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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

四 阿弥陀五尊像の意義

 弥陀・観音・勢至・地蔵・龍樹の五尊を一具とすることは教理的にまた図像的にいかなる意義をもつものであろうか。『覚禅抄』には次の記事をみることができる。

   五尊曼荼羅心覚説
    右印相等可見別図
  問、観音勢至加地蔵龍樹四、爲弥陀五仏、出何文乎
  答、未見本説、但大唐并州一国人皆念弥陀、其国人命終時、阿弥陀仏観音勢至地蔵龍樹皆来引攝云々
  随聞記ニ云弥陀五仏、中尊阿弥陀観音勢至地蔵龍樹也、地蔵同於過去爲大誓願、当於晡時此土申時也指極楽国供養問辞又龍樹菩薩生仏滅後、現身證歓喜地、修往生業、説種々伽陀妙偈、勧極楽土、遂自生彼、又令他人生彼仏国云々

 右の文中「皆来引攝云々」までは、阿娑縛抄にもほぼ同様の記事が「東寺永厳抄云」としてあげられ、図像抄や別尊雑記にも相似た記載がある。これらによれば、弥陀五尊についての確かな本説はなく、ただ五尊がいずれも極楽浄土に関係あるところから、来迎引攝の尊と考えられていたことが知られる。
 わが国においてこの種の五尊像を安置した古い例は、山門堂舎記に天暦八年(九五四)九條右大臣藤原師輔(道長の祖父)が叡山横川に建立した方五間の常行堂に「安置観音勢至地蔵龍樹菩薩等像各一体」とあるもので、これには中尊の記載を欠いているが、常行堂であったのだから、阿弥陀像が安置せられていたとみるべきである(『叡岳要記』に「安置普賢乗白象一体、同観音勢至地蔵龍樹等像一体」と中尊を普賢像のように書くのは、山門堂舎記をみても分るように、その前に記される法花堂の安置像を誤入したものである)。横川常行堂に早くかような五尊像が安置されていたことは、常行堂がのちの阿弥陀堂の母体をなすものともみられ、しかも浄土教の基礎を築いた恵心僧都が横川の出身であったことなどを併せ考えると、浄土教美術を考察する上に甚だ重要な事実といわなければならない。藤原時代の寺院にこの阿弥陀五尊像がおかれた例は文献の上に散見するところであって、例えば長元三年(一〇三〇)東北門院彰子が法成寺内に建立した東北院(扶桑略記所引供養願文)はその代表的なもので、これが横川常行堂安置像の系統を引くものであることはいうまでもなかろう。
 すでに触れたように、この阿弥陀五尊像の遺例は絵画のうちには若干みられ、その基準的な図像は覚禅抄にのせられている。すなわち中央に上品中生印の阿弥陀如来坐像、向って右前に左手で蓮華をもつ観音菩薩坐像、向って左前に右手で蓮華をもつ勢至菩薩坐像、向って右後に左手に錫杖、右手に宝珠をもつ地蔵菩薩坐像、向って左後に合掌比丘形の龍樹菩薩坐像を描くものである。次に一般絵画において五尊のみを対象として描いた作品で注目すべきは播磨一乗寺に蔵するものであろう。これは鎌倉時代の製作と考えられ、図の中央に定印を結ぶ弥陀の坐像、向って右側に両手で一茎の赤蓮華をもつ観音立像、向って左側に右と同様の持物をとる勢至立像、弥陀と観音の間に左手に宝珠を捧げ、右手を胸前で開く地蔵立像を配し、弥陀と勢至の間に描く合掌の老比丘立像は龍樹とみて間違いない。天台寺院である一乗寺にこの五尊画像の伝存するのは意義深いが、なお五尊の構図が後述の押出仏あるいは磚仏の五尊像に近似するのは、かような五尊像の系譜を考える上に興味あるところでもある。本論で問題の潮音寺龍樹像は彫刻として他に類例の稀なものであるが、合掌の比丘形という点では上掲の両図と一致して、これが龍樹像であることを一層確証するものであり、なおまた地蔵と龍樹の配置は両図とも向って右に地蔵、向って左に龍樹をおくから、これが普通であったと考えられる。その点、現在潮音寺における両菩薩像の配置は左右反対となっていることになる。その他、福井県安養寺・滋賀県安楽律院・川崎家旧蔵などの弥陀来迎図(いずれも鎌倉時代の作)にも菩薩群の中にまじって観音、勢至、地蔵、龍樹とおぼしき像が描かれていることもみのがすべきでなかろう。
 しかしながら、既述の論旨によって、日本において阿弥陀五尊像が横川の常行堂にはじまったとは必ずしも断言できないのである。というのは、すでに奈良前期の作と考えられる法隆寺、東京国立博物館などに所蔵の押出仏あるいは磚仏にこれに類する阿弥陀五尊像があらわされているからである。すなわちそれは転法輪相の阿弥陀像(押出仏は坐像であるが磚仏の方は倚像)の両側に観音(頭上に化仏がある)と勢至(頭上に宝瓶をいただく)の両菩薩が立ち、右の中尊と両脇侍の間に各一体の比丘立像を配するもので、この二比丘をもし地蔵、龍樹とみれば、全く上記阿弥陀五尊像に一致するわけである。ところが奈良後期の天平一三年(七四一)造立の平城阿弥陀院の安置像を阿弥陀悔過料資財帳によってみると、阿弥陀仏像、観世音菩薩像、得大勢至菩薩像各一体、音聲菩薩像一〇体羅漢像二体とあるから、音聲菩薩像を除けばいわゆる阿弥陀五尊像となるけれども、この場合二比丘像はただ羅漢像二体と記されるのみで、特定の名称はつけられていない。よって上記押出仏あるいは磚仏の例も、とくに地蔵、龍樹と限定する要はなく、ただ漠然と両羅漢とみる方が正しいかもしれない。一体、尊名は未詳のものも多いが、その如何を問わず、一如来、二菩薩、二比丘の五尊形式をとった本尊配置はすでに中国、西域などにおいても実例が多くあり、おそらく主として六朝、隋、唐代に行われた本尊形式ではないかと思われるが、わが国においても上掲の例があり、また養老五年(七二一)創建の興福寺北円堂の弥勒三尊、二羅漢、四天王の配置もこの類にいれるべきものである。従って、このような本尊形式の歴史の大きい流れに立っていえば、問題の弥陀、観音、勢至、地蔵、龍樹の五尊像も上記と同類とみることもできようが、五尊のそれぞれに特定の名を付したのは、わが国においてはやはり平安時代にはいってからと考えられる。それは五尊の一つである地蔵菩薩の信仰が平安時代以前にはまだ芽生えていなかったことからも推定されるであろう。そしてこの五尊像は源を天台に発する浄土教と主として結びつき、彫刻や絵画によって表現されたのであるが、その彫刻における珍しい藤原時代の一遺例が伊予で発見されたのは、美術史的にも仏教史的にも甚だ意義深いことといわねばならないのである。                                      (昭和三一年)