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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

総説

歴史と風土

 愛媛県は自然的、歴史的な環境に恵まれ、古くから文化の栄えていたことは、土中に埋蔵されていた遺物や伝世されてきた文化遺産の実証するところである。周知の如く本県は全国のなかでも海岸線の長いことで知られている。単に長いことが意味のあることではない、瀬戸内海に面していることが大切な意味を持つものである。
 瀬戸内海は原始古代より大陸文化の往還として重要な役割を果たしてきた。いうなれば瀬戸内海は文化の廊下であり、その沿岸の最も長い本県の地理的条件が他県に勝り、文化の恩恵を受けてきたことは理の当然というべきであろう。
 さて、郷土愛媛の文化のあけぼのは遠く先史にさかのぼる。上浮穴郡上黒岩の岩陰遺跡より出土した線刻女性像がそれである。そら豆大の緑泥片岩に線刻された半裸の女性像が学術的にきわめて価値の高いものとして知られるところであるが、美術的にも伊予の源流というべく、文化の曙と称してよいであろう。
 推古天皇の四年(五九六)摂政であった聖徳太子が道後温泉にみえられ、霊験豊かな温泉を称えて碑文を建立されたと「伊予国風土記逸文」にみえるが、この碑文はわが国最古の石文として知られ、その行方をめぐってさまざまの諸説がある。『伊予国風土記』は奈良時代から平安のはじめにかけて記述されたものとされるが、いつの頃かその碑は姿を消している。地震等による天災か、兵乱等による人災か、いずれにしてもこの道後温泉碑は大切な文化遺産であり、その所在の発見が待たれるところである。
 伊予郡砥部町大下田古墳で発見された六世紀後半の子持高坏は七個の杯が器台に置かれ、工芸的にも優れた須恵器の逸品である。

伊予の仏教文化

 六世紀の中頃、わが国に仏教が伝来し、瀬戸内海の往還はさらに賑わしくなるが、当然のことながら、伊予に仏教文化の影響をもたらしたことはいうまでもない。県内各地で小金銅仏の作例がみられ、御荘町平城の山王社境内から出土した銅造誕生釈迦仏立像、北条市善応寺の畑で発見された金銅誕生仏立像や、丹原町興隆寺に伝世する銅造如来立像など、いずれも飛鳥、白鳳時代の優品である。そして平安時代を迎えて地方仏教はますます盛行し、特に空海が隣接する讃岐国の出自であり、県内各寺に密教法具類の優れた遺品が数多く伝世されたものと想像されるが、後世に土佐の長宗我部氏の伊予侵攻により、県内諸寺の大半は焼失したと伝えられ、今日まで伝世している金工の美術工芸品は大山祇神社を除いては見るべきものは少ない。しかし、越智郡玉川町の奈良原神社の経塚出土品のうち、銅宝塔は平安時代における日本美術工芸の逸品であり、国宝に指定されている。

大山祇神社

 大山祇神社に伝世されている武具甲冑類は国指定文化財の八〇%を同神社が保有しているといわれ、瀬戸内海の総鎮守として多くの人に知られている。本来甲冑は相手の攻撃に対する防御を目的とするものであるが大山祇神社にみられる各時代の甲冑は、実用性よりもむしろ装飾性に重きをおいているかにうかがうことができるが、平安から中世・近世にかけて当時の武家社会の心意気を象徴した工芸技術の優秀さは、今日の科学技術をもってしても到底かなうところではない。大山祇神社所蔵の武具甲冑については特別に項を改めて記述する。

中世の金工

 新居浜市明正寺に伝世する密教法具は精緻を極めた優品であり、上浮穴郡札所霊場の大宝寺に伝わる鉄製燈台は地方色豊かな作例を示すものであり、小松町宝寿寺蔵の孔雀文磬も鎌倉時代初期の県内数少ない遺品である。

近世の金工

 近世以降の伊予における美術工芸品は特記すべき遺品は少ないが、藩政時代は伊予八藩それぞれに伝統工芸品が伝えられ、そのいずれも生活に根ざしたところから生まれ、既に消滅しているのもあれば今日までよく技法が継承されているのもある。例えば、幕末当時は約三〇窯を数えた伊予の窯は、時代の波に抗し切れないで廃窯していった。砥部焼のみ窯煙を消さないでいる現況であり、桜井漆器は辛うじて命脈を保ち、伊予絣は興亡の歴史をたどりながら伝統産業として操業しており、古くからの伝統工芸であった和紙もその技法や製法が辛うじて継承されているという状況にある。