データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

七 伊予の木蝋

 晒蝋の技法が中国から導入されたのは天正年間だとされている。初め九州地方が先進地であったが、次第に各地方に広がっていった。本県では宇和島藩と大洲藩が製蝋に熱心で、両藩とも宝暦年間に始めたものと伝えられている。宇和島藩では宝暦四年(一七五四)に三名に晒蝋座を認可し、製蝋を始めた。大洲藩では宝暦七年に伝えられ、初代芳我弥三右衛門が苦心の末に蝋花式箱晒法なる製蝋法を考案し、芳我家を中心とする内子町八日市周辺は製蝋の中心地として繁栄するに至った。文久年間までは、販路は大坂・広島地方に限られていたが、江戸方面ともひろく交易するようになった。
 生蝋の技法は横木式と立木式とがあり、大洲藩では立木式を取り入れた。櫨の実を措いて甑に入れ、蒸気を加え鉄鉢に入れ圧搾すると油状の蝋が流出する。これが一番蝋で生蝋という。次にこの生蝋を大釜に入れて溶かした後、大桶に移して爽雑物を沈澱させ、アルカリ液をいれて攪拌する。次いで篩納で掬い取り簀上げに拡げて乾燥させる。ここまでの作業を荒煮または青だしという。
 よく乾燥した上、こんどは長方形の箱にいれ、干棚に二週間日光に曝した上、再び釜にいれて炊ぎ、今度はアルカリ液は混入しないで一回目と同じような工程で乾燥し、さらに三回目も同じような工程を実施した上で、角型、又は丸型の蝋皿に注ぎ込んで冷却し、固形で出荷する。
 こうして藩政時代を製蝋の中心地として芳我一族は繁栄し、今日の内子町八日市の軒並みが当時を偲ばせるが、明治維新になってから石油の輸入、断髪令で鬢付の必要がなくなるなど、一時的に不況を迎えたのである。『愛媛県史稿』によれば明治二年(一八六九)に白蝋一〇〇斤(六〇㎏)が三〇円、生蝋一〇〇斤が二五円であったが、急に価格が暴落し、白蝋は一〇円、生蝋は八、九円という有様であった。製蝋を業としていた人たちは相次いで転廃業していった。こうした不況のなかで喜多郡新谷出身の池田貫兵衛・河内寅次郎たちは、景気回復を図るため国外に新市場を求め、神戸から上海を経て各国に輸出された。明治一〇年には晒蝋が三〇万斤、同一二年には三三万斤となり、内子の木蝋は明治中期の全盛時代を迎えることになる。明治三三年にはパリの博覧会に出品して褒状を受けるなど、内子の晒蝋は内外に知られた。当時の製蝋技術者は六七名、生産高は一五〇万斤、年商二二万五〇〇〇円であった。明治三九年の最盛期には生蝋五四万貫、晒蝋は五七万貫、生蝋業者は三三〇戸、晒蝋業者は七四戸を数えたという。大正二年には前記の数字が約半分に減っている。
 大正八年から同一〇年にかけて内子地区の晒蝋業はほとんど廃業し製糸業に転じていった。不振の原因はいろいろ考えられるが、第一には電灯の普及が大きく、石油の輸入、西洋蝋の発明等によって需要は急速に減少し、価格も下落したことなどが主たる原因であろう。
 ともあれ藩政時代から代々製蝋業を営み、全国的に製品の優秀さを誇った伝統工芸は姿を消したが、建造物だけは蝋の町として当時の面影をそのまま残している。江戸時代から明治の初めの民家は、七〇棟のうち四三棟もあり、明治の中頃から大正迄の民家九棟もある内子町は、町政の重点施策として町並保存に積極的に取り組んでいる。製蝋の技法を残すための施策に努力を傾け、町あげての保存伝承に熱意を傾けている。