伊達村候公歌集』『白痴篇』などの著書がある。
 寛政6年9月14日江戸で死去。享年69歳。法名,知止院殿羽林楽山静公大居士,七回忌の時大隆寺殿羽林中山紹典大居士と改める。墓は金剛山大隆寺(現宇和島市)にある。

 伊達 村年 (だて むらとし)
 宝永2年~享保20年(1705~1735)宇和島藩第四代藩主。幼名は伊勢松のち伊織,諱は宗貞のち貞清,元服して村昭さらに村年となる。宝永2年(1705)正月16日,三代藩主宗贇の三男として誕生,兄の夭逝により,宝永7年世子となる。父宗贇の死により,正徳元年(1711)4月13日満6歳で襲封,このため幕府より目付が派遣されている。正徳5年従四位下,遠江守に叙任される。享保2年(1717)元服,同9年仙台藩主吉村の娘と結婚,同13年侍従に任官する。
 治世中は財政難の連続であった。襲封翌年には城下250軒余が焼失する大火にみまわれ,翌正徳3年には厳しい倹約令を出し,在国中で200石取以上の家臣に半知を命じている。享保年中(1716~1736)には数度にわたる洪水あるいは大旱魃におそわれた。特に享保9年(1724)の大旱魃による損毛6 万石余,同12年洪水等による損毛2万石余,同14年同じく洪水による損毛4万5千石余と記されている。さらに享保17年享保の大飢饉による損毛9万石余が重なり,この年幕府より1万両の拝借金を受けている。一方で,享保4年には御手伝普請として赤坂溜池の工事を命じられている。この間,倹約令の徹底,植林の奨励,飢饉の救済などに努め,高持制復活の検討などを行っている。その効果も現れない享保20年5月27日,参勤交代の帰途播磨国加古川で死去した。享年30歳。法名,泰雲院殿宗山紹沢大居士。等覚寺(現宇和島市)に葬られる。

 伊達 村豊 (だて むらとよ)
 天和2年~元文2年(1682~1737)伊予吉田藩第三代藩主。幼名金之助,諱ははじめ宗春,成任のち村豊と改める。宇和島藩初代藩主伊達秀宗の七男伊達宗職(伊予吉田藩初代藩主伊達宗純の異母弟)の次男として生まれた。元禄6年伊予吉田藩二代藩主の宗保が若くして没したため,同年12月家督を相続し三代藩主となる。元禄10年従五位下,左京亮に叙せられる。宝永2年青山下野守忠重の娘と結婚。正徳3年和泉守に,享保10年若狭守に改める。
 村豊は数次にわたり,公家衆等の接待を命じられているが,元禄14年には院使前大納言清閑寺煕定の接待を命じられた。この時,相役の勅使接待役浅野内匠頭長矩がひきおこした刃傷事件に遭遇している。「仮名手本忠臣蔵」の登場人物桃井若狭之助は,村豊をモデルにしたものと思われる。治世中は度重なる災害にみまわれ,藩財政は窮乏した。江戸上・下屋敷の類焼,さらに宝永4年,の大地震,享保14年には,田畑合わせて790町余が流失し3,500石余を失う風水害にみまわれた。享保15年には,家中の俸禄を削減する増掛米が命ぜられた。しかし,その2年後,享保の大飢饉にみまわれる。風水害による被害高2,000余石,虫害による被害高25,000余石,飢人24,600人と言われる大被害を蒙った。このため幕府より3,000両を借金し,五か年賦で年600両ずつ返還することとして当座をしのいでいる。元文2年没。享年54歳。法号大淵院殿澤翁眞龍大居士。東禅寺(現東京都)に葬られる。

 伊達 村壽 (だて むらなが)
 宝暦13年~天保7年(1763~1836)宇和島藩第六代藩主。幼名兵五郎。宝暦13年正月4日五代藩主村侯の四男として生まれた。母は村候夫人。安永5年(1776)従四位下大膳太夫となる。翌6年元服。天明5年(1785)仙台藩主伊達重村の娘順子と結婚。寛政6年(1794)閏11月6日襲封,同年12月侍従遠江守となる。
 寛政6年襲封とともに教育の充実を布達し,徒士以上で14歳以上の者はすべて藩学に学ぶことを命じている。藩学普教館(もと内徳館)には尾藤二洲に学んだ岡研水を教授とするなど,古学派中心であった所に朱子学を導入している。財政的には天明の大飢饉後も度重なる天災に見舞れ,極度の窮乏状態にあった。そのうえ,寛政11年東海道筋川普請助役を命じられ1万5千3百両を費し,文化13年(1816)には,美濃・尾張・伊勢など東海道筋河川改修助役を命じられて1万2千8百両の支出を余儀なくされている。これらのため,倹約令や藩士からの借上も続発する中で,文化9年(1812)萩森騒動がおこった。藩財政再建策をめぐって番頭の萩森蔀と家老が対立し,萩森が刃傷沙汰をおこして切腹させられた事件である。財政再建への模索も続けられた。文化10年歩一銀制の確立,翌11年の川原淵組,文政3年(1820)の津島組の内扮検地などである。文化14年帰国,病と称し世子宗紀に藩政を代行させる。文政3年右近衛権少将に任ぜられる。文政7年致仕して右京太夫と称した。天保7年宇和島で死去。 73歳。法名,南昌院殿壽山紹直大居士。墓は龍華山等覚寺(現宇和島市)にある。

 伊達 村信 (だて むらのぶ)
 享保5年~明和2年(1720~1765)伊予吉田藩第四代藩主。諱は成冬,村冬,のち村信と改める。享保5年3月5日,第三代藩主村豊の五男として江戸で生まれる。元文2年家督を相続して第四代藩主となる。同年従五位下,紀伊守に叙せられた。同年,松平中務大輔信友の妹於園と結婚,元文4年於園死去のため,諏訪因幡守忠秋の妹於栄と結婚する。たび重なる公役(公家衆の接待役4度,朝鮮使節来聘のための人馬負担2度,その他),加えて寛延3年の虫害による損害高4千余石,宝暦5年の風水害による損害高9千余石などで,藩財政は一段と窮迫したようである。宝暦13年致仕。明和2年吉田において死去した。法号環中院殿本融道元大居士。玉鳳山大乗寺(現北宇和郡吉田町)に葬られる。享年45歳。

 伊達 村賢 (だて むらやす)
 延享2年~寛政2年(1745~1790)伊予吉田藩第五代藩主。延享2年1月12日,四代藩主村信の次男として江戸藩邸で誕生。幼名武一郎のち左京。宝暦13年家督を相続,五代藩主となる。同年,従五位下,和泉守に叙せられ,寛政元年能登守となる。宝暦7年越後国長岡藩主である牧野駿河守忠利の娘於弘と縁組みしたが,同13年死去のため,明和4年讃岐国多度津藩主京極内膳高文の姉と結婚する。
 数次にわたる公家衆接待役に加え,天明6年には武蔵国玉川,相模国相模川の修造を命じられた。この御手伝普請に4千4百両余を要した。さらに在任中たび重なる天災にみまわれる。旱魃・風水害による被害の主なものだけでも,天明2年,同6年,同7年と1万石以上の被害が出るありさまであった。火災にもみまわれ,安永6年には陣屋町の六か丁を焼失し,天明年間には家中町も羅災している。安永の頃,藩が櫨の栽培を奨励していると言われる。しかし,このような藩財政の窮迫は,結局農民に転荷されることが多かったと思われる。天明7年土居式部騒動がおこる。この強訴計画は事前に発覚し,首謀者の獄死で終おったが,やがておこる吉田領一揆の予兆であった。寛政2年2月16日,江戸において死去。法号大雲院殿一蔭宗樹大居士。東禅寺(現東京都)に葬られる。享年45歳。

 伊達 村芳 (だて むらよし)
 安永7年~文政3年(1778~1820)伊予吉田藩第六代藩主。幼名,賢佐,直松,分三郎,伊織。安永7年3月3日,五代村賢の次男として誕生。寛政元年(1789)兄が病弱のため世子となり,同2年4月2日襲封する。寛政7年下総国関宿藩主久世大和守広明の娘満喜子と結婚。同年従五位下,若狭守に叙任された。天明以来数度にわたる大水害,あるいは火災にも見舞われ,藩財政および領民も極度に窮乏していた。襲封まもない寛政5年古田騒動(武左衛門一揆)が全藩をつつんだ。一揆勢は宗藩の宇和島藩領に結集,これを説得するために赴いた吉田藩家老の安藤継明は切腹し,さらに宗藩の政治的介入もあって,藩は大幅な譲歩,改革を余儀なくされている。しかしその後も抜本的な財政改革は行われたようすがない。文化10年(1813)関東諸川の普請を命ぜられ3千8百余両の支出があった。寛政7年軍制改革が行われ三隊編成が完備している。文教政策では見るべき治績がある。寛政6年藩学時観堂を創設し,折衷学派井上四明門下の森嵩(退堂)を教授としている。また,当藩出身の国学者本間游清を招いて江戸藩邸の教授としている。村芳自身も学問を好み,書画をよくした。夫人満喜子も和歌にすぐれ,歌集『袖の香』を残している。
 文化13年(1816)11月6日致仕,文政3年8月13日死去。享年42歳。法名,積善院殿南岳徳翁大居士。高輪東禅寺(現東京都)に葬り,遺髪を大乗寺(現吉田町)におさめる。

 大道寺 徳 (だいどうじ とく)
 嘉永5年~大正2年(1852~1913)ジャーナリスト。元松山藩士で名は要。または久道。明教館に学び文才があって海南新聞記者になるが,のち金融機関久松家松栄社の副頭取になり,また久松家従ともなる。大正2年2月6日死去,61歳。

 大導寺 元一 (だいどうじ もといち)
 明治7年~昭和27年(1874~1952)獣医,今治市長。明治7年8月28日松山市に生まる。明治21年開校の愛媛県立獣医学校に学び陸軍獣医官となり,当時は殖産興業もさることながら国防上聡馬を充実整備することが我が国馬政のバックボーンであり,馬匹は国の重宝にして富国強兵の基であると,馬匹の改良増殖の緊急性と必要性を説き,軍馬資源の涵養や馬政計画の推進に力を致して陸軍獣医大佐に昇進,大正11年に退役となったがこの内の大正初期に侍従武官としてドイツ駐在も経験している。その後宮内省種馬所副長官,新冠御料牧場長を務め,昭和14年退官後の6月今治市長に就任したが,日中戦争下で国家総動員法が発動され,挙国体制を強化して物質も労働力も挙げて国策を推進する時代であったので,市独自の施策は少かったが,懸案であった立花村との合併は市の発展史上記録すべきものである。特に氏は県下の獣医畜産人と連繫を密にして情報を交換し生涯を初心忘れず獣医技術者の1人として,後輩の途を案じた人となりにより,内閣総理大臣より従四位勲三等の叙位叙勲を受賞した。なお県立獣医学校卒業生相図り大導寺元一が代表者となり,恩師宇喜多秀穂の寿像並びに頌徳碑を松山城地の長者が平に建立した。昭和27年11月25日没した。 78歳。