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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

第一節 書の歴史

文字の創造と発展

 書は東洋に発達した最も美しい特殊な造形芸術として、現在世界的に注目されている。その源は中国に発し、表意文字の漢字を用いる国々に伝わり、日本もその影響を受けた主要な国である。意思伝達、記録の中に教養としての正確さと美を求めて書法・書道と言い、近代その特殊な芸術性が内外に認められ、この意識のもとに表現される日本の書は欧米各国のみならず中国書法界においても注目されている。
 漢字は凡そ四七〇〇年前、黄河流域に定住して農耕生活を営んだ漢民族国家の黄帝の時、蒼頡が鳥の足跡にヒントを得て、木片の先にウルシをつけて書いたといわれ、鳥跡文字・蝌蚪(おたまじゃくし)文字と呼ばれた。この文字創造を祝福して天は穀物を降らし、魔神も恐れて夜大声を発して泣いたと伝えられている。
 六義。漢字は必要に応じて次第に増加し、数万字作られた。その造字法を六義という。(『書道史大観』)
 I、象形文字 日・木・山など
 2、指事文字 上・下・土など
 3、会意文字 林(木が並んでいる)品(多くの人が口を集めて品定めをしている)など
 4、形声文字 河・海・怒・悲等、一部は意、一部は音を表す。
 5、転注文字 複雑な事物を表すために、既成の文字を使用する。楽(がく→たのしむ)好(よい→このむ)
 6、仮借文字 革(なめしかわ→あらたむ)、英吉利(イギリス)など

用具の発明

 文字を記録し、伝達する書は、その用材・用具によって形体が変化した。古代は獣骨・亀甲・銅器に刀を以て刻したから直線的で簡素な形で古文・金石文字と言われ、先の細い木にウルシ(漆)をつけて書いたので蝌蚪文字と言われた。これらを古文時代という。
 時代の進むにつれて字数の増加により複雑化し篆書が生まれたが、書記の便利から隷書を作り、墨・筆の発明により、竹簡・木簡を用いて速書きと一筆で数字が書ける書表現が可能となり、これを革で綴った書物を造ったので、書物を数える冊・巻の言葉が現代に残っている。

李斯と隷書

 春秋・戦国の群雄割拠の乱世も秦の始皇帝によって中国は初めて統一国家を建設し、黄河上流の現在の西安地区に都し、万里の長城を築き蕃族を防ぎ、万世にこの偉業を伝えんとしたが、僅か三世一五年で亡んだ。しかし秦の名は支那の国名の元として世界に広まる偉大な業績であった。
 始皇帝は宰相李斯(篆書の大家)を重用し、法治国家の新体制を実現した大統一に制定して、その偉を四海に広めたが、土木事業による財政破綻と焚書坑儒の暴政によって亡んだ。しかし、李斯と伝えられる字を各名山に残したことと篆書を書記に便にするため隷書を作らせたことは書道史に大書すべき功績を残した。

漢代の書体変遷

 秦朝の後、劉邦によって漢王朝が建国され四二六年間の治世に国威の拡張と文化の向上は漢字・漢文・漢詩等中国文化の代表名称として現在まで生きている。
 この時代に漢字の簡略化は更に進み、隷書・草書・行書・楷書等速書と普遍化へ大発展した。
 漢は黄河上流の長安(西安)に都したが、北・西の異民族の圧力と内乱により、東の洛陽に都したので、長安時代を前漢(西漢)洛陽時代を後漢(東漢)を称せられている。後漢時代に草書の名人張芝が活躍し、次いで三国時代(蜀・魏・呉)の魏の鍾繇が楷書の名筆を残している。

書風の多様化

 その後、北方・西域の異民族が中国内に移住し、五胡十六国の六朝時代となり、黄河流域は異民族の勢力区域となって漢民族は南方楊子江流域に移った。気候・風土の違いから「南船北馬」といわれる異質の文化が生まれた。北方は寒瞼・素朴。南方は温雅優美を特質とし、書もまた北方は碑・銘として石に刻し、南方は帛・紙・竹木に墨書されている。
 北方の鄭道昭は雄渾な楷書を山東省の山々に残し、北方の代表者として尊敬されている。洛陽龍門には仏教尊信の北方人によって造像記・墓誌銘として、その敬虔な心を力強く清らかな書風を石に刻している。いづれも構築美のすぐれた力強い楷書の範となっている。
 南方は温雅、清明の中に健康美を蔵している。王義之、王献之父子(大王、小王)を代表として、楷・行・草書にすぐれ、義之は書聖と称せられ、古典最高の書と仰がれている。楷書楽毅論、行書蘭亭叙・集字聖教序、草書十七帖は代表的手本となっている。
 三国時代より六朝時代約四〇〇年、五胡十六国の群雄興亡の中国大陸は隋(漢民族)に統一された。第二代煬帝の失政によって僅か三代で亡んだが、王義之七世の孫智永禅師が楼を下らざること三〇年、義之の千字本の臨書八百本を書き江東の諸寺に寄贈したと伝えられている。その秀潤整正の書は初唐書のさきがけとなり、この千字本(真、草)は漢字書道の中心的手本として現在も尊重愛用されている。

書開発の飛躍

 隋朝は三代三七年にして太原の李淵に亡ぼされ、新に唐朝が建設された。以来二九〇年間漢民族最大最強の国家として栄えた。第二世太宗李世民は英明にして、政治・文化に中国史上最高の業績を残した。書道においても自ら愛好し、王義之系統の雅健整正の風を多くの名臣とともに学び、中国第一の帝王の書名を得た。
 この時代は楷書の完成を特筆すべきで、虞世南・欧陽詢・精遂良と中唐安禄山の乱に義兵を挙げた忠臣顔真卿は唐の四大家と称せられ楷書の極則と言われる整健の書を残している。以後の各朝もこれに超えるものなく、書の古典と称せられる最後の存在である。
 太宗は王義之の書を集め、諸名臣とともに学び、死に臨み義之書蘭亭叙をともに埋葬させたと伝えられている。特に行書が巧みで、その書晋祠銘碑・温泉銘碑は行書碑の始めであり、歴代帝王中最高の書であり、大王の風格が漲ぎっている。
 草書にも孫過庭・懐素・張旭が温雅・痛快自在に運筆し国運の隆盛を象徴している。「上これを好めば下これよりも甚し」の譬えの如しである。筆・墨・紙の改良も進み、表現力の自在性を助けたものであろう。書の芸術性の飛躍が実現されている。
 中唐、玄宗皇帝の忠臣顔真卿は新しい用筆法を開拓して顔法と慕われ楷書に新機軸を開いたが、行草書も同じく後世に敬仰された。
 唐朝滅後、五代五七年を経て宋朝の大統一となり三二〇年の文化国家として宗教・学問・文学・芸術の隆盛時代が出現したが、人間自覚の新傾向の中に蔡襄・蘇東坡・黄庭堅・米元章らが書の新風(個性的)を興し、禅宗の栄西・道元らの入宋や黄檗宗隠元らの渡来僧によって日本書道に新風が移入されたことは特筆すべきである。
 以後、元・明・清を通じて北碑・南帖の新傾向か日本へも紹介され、今日の書道文化に大きな影響を与えている。