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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 新聞発行のあけぼの

「本県御用愛媛新聞」創刊

 愛媛県で最初に創刊された新聞は「本県御用 愛媛新聞」で、明治九年(一八七六)九月一一日、松山市魚町の共耕分社で第一号が印刷発行された。
 明治維新によって近代国家への道を拓いた日本は、薩摩・長州の旧藩内勢力を主軸とする新政府によって、矢継ぎ早に廃藩置県・四民平等・富国強兵などの政策を実施して新体制の確立を急いだ。しかし、これらの政策・政令の周知徹底を図ることは父通・通信が発達していなかった当時としては容易でなく、あまりにも急速な社会変革に戸惑う国民の多くには理解され難かった。このため、政府は新聞による広報の手段を考え、民間の新聞発行を進んで許可し、明治三年にはわが国で最初の日刊新聞である「横浜毎日新聞」が創刊され、同六年には全国で一六を数える新聞が発行されている。このように明治初期の新聞は、官の保護のもとに発行、育成され、報道の内容も上意下達というべきことがらが中心になっていた。しかしそれ以後の新聞は、薩長の藩閥政府による独善的な政策に強く反発する多くの士族を中心として全国的に盛り上がる自由民権運動の砦となり、激しく政府を攻撃する論調に転じていった。
 この時期、愛媛県には官選の県令でありながら自由民権の思想に共鳴する岩村高俊があった。岩村は高知県宿毛の出身、幕末から維新の動乱期に活躍した人物で、明治七年一一月に愛媛県権令として赴任していた。在任中に町村会・大区会・特設県会の開設、県立英学所(旧制松山中学校の前身)を創立するなど開明的な政策を実行して「民権知事」と称される高い評価を受けたが、愛媛新聞の発行もまた彼の発案によるものであった。
 岩村は、自らが招いて英学所長とした優れた民権論者の草間時福と謀り、自由民権の趣旨を広めるための言論機関として愛媛新聞の発行を強力に推進、明治九年九月八日、

  当松山ニ於テ、共耕分社々員小森順三郎儀、内務省ノ免許ヲ得テ愛媛新聞発行候ニ付、当県録事ヲモ申付候条、各大小  区会所・取扱所中、小学校二於テモ必用ノ儀二付、成ルベク購求展覧候様

との県布達を全管内の区長・戸長に発し、愛媛新聞購読を広く呼びかけた。この通達は、県当局が新聞発行の後ろ盾となっていることを明らかにするもので、岩村の愛媛新聞に対する熱の入れ方を窺わせるものといえよう。
 布達文中の共耕社は東京に本社があった印刷会社の分社で、小森はその責任者であり、愛媛新聞を代表する出版人となった。また編集長には印刷長を兼務して山本盛信がなり、主筆を草間が担当した。こうして同月一一日創刊した愛媛新聞の題字には「本県御用」の肩書きがついた。これは新聞発行の推進者が岩村権令であり、県の公報ともいうべき「本県録事」の掲載が発行の条件となったためである。さらに県大属の天野御民を編集顧問に据えたこともその間の事情を物語っていたといえよう。
 創刊号の紙面によれば、

  本日(一一日)午後三時松山共耕分社ノ正堂ニ於テ愛媛新聞開業ノ式ヲ修セリ 小森順三郎山本盛信会主トナリ印刷者五名探訪者二名配達人三名相会シ 愛顧ヲ辱フスル看官拾余名列席シ 主賓賀言ヲ述べ祝意ヲ表セリ

とある。
 この創刊号の体裁は、美濃紙の四つ切り型、一八頁の小冊子になっており、県録事、開業式の記事、論説に続いて雑報、投書、公判言い渡し、勧業雑報、米相場などの順で紙面を編集、以後の紙面も大体それに準じている。発行は月一〇回、定価が一か月分前渡しで一六銭、松山・三津・道後以外の地域は配達料金として別途に毎号七厘ずつを徴収した。

日刊紙「海南新聞」の誕生

 創刊後間もない愛媛新聞が遭遇した大事件は、その年一〇月に相次いで起こった熊本県の士族らによる神風連の乱、前明治政府参議前原一誠らによる山口県萩の乱、福岡県士族らによる秋月の乱、そして翌一〇年二月に起こった西郷隆盛らによる西南戦争であった。愛媛新聞は、神風連・萩の両事件発生後の一一月一日、号外の特別付録を発行して事件を詳しく報じた。また、西南戦争に際しては岩村権令の名をもって住民の動揺を鎮めるための布告を紙面に掲載したほか、窮地に立っていた熊本鎮台を応援に駆けつけた政府の救援軍が救出した四月一五日の模様を一九日の番外報告で、大久保内務卿よりの通達として、

  昨一六日黒田参事ヨリノ報ニ一五日午前一一時二五分旅団ヲ率ヒ熊本へ入城谷少将二面会周囲ノ賊悉ク退散スト 又植木ロモ同日熊本へ連絡所々ニ守護ヲ置キ一六日熊本県庁ヲ開キ今一七日總督本営モ同所二移転シ賊ハ日向路へ潰走セシ旨報アリ

と報道している。
 こうして順調な滑り出しをしていたかに見える愛媛新聞であったが、発行部数は予期に反して伸びず、このため経営は行き詰まり、創刊三か月にして小森は経営を投げ出してしまった。後を引き継いだのは県庁出入りの商人福田新十郎だったが、彼も四か月で手を引き、代わって出淵町の富豪だった木村庸が新たに経営者となり、これを機会に愛媛新聞の名称を「海南新聞」と改題、愛媛県で最初の日刊新聞として発足、明治一〇年四月二八日に第一号を発行した。初代編集長となった西河通徹は宇和島の人で慶応義塾に学んだ。同郷人に東京の曙新聞編集長の末広鉄腸がおり、その縁で在学中から曙新聞に政治論文を投書するなどの論客ぶりを発揮してその才腕を知られていた。たまたま松山の北豫中学(のちの旧制松山中学校)で英語教師をしていたとき、岩村・草間に強く請われて海南新聞入りした。
 海南新聞は、この時期も引き続いていた西南戦争に観戦記者を特派するという積極策を採ったが、岩村権令も九州の各県令にあてて、この特派員の取材に便宜を図って欲しいとの書状を出している。こうして現地からの正確なニュースが紙面を飾ったが、その経営は振るわず、赤字続きであったため、富豪の木村も持て余すようになった。こうした矢先、県の自由党の前身である「公共社」が機関紙を持つ必要から経営の一切を引き受けることになり、明治一一年七月八日を期して発行所を松山市魚町二丁目の公共社出版局に移して発行、海南新聞はここに政党機関紙として性格を変貌したのであった。
 一方、政府は新聞が国民大衆に与える影響の大きさを重視、ことに各地の自由民権派が新聞を政府批判の武器にしていることを憂慮し、これの取り締まりを厳しくした。明治八年に公布した「讒謗律」と「新聞紙条例」に引き続き、翌九年には太政官布告をもって「新聞雑誌雑報の公安を妨害すると認めらるる者は内務省においてその発行を禁止または停止」できることとし、さらに一三年の太政官布告では「風俗を擾乱すると認めらるる者」にも発行禁止・停止するとの法令を追加して新聞の抑圧を図った。
 愛媛県においても言論の自由を保護していた岩村県令が一三年内務省に転任し、後任に関新平が着任するや、俄かに新聞に対する圧力が厳しくなった。関は岩村と異なり典型的な官僚タイプで、自由民権気風の強かった海南新聞に対する態度は強硬なものがあり、取り締まり法令を盾にたび重なる罰金や禁獄をもって対処した。これに対し、海南新聞は敢然と対抗したが、代々の編集長をはじめ記者で罰金・投獄の憂き目を見た者も数多く、このため編集長の交代が相次いだ。一三年四月、時の編集長渡辺永貞が新聞条令違反により罰金一〇〇円の判決を受け、その職を山本盛信に譲ってから一五年七月までの二年間に交代した編集長は実に一一人を数えるほどであった。言論の自由を守るため苦しい闘いは編集面だけにとどまらず、営業面にも大きい打撃を与えずにはおかなかった。この時期の海南新聞は断続的な休刊を余儀なくされたが、一五年二一月二〇日から一週間の発行停止処分は事態を最悪の状況に追い込んでいた。
 この経営危機に際して、社内ではいろいろの打開策が協議されたが、経営基盤の確立を図るためには思い切った組織改革が必要との結論に達し、公共社出版局から独立、新たに株式会社海南新聞として翌一六年二月一二日再スタートを切った。しかし、経営難は依然として続き、二二年までの六年間に六人の社長が交代していることを見ても、当時の新聞経営がいかに困難を伴うものかが分かる。こうした経営不振の要因のひとつには、従来の政論を中心とした編集紙面が高踏的で主義主張に走るあまり、一般の読者層になじみが薄く、このため紙数が伸び悩むという一面があった。そこで編集方針を大衆化路線に切り替え、題字を行書体に改めるとともに漢字にルビを付けたり、絵入り小説を掲載、また雑報にも漫画を入れるなど親しみ易い紙面構成を心がけた。

競争時代へ

 愛媛県における新聞は、愛媛新聞の創刊以来、海南新聞が唯一の存在となっていた。が、明治二二年に至って改進党の機関紙「豫讃新報」が発行されて二紙対立時代を迎え、さらに新興する新聞を加えて激しい競争が行われるようになっていく。
 豫讃新報はその後、愛媛県から香川県が分離独立する二二年に「愛媛新報」と改題されるが、経営陣には小林信近、高須峯造、山本盛信といった当時の一流メンバーが参加した。これに対する海南新聞も白川福儀を主筆に、岩崎一高、柳原正之(極堂)、松友章津、林常直らの顔ぶれを揃えて編集陣容を強化した。
 そしてこの二紙の競争は、明治二七年七月に始まった日清戦争の報道で激しい号外合戦で優劣が争われ、さらに三七年に起こった日露戦争に際しては、海南新聞が塩崎誓月を特派員として大陸に送り込むという地方新聞では飛び抜けた離れ技で紙面を賑せた。この時期の海南新聞社長は藤野政高。彼は松山藩士藤野政経の長男として生まれ、幼時、藩校明教館で漢学を学び、明治九年に上京して法律学を修め、代言人の資格を得て帰郷、公共社に加盟して自由民権運動に携わった。県会議員を経て第一回総選挙から連続三回当選、自由党・憲政党県支部の幹事長、さらに政友党幹事長などの経歴をもつ政界の指導者で、海南新聞社長として明治三一年から大正四年までの長きに亘り、同新聞中興の主となった。大正二年三月には小唐人町にあった社屋から南堀端に新築した社屋に移転、これを機会に増資を行い、念願の発行部数一万部を達成、海南新聞の経営はようやく安定した。
 愛媛県ではそれより前の明治三五年、南予の宇和島に新しい新聞発行の動きがあり、三月五日、「南豫時事新聞」が創刊されている。
 南豫時事新聞は、宇和島の小林儀衛(葭江)が個人経営で始めた。元結掛の自宅を発行所とし、二、三人の手で発行したが、タブロイド型八頁の一応形の整った日刊紙で、一面は論説、二面以下は雑報、社会面は警察ダネのほか花柳界の話題などで埋めた。定価は一部八銭、一か月二〇銭。日曜・大祭日の翌日は休刊した。しかし、やがて経営に行き詰まり、宇和島の実業家だった中川鹿太郎が経営に参加し、資本金五〇〇〇円の株式組織に改めるとともに本町二丁目に編集・営業所を移し、印刷は従来どおり他に委託したが紙面は一二頁に広げた。さらに四三年には丸之内に三度目の移転をして印刷工場も備えた。当時、中川は地方の憲政会の重鎮であり、南豫時事新聞は憲政会色の濃い新聞となった。ところが同紙の経営状態が思わしくなかったことに目をつけた南予政友会の幹部が乗っ取りを図り、大正三年の定時総会で小林が退陣、代わって政友会系の長滝嘉三郎、山村豊次郎、神森真市が役員に就き、井上雄馬が主筆として入社、その後主幹となって編集・経営の責任者になったが、一転して政友会色の強い新聞となった。
 また、南豫時事新聞が創刊された同じ三五年には、松山でも海南新聞・愛媛新報に次ぐ第三の日刊紙「伊豫日日新聞」が政友会の森肇によって創刊された。同紙はその後三九年になって、森に代わり柳原極堂が経営に乗り出し、当時の地方新聞が政党色を持っていたことに反対して「厳正中立」を社是とした。が、伊豫日日新聞は二二年間存続したあと、経営不振に陥り昭和二年末に廃刊する。

新聞人の誇り

 新聞人の誇りは、権力に屈することのない「無冠の帝王」ともいうべき強い自負心たった。その自負心が警察当局を相手に闘った事件に大正四年の「太白樹事件」がある。事件はその年の四月四日夕、時の愛媛県警察部長時実秋穂、松山警察署長新名鍋吉ら警察幹部八人が酒に酔って道後公園の太白樹の枝を折った上、注意した管理人を袋だたきにしたことに端を発した。これを聞き込んだ海南新聞の記者が主筆の林三郎と編集長の田中七三郎に報告した結果、藤野政高社長以下全社をあげて警察幹部の非行を報道することに決したが、相手は警察当局の首脳者たちということで検事局も容易に動くことができず、検事正は松山憲兵分隊の力を借りて捜査に当たるというほどだった。このため第一報は海南新聞の七日付夕刊に「咄々怪事 警官連公園の樹木を折り剰へ監視人を袋叩きにす」との見出しで事実関係のあらましを報じた。この報道に対し警察当局は、翌八日、時実警察部長の名をもって海南新聞に「事実無根」の長文の反ばく文を寄せて抗議した。そこで新聞社側は九日夕刊にこの反ばくの全文を掲載し、その反論を翌一〇日付朝刊でするとともに事件の続報を連日にわたって行い、このキャンペーンは二四日間に及んだ。この結果、時実部長は五月一五日になって島根県に転任となったのをはじめ、関係者二人が罰俸処分となって一件落着を見たのである。
 この年の七月、海南新聞社長を一八年に亘って続けた藤野が急逝した。海南新聞の経営安定は彼の手腕に負うところが大きかっただけに、同紙に与えた打撃は計り知れぬものがあった。事実、それ以後の海南新聞は低迷し、加えて大阪紙の地方進出、地方三紙の競合などの悪条件下に再び経営は困難となっていた。そしてこの時期に登場したのが香川熊太郎である。香川は、伊予米穀取引所理事長・松山ガス会社社長などをしていたが、大正一二年に海南新聞社長に就任、大正から昭和初期にかけて愛媛県政財界の大物のひとりとなった。彼は社長就任と同時に海南新聞を政治的中立の立場とし、新聞の品位を高めるため、大学・専門学校卒の記者を新しく採用、編集局のスタッフを大幅に入れ替えている。
 そのころ、宇和島の南豫時事新聞は、大正九年に株式会社組織を解散、以来昭和七年まで山村豊次郎の個人経営となっていた。彼は政友会所属の代議士で、宇和島運輸・日本酒類醸造・宇和島鉄道などの役員を兼ね、大正九年に宇和島町長、同一一年に宇和島市長となり、南予近代化の基礎を築いていた。若いころに末広鉄腸が発行していた「関西日報」の記者、その後「国民新聞」の庶務会計を担当していたこともあって、南豫時事の経営にも積極的で、以前に同紙の主管だった井上雄馬を再入社させた。そして幹部の人事異動とともに大幅な機構改革を行い、東京・大阪に支局を開設して広告を集めたほか、一五年には輪転機を購入して印刷を始め、昭和二年には日曜の休刊を廃止、祝祭日を除く年中無休体制をとるなどようやく興隆期を迎えていた。しかし、その山村が昭和一三年に急逝、その後を長男の栄が継ぐが、翌一四年、再び資本金六万円の株式会社組織に改めると同時に井上が社長に就任した。
 一方、松山においては、政友会県支部が新たに機関紙の発行を画策、大正一二年八月一日に「伊豫新報」の創刊号を西堀端の煙草販売会社を借りて発行した。創立委員長の岩崎一高は、当時松山市長の職にあったので初代社長に久松定夫を迎え、取締役には大本貞太郎など政友会県支部の幹部らが名を連ね、編集陣に主筆栗本露村、編集局長小林露華が加わった。伊予新報は四頁の夕刊専門紙で海南新聞と愛媛新報が朝夕刊六頁で争っている間隙をついて発行、翌一三年、政友会員・住友・伊豫鉄道などの出資七万五〇〇〇円で株式会社に組織を改め、松山市大手町一丁目に敷地一〇〇〇平方メートルを買い入れ社屋を新築した。しかし、発足当初の地方紙の多くがそうであったように赤字経営に悩み、南豫時事新聞に合併を持ちかけたこともあったが不成功、一五年には大本が社長になり経営の立て直しを図った。大本はこのあと、県会議員・代議士・伊豫鉄道電気取締役社長・伊予銀行取締役などを歴任、太平洋戦争中の愛媛合同新聞会長を務めることになる。