データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第二節 山伏と地域社会

 山伏の分布と組織

 山伏は山中に踏み入り、山間に寝起きして修行を重ね、独特の呪験力を身につけたので古代には山臥とも書いていた。また験者とも呼ばれた。一般に山伏といえば、妻帯を許され、頭髪をのばすなど俗生活を営みながら、一方では笈を背負い、錫杖をつき、腰に尻敷をつけた身仕度で法螺を鳴らすという特異なスタイルで知られているが、かれらはふだんは民間で加持祈禱を行ない、また先達となって信徒を引き連れて大峯山などの霊山に登った。
 修験道には、聖護院門跡を筆頭となす天台系本山派と、醍醐寺三宝院に拠る真言系当山派の二派があり、ともに大峯山を根本道場としていた。江戸幕府は慶長一八年(一六一三)五月二一日「修験法度」を出し、修験者(山伏)が本来の筋目に従って本山派・当山派のいずれかに属し、その統制のもとに峰入りなどの宗教活動を行うこと、本山派の山伏は当山派の山伏から役儀料を取らないことを命じた。このころから修験者は地域社会へ定住化するようになるとともに、両者勢力を競うようにもなったのである。

        修験法度
   修験道の事、先規より有り来りのごとく、諸国の山伏、筋目に任せて人峯いたすべし。当山・本山各別の儀に侯条、諸役等、互に混乱あるべからず。自今以後、堅くこの旨を守り、諍論なきよう下知あ   るべきものなり。
      慶長十八年五月廿一日                    (花押)(家康)
        三宝院
   本山の山伏、真言宗に対し、謂われざる役儀停止せしめ畢んぬ。ただし、真言宗立ち寄り、仏法に非ざる祈、執行せしむる輩これあらば、その衆を抜くべし。自今以後、堅くこの旨を守り、下知あるべきものなり。
       慶長十八年五月廿一日                   (花押)(家康)
         三宝院

 右法度は聖護院にも宛てられている。

 山伏の分布

 江戸時代に本県の村や町に山伏がどれくらいいたかはまとまった史料もないし統計もないのでその実態は不明であるが、しかし、部分的、地域的な史料、たとえば村の大手鑑、小手鑑の類等から多少は知ることができる。さて少しまとまった史料では明治四年(一八七一)の廃藩置県直後の調査資料で国立国会図書館所蔵の「伊予国本山派当山派修験寺院明細帳」があるが、それも残念ながら西条藩(表2)と松山藩の
ものしかない。
 この表でわかるように旧西条藩の場合は、本山派(天台宗系)の寺院がほとんどで、当山派(真言宗系)がわずか二か寺である。
 これに対し、旧松山藩の場合は、「六藩寺院録」によれば当山方修験九〇院に対し、本山方修験はわずか六院にすぎず、西条藩とは全く逆である。つぎに南予はどうか。南予については少し詳しいデータ資料があ
る。旧宇和島藩内修験数は、明治三年六月実施の宇和島戸口調査(宇和島図書館蔵)によると、藩内人口は(表4)のようである。他の神職、僧侶の宗教人に比べ、修験、山伏の存在が多いという特徴が認められる。また安澤秀一の研究によれば、(表5)のごとく旧宇和島藩内の山伏数は、元禄期以降、町方山伏が著しく減少し、宝暦から幕末期までは横ばい状態で、在浦方のほうは幕末期にかけてゆるやかに減少している。つぎに(表6)は、宇和島藩十組別山伏人口を示したものであるが、これによると山伏の実数は、御荘組(南宇和郡)が最も多く、城下組が人口比ともに低い。人口比で高いのは多田組(東宇和郡宇和町)であるが、これは宇和町の明石寺が本山派の拠点になっていたためと見られる。
 明石寺は四国霊場四三番札所であるとともに天明四年(一七八四)「上之坊」が年行事職に任命されており、以来当地方で一大勢力を誇るようになるのである。同寺所蔵の「法中用雑記井当山堂社諸用写」(天明五年)によれば、「同(天明)四年辰十一月上之坊島渡村大教院召連渡海、此時、年行司職被仰付御令旨頂載罷帰候也」とある。すなわち、本山派には、大先達・正年行事・準年行事・永小先達・一代小先達・小先達格・頭巾頭・直院・直院格・並院の十段階があり、このうち年行事・準年行事というのは、先達のもとにあって「霞」(縄張)の実際的な支配権(触頭)を有したのである。すなわち上之坊明石寺は表7に示すように東・南宇和郡一帯をカスミとして支配していたのである。なお、伊予では明石寺と宇和島の正覚院、吉田の宝性院の三力院が本山方年行事であった(聖護院蔵『院家院室末寺修験頭分書上帳』)。

 山伏の修行

 山伏に欠かせぬものに峯入りがある。密教の曼陀羅世界を象徴する山岳を道場として入峯し、即身即仏の義を体得する修行が峯入りでは最も基本的な修行である。その目的を蔵王修験武田知岳は「我々山伏にとって山は単に登るべきものでもなく、征服するものでもない。山の高きに崇高を仰ぎ、神の心に近づき、神の心を受け、神の力を得ようとするためである。神の力を得てこそ、済世利民・国利民福の願望がかなえられる。これこそ入峯修行の目的である。山は神々の座であり、山は祖霊達の本宮である。そして山は修練の道場なのだ」と言っている。(『あしなか』第一四二輯「修験道覚え書」)
 人峯は修験道界の根本道場である大峯山の峯入りがよく知られていて、それには大晦日から翌年四月八日に至る春の晦入峯、四月八日から五月九日に至る夏の華供の峯、役行者への供養としての六月六日の入峯、諸国山伏が六月七日から九月九日までに行う秋の入峯があった。
 峯入りは本山派・当山派で違いがあり、また他の地方の山々での峯入りもあり、みな時期が区々である。本県の石鎚山はお山市と呼ばれる山開きが峯入りで、現在は七月一日から十日までの期間である。人峯修行は、人峯して、水行・胎内くぐり・のぞき・宿坊・籠などの諸過程を経つつ、十界修行に相応の作法儀礼を行い、最後に煩悩焼尽の柴灯護摩でその究境地に至るのである。
 近世の峯入りは集団入峯であった。毎年入峯希望者を募るのである。袈裟頭から地方修験元締の「帳元」に命じて「修験宗門小改」また「大改」を行わせる。いわゆる宗門改をするのだが、「大峰入山之輩有之候ハバ六月十日迄二願等可被差出候」(越智郡上浦町「三光院文書」)とあり、願書提出方の指示をした。それを受けて各山伏は村役人連署のうえ願出る。入峯願出のことは各地の庄屋文書などに散見される。例えば風早郡の場合『一番日記呼出』(伊予史談会所蔵文書)によると、宝暦三年(一七五三)中西村当山方山伏、同五年横谷村金剛院弟子、同六年中西村貴明院弟子、同七年浅海原村正蔵院、安永六年(一七七七)庄村徳善房、同七年磯之川村山伏、寛政元年(一七八九)浅海原村正蔵院、同三年中西内村山伏、文化一〇年(一八一三)中西村和合院父子、などが大峯山入峯を願出ている。
 入峯に当たっては、次のような願書を村方を通じて提出したようである(重信町志津川区有文書)。
(参照 「奉願一札之事」)
 また、入峯が決定すると「入峯許可状」が出たようである。
(参照 「入峯許可状」)
 入峯修行の目的は前述のような目的からであるが、近世になっては教団行事として集団入峯の形をとるようになったことから儀式化・形式化した。すなわち、入峯者は階位昇進が目的になるのである。入峯回数を重ねることで官職階位が昇進できたのである。たとえば北宇和郡日吉村上鍵山の永泰山金蔵院五代目安重(延宝四年七月一九日没)は、大峯山へ三三回入峯して大越家に補任されている。大越家は権大僧都法印のことで山伏の極官である。羽黒派では三六度以上入峯をとげ、松聖をつとめた者がこの位を称するのである。しかし、江戸時代には厳格にこの通り行われたわけでもないようで、一回の入峯で法印大越家に補任される者もあったようである。
 もちろん入峯には旅費をはじめ、大先達への謝礼物その他諸経費を要した。自費まかないのできる者もあったかもしれないが、多くは祈禱檀家から相当の勧化(寄附金)を得ていた。たとえば、加古即山当山寺の上岡家文書(南宇和郡城辺町僧都、上岡雅厚蔵)によると、当家は代々襟頭役を勤める有力修験であったので「入峰観化牒」(文化五年辰三月)が残っていて、各方面からの拠出金の様子が知られる。また「三浦村庄屋文書」(宇和島市三浦)にも「天保十三年(一八四二)五月二十五日、恵美須別当大真房、初入峯に付、寄付の事」とあり、勧化のあったことがわかる。

旧西条藩内修験一覧

旧西条藩内修験一覧


旧松山藩内修験一覧

旧松山藩内修験一覧


宇和島藩人口

宇和島藩人口


宇和島藩の山伏人口の推移

宇和島藩の山伏人口の推移


宇和島藩十組別山伏人口

宇和島藩十組別山伏人口


明石寺カスミ内の修験一覧(抄)

明石寺カスミ内の修験一覧(抄)


奉願一札之事

奉願一札之事


入峯許可状

入峯許可状