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愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)

一 各藩の絵師

 愛媛における近世絵画の幕開けは戦国争乱が収まり、幕藩体制による伊予八藩成立のころからである。松山・今治・宇和島・大洲など各藩の築城、藩邸の造営など新しい建設時代の要請に基づき召し抱えられた絵師たちを中心に展開していく。江戸時代も中期以降は長年の平和と各藩の文治政策による学芸の隆盛、産業の発展にともない、文人画の勃興、写生派の台頭などで町絵師も出現、藩外との交流も活発となり、次第に画流も多様多彩となる。だが、当初は、なんといっても藩の絵師が中心となり新時代を切り開いていく。

1 松山藩の絵師

 松山藩初代の絵師は松本山雪である。彼は松山松平初代の藩主定行に見いたされ、その転封に伴い松山入りをする。
 定行は戦国争乱の世を生き抜いた武将であり、彼の父は徳川家康の同母弟に当たるいわゆる親藩で幕藩体制下における四国周辺の鎮として当地に配置される。彼は戦国武将であるとともに高い教養をもつ文化人でもあり、幕府のそうした期待と任地住民の衆望に応え、以後、当地の産業・文化発展に力を尽くし、近世松山文化の基を開く。その定行が松山転封に際し是非必要な人物とし山雪をわざわざ召し連れるには、よほど彼の人物・力量にほれ込んだものと思われる。山雪もまた、その懇請に応え、藩初代の絵師として松山に住みつき、愛媛近世絵画の劈頭を飾る巨匠として輝かしい業績を残す。
 山雪のころ、松山藩の絵師制度はまだ確立されておらず、極く軽い身分で藩の用を承るとともに一般の求めにも応じる至極自由な立場のようであった。当時彼の待遇は「二人扶持」であり、彼の跡を継ぐ山月は初め「五人扶持」、のち「八人扶持」となる。三代目の絵師豊田随園に到り初めて「百石六人扶持」の士分となり、ようやくそのころに至って藩の御絵師制度は確立される。こうした待遇・身分は、各藩の事情によってさまざまだが、一応藩お抱えの絵師ともなれば公認された専門絵師であり、藩の用だけでなく、それぞれ地域における斯道の最高権威として指導的な役割を果たす。
 以後、松山藩では初代山雪のあとその養子山月が継ぎ、三代豊田随園、四代武井周発、五代豊田随可、六代荻山常人、七代荻山養弘、八代阿倍晴洋と狩野派の絵師が受け継ぎ、途中遠藤広古・広実父子二代の大和絵系住吉派の絵師が加わる。

松本山雪

 山雪の遺作は県内はもとより全国各地に散在し、また馬の名手といわれ、彼の名は広く知られている。だが、その出生・画歴については不明の点が多く、今治出身とか、松山生まれなどさまざまな伝承も手伝い、幻の絵師ともいわれてきた。ところが、最近、伊予画人研究会矢野徹志らの調査により、「松本家系図」が発見され、その家系・出生が明らかになった。それによると、彼の出生は近江。その父は紀州藩士で、浪人して藤堂高虎に仕え再び浪人する。山雪の代に至って松山藩主松平定行に随行し、画御用を勤めるとある。
 松山における彼の住所は市の郊外南土居にあり、村人はそこを松本庵という。その近く万福寺境内に彼の墓があり、岨嶺山雪居士覚霊の戒名と延宝四年(一六七六)霜月二三日の没年月日が銘記されている。「松本家系図」の「松本山雪恒則延宝四年一一月二三日卒行年九六歳」とも一致する。ただ、この行年九六歳には疑点もあるようだが、相当の長寿であったことは間違いない。彼は別号を岨嶺といい、また心易ともいう。
 彼の画歴について、京狩野二代目の当主で同名の狩野山雪に師事との説もあるが、その山雪は松本山雪より若年であり、その説はどうも疑わしい。だが、同名の故もあって両者の作がしばしば混同され、幻の絵師といわれてきたことは師弟の関係というより、むしろその作風・力量が似ていることの証左でもあろう。山雪が松山入りの年、ちょうど桃山画壇の大御所狩野山楽が没している。その家系を受け継ぐ狩野山雪は当時四五歳、松本山雪は五四歳(松本家系図)である。彼がどういう関係で狩野に入門したのかはわからないが、年下の山雪よりも当時華々しい活躍を続けていた山楽の影響を多分に受け、その正統の山雪にも劣らぬ画技を身につけ、その一門中で抜群の活躍をしているところを定行に見込まれたものと思われる。
 彼の代表作に、東京国立博物館蔵の「宮島図屏風」「牧馬図屏風」、愛媛県指定文化財の「製茶風俗図屏風」(武智圭邑氏蔵)、松山市指定の「墨馬図屏風」(二神一正氏蔵)、などがあり、その他個人所蔵の「瀟湘八景図屏風」、「楼閣山水図屏風」、「唐人故事図屏風」、「釈迦三尊図」、「武将図」などその力量と画域を示す優作も多い。
 これらの作を通じ、その描写力の確かさ、構成の力強さ、画域の広さなど当時における狩野の正統を受け継ぐ絵師であることを十分にうなずかせる。さらに、彼の作によく見る点景の人物・動物・樹木などの生き生きとした表情、豊かな写実の傾向は、桃山から徳川初期へ移行する狩野派の時流を先取りし、同派の先端を行く気概をさえ感じさせる。彼晩年の作には狩野を越え階体から草体へ雪舟・如拙・周文らに近い室町様式への復帰と精神性を加味した、一種純化の傾向が目立ってくる。
 彼は馬の名手といわれ、名馬の産地奥州にまで足をのばしたといわれるだけに、その生態描写はまことに見事である。山雪のやせ馬ともいい、あばら骨もあらわに無気味なまでに真迫力に富む作、また、時には足が短く頭の大きい不格好だが愛嬌に富む県内産の野間馬そっくりな姿など、馬のあらゆる姿態を活写し親しまれている。
 彼の愛用した印章が今も揃って残り、県指定の文化財となっている。その中の一顆に、「御免筆」の文字を刻んだ印章がある。その印につき、「松本家系図」は次のように述べている。「松本山雪藤原恒則ハ勢州桑名ヨリ来ル伊予国浮穴郡土居村ニ住ス 勅命ニ依リ上京シテ御所ニ参内シ馬ノ画ヲカク 其妙ナルヲ御感有テ肩ノ印御免筆ノ綸旨ヲ頂戴シ 其後御免筆卜云フ御印ヲ絵ノ肩ニ押ス」と。この印章につき、従来は、山雪が藩御用以外に筆を執る時、藩主より特に許されたいわば許可証のような役割をもつものと解釈されていたが、この記述により、その由来とともに彼の画歴が一層明確となる。つまり、松山といういわば僻地に在りながら、当時中央画壇で活躍中の有力作家を差し置き、御所に召されて絵御用を勤めるということは、彼こそ狩野の正系を受け継ぐ最有力の作家であること、また、その力量と人物を見抜いて松山に召し連れた藩主定行の烱眼、その山雪を初代絵師とする以後の松山藩絵師への影響なども推察するに難くない。

松本山月

 山月は通称を佐次之丞、半輪斉と号し、山雪の跡を受け、松山藩二代目の絵師となる。慶安三年(一六五〇)生まれ、享保一五年一月二八日没、享年八一歳。その墓は山雪とならび万福寺の境内にあり「帰本昭光院山月居上位」とその没年月日が刻まれている。「松本家系図」では山雪の嫡子となっているが、その年齢差などから養子という説が有力である。
 山雪はその若い後継者によほど目をかけ、身辺離さず指導したとみえ、藩主定行隠棲の東野御殿へしばしば親子揃って参上し、公のお茶の相手を勤めたとか、その襖絵は親子の合作という伝承もあり、彼の画風は正に山雪直伝である。山雪が没した時彼は二五歳、若年ながらも藩の御用を勤め、貞享元年、三四歳で三の丸藩邸に「松竹梅図」を描き画名ますます高く、名実ともに山雪の後継者と称賛される。
 彼の代表作に万福寺蔵「大涅槃図」、讃岐金刀比羅宮蔵「野馬図屏風」、重信町松本敬康氏蔵「野馬図屏風」等があり、その他の遺墨にも山雪に劣らぬ画境・力量を示す作も多いが、どうも山雪の盛名におされ、影のうすい感は免れない。
 山雪・山月らの活躍した江戸初期における中央画壇の状勢をここで少々考察してみたい。元信を始祖とする狩野派は、桃山時代に至り信長・秀吉らの英雄主義的風潮に乗り、永徳の雄渾な画風が大いにもてはやされ画壇の支配勢力となる。それに続き、さらに華麗さを加えた山楽の装飾画風が一世を風靡する。ところが豊臣氏の滅亡、徳川氏の制覇による政権の交代で、秀吉に寵用された山楽は豊臣の残党とみなされ暫く影をひそめる。だが、やがてその窮境を脱し、徳川方には新鋭の探幽を差し向け、朝廷には孝信を、自身は京にとどまり本家のいわゆる京狩野を形成する。
 江戸に向かった探幽は清新瀟洒な画風で新時代を風靡し幕府の御用絵師となり、鍛冶橋狩野を形成する。それにならい他の狩野派絵師たちも活躍舞台を江戸に求め、尚信は木挽町狩野、安信は中橋狩野、岑信は浜町狩野と幕府の奥絵師四家を形成し、以後の中央画壇に不動の地歩を固める。
 さて、京にとどまりいわゆる京狩野を形成した山楽は、舞台の中心が江戸に移るとともに新時代の潮流からは取り残された姿となる。彼の華々しい活躍で一世を風靡した桃山様式に代わり、探幽の確立した清新瀟洒な画風が新味をもって迎えられ、時流は大きく変わってくる。山楽の流れをくむ山雪の画業も愛媛の絵画に新風を吹き込み、さらに御所にも出仕し中央画壇でも輝かしい業績を残すが、それもやがて時流におされ、御本家の山楽と同じ運命をたどることとなる。彼の跡を継いだ山月も、画業をよく守り藩絵師として活躍するが、新味に乏しく、時流におされ、藩でもやがて新鮮な江戸狩野の流れを導入することとなる。即ち三代目の絵師豊田随園の登場である。

豊田随園

 随園は常之とも号し、山雪・山月の後を受け松山藩三代目の絵師となる。彼の生年ははっきりしないが享保一七年(一七三二)、山月の没後二年目に没しており、その活躍年代は山月とほぼ同年であり、ある時期は二人そろって活躍していたものと思われる。
 随園は江戸奥絵師の浜町狩野に籍を置き、松本岑信随川の教えを受け、師の一字を賜り随園と号し、同門の後見役を勤めた有力者である。また彼の別号常之は師随川の父狩野常信から受けたとの説もある。彼の経歴につき『古今記聞』は次のように伝えている。「小児の時は餅など売りて家中の長屋などを徘徊して賤しき者なりと。この小児たりし時より画を好みて反古塵紙などを与ふれば画を書く。その風説凡ならず、其親画をならわし、終に召し出され、狩野家の後見台命を蒙りたる者也。希世の名画といふべし。随の字は狩野家にて賜はりし字のよし。」
 彼の遺作は多くないが、某家所蔵の「花鳥人物図屏風」などには、明らかに探幽様式を受け継ぐ常信あたりの作風をうかがわせ、描写対象を簡潔にしぼり、余白を多く残す画面構成に一種の情趣を盛り込み、山雪様式とは全く違う新しい息吹を感じさせる。

武井周発

 随園の後を受け、藩四代目の絵師を継ぐのは武井周発である。周発は元禄七年(一六九四)押川由貞の四男として生まれ、初め作之丞と称し、後半三郎と改め、常美と号す。正徳五年(一七一五)武井家の養子となり、二年後二四歳で藩主定直の次小姓となる。つづいて藩主定英・定喬に仕え、元文元年(一七三六)四三歳の時周発と名乗り、藩絵師となり一〇石三人扶持を給せられる。明和七年(一七七〇)有医格となり、随園の孫豊田随可に藩絵師を継がせ、同年九月三日、七七歳で没す。墓は菩提寺の味酒町の長久寺にある。周発が継いだ武井家は随園の親戚に当たり、彼の絵の手引、特に江戸の浜町狩野随川門下での修業も随園の推挙によるものと思われる。
 彼の遺墨は今もかなり多いが、その中に最大傑作は長久寺旧蔵の「日蓮上人一代記」であろう。惜しいことにその記念碑的な大作は戦災のため灰燼に帰し、今は昭和二年松山城で開かれた「伊予古美術展」の図録によりその面影をうかがう外ない。縦九尺二寸、横一丈二尺という、その巨大さにも彼がこの作にかけた異常な気迫がうかがわれる。一条の雲が渦巻き状をなし、その中央に五重塔と女神、神将を配し、それを背にして日蓮が坐す。画面の左上から上人の歩んだ波乱の生涯、即ち「辻説法、佐渡流罪、竜の口の受難、蒙古襲来」等の一代記が展開する。この画面構成には「一遍上人絵伝」や「蒙古襲来絵詞」など絵巻の図様や密教の「曼荼羅」の組み合わせを想像させるものがあり、平安・鎌倉・室町を経て形成された日本絵画様式の集約が見られ、それを鳥瞰する周発の力量がうかがい知れる。その他多くの遺墨にも、随園に似た江戸狩野の緊密な構想、明るく瀟洒な色感がうかがわれ、なかなかの健筆である。
 もう一つ彼の功績として特筆すべきものは、彼七二歳の著『武井周発自伝』である。画業一筋の彼の歩みと歴代藩主や狩野家とのかかわり合いなど、当時の藩絵師の実態を克明に記録したものであり、愛媛の美術資料としてはもとより、全国的にも珍しい地方藩絵師の実態を余すところなく記述した名著である。

豊田随可

 随可は常令とも号し、幼少より祖父随園の影響を受け、周発と同じ浜町狩野随川甫信門下で修業、能画のほまれ高く、周発の後を受け藩五代目の絵師となる。寛政四年(一七九二)七二歳で没す。
 『武井周発自伝』『古今記聞』など彼に関する古記録をみると、その剛直な性癖、奇行振りが伝えられ、その奇行のため狩野本家にとがめられ、祖父随園は師より受けた随の字を返上せざるを得なかったという。また随可は他に抜きんでた才能、何事にも屈しない剛直な性格の持ち主である。ある時、主君の側近衆がそれを心憎く思い、明月の夜、狭い縁側に莞席を敷き、今宵は月もよし、縁に出て月を賞せよと誘う。随可はそれにつられ、空を眺めつつ莞席の端に出て、たちまち庭に転落する。しかし、倒れながらも彼は頭をささえ、「良き月よのう、貴公達がすすめるのもごもっとも」と平然という。また、その前置に「絵は至極の上手也、然れ共随園よりは少し劣れりと見えたり」と少々皮肉ってもいる。当時、同年輩の墨竹の名手蔵沢の奇行も有名で、それと併称、諸芸の達人として明月上人、蔵山和尚とともに記述されている。
 彼の遺墨は少なく、詳しくはわからないが、若書きは極度に様式化された筆法で生気に乏しく、晩年になるに従い軽妙洒脱、表情も豊かで生気を帯び、彼の本領を発揮したようである。彼の活躍したころは山雪から既に一世紀を経た江戸時代も中期である。初期に確立された「探幽様式」は彼の没後、狩野派の絶対的な権威となり、それを安易に模倣する粉本主義を生み、多くの功罪を残すこととなるが、おそらく随可もその粉本主義の洗礼を初期には強く受けていたのであろう。しかし、彼の晩年は、ちょうど新しい実証主義が芽生えたころであり、絵画の世界も応挙の写生派、大雅・蕪村を中心とする南画の勃興があり、松山藩でも蔵沢の墨竹がもてはやされるなど、新たなリアリズムに対する覚醒が画業に反映したのではなかろうか。
 随可の後、狩野系の絵師は木挽町狩野常信の門人荻山常人(文政四年=一八二一没)が引き継ぐ。だが、ちょうどそのころ、住吉派の遠藤広実も起用され、藩の絵師も狩野・住吉両派の併立となり、さらに南画の勃興、写生派の台頭で、当地の画壇もようやく多彩、活況を呈してくる。常人の後はその子養弘(天保三年=一八四一没)が継ぎ、さらに木挽町狩野養信の門人阿倍晴洋(明治二〇年―一八八七没)が継ぎ、狩野の命脈を保つが、結局、維新に突入し、藩絵師の制度も終わりを告げ、次代の写生派、南画に主流の座をゆずることとなる。

遠藤広古

 松山藩の絵師は初代の山雪以来明治に至るまで、代々狩野派の絵師が引き継ぐ。ところが、その途中、大和絵系の絵師、遠藤広古・広実父子二代が加わっている。朝廷や幕府は別として、一地方の藩でこうした両派の併用は異例といえよう。江戸時代も中期となり、ようやく文芸興隆の時に、藩におけるこうした両派の併用は、当地の文化に一層の多彩さをそえ、大いに歓迎されたものと思われる。
 平安以来の日本伝統絵画を大和絵といい、その主流を土佐派、その一支流に住吉派がある。土佐派一五代光則の弟広通(如慶)が、中絶していた住吉派を再興し、江戸に移って幕府の奥絵師となる。それより四代を経た住吉広守門下の俊英が遠藤広古である。
 広古は寛延元年(一七四八)江戸に生まれ、広起ともいい、蝸盧と号す。寛政のころ松山藩絵師となり、文政七年一一月一七日、七七歳で没す。彼の遺作は今もかなり多く、花鳥人物を得意とし、狩野の筆法を取り入れた気宇広大な力強い作から、大和絵の正統をひく緻密な表現まで画域は広いが、あくまでも住吉派の格調高い本格派である。

遠藤広実

 広実は天明四年(一七八四)生まれ、幼名を古致、通称を伴助といい、住吉家五代広行の教えを受けて、父の跡を継ぎ松山藩絵師となる。文久二年五月二六日、七九歳で没す。
 江戸の住吉派は伝統的な大和絵を基礎に早くから狩野の筆法を加え新様式を確立している。ところが、広実のころ、つまり江戸時代も後期に入ると伝統的な大和絵・狩野派を圧して、写生派の円山・四条派や南画など新傾向の活動が活発になる。広実はその時代感覚を積極的に取り入れ、住吉派の正統に清新瀟洒な画境を加え、同派の第一人者といわれ、愛媛の絵画史に独自の生彩を放つ。
 広実の弟子に桂心・桂丹がおり、その子広賢は住吉宗家を継ぎ八代当主となる。

2 大洲藩の絵師

 肱川の清流に面し風光明媚な大洲地方は、古来文化の香り高く、小京都といわれてきた。しかも、代々の藩主は自ら絵をたしなみ、諸芸に秀で、特に三代藩主泰恒、その子文麗はいわゆる殿様芸の域を脱し、中央画壇でも高名の画人であった。やがてその流れをくむ藩の絵師若宮養徳らが出現して、当地人士に大きい影響を与え、伊予八藩の中でも特異な文化圏を形成していった。そうした気風は明治以後にも及び、日本洋画の先駆中川八郎・中野和高らを送り出す。

加藤泰恒

 泰恒は大洲加藤家三代の藩主。明暦三年(一六五七)生まれ、正徳五年(一七一五)七月九日五九歳で没す。泰経・泰常ともいい、遠江守・乗軒・傑山と号す。木挽町狩野常信に付いて狩野の正統を身につけ、花鳥・人物・山水いずれもよくしたが、特に仏画・武者絵を得意とする。当時、三百諸侯のうち、豊後日出の城主(豊臣俊長)とともに画道の両雄とうたわれ、絵画はもちろん武術・禅学・能楽・和歌・書道・易学・天文地理・茶道・香道にも通じ、文武両道に達した明君と慕われる。
 宝暦ころの筆録『温故集』に「宝永二年彼四九歳の時、参勤の途次、京都に立寄り和歌の師大納言清水谷実業から献上画の内勅を受け、沐浴斎戒して『富士に鷹図』の三幅対を描き東山天皇に献上」とも述べられている。彼の遺墨は、今も大洲地方に多く残され、その謹直な描法、格調高い画風が珍重されている。

加藤文麗

 泰都文麗は泰恒の六男、宝永三年(一七〇六)大洲に生まれる。正徳三年彼八歳の時、江戸に上り、父泰恒の叔父旗本泰茂の跡を継ぎ、幕府の直臣とし職務に精励、従五位下伊予守に任じられる。絵は父と同門の木挽町狩野三代周信について学ぶ。宝暦六年四九歳で隠居、入道し号を予斎といい、以後画道に専念。天明二年(一七八二)三月五日、七七歳で没す。
 文麗は江戸の画壇で名声高く、谷文晃も彼の指導を受け文朝と号す。他にも多くの門弟があり、安永七年、七三歳の時、その弟子たちにより出版された『文麗画選』は当時の数少ない画手本であり、彼画業の特質をうかがう好資料である。その序文の一節に「先生致仕後は、唯、画を楽しみとし神境に至った。描くところは山水・草木・花鳥・人物あらゆるものを筆にしたが、中でも最も人物を得意とした。しかしその作画ぶりは、筆をなめ、思を積み、日を重ねて後成るのではなく、すべて一払の際に絵を成した。これを得る者は珠玉にも比した」とあり、その練達振りをたたえている。大洲藩歴代の藩主が絵をよくし、また藩中に多彩な画人を生むのも多くは彼の感化によるという。彼の遺墨も大洲地方を中心に随分多く、今もその軽妙洒脱な筆触、格調高い画境を賞し秘蔵するものが多い。

若宮養徳

 養徳は宝暦四年(一七五四)もと若宮村の紺屋幸右衛門の次男に生まれ、幼少より絵を好み、長州藩絵師文流斎洞玉について学び、一〇代藩主泰済に登用され藩絵師となる。その後藩命により江戸に上り、木挽町狩野七代養川惟信門下に学び、師の二字をいただき、養徳惟正と号す。文流斎は先師の号を受け継ぐという。天保五年(一八三四)五月六日八一歳で没す。
 彼の遺作は多く、中でも名刹如法寺本堂三室の大襖絵二八枚の龍・松竹梅・山水図、並びに同寺蔵の十六羅漢図、加藤家菩提寺曹渓院の布袋図大幅、彼の菩提寺西光寺本堂襖絵の雲龍、西大洲西方寺襖絵の獅子図等がよく知られ、その他民間所蔵の遺墨も多い。それらを通じ、彼の画風は単に狩野派だけでなく緻密な仏画から北画・大和絵・南画さらに民画の大津絵風のものまで随分と幅広く、しかも健筆である。だが、彼も狩野の絵師、その粉本主義から脱し自身の画境に徹し切れないきらいもある。
 彼の子に晴徳がおり同じく木挽町狩野栄信に学び、跡を継いで藩絵師となる。その子勝鵾幼少のため、門人勝流が養子となり藩絵師を継ぐ。勝鵾成人後やはり木挽町狩野に学ぶが、維新の動乱にあい同門も閉鎖、高弟橋本雅邦らと一時流浪。後狩野を脱し新傾向の四条、大和絵風を試みる。晩年は大坂に行き、蒔絵等も試みるが、明治四〇年没し、子なく若宮家は断絶する。
 彼の門人には西条藩絵師となる小林西台はじめ大橋英信・宿茂徳鄰・稲沢直正・金井南岳・菅田清惟など多くの画人がおり、幕末の愛媛美術に及ぼした影響は大きい。

3 今治藩の絵師

 関ヶ原の戦功により伊予半国の領主となった藤堂高虎は慶長七年(一六〇二)今治に築城を始め、現在の城下町今治の基を開く。今治生まれの松本山雪は、その藤堂高虎に見いだされ藩初代の絵師となる、というのが従来の通説であるが、どうも先に山雪の項でふれたごとく今治藩と山雪は直接のかかわりはないようである。
 従って、今治藩の絵師はそれより時代が下り、松平三代藩主定陳が、木挽町狩野常信の弟子富元守供を江戸より招き藩絵師としたことに始まる。続いて、同門の野村常林(了貞とも号し、伊勢山田の人)が招かれ二代目の絵師を継ぐ。その守供・常林らの指導を受け、さらに藩命により狩野晏信門下に学んだ能島邑義(一七一二~七六)がその後を受け三代目の絵師となり、その子能島典方(一七四一~一八二九)がやはり狩野典信に学び四代目絵師を継ぐ。つまり、今治藩は初期二代にわたり江戸より招請の絵師により狩野派を移植する。そこに育った能島父子がそれを受け継ぎ狩野の流れは連綿と続く。ここまでは松山・大洲両藩と余り変わらぬ状況だが、その後五代目に至り、当時の在野系、つまり写生派の絵師山本雲渓が跡を受ける。今治藩の場合、絵師に対する待遇も軽く、かなり自由が許され、その画流・格式などには、余りこだわらなかったようである。
 当時の武家社会では、桃山以来の伝統で、幕府はもとより各藩の絵師も狩野が主流で不動の組織をもち、他派のくい入る余地を与えなかった。王朝以来の古い伝統をもつ大和絵は別格として、他の新興画流が民間でどれほど支持を受けようとも、藩の絵師は別というのがいわば当時の通例であった。その常例にこだわらない今治藩の見識もさることながら、それを平気でやってのける雲渓という絵師の人物・画業も異彩を放っている。

山本雲渓

 雲渓は安永九年(一七八〇)いまの越智郡大西町に生まれ、通称を雲平、諱を邑清、字を好徳という。寛政一〇年ころ大坂に出て医術を修め、かたわら円山派の巨匠森狙仙について絵を学ぶ。その後今治に帰り御典医、藩の絵師を兼ね両道で活躍し、文久六年(一八六一)五月二八日八二歳で没す。
 彼の祖先は河野氏であり、彼より一〇代前天正のころ山本と名乗り、九代前の当主は了菴と号し医術に長じ名声高く、代々庄屋を勤めながら医術にも関心深い家系であった。したがって、彼の大坂遊学は医術修業のためであろうが、絵の方も狙仙門下の俊英とうたわれ、余技の域を脱し両道の達人となる。今治に帰省後も御典医となり、名医といわれ、藩外からの診察を請う者も多く、医療費を請求しないことからも、門前市をなしたという。また藩絵師としての活躍も目ざましく、猿の名手の盛名はもとより、狩野派・南画あらゆる技法を駆使し洒脱放逸、前人未踏の画境を確立する。彼の人物・性癖についての逸話も多く、その無欲恬淡、天衣無縫の奇行振りが多く語り伝えられている。
 猿の名手といわれるだけに、彼の遺墨はさすがに猿が多い。一本描といわれる精密な毛描きの描法は師匠ゆずりの特技であるが、絵はただ技法の伝授だけでは成り立たない。彼もまた師にならい山中で三年猿と起居を共にし、つぶさにその生態を観察したという。彼のもつ精細な観察力は、おそらく当時の医学書から学びとったのであろう。西欧写実への開眼がなければ、あの神技といわれる独自の精密描写は不可能であったろう。その点では、彼は正に写生派の最先鋭といえよう。だが、彼は、単なる同派の外形描写からは脱却し、描く対象の鳥・獣・人物のあらゆるものに成り切り、それと共に遊ぶ奔放自在の境を楽しんでいる。
 さらに、彼の遺墨で特筆すべきものに絵馬がある。当時における絵馬は貴賤貧富を問わず、上下和楽の大衆芸術である。今治地区の一五社には、今も彼の絵馬が二七点も残っており、東・中予の各社にも、彼の絵馬は圧倒的に多い。しかも大作・力作が多く、独自の力強い描法でこれまた圧倒的な迫力をもつ。彼は、藩の絵師としてあらゆる要請に応じると共に、町絵師としても大衆の与望に生きる人気作家であり、彼の融通無礙の生きざまが、これらおおくの絵馬によっても一層明瞭にうかがわれる。

沖 冠岳

 冠岳について、『今治市誌』には「沖庸という、今治風早町に生まれる。幼より絵を好み、山本雲渓に師事、狩野の画法を善くし、長じて後は多く江戸に住す……」と略記されている。だが出身は土佐との説もあり、その生年もはっきりしない。字を展親、冠岳は号であり、冠翠、冠岳樵人、蠖堂の別号もある。明治三年奉納の浅草観音堂「四睡図」(豊干、寒山・拾得と虎がともにねむる図)の大作は広く世に知られ、今治地方の社寺に残る多くの絵馬も郷土人士に親しまれ、その盛名は雲渓と並び称せらる。明治九年(一八七六)七月没す。
 彼の遺墨は随分多く、その画域も幅広い。絵馬などにみる狩野の筆法を加味した雄渾な作風から、晩年に多い花鳥の清新典雅な写生画に至るまで、いずれも師雲渓の画系を受け継ぐものといえようが、さらにそれを脱皮し、独自の画風で一家をなすというべきであろう。彼が絵に志した時期は、江戸文化の最後のやまといわれる文化文政の終わりから、いよいよ幕末に突入の時代である。かつて威勢を誇った狩野派も昔日の面影はなく、関西一円を風靡した反俗超脱の南画思潮もようやく沈静気味の時、沈南蘋の影響を受けた新様式の写生画、西洋の画風を採り入れ、より現実的な関東南画の風潮が新味をもって迎えられる時代であった。
 彼が今治といういわば僻地に在りながら、どうして新時代の潮流をかぎわけ、江戸へ行くことになったか、その事情はよくわからない。だが、彼の幅広い交友、特に江戸における著名な小山・文晁の高弟たちとのダイナミックな交友関係から推しても、東予人特有の水軍魂というべきか、その積極姿勢によるものと思われる。ともあれ、彼は現実逃避の関西南画よりも、合理的で積極性に富む関東南画にひかれ、そこに身を挺し、あの透徹した精密描写、しかも装飾性に富む独自の画風を確立し、江戸で盛名をはせることになったといえよう。

4 宇和島藩の絵師

 慶長一九年(一六一四)、仙台藩主伊達政宗の長男秀宗が宇和島一〇万石に封ぜられる。以後、宇和島は南予の中心とし、伊予八藩の中でも特異な文化圏を形成する。松山・今治・西条の三親藩はすべて交通至便、肥沃な土地の瀬戸内沿岸に分布し、小松の小藩を除いては、宇和島・吉田・大洲・新谷の四外様大名は、いわば僻地の宇和海沿岸段々畑地帯であり、その配置を見ても徳川幕府の大名統制策の巧妙さがうかがわれる。仙台の伊達本家は徳川にも対抗し得る戦国大名の雄であり、その血を引く宇和島藩伊達家も伊予八藩きっての外様の雄藩である。それが南予の風土、独自の気骨と結びつき、明治維新における倒幕の急先鋒となったごとく、他藩に見られる中央指向の穏健さに対し、一種反骨の革新気風がみなぎっている。
 絵画の分野においても、中央からの狩野派移植も見られず、土佐大和絵系画人の影響を受けた三好応山・応岸父子等の、地域に根ざした風土色が目立つ。その傾向は明治以後現代にも及び、村上天心・高畠華宵・畦地梅太郎等、特異な個性派画人を送り出すが、依然として今も反中央の在野意識は強いようである。

豊臣秀吉{宇和島伊達文化保存会蔵 国指定重要文化財}

 慶長三年(一五九八)秀吉の没後、彼に恩顧を受けた武将たちはその遺徳を慕い、きそって肖像画を描かせた。その後、徳川の世となり徳川方にはばかって、その画像は粗末に扱われ、現存するものは少ないが、この画像はそれら現存するもののうち最も優れた作である。
 秀吉の側近伊勢の国安濃津の城主富田右近将監知信が描かせ、秀吉の文書起草に従事した鹿苑寺(金閣)の西笑承兌和尚の賛がある。知信の没後、その嗣子である富田信高が宇和島一〇万石に封ぜられ、亡父菩提のため正眠院(いまの金剛山大隆寺)を建立し、この画像が寄進されたものと推測される。信高改易後もその寺に伝わり、弘化四年(一八四七)に当時の藩主伊達宗城に献上、以後伊達家の所有となり、昭和一〇年四月三〇日国の重要文化財に指定される。顔や手の部分を特に小さく表し、大和絵の技法を加味した威風堂々の作柄は凡庸でなく、作者は不詳であるが、当時の狩野派の有力作家の手になるものと推定され、秀吉画像中の白眉というべきである。
 この作は愛媛美術の流れとは直接の関係はないが、長く宇和島に保存され地域の人々にも親しまれ、教科書にもしばしば掲載された著名な作であり、ここに特記する。

大内蘚圃

 蘚圃は宇和島藩士野田某の子で大内氏を継ぐ。通称を平三郎といい、幼少にして円山派森狙仙の門に入り、動物画を得意とする。同門の今治藩絵師山本雲渓より一六歳年長である。『南予遺香』に、彼は、「常に酒を嗜み、飲めば則ち諧謔百出頗奇行に富めり」とある。天保一三年(一八四一)七九歳で没す。
 彼の遺墨は少なく、その全容をはかりかねるが、猿に関しては師狙仙の精密描写の技法を受け継いだが、雲渓の円熟味とはまた違って、より鋭く個性的で、円山派写生の尖鋭振りがうかがわれる。

三好応山

 通称三郎兵衛といい、応山と号す。寛政四年(一七九二)宇和島本町に生まれ、家は代々町頭役、並びに紺屋頭取を勤む。幼少より絵を好み、土佐の大和系画人春日鉄山について学び、人物画を得意とする。二子あって長男に家業を譲り、次弟応岸に画業を継がせ分家させる。嘉永二年(一八四九)一〇月二日、五八歳で没す。彼の遺墨は宇和島地方にかなり多く、伊吹八幡の絵馬「高砂図」「神宮皇后図」などもよく知られ、おおらかで練達した大和絵風の画技がうかがわれる。

三好応岸

 通称を又八郎といい、応岸と号す。天保三年(一八三二)宇和島本町に応山の次男として生まれる。幼少より絵を好み、父応山について学び、長じて応岸と号し別家する。伊達宗徳侯の知遇を得て、しばしば絵の用命を受け、特に「月下の山犬」は絶賛を博し、三度も揮毫したという。明治四二年(一九〇九)八月二日、七八歳で没す。
 応岸の弟子に静岸がおり、応山・応岸の流れを受け、一層の土俗性を強めた画風で地域の人々に親しまれている。

5 その他の藩絵師

小林西台

 西条藩は旧河野氏の血を引く外様の一柳家改易の後を受け、親藩の松平家が寛文一〇年(一六七〇)三万石に封ぜられ、以来明治まで連綿と続く。その松平家は、徳川御三家のうち紀州家の血を引く関係で、藩主は領地西条には赴任せず、江戸定府という伊予八藩の中別格の親藩であった。その西条藩の絵師小林西台は、寛政六年(一七九四)、藩士小林滝蔵の子として江戸に生まれる。一七歳で九代藩主頼学のお守役となり、三六歳で御絵師を命じられ、翌年剃髪し分煕と改名、天保六年四二歳の時、藩主の西条入りのお供をし、翌年江戸に帰り文郷と改名、嘉永七年(一八五四)二月九日、六一歳で没す。良休・鳴春・岳陽など別号も多い。
 彼は西条藩絵師であり、当然伊予の画人というべきだが、江戸に生まれ、江戸に住み、一度だけ西条を訪ねたわけで、伊予との関連はまことに薄い。松山の山雪初め今治の雲渓など他の藩絵師たちは、修業の期間中こそ京・大坂・江戸に住み、その影響下で育つが大半は伊予の地に住み、その風土になじんだ画業の形成がうかがわれる。ところが、西台にはほとんどそれが見られず江戸狩野そのままの瀟洒な画風を伝える異色の伊予画人というべきであろう。
 彼の遺墨は西条地方を中心にかなり多い。それらをつぶさに見て歩いた久門正雄氏は、彼の作を「温雅・清潔・正直な絵である。正直ということは或いは小心な点もあるかも知れず、また野心的ではないかも知れぬ、が、ともかく正直で、おのが画統を正しく素直に守り、その道にだけ技を磨き、他流に心を配ったり、新機軸を出そうなどとは考えなかった」と、見事にその特質をついている。正にその通り、彼の作はいずれも流麗、練達で、狩野の筆法を誠実に踏襲している。だが、その中にも時流である写生派の影響がかなり色濃く感じられる。同時代の今治の画人雲渓は、その写生派を大胆に取り入れ、その先鋭らしい冒険を試みているが、西台は、それを素直に採り入れ破綻を見せないところに両者の対比がうかがわれる。
 西台の子小林朴宇も絵をよくし、父の跡を受け西条藩絵師となる。

森田南涛

 南涛は文化五年(一八〇八)小松藩士森田森蔵の三男に生まれ、一九歳で江戸に上り、春木南湖の門下で学び、山水・花鳥に長ず。三八歳で小松藩絵師となり、明治五年(一八七二)没す。