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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 伊予の木工品

木地師

 材木を原料として、椀や盆などの生活用具を作る職人を木地師という。全国の山の八合目以上は自由に伐採してよいとされ、平安時代から明治の初めまで古い伝統的な制度が続いた。
 明治のはじめに山林所有権が確立されてこの制度はなくなった。本県では山間部に「きじや」といわれる元締があり、木地師渡世の免許を発行し、技法も伝授していた。上浮穴郡久万町直瀬の小椋家にも「きじや」であったことを証する資料が残されている。
 越智郡玉川町楢原山の麓に「木地」という村落があり、代々木地師を受け継いできたが、幕末から明治にかけて陶磁器の急速な普及と、山林所有権の確立等によって木工用品は次第に姿を消していった。
 本県に伝世されている優れた木工品について解説を加えていきたいが、木工品は生活の用具や調度品として使用されてきたために消耗品的要素が多いということもあって今日まで伝世のものはきわめて少なく、僅かに神社仏閣に遺品を見ることができる。
 石手寺の大壇は高さ三一・四㎝、方一三〇㎝の檜材、側面に格狭間、花型で飾り、朱漆を塗り、従連子をおき、緑青を施している。鎌倉時代末期の遺品である。
 石手寺に伝世している前記大壇のほかに礼盤がある。高さ二三・五㎝、方七〇㎝、檜材の箱形で側面には格狭間を刻し、その、その裏面には四行に「永正十一歳甲戌、十二月口日造、権大僧都信禅、住院南音」の墨書銘があり室町時代の永正一一年(一五一四)の作であることを知ることができる。
 越智郡玉川町の宝蔵寺に伝える前机は高さが七一㎝、横一一一㎝、幅四七・六㎝の台板に四脚付の前机である。須弥壇の前におかれ、仏具や供物を置くために用いる机である。鎌倉彫の技法を模したもので室町時代の遺品として貴重な木工品である。
 越智郡大山祇神社所蔵の几帳台は高さ九八・三㎝の檜材に墨漆塗を施したもので、几帳とは寝殿造における障屏具の一つである。残念なことに几帳は現存してないが夏は生絹に花鳥などを描き、冬は練絹に朽木形などを描くのが通例となっており、その時期の好みに応じて色を用いるが本来的には今日でいう衝立の用と同じで室内に立てて隔とし、外見を遮るためのものである。製作年代については他に例をみないため判定しがたいが、全体の形姿や金具の文様などからみて藤原時代の様式を踏むものと推定される。
 同じく同神社に伝世されているものに懸物台がある。高さ六一㎝で檜材、黒漆塗を施した簡素な装飾で金具の文様も古様の技法である。社伝によればこの懸物台に一対の鳥を吊下げてお供えする慣習であったが、一遍上人が社参の際に供えることを禁じさせたと伝えられる。一遍上人が正応二年二月七日に大山祇神社で催される桜会で禁止したとの社伝や一遍聖絵からもその事実を推定することができる。
 北宇和郡吉田町大信寺に伝世する食籠は高さ二三㎝、直経一三㎝の筒形で総じて黒漆塗を施し、胴部には藤を蒔絵で描いている。大信寺には初代の吉田藩主伊達宗純の母が葬られており、この食寵も本家宇和島藩主の寄進什物と伝えられている。桃山時代に盛行した藤文様の蒔絵技法の優品で意匠も優れた食籠である。

文楽人形頭

 江戸時代から農村娯楽として人形芝居が盛行した。俗に麦うらしといって毎年麦秋にかかる前に一座が山間部の農村を訪ねることになっていた。麦うらしとは人形芝居が訪れたら麦の収穫にかかるわけで、これがこないと麦秋は始まらない。数少ない農村娯楽のなかで最も楽しい年中行事であった。こうした行事は昭和の初めまで続けられてきたが、次第に影を消してしまった。
 第二次世界大戦後は、人形芝居だけでなくすべての伝統芸能は全く断絶してしまった。松山の面師である面光や阿波の天狗久(天狗屋久吉)たちの木工芸術の逸品が、稲の穂がそよぐ田園に案山子となってゆれているというような田園風景がみられた。しかし、久松鶴一らの働きかけの結果、県内五座の人形頭、衣装等が県指定文化財に指定されるとともに人形芝居の復活をはかり、済美高校・肱川中学・三瓶高校の生徒たちが、技術の伝承にあたっている。各座とも代々人形師として知られた徳島の天狗久、松山の面光などの木工芸術の最高の作品を保存し、活用をはかっている。なお、県指定有形民俗文化財に指定されているのは、次の五座である。

  伊予源之丞  松山市古三津
  大谷文楽  喜多郡肱川町大谷
  朝日文楽  西宇和郡三瓶町朝立
  俵津文楽  東宇和郡明浜町俵津
  鬼北文楽  北宇和郡広見町出目