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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 藩政期の芝居興行

 江戸時代、幕府はしばしば倹約令を出した。寛文八年(一六六八)の「音信、嫁娶、家作、衣服等倹約の儀」もその一例である。宇和島藩は同年三月、「百姓等奢り仕らず、農業油断なく進退持立ち候様心掛くべく……布木綿ばかり、襟帯も致すべからず、紫紅に染めまじくかたなしに染むべし。食物雑穀を用いべく、米猥りに喰うべからず」と布達し、「勧進能・すまい・操り等在郷留むまじく」と示した。貞享四年(一六八七)九月二日「市場御物頭衆御目付衆へ覚書」として「一、市中御番に相勤候物頭衆、当番の内芝居へ堅く被参間敷事 一、御目付衆、市中見分の日、芝居見分相済次第可被出、諸事見届可被中候、桟敷に罷居見物無用、食事等は御番所可然事 一、芝居済て桟敷下共に一人も見物へ残置被申間敷事 一、桟敷へ坐の役者参り候儀堅無用と可相心得事」と番所勤務中の芝居取締り勤務に注意を与えた。江戸前期には、人形浄瑠璃や歌舞伎芝居が禁令を出さねばならぬほど盛んであったことがうかがわれる。しかし、奢侈禁止は宝永六年(一七〇九)に至り「歌舞妓芝居物向後一切停止申付」られた。わずかに人形小芝居は許されたが、これとても夜芝居は堅く停止された。

 このような旧藩体制のもとでも、社寺や市、新田開発・祭礼などに伴う興行が許可された。
 宇和島藩においては芝居が一切停止された翌年の宝永七年八月一日「宇和津彦神社祭礼日に連続する七日間、新町に九月市町が建ち歌舞妓芝居が願により許可」され、九月一日には「芝居市町見物は勝手次第に存候事」と布告された。これとても延享元年(一七四四)には、一宮祭礼の歌舞伎は今後不許可となり操芝居のみが許されることになる。
 吉田藩では、九月の八幡神社(吉田町)祭礼の市に芝居が興行された。戸田友土『吉田藩昔語』に次のようにある。

  浜通り魚棚三丁目下角一帯は広場で、芝居場となって居ったー芝居興行は毎年九月八幡祭の市十日間に限られ此処に小屋掛けをして舞台の左右に上座、中座を設けて士分の観覧席となし毛氈を敷き家紋付の提灯を吊して中間は土間といって町家其他の観覧席で警戒のためには、下目付御小人役が出張することになって居った。

 松山藩では、道後湯之町の芝居と湯女などが許可されたのが享保一八年(一七三三)であるが、大山祇神社の三島市と菊間町の遍照院の移転新築(菊間新地波止芝居)は特筆されるべきものであろう。
 三島市は貞享四年(一六八七)お国潤として公許され、安永年間頃まで一〇〇年にわたり四月一七日より二三日までの定期市が開かれ、歌舞伎芝居が許された。藩は、市取締り・市場床の監視を兼ねて御徒士目付および御下目付・御奉行付等を出張させて警戒に当たらせた。さらに御用町人薬屋五兵衛を御用掛市場元方に任じ、配下に八蔵屋択一左衛門を配属して三島市に勤務させた。藩は定例として四月二日頃まず市場御検使に役人を派遣した。一行は松山を発し、船路をとり岡村島白潟に一泊、威儀を正して翌早朝大三島に上陸し、市立て商人や諸興行師等に露店・小屋掛等の指令を与えた。歌舞伎芝居は藩直営で市場方薬屋五兵衛が差配して芝居小屋を建設し、正面高座は藩御目付方の桟敷とし葵の御紋・三ツ輪違いの定紋幔幕をめぐらし、木戸口には高張提灯を据えつけた。諸興行運上・露店場床賃・魚類野菜販売運上などすべては市場方か三島役所(藩御目附役所)の所得であった。
 菊間町の遍照院は天保五年(一八三四)移築を完了した。移転資金や落慶法要の賑わいとて芝居興行が許された。当初の小屋掛から定小屋になったのは天保元年である。この間天保六、七年頃から収益金の一部を波止築方へ差し出すことになる。以後、天保一二年よりは波止築造・修理費資金として浜村が主催することとなり、遍照院賑芝居は波止新地芝居となる。松山城下小唐人町の文太と浜村松の音久吉が世話方であった。嘉永二年(一八四九)六月、大坂道頓堀惣右衛門町の座本瀬川栄寿が片岡当升・瀬川あやめ・坂東いろは等二七名の座員を率いて来演、七月一五日顔見世・八月五日千秋楽の芸題は、式三番叟・小栗判官・江戸加賀見山・天下茶屋・妹背山・仙台萩・平井権八小紫・千本桜・厳流島・忠臣蔵などであった。このときの「菊間新地波戸芝居定書」は次のようであった。

  一、芝居運上銭札之儀者初日迄二掛切候事 小屋運上之事(八百目寺後小屋運上) 波止運上之事(上高五歩波止入用) 内小屋其他いろいろ運上之事 一、桟敷、木戸直段之儀者芝居ニ寄相定候事 一、木戸札之儀村方分半札之事 一、役人分、寺、村方、方角(菊間郷十ケ村)桟敷去才之通尤調方者元方引受之事 一、役人仕出賄酒肴諸事元方引請之事 一、芝居中村役場入用二付杢戸札日々拾五枚ヅツ無銭ニ而相渡可申事 一、右同断寺へ拾枚宛相渡可申事 一、顔見セ為致可キ事 一、旅宿者布団持込相成不申事 一、弁当持井前髪無礼之事 一、御役人所へ者伊予すだれ相用可申事但畳敷之事

 西条藩には前神寺に定芝居小屋があった。寺が建築管理し、願出に及ばず届のみで興行する権利が与えられ、ここで興行中は領内において他所での興行は許されなかった。『西条誌』には「当寺近郷の巨刹にて、先ツ構への異なるハ、馬場先キに常芝居の小屋あり六間二拾二門、寺より之ヲ建テ置ク 因て外よりハ運上銭高し いつにても願に及ハ不、届ぎりにて狂言興行す」とある。現在の石鎚神社参道には、「天保二辛卯(一八三一)大阪竹本鐘太夫・淡州市村六之亟座中、弘化三年丙午(一八四六)九月吉日阿刕徳島鶴沢咲造・勝・子供太夫・初音太夫・豊竹緑太夫・同二葉太夫、弘化四丁未十月吉日淡州吉田伝次郎座中・世話人当初竹本倉太夫、安政二卯年(一八五五)四月吉日座本東部山本富士吉・山本吉之助・山本辰蔵頭取世話人泉刕佐野神原岡蔵・河内屋孫六」の奉献した四基の石燈籠が現存する。
 新居浜一宮神社は社殿修覆費のため享保一一年(一七二六)少年辻打芝居を毎年七月五日より一九日までの一五日間、安永三年(一七七四)には大坂豊竹座人形芝居を毎年三、四月の間晴天二〇日間西浦で興行を、それぞれ五年間特免され、以後も年を追うて許可された。ほかに久貢新田開拓・西条伊曽乃神社・万福寺などが時期をみて出願し許可されている。当時これらの興行権を特許されると社寺団体は入札をもって請元を決め運上金を徴収した。請元は規定により空閑地に小屋をかけ木戸口で入料をとった。有料免許興行を辻打、無免許を鼠木戸、無料興行を法楽といった。新居浜新須賀川原は幕府領であったので毎年鼠木戸が打たれた。物売・芸人・博徒・浮浪人などが集まり風紀を乱すので隣接の西条・小松両藩は観劇禁止措置をとったが効果が薄く、江戸時代を通じて治外法権的な享楽の場であったという。
 内子町の「六日市永久録」に「伊勢御師橋村大蔵太夫、実名正甫代替に付き寛政二庚戌年(一七九〇)春下向致され、旧例に依って旦家勧化これ有り。此の時、古例に随い芝居願い、大阪歌舞伎晴天一〇日伊勢舎裏にて興行」とあるのも大洲藩が伊勢御師代替り興行を許したものであろう。なお、文化一二年(一八一五)にも「人形座吉田伝次郎天一〇日沖河原にて興行」が許されている。