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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

四 明治後期から大正期の発展

観世流の興隆

 津田茂尚は、前述の通り養子三一郎の山階家相続のこともあり、真観社、松諷会に拠って頻繁に活動し、明治四三年四月津田の傘寿祝賀の能を二日間松山市公会堂で催した。津田の師家片山九郎三郎(観世元義)が、後に家元左近となる長男観世清久を連れて来演しており、番組概要は次の通りである。

  初日 翁シテ津田茂尚、面箱茂山良一 千歳二宮嘉一郎 三番三茂山忠三郎 高砂二宮嘉一郎・田中耕吉 巴津田四郎・柳田音五郎 羽衣観世清久・柳田音五郎 弱法師片山九郎三郎・田中耕吉 石橋片山九郎三郎・観世清久・田中耕吉 (狂言)粟田口茂山良一 横座山本重義 通円茂山忠三郎 鈍太郎古川久平  二日目 菊慈童観世清久・田中耕吉 芦刈黒田此太郎・柳田音五郎 松風片山九郎三郎・田中耕吉 葵上片山九郎三郎・田中耕吉 乱観世清久・柳田音五郎 (狂言)鍋八鉢茂山良一 伊文字藤田幾太郎 入間川茂山忠三郎 悪太郎亀田佐太郎・井上熊太郎

 顔ぶれ、曲目ともに豪華版で、津田一門の意気盛んなことを偲ばせる。地元ワキでは柳田が一人気を吐いており、狂言は既に忠三郎社中の一勢力となっていた古川久平その他の地元勢が、茂山父子に伍して出勤している。このように意気上がった津田茂尚も如何なる理由か、明治四四年広島へ移住して松山を去った。大正六年八八歳で没しているが、幕末以来この人の力が愛媛観世流の躍進の原動力となった功績は大きく、大正四年には約二五〇名の同流連合組織が生まれ、今に至るまでその影響力が残っている。
 津田に学び、東正親に大鼓を習った松山生まれの藤井源次郎(美蔭)は、明治三九年ころ池内信嘉の勧めで上京し、観世清之(観世分家・一時梅若六郎を名乗る)に師事して職分に取り立てられた。同四一年独立披露が道後八雲館で行われ、津田は一門を挙げて祝った。藤井はその後なお片山九郎三郎に師事して京都に住んだ。のち津田も松山を去ったため昭和初期から松山へ出稽古に来る様になったが、昭和一四年に没した。跡は養子藤井久雄が継ぎ、観謳会を率いて大きな地盤を築いている。

神能組の活動

 前述の如く能楽衰勢の声も起こったが、応援を得ながらも活動を続け、明治四一年には二日間の神能を奉納し、また三津能楽会の名で旧御船場定小屋恭幼舎でも二日間の能を催している。崎山、越智、山本らの他新人も現れており、子方には森重朗の名も見える。森は後年上京して幸清流小鼓で大成し、家元幸円次郎を援けて功を挙げたが、昭和五九年東京で没した。ワキは鉄井・柳田、囃子は東正親(大鼓)に加えて高橋政詔(笛)、岩田正雄(太鼓)、友沢勘四郎(笛)らが中心である。先に上京して喜多六平太の門に入った金子亀五郎は、明治四二年東京で独立記念に望月を演じている。藤野漸は同四四年流友とともに上京して、細川侯爵邸で宝生新や池内信嘉らと謡い、芝紅葉館での久松勝成傘寿祝賀能に招かれている。
 さて東雲神社能舞台は、向かって右側の本殿脇に南面して建っていたが、次第に老朽化し、それまでに積み立てられていた松山能楽会の基金や有志の寄付によって下段に移転新築され、明治四五年六月一五・一六日の両日舞台披きの神能があり、二日目は故久松老公追善能を兼ねている。出演は神能組が主力で、観世流から津田三一郎が加わっている。
 神能組の一人越智磯次郎は、大正の初め大連へ渡り謡曲指南をしていたが、同六年一〇月松山と連絡して能を計画し、兄の崎山龍太郎や柳田音五郎・天野義一郎・村上彦一・桝鏡圭次郎・世良豊三・岩田正雄・藤井茂・古川久平・藤田幾太郎らが出かけた。装束などは東雲神社のものを借りて行き、竹生島、紅葉狩などを演じ好評であった。この時既述の通り照葉狂言の泉祐三郎が、娘の婚家の経営する料亭扇芳亭に元気で、太鼓の手伝いをした。
 天野義一郎は弁護士で松山市二番町に住み、早くから下掛宝生流を習い、後には大小鼓を学んで神能に活躍し、東雲神社能舞台の下段改築には大いに貢献している。大正期に入ると邸内に舞台を作り、良家の子女を集めて霞会を組織して夫妻でその指導に努めた。古来能は女人禁制であったが、女性ばかりの能を催して旧来の陋習を一新したのは大いに讃えられる。

連合能楽会の開催

 神能組と観世流との対立も明治三五年ころから和らぎ、神能にも町方観世流が参加するようになった。この機運に乗じ、同四一年八月一六・一七日松山市公会堂で各流連合能楽大会が催された。池内信嘉の力で実現したもので、喜多流は家元喜多六平太・粟谷益次郎、観世流は津田茂尚・同三一郎・大和田建樹、ワキ下掛宝生流宝生新、狂言茂山忠三郎良豊、囃子加藤八百作・吉田勝次郎・小寺隼之助・森田操らが招かれ、地元勢とともに初日清経・望月・融、二日目盛久・鬼界島・竹雪・熊坂が演じられた。融のシテは大和田建樹、太鼓は池内信嘉が演じている。この二人は雑誌『能楽』にこの時の模様やエピソードを詳しく書き、各流が一致して機運を盛り上げてくれたことを感謝している。
 同じく池内信嘉の肝煎りにより、やはり松山市公会堂で、大正三年六月連合能が催された。金春流桜間金太郎(弓川)、金剛流金剛右京、喜多流梅津正保、ワキ宝生新・古鍛冶剛、囃子亀井俊雄・吉見嘉樹・守山佐太郎・小早川靖二らが来り、初日山姥梅津正保、忠度津田四郎、鳥追舟崎山龍太郎、蜘蛛桜間金太郎、土蜘蛛金剛右京、二日目融黒田此太郎、頼政梅津正保、熊野桜間金太郎、隅田川金剛右京、羅生門崎山龍太郎、三日目三輪白石徳次郎、春栄山本惣太郎、船弁慶梅津正保などが演じられた。この時珍しく高浜清(虚子)が鳥追舟・土蜘蛛のワキツレ・熊野のワキを、河東秉五郎(碧梧桐)が隅田川のワキを演じ、池内信嘉とともに三人は大小鼓も打っている。なお、三日目は飛入勝手であった。
 大正八年にも池内信嘉から船田操を介しての口利きにより、田中七三郎経営の家庭新聞社の主催で、五月に二日間連合能が行われたが、船田操・天野深雪ら婦人達の努力で大盛会であった。シテ方桜間金太郎、ワキ方宝生新・古鍛冶剛・松本謙三、囃子方亀井俊雄・寺井義治・山下博睦・島田己久馬らが来り、地元の常連と共演している。桜間金太郎は自然居士・葵上・桜川・船弁慶の四曲を舞っている。

狂言方の伸張

 松山では従来、大蔵流八右衛門派の狂言が演じられ、中村喜左衛門・児玉喜蔵・山本岩三郎らがいたが、明治末年頃までに世を去り、佐伯暹蔵も東京へ去り、古川久平・井上熊太郎・藤田幾太郎らの時代に入った。前記明治四一年連合能楽会で崎山龍太郎が稀曲「竹雪」を演じたが、この間狂言が難しく、京都から茂山忠三郎良豊が招かれたのを機に、松山狂言方は茂山門下に入り大蔵本流となって面目を一新することとなった。池内信嘉もこの時の筆に松山狂言方の将来に大きな期待を寄せている。忠三郎はこの会ののちも滞在して、中ノ川長円寺、元代議士山本盛信邸で稽古をつけ、八月二七日梅津寺伊豫鉄道施設で狂言会を催している。道後温泉湯治を好み、翌四二年九月にも来松して公会堂で狂言会を行い、栗焼・鎌腹を、息良一は仏師を演じている。児玉喜蔵の親族に当たる古川久平は次第に頭角をあらわし、この時は寝音曲と朝比奈を演じた。なお、藩政以来の狂言方竹田博文が、維新後狂言から遠ざかっていたが、この時吉枝尚徳・山本盛信とともに三人片輪を演じているが、この後は名を見なくなっている。忠三郎はその後も続いて出稽古に来たり、今日に至るまで三代にわたって松山狂言方の指導が続いている。

その他の情況

 明治後期、新居浜では上掛宝生流が謡われるようになり、磯谷光利が招かれ、新居浜、西条の人を集め住友小学校(現、惣開小学校)を会場として月並会を催している。大正元年末に赴任した県知事深町錬太郎は同じ宝生流を好み、鷹卯吉郎という謡曲師を招き県官界に奨励したが、彼が離任するに及んで次第に衰えた。大正一五年同流家元宝生重英が来松して能があり、柳田音五郎・伊藤秀夫・桝鏡圭次郎らが相手をしている。明治年代大洲には梅若実に習った松田久彰があり、同四一年ころ大洲中学校教諭堀沢周安を講師とする約五〇名の謡曲文研究会が活動していた。同じころ新谷には江戸勤番中森田流笛を学んだ三好忠臣がいて、松山地域の催しにも招かれている。