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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

三 充実期から東京五輪まで

 昭和二九年

 五月、マニラの第二回アジア大会に陸上五千米の井上治(大洲農高-中央大学)、女子走り高跳びの高橋美代子(三島高三年)、水泳平泳ぎの田中守(丹原高-早大)の本県三選手が出場。井上はすでに二八年ドルトムント国際陸上で優勝の経験あり、レースはマラソンの崔(韓国)との優勝争いになり、井上が最後の一周でスパートし約一〇米離しゴールイン。高橋はただ一人高校生で選ばれ初の国際遠征試合だったが二位で銀メダル。田中は日本大学の古川を押え、2分41秒9で二百米平泳ぎを制して金メダルを獲得した。この年、一〇月一九日、野本清一県陸協会長の尽力で松山市堀之内競技場で、初の国際大会、日独対抗陸上競技大会が開かれ好刺激となった。

 三〇年

 第三三回全国高校相撲選手権大会(大阪府)個人戦で谷本英喜(宇和島東高)が横綱を締める殊勲を立てた。小兵の谷本は業師ぶりを発揮、準決勝で大物堀西(和歌山商高)をつり出し、決勝で優勝候補随一の早川(高知工高)を奇襲の「けたぐり」で仕止め初優勝をとげた。高校横綱は二二年第二五回土居駿介(宇和島商高・現宇和島東高)に次ぎ二人目である。同高校ボクシングナット級で藤田俊行(松山工高定時制)が初の全国制覇をとげボクシング愛媛の名を上げた。
 一般女子ソフトボールの東レ愛媛は二九年の第九回北海道国体決勝で鐘紡西大寺(岡山県)を1-〇、三〇年第一〇回神奈川国体決勝で山形屋(鹿児島県)を2-Oで制し二連勝。さらに三一年第一一回兵庫国体でも二回戦函館遺愛クを24-O、準決勝高島屋を2ー1で逆転勝ち、決勝では帝人岩国と対戦、大政監督は前年までの二連勝の林投手を起用、林は自らの殊勲打で2-Oと快勝。女子では至難とされた三連勝の金字塔を打ち立てた。

 三一年

 第一六回メルボルン五輪には県出身三選手が出場。水泳二百米平泳ぎ吉村昌弘(宇和島東高―日大)が先輩古川と激しいデッドヒートの末、タッチの差で二位、体操男子河野昭(宇和島中ー日体大)も団体二位でともに銀を獲得した。女子四百米自由形和田映子(御荘中-五条高)は入賞を逸したが、三五年ローマ五輪にも連続出場し、女子選手では珍らしく長い選手生命を保った。

 三二年

 神宮の全日本高校水泳選手権大会百米平泳ぎで松浦正恒が1分17秒〇、二百米平泳ぎで中村昌彦が2分48秒Oと宇和島東高校二年生コンビがともに高校新で堂々優勝。先輩吉村の五輪銀メダルに刺激されての勝利だった。中村は翌三三年も同大会で2分46秒7で自己の記録を破る日本高校新で二連勝を飾った。
 三二年第一二回静岡夏季国体ボート競技の高校男子フィックスで今治南、一般男子ナックルフォアで富士紡壬生川、一般女子ナックルフォアでは東洋紡今治の郷土三クルーが揃って優勝、男女共に総合得点で一位を占めた。翌三三年第一三回夏季国体(琵琶湖)でも富士紡壬生川、東洋紡今治の実業団クルーが二連勝し、高校男子ナックルフォア愛媛大学付属農高の二位と合わせ総合得点でも二連勝を飾り〝ボート王国愛媛〟の名を高めたのである。
 秋季国体ソフトボール一般男女に倉レ西条がアベック出場、男子は準々決勝で敗れたが女子は決勝に進出、鐘紡高砂に1-Oで惜敗した。

 三三年

 五月、東京で開催された第三回アジア大会に陸上の井上治(大洲農高-中大-富士製鉄)近藤由美子(土居高-旭化成)水泳の和田映子(御荘中-五条高-天理大)卓球の山泉和子(津島高-樟蔭女大ー東レ)郷土四選手が出場。井上は五千米で得意のラストスパートで二連勝、大会第一号の日の丸を揚げた。近藤は走り高跳びで三位の銅メダル、和田は四百米自由形で二位の銀メダルとそれぞれ表彰台に上がった。山泉は団体優勝に貢献したあと、ただ一人単・複・混合ダブルス全種目の個人戦に出場権を得、金メダル一、銀メダルニを獲得する大活躍を示した。第一二回朝日レガッタで無敵の男子富士紡壬生川、女子東洋紡今治両クルーがともに悠々三連勝して全盛期を誇ったのも特筆されよう。
 同年大宮市の全国高校弓道で宇和島東男子チーム(平本治、竹葉正志、上田弘)が準決勝で山口を6-5、決勝でも日南(宮崎県)に8-7と競り勝って、部結成六年目で初優勝を果たした。第一三回国体夏季大会で富士紡壬生川、東洋紡今治の実業団男女クルーが二連勝、高校男子愛媛大学附属農高も二位を占め、男女とも総合二連勝を飾った。富山秋季国体でも一般準硬式野球の井関農機が優勝するなど、賜杯順位で天皇杯七位(ボート一位、軟式野球二位)皇后杯五位(ボート一位、ホッケー三位)と本県国体参加以来、地元四国開催を除いて最上位の成績を収めた画期的な年となった。

 三四年

 さらに絶頂期が続き、高知の「南国土佐をあとにして」が四国ブームの口火を切り、栄冠二〇を独占する愛媛ブームが爆発した。まず三月、ドルトムントの第二五回世界卓球選手権大会で山泉和子が女子ダブルスで難波と組んで初制覇し、団体女子でも大活躍して四度目の優勝に貢献した。山泉は翌年ボンベイのアジア卓球選手権大会では女子シングルス、ダブルスを合せて優勝、日本卓球の女王と呼ぶにふさわしい強味を発揮した。
 四月には朝日レガッタで富士紡壬生川、東洋紡今治の男女両クルーがアベック四連勝して向うところ敵なし。第七回高校漕艇男子ナックルフォアで愛媛大学付属農高が二度目の優勝をとげ、第二七回高校水泳男子二百米平泳ぎで重松盛人(今治北)が日本高校新で優勝、高校体操(山形県)クライミングロープで都築照幸(大洲農高)が日本新で優勝、第五回全日本中学通信陸上女子砲丸投げで片山美佐子(久万中)が前年に続き連続日本一となり大器の片鱗をみせた。
 同年、大阪の第三七回全国高校相撲選手権大会の核、団体戦で宇和島東が初優勝した。大塚恵輔・菅原保光・矢野徹・中村邦重の面々は筋肉質で小兵だが押しの基本に徹し、予選リーグで強豪高知工・中京商を倒し一六団体決勝トーナメントに進み、決勝で早実(東京都)も破り土つかずの一〇戦全勝の戦いぶりであった。
 第一四回国体夏季大会水泳青年四百米自由形で浜崎勝之助(宇和島)が一位で表彰台に上がる。5分4秒3の記録であった。同二百米平泳ぎの池田英次郎(松山)は三位、高校二百米平泳ぎで重松盛人(今治北高)が二位、郷土対抗リレーでも二位の好成績を残した。また秋季国体で高校弓道大的で大洲高が団体優勝、青年相撲個人で兵頭日出男(城川町)が初の横綱に輝いた。さらに女子ソフトボールで高校は今治明徳、一般は東レが健闘し皇后杯一位を占めた。
 この西宮の第一一回高校女子ソフトボール選手権大会で今治明徳高校が初優勝した原動力は、不世出の名投手上田早苗の出現と牧野静馬監督の好指導による。若冠一年生ながら全国ナンバーワンの豪速球投手上田は山形精華・福岡中央・羽衣学園(大阪府)・浜松市立をいずれもシャットアウト、決勝で尼崎北高校(兵庫県)と対戦、両者無得点のまま延長一四回引き分け再試合となり、翌日の再試合は1-1のまま最終回峰本の殊勲打で決勝点をあげ、全国大会出場六年目で明徳は宿望の初優勝を成しとげた。翌三五年も上田の快腕を軸に連戦連勝、第一二回高校選手権も二連勝をとげ、安田学園と並ぶ記録を立てた。しかし不世出といわれた上田投手をもってしても国体では東京、熊本両大会とも絶対の優勝候補にあげられながら優勝できない不運に見舞われ、史上初の高校選手権三連勝も果たし得なかったのは残念であった。それでも上田は最終学年で秋田国体初優勝を成しとげ有終の美を飾った。しかも決勝で宿敵安田学園を降しての優勝だから立派であった。上田の三年間は今治明徳高校の黄金期で三つの全国タイトルに輝いた。
 その他三四年には、第一二回全国高校陸上選手権(国立競技場)で新居浜西定時制の井上大作は走り幅跳びで7米04の大会新で優勝、三段跳びでも14米91で優勝、さらに走り高跳びでも健闘、1米96で杉岡(日大二高)に次ぎ二位を占め、井上ひとりで新居浜西(定)は総合得点二位、フィールド優勝をとげ関係者を驚かせた。しかも昼間は住友別子旋盤工として働き、学び、夜間練習を続けて、この快挙となった。また全日本学生馬術(東京)では矢野隆男(松山商高―明治大)が初優勝してローマ五輪候補選手となった。

 昭和三五~三六年

 大きなブームのあとの余波に県体協の組織が揺れ動いた。愛媛のスポーツ界にとって不幸な時期であると同時にオリンピック東京開催を前に、禍いを教訓として、反省し、あらためて政治とスポーツの正常な「かかわり」の重要さを思い知らされた画期であった。三五年の県体協総会で久松会長を名誉会長に、新会長に井部栄治、副会長平田陽一郎・仲川幸男・阿部公政、事務局長松沢嶐の新陣容でスタートしたところ、あらゆる県関係の補助はストップ、一年五か月で役員総辞職し、県体協は解散状態となった。かくてはならじと再建策を図り会長山中義貞、副会長相原正一郎・山本信隆・仲田包寛・梶原勘一・大西忠の新陣容で再発足。愛媛のスポーツ界事実上のオーナー山中会長はこの時、県体協の財団法人化を決意し、その行動隊長として相原副会長が身を挺して献身、今日を築いた。
 三五年、第一五回熊本国体一般男子ソフトボールで住友化学新居浜が塩崎芳ー近藤のバッテリーで決勝に進み広島市役所と対戦、延長八回2-1で惜敗。同夏季大会では男子高校フィックスで宇和島東クルーは敗者復活戦から勝ち残り決勝で本荘(秋田県)を二分の一艇身差で抑えて初優勝した。また高校女子ナックルフォアは松山東が順調に勝ち進み決勝で横浜(神奈川県)をキャンバス差の大接戦で降し初優勝をとげた。さらにヨットで一般女子デインギー級に出場した愛媛(永井玲子、楠岡千恵子、上田幸子)は三位入賞する殊勲を立てた。
 三六年、高校ボート選手権で男子フィックス決勝に進出した今治北、宇和島東両クルーが激しく首位を争うデッドヒートを演じ今治北が競り勝って一位、二位は宇和島東が続き本県両クルーの活躍が注目された。
 第一六回秋田国体夏季大会はボート一般女子ナックルフォアで八塚信雄監督率いる東洋紡今治クルーが決勝で三馬ゴム(北海道)に二艇身の差をつけ三度目の優勝をとげた。同秋季国体では高校女子ソフトの今治明徳が最終学年の上田早苗投手を擁し国体初優勝を果たし、相撲青年個人で岡本忠(自衛隊)が二年ぶりに横綱となった。
 同年八月の国際水泳大会で重松盛人(今治北高-八幡製鉄)が二百米平泳ぎに2分36秒3の世界新を出した。公認世界記録はギャザコール(豪州)の2分36秒5.三四年に2分43秒2の日本高校新を出したものの、三五年の高校選手権では百米二位、二百米四位に終わったが、社会人となり著しい進境を示し一躍注目を浴びた。

 三七年

 一般女子ソフトボール選手権で東レ愛媛が一〇年ぶり二度目の優勝を飾り復活の兆しを見せた。東レに対抗し新チーム広洋タオル(今治市)が結成され、全盛を誇った今治明徳OGを集め、岡山から武鎗監督を招きチームを編成、早速、全日本実業団に初出場。まず全日本優勝の県内チーム東レをねじ伏せ、岡山の第一七回国体では準優勝という即席強豪ぶりを発揮。今治明徳高校時代そのままの上田-達川コンビが健在、翌三八年には全日本選手権で初優勝し、三九年新潟国体で遂に初制覇を成しとげた。上田早苗投手はかくて六年間に五たび全国優勝を果たしたことになる。また陸上女子高校ヤリ投げの片山美佐子(上浮穴高校)は高校選手権で優勝、岡山の第一七回国体でも軽く45米05を投げ一位となり、さらに成長の跡を示した。
 ところで、県体育協会は東京オリンピック開催の機運に乗り「愛媛県スポーツ振興会」設立をはかり、三七年二月二六日に松山市県PTA会館で設立総会を開き発足した。久松定武知事を会長に一千万円募金を広く県下の財・官・民界に押し進めた。また翌二月二七日には県スキー連盟が誕生、三月四日県選手権大会、同一八日には鳥取県大山で四国選手権大会も開催された。

 三八年

 全国高校総体柔道競技が松山市の愛媛県民館で開かれ、個人軽量級で河野義光(今治南高二年)が決勝で関根(埼玉秩父高)と道場一杯に寝技を展開、河野が送り襟締めを決めて関根を破り、本県高校柔道で初めて全国制覇をとげた。河野は翌三九年には中量級に上がり見事二連勝を飾った。

 三九年

 東京オリンピックのため第一九回新潟国体は五月繰り上げ開催、高校女子バレーボールで今治明徳高校が初優勝した。二回戦で前年の山口国体で敗れた四天王寺(大阪府)を巧みなフェイントで降して勢いに乗り準決勝で大宮(埼玉県)決勝八頭(鳥取県)を退けて快勝。八月の高校総体(名古屋市)でも四天王寺高、大宮高を連破して高校二冠に輝いた。
 同年一〇月一〇日、世紀のスポーツ祭典、東京オリンピック開催は、日本のスポーツ界に大きな自信と新たなる飛躍の足がかりをもたらした。郷土選手は山下治広(現姓松田)、山田宏臣、山内政勝、浜田吉次郎、丸山忠行、法華津寛、片山美佐子、岡本敬子の八人と最高を数えた。うち体操の山下は男子跳馬で豪快な山下跳び(ジャックナイフ跳び)で金メダルを獲得し、日本人選手で初の一〇点満点が掲示された。団体でも連勝して二個の金に輝いた。
 なお、東京オリンピック開催を記念し同年九月二三日、愛媛県スポーツ少年団が県体協の下部組織として発足し、初代県本部長は相原正一郎が就任した。六〇年現在、団員一万八千人。五八年には、第二一回全国大会を北条スポーツセンターで開催した。
 三九、四〇年に亘り活躍した高校ボート宇和島東高校の活躍も見逃せない。第一九回新潟国体男子フィックスで喜多方商工(福島県)を三分の二艇身押えて四年ぶり二度目の優勝をとげた。翌四〇年に高校総体でも瀬田工(滋賀県)に一米の差をつけ一三年ぶりに二度目の優勝、続く九月の第二〇回岐阜国体でも実力通り塩釜(宮城県)瀬田工を退けて二連勝、初出場の同校女子ナックルフォア、同男子両クルーも活躍した。