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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 明治期の文化財行政

古器旧物保存令

 幕藩体制が崩壊し明治新政府が発足するという大きな社会変動に伴う人々の価値観の変容は、そこにさまざまな波紋を惹起させていった。ことに、明治元年(一八六八)に出された神仏分離令は、地域によっては思わぬ方向に展開し、寺堂や仏具・仏像の破却など廃仏毀釈の弊風を各地に勃発させ、一部では優れた文化財がいとも簡単に壊されるという事態を招来したのである。当時、奈良市興福寺の五重塔が僅か五円で競売に付されたものの、皮肉にも取り壊しに手間がかかるために買い手がつかず現存した話は、有名な逸話となっている。
 こうした事態を憂慮した政府は、明治四年五月二三日に太政官達第二五一号を以って古器物の保全を周知させることになるのである。その冒頭において「古器旧物の類は古今時勢の変遷制度風俗の沿革を考証し候為め其裨益少なからず候処、自然旧きを厭い新しきを競い候流弊より追々遺失毀壊に及び侯ては実に愛惜すべき事に候条、各地方に於て歴世蔵貯致し居り候古器旧物類別紙品目の通り細大を論ぜず厚く保全致すべき事」として保全を督励するとともに、品目や所蔵者名を調査して個々の官庁より提出することを命じている。なお、このときに対象となった古器旧物とは、祭器・古玉宝石・石弩雷斧・古鏡古鈴・銅器・古瓦・武器・古書画・古書籍古経文・扁額・楽器・鐘鈷碑銘墨本・印章・文房諸具・古代の農具と工匠器械・車輿・屋内諸具・布帛・衣服装飾・皮革・貨幣・諸金製造器・陶磁器・漆器・古代の度量権衡品・茶器香具花器類・遊戯具・雛幟等偶人ならびに児玩品・古仏像仏具・化石などで、時代や国産舶載にかかわらずリストアップされた。いわゆる書画骨董の類が大部分で今日的な文化財とはかなり異質だったが、ともかくも近代文化財保護行政の嚆矢となるものであった。しかし、愛媛県関係の旧物としてどのようなものが掲げられたかは充分な資料もなく、残念ながら不詳というほかない。

陵墓参考地

 その後、古代の天皇・皇族に関する陵墓の調査が進展するなかで、直接に文化財行政と関連するものではないが、愛媛県においてもこれを受けた布達を出している。例えば、明治一三年二一月二〇日の甲第一八六号においては、「就ては古墳と相見え候地は、人民私有地たりとも狼りに発掘致さず筈に候えども自然風雨等の為め石槨土器等露出し、または開墾中図らずも古墳に堀当り候様の次第これ有り候はば、口碑流伝の有無にかかわらず全て詳細なる絵図を製し、その地名ならびに近傍の字等をも取調中出べき旨」を達している。また、翌一四年三月にも、奉杷する子孫のいない皇室関係者の墳墓と伝承されるものの現状を調査させて報告を命じている。
 さらには、こうしたことを背景として陵墓参考地に関する関係資料の上中や伝承地の調査が全国的に展開されたようである。県下においても、允恭天皇の第一皇子である木梨軽皇子を葬ったとする川之江市妻鳥町の東宮山古墳が、二八年一二月四日付で宮内省に買収されて陵墓参考地の指定を受けたのを初めとして、越智郡大西町宮脇の後醍醐天皇皇子・尊真親王陵が、三三年六月一日に指定買収されて保全工事が施されている。あるいは、在地豪族としての久米部小楯(松山市南梅本町・通称播磨塚)や乎致命(今治市馬越・鯨山古墳)らの墳墓伝承地が探索顕彰されるとともに、結果として今日まで保存されてきたのであった。

古社寺保存法

 初期の文化財保護行政において、文化財の保全管理をも含めた総合的な施策が最初に講じられたのが、明治三〇年六月一〇日の法律第四九号「古社寺保存法」である。これによって各社寺が蔵する建造物や宝物類に格差が設けられ、特別保護建造物や「特に歴史の証徴または美術の模範となる」国宝が指定され、保存修復のための保存金が下賜されることとなる。また、国宝などに指定された物件については、その処分や差し押さえが禁じられるとともに、公立博物館への出陳公開の義務や保存管理にかかる罰則も定められたのであった。すなわち、古器旧物保存令が文化財の保存を奨励したにとどまったのに較べ、古社寺保存法は、それが古社寺の宝物や建造物に限定されたものの、今日の文化財保護法の精神とも連関するものであり、この法律の持つ意味合いには大きなものがあったのである。
 ところで、古社寺保存法の制定に際しては、内務省内の古社寺保存会より事前に各府県に宛てて古社寺の調査が依頼された。愛媛県でもこれを受けて、同二八年四月一二日の訓令第二一号を以って県下の郡市町村へ調査事項の標準項目を示し、七月一五日までに調書を県庁へ提出させている。つまり、「古社寺ならびに著名の社寺および名所旧蹟の建築物ならびに碑価および著名の宝物類にして保存を要すべきもの」について、①文明一八年(一四八六)以前に創立された社寺、②歴史書に掲載された社寺で各地の古跡と称すべきもの、③境内の風致が秀れた社寺で国郡の美観景勝地と称すべきもの、④皇室武将の崇敬を受けて朱印・黒印地を有する社寺、⑤陵墓や豪族の墳墓を境内に有する社寺、⑥年中行事のなかに勅願等にかかる式法を伝える社寺、⑦元禄一六年以前に創建された巨大な社寺でその地方において著名なもの、の七項のいずれか一つに該当する社寺の由緒など詳細を取り調べようとしたものであった。そして、詳記事項には永続基本財産として建物などの維持に関する基本財産やその管理、宝物として著名な物件についての伝来の由緒や製作者などを精査させているのである。ちなみに、先の尊真親王陵の指定は、このときの答申が契機となってのことであった。
 なお、県下におけるこうした一連の調査や古社寺保存法の制定によって国宝に指定された文化財は、三四年三月二七日付けの大山祇神社(大三島町)神像群および紺糸威鎧などの甲冑類と大太刀、松山市大宝寺の阿弥陀如来および釈迦如来坐像、同市宝厳寺一遍上人立像、同太山寺十一面観音立像六躯の合わせて一一九点が最初である。
とくに大山祇神社については一一〇点が指定を受けており、これ以降の追加指定を含めても初回のものが国指定文化財の大半を占め、早くから同社宝物類についての高い文化財的価値が認識されていたことが窺える。
 その後、三七年八月二九日には建造物として初めて太山寺(松山市)本堂および二王門、大山祇神社本殿、東禅寺薬師堂(今治市蔵敷町、通称樹ノ本薬師堂、永正一五年に再建されたもので昭和九年に解体修理されたが、同二〇年の戦災で焼失)の四棟が特別保護建造物に指定された。続いて四〇年の五月には、石手寺(松山市)の本堂こ至門・三重塔・鐘楼の諸堂が追加指定を受ける。さらには、これらの建造物の指定に伴って愛媛県では、同年七月三日の訓令第二五号において、先の古社寺保存法により特別保護建造物に指定されたものに対し、保護上必要と認められる場合には、当該する社寺において境内取り締まり制札を雛形として保護のための制札を建設するべきことを定めている。そして、建物を汚したり損うこと、喫煙をなすこと、狼りに火を用いること、土足または履物のまま上ること、建物に楽書をすること、建物に広告などを貼付したり打ちつけることなどを制禁事項としているのであった。文化財保護のための注意事項を一般に公示させた最初のものであろうと思われる。
 また、法律に基づいて内務省より保存金を下賜された社寺とその金額は、大山祇神社の四〇〇円を筆頭に太山寺と石手寺が二〇〇円、興隆寺(丹原町)一五〇円、大宝寺・出石寺(長浜町)・日招八幡大神社(松山市)が一〇○円、東禅寺・熊野神社(伊予三島市富郷町)五〇円の計九社寺、一三五〇円であった(明治三七年愛媛県統計書)。同時に各社寺においても、下賜金とは別途に独自の保存金が積み立てられるなど文化財の保護に意が注がれ、日招八幡大神社では三三年度に別途積立金より五〇〇円を保存資金へ繰り込んでいるという積極的な対応もみられたのであった。