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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 はじめに

二人の先覚者

 愛媛県南部は地形あるいは文化の上から南予地方とよばれ、伊予灘にそそぐ肱川の流域より南、豊後水道の沿岸地帯にあたり、大洲・八幡浜・宇和島の三市と喜多・西宇和・東宇和・北宇和・南宇和の五郡をふくむ。この地方は山多く、しかも海岸にせまり、陸上交通は不便で、高松・宇和島間の予讃本線が全通したのもようやく昭和二〇年のことであった。ただ幸いに海運は古来かなり発達し、九州はもちろん阪神、中国へも船の便がある。とはいっても所詮は中央から遠く海山をへだてた地方であり、およそ文化財に関してはあまり期待されず、また本格的な調査もほとんど行われなかったのが最近までの実情である。
 しかしここに特記すべき先覚者のあることを忘れてはならない。それは『宇和旧記』の著者井関盛英と『吉田古記』の著者森田仁兵衛の二人である。ともに江戸前期の人であって、前者は天和二年(一六八二)、後者は延宝九年(一六八一)の著作で、あい前後して世に出ている。この両書は南予地方最古の地誌であるが、特色とするところは、著者が自分で実地を歩き、社寺、古跡などについて具体的な記述を残している点である。たとえば棟札、銘文、古文書などは、つとめて全文を掲載し、それらのうちには現在亡失したり、所在を明らかにしない貴重なものもすくなくない。いまでも両書によって見当をつけて調査する場合が多いのであるから、その価値は大きく、江戸前期のこのような地方で、よい仕事をのこした二人の先覚者に対して深い敬意を表したい。
 私たちは、しかしながら、先人を讃歎ばかりしてもおられない。裏をかえしていえば、江戸時代の書物が現在まで尊重されるのは、それ以後さらに進んだこの方面の業績が出ていないことにもなる。大正四年、熱烈な地方史家久保盛丸は『南予史』と題する大著を公にしたが、そのなかに各個の社寺をとくにとりあげながら歴史的な記載だけで、文化財方面にはほとんど触れていない。そののち、三浦章夫氏は『伊予史談』一二五号(昭和二五年)に「南予地方の美術史料」という一文を載せて踏査の結果を報告している。これは新資料の紹介もあって注目され、後進を益するところがすくなくない。
 南予地方の文化財について一般の関心が向けられるようになったのは、ようやく終戦後のことである。とくに昭和三二年に八幡浜市の梅之堂にある阿弥陀三尊像が、藤原時代のすぐれた彫刻として重要文化財に指定されたことは、当地方の文化財について認識を新たにさせるのに十分であった。近年では、県はいうまでもなく市町村でもあいついで文化財保護条例が制定され、文化財の調査や保護の面にも遅まきながら注意されるようになった。このような傾向は何も当地方だけでなく、最近の全国的な特徴でもあるが、文化財に関心をもつものの一人として、まことに喜ばしく思う。
 いままで機会ある毎に断続的な調査を行ってはいるが、まだ十分でない。これまでに紹介された作例でも未見のものがあり、また踏査の地域は部分的で、なお広範囲の未調査地域をのこしている。だから「愛媛県南部の彫刻」と題する文章を綴ることは、現在の私にはまだ心苦しい点があり、また書くにしても断片的な解説に終って、とても南予の彫刻の全貌に触れることは、現段階としてむつかしい。そのようなわけで、この拙文は発表の時期尚早で、不完全なものであり、将来調査資料をととのえて、十分な考察を加えた文章を改めて草したいと念願している。

南予略史

 南予の彫刻について記述する前に、いちおう参考までに、この地方の歴史的背景に触れてみるのも無駄でない。この方面の研究としては、すでに上掲の『南予史』をはじめとする論著がいくつか出ているから、それらによって概略を記しておく。
 南予地方は、はじめ宇和郡と総称され、その中心地は現在の東宇和郡宇和町のあたりであったと考えられている。この地区からは銅剣や銅鉾などの青銅器の発見がすでに報告されており、さらに多くの古墳も散在していて、考古学的にも地方文化の一中心であったことを実証することができる。
 平安時代となって貞観八年(八六六)には、いままでの宇和郡を分けて、宇和、喜多の二郡にされた。承平六年(九三六)海賊の首領藤原純友が日振島(現宇和島市)によって謀叛をおこし水軍をひきいて威勢をはったことは、正史の上にも有名な事件である。この変はさんざん朝廷を悩ましたが、ついに天慶四年(九四一)警固使の橘遠保によって平定された。そののち橘氏は代々宇和郡に住みついて勢力を張り、源平時代に至ったが、嘉禎二年(一二三六)橘公業のときに、太政大臣西園寺公経の所望によって、宇和郡は西園寺氏の領有となり、橘氏は肥後に領地がえとなった。西園寺氏の荘園は現在の東宇和、北宇和両郡におよんだが、そのほか当時、南宇和郡には延暦寺のちに青蓮院の荘園があり、西宇和郡地方には池大納言家の矢野保がしられている。
 南北朝時代より室町時代にわたって、西園寺家の一族で当地方に来住するものがあり、やがて地方豪族を輩下に従えて勢力を伸張した。しかし西園寺公広のときに、土佐の新勢力である長宗我部元親にたびたび攻められ、ついに天正一二年(一五八四)にこれと和し、以後の南予地方は長宗我部氏の支配に移された。翌天正一三年に豊臣秀吉の四国征圧があって、小早川隆景が伊予国に封ぜられ、ついで戸田勝隆が宇和・喜多の両郡を領して大洲城に入った。そののちかわって藤堂高虎は宇和郡内七万石の主として宇和島城を築き、さらに富田信高が宇和郡一〇万石を領して宇和島城に入り、慶長一九年(一六一四)には伊達政宗の長子秀宗が宇和郡の一〇万石に封ぜられて、仙台より遠く宇和島へ入城した。以上のように戦国、桃山時代の南予地方は、他の諸国と同様に、群雄の興廃つねなく、目まぐるしいばかりであったが、伊達氏の支配になってからようやく安定し、江戸時代太平の二五〇年間をむかえたのである。