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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

二 梅之堂の阿弥陀三尊像

 八幡浜市の大字松柏字徳雲坊という丘陵に現在とりのこされたような一つの小堂が建っている。俗に梅之堂と呼ばれ、いまは近くの大字五反田にある保安寺の境外仏堂となっている。この堂内に安置される阿弥陀三尊像が識者の間で注目されはじめたのは終戦後のことで、私も郷里に近い土地の関係上、昭和二五年六月の帰省の際に一度訪れて簡単な調査を試み、従来僻遠の地として古文化財に乏しいと思われていたこの地方にもかようなすぐれた尊像がのこっていることに驚き、かつ郷土において見出したことについていささか誇りを感じたものであった。やがて、当時香川県民間情報教育部に勤務されていた和田正夫氏は当像を詳細に調査し、「伊予八幡浜梅之堂―阿弥陀三尊について―」と題する紹介の一文を國學院大學の『国史学』第五十四号(昭和二六年二月発行)に掲載して広く学界に真価を問われ、ついで昭和二九年一一月には愛媛県指定の重要文化財に加えられたのである。
 さて三尊の各々について、私の調査ノートと和田氏の報文を基として、次に簡略に説明を加えてみよう。
 阿弥陀如来像は檜材の寄木内刳造、漆箔、定印を結んで結跏趺坐する半丈六像である。螺髪はこまかく彫出され、眼も彫られるだけで玉ははいらない。木寄は、頭部は中央で左右に矧ぎ、首を胴部にはめるが、胴体は外見だけではよく判らない。両膝を大きく開いて安定よく、柔和な面相や流麗な衣文線などはことによく藤原末期彫刻の特徴をみせている。両手の栂指は後補らしく、金箔もほとんど後世の押直しのようで、そのため多少像様を損じているところもある。台座は八角裳懸座の上に三重蓮華座を重ねたものであるが、これでは垂裳の意味は全く無視された形である。垂裳にはやや古様がみられるに反し、その他の部分は近世の作であるから、後世にこのような無意味な改変が行われたのである。光背は簡単な輪光で、これまた新しい。なお、像の胸腹部内側に左の墨書がある。

  七條大佛師吉左衛門弟子伝作
  迎佛使沙門智益医師良休
  天和癸亥五月吉辰
  正法座下現住等覚関龍了機三興
祈国司伊達遠江守従四位宗利公武運紹隆

   矢野南茅梅之堂棟札
   一上棟天地八陽経忠光寺    地頭平忠清
    右趣旨者爲天長地久御願   院主誓賢公
    円満悉皆満足伏是彼寺者   熊王丸生年七才
    後白河法皇草創之忠光造営  執筆頼阿
  霊場也有破壊中絶処当院院  大工
            名不見有信
  主誓賢公拂壌憂愁志如形
              小工
           源左衛門三郎
  奉修造者也
  嘉慶第三歳次戌辰大呂二日

 右銘文の前半は天和三年(一六八三)の修理銘であり、後半は嘉慶二年(一三八八、銘に三年とあるのは誤り)の梅之堂棟札を写したものである。この棟札は現在所在を明らかにしないが、すでに天和元年に伊予宇和島藩士井関盛英が宇和島藩領を巡検して編した『宇和旧記』にも収載されていて、それには「嘉慶第二天」と正しく読んでいる。この棟札は梅之堂の歴史を語る唯一の記録であって、それによれば、梅之堂は忠光寺の法燈を伝えた堂であったらしく、その忠光寺は平忠光が後白河法皇の奉爲に草創したものと解される。宇和旧記には平忠光を吾妻鏡や源平盛衰記に散見する平家家人上総五郎兵衛尉忠光(建久三年二月二四日武蔵国六連海辺で梟首)と同人としているが、がんらい梅之堂の所在する地は往古矢野郷といい、平家時代には平清盛の継母の出身池大納言の家領に属していたことは吾妻鏡元暦元年(一一八四)四月六日の條にもみえるから平家と浅からざる関係のあったことは疑えない事実である。かくしてとにかく、忠光寺はほぼ藤原末葉に建立された寺であることはいえそうであり、現存する阿弥陀如来像とそれに付属する像もおそらく忠光寺の本尊として、その頃に造顕されたと考えることもできるであろう。
 次に天和の修理銘は等覚寺住持関龍了機の修理を記したものである。等覚寺は山号を龍華山と称し、城下宇和島にあり、藩主伊達氏の菩提寺であって、『宇和旧記』にも

 此(梅之堂)本尊の仏像、弥陀如来、観音、勢至、龍神、地蔵之五尊、龍華山之薩雲代、御寺へ引今現存、地藏、龍神二体は潮音寺観音の脇士に成す

とあるように、梅之堂の阿弥陀三尊像はその頃龍華山等覚寺に移されていて、そこで修理が行われたものである。なお上掲宇和旧記の記事の説明は後文に譲るが、阿弥陀三尊像は明治五年八月の梅之堂返還まで等覚寺に留っていたのである。
 阿弥陀像の向って右側に両手で蓮台(現在欠失)を捧げる観音菩薩像、左側に合掌形の勢至菩薩像が跪坐する。ともに檜を用いた寄木内刳、漆箔(後補)、彫眼、顔の表情といい肢体や衣文の線といい甚だやわらかく、やさしく、よく藤原時代の特色をあらわしている優作である。ただし両像の作風手法にはかなりの相違があり、例えば勢至には冠台があるのに対して観音にはこれがなく、また木寄の方法は観音が頭部と体部共木の左右矧合せであるが、勢至は首挿込みの前後矧ぎとなり、さらに木割も別表の如く同様とはいえない点がある。けだし両像の作者の違いは認めるべきかもしれないが、これをもってもともと一具の像でなかったと断ずるのは早計であろう。どちらかといえば、勢至の方が弥陀に近い作風を示す。観音の腹部裏に、

  等覚寺現住関龍三興
勢至の胸腹部裏に、
  等覚現住関龍三興
  縁起詳于中尊像内

と墨書されるのは、いうまでもなく天和の修理銘である。光背、台座は両像とも後補。なお跪坐の両菩薩像は他にも例はあるが、比較的数すくなく、ここに新例を加えたことを喜ぶものである。