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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

三 政策の転換と仏教界の動向

 教部省と大教院

 廃藩置県を境に廃仏毀釈の運動が衰えたころ、これまでの反省から、政府は、神道中心の教化政策を改めることになった。すなわち、明治四年、これまで太政官の上にあった神祇官を神祇省に格下げし、さらに翌年三月神祇省を廃止して教部省を設置、その結果、これまで神社祭祀は神祇官で取り扱い、仏教と寺院の取り扱いは民部省内で行ってきたのを改め、神祇祭祀は式部寮で、宣教に関しては神道・仏教共に教部省の管轄になった。ここに見られるのは、神社祭祀を切り離して宗教としての神道から区別したことと、宗教としての神道と仏教が一応対等に位置づけられたことである。だが、のちに信教の自由との関連において問題化することになる。
 ついで同五年四月、教部省内に教導職が置かれ、全国の神官と僧侶がすべて教導職に任命されて国民の教化にあたることになった。また同年、教導職に任命された全寺院の住職合同の教育・研究機関として大教院を設置、のちには神官の教導職も参加して神仏合同の教育機関となり、皇学・仏学・漢学・洋学の四科目を立てて、古事記・梵網経・大学・西洋起国大意などの講義が行われた。ついで各府県では大寺院を選んで中教院に、全国すべての社寺を小教院にあて、国民の教化にあたることになった。
 教化の指針の根本として示されたのは「三条の教則」で、その内容は、
   一 敬神愛国の旨を体すべき事
   一 天理人道を明らかにすべき事
   一 皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべき事
というもので、旧神祇省の制定したものを踏襲した。さらに教部省はこれを敷術した十一兼題として神徳皇恩・人魂不死・天神造化・顕幽分界・愛国・神祭・鎮魂・君臣・父子・夫婦・大祓をカリキュラムとして示し、また、大教院における講究科目として十七兼題を設定した。
 しかし、この制度は所期の目的を達することができず、神官は排仏説を唱え、僧侶は三条の教則に反する説教をして大教院・中教院の運営は混乱し、小教院である説教所に参集する者は至って少なく、国民を迷わし、僧侶・神官は愚弄嘲笑を受ける始末であった。元来、人倫の大道を示し、国民道徳の帰趨を明らかにしようとした「三条の教則」は、維新の根本政策である祭政一致に基づく神道中心主義に貫かれていて、仏教を融合しようとしても無理であり、個人の信教の自由を無視し、政教分離という近代的原理に矛盾している。上からの政策を、信教の自由をもつ個人に押しつけようとすることができなかったわけである。そこで当然内外からの反対運動が起こり、信教の自由にいちはやく気付いた真宗の指導者を中心とした反対にあって、明治八年五月大教院を解散、同一〇年一月教部省は廃止、同一七年八月教導職もすべて廃止になった。
 以上は政策の変更による一般的経過を記したまでであるが、この時期に大洲曹渓院(臨済宗)の樵禅禅鎧は、出身地の豊前、豊後ならびに大洲を中心に諸国を遊説、政府の方針にそって国民の教化にっとめた。豊後での講演をまとめて明治元年出版した『九江夜話』は、太政官がいちはやく告示した制札の内容三条目をわかりやすく解説したもので、大洲藩内の里正に与え、村人を諭して、五倫の道を守り、忠孝の心を励まし、徒党を組んで強訴したり、一揆などを企てることのないように戒めた。儒・仏にわたる樵禅の教養と経世報国の志を知ることができる。

 仏教界の覚醒と信教の自由

 明治政府が当初実施した政策がもたらした廃仏の動きによって危機に立った仏教界は、福田行誠を先頭に、「僧弊一洗」を合い言葉に仏法の興隆に立ち上がった。その具体的運動が、宇和島大隆寺の韜谷の発起による「諸宗同徳会盟」であった。師晦巌を助けて国事に奔走した韜谷は、「洋教の蔓延」を憂え、興正寺摂信らと同志を糾合、諸宗管長らにより明治元年一二月京都でこの同盟を結成、やがて他に波及して、翌年四月東京では鵜飼徹定を中心に芝増上寺で諸宗会盟、五月には大阪においても諸宗会盟の結成をみた。こうした運動の発端をなした大隆寺韜谷は、その著『止蹄金』にも見られるように、学問に秀で、経世の気慨あふれる勤皇僧であった。会盟の志向するものは仏教復興を目ざす護法精神の興隆で、東京の会盟規則十三条に見られるように、王法・仏法の不離という復古的傾向に根ざすとはいえ、教義経典を研究し、仏教の旧弊を一洗するため新規の学校を経営して人材を養成、英才を登用し、さらに民衆の教化をすすめるなど、仏教興隆への積極的な方策を示していた。なお、この運動の問題点は、神・儒・仏の提携錬磨をうたう反面、「邪教を研究し排斥すべきこと」とあるように、キリスト教の排除が眼目の一つになっていて、まだ信教自由の原則の理解に至っていないことである。
 信教の自由の論を展開した先駆者は本願寺派真宗僧島地黙雷などであった。廃仏後の仏教の復興を図ろうとしたおおかたの僧侶が、依然としてキリスト教を排撃し、神道・儒教との融合のもとに、政教一致を方針とする新政府に迎合しようとしたのに対し、島地黙雷ら仏教界の先覚者は、欧米先進社会の宗教事情視察から学んで、すでに外遊中の明治五年一二月以来、政教分離、信教の自由の確立に関して幾多の建白を重ね、真宗の運動と、新聞によって形成された世論を背景に、明治八年五月大教院を解放させ、一七年八月の教導職の廃止によって一応信教の自由が認められたが、なお、一〇年代の欧化主義以後特に盛んになったキリスト教の隆盛は仏教にとっては脅威で、二三年の帝国憲法によって信教自由の原則が確立したにもかかわらず、国粋主義の風潮の中で、真宗・日蓮宗によるキリスト教排撃は続いた。
 ともあれ、政教の分離、信教自由の原則の一応の確立は、国家仏教に始まり、王法・仏法一如の思想をもって貫かれ、神仏が著しく習合してきたわが国の仏教、ひいては宗教界にとっては大変革であり、新しい仏教の出発であった。
 さきにあげた諸宗同盟の運動がきっかけになり、各宗に宗門改革運動が起こり、また、各宗とも宗門の教育機関を開設して人材の育成にあたった。一方、東・西両本願寺が先鞭をつけ、人材を海外に派遣して近代思想を輸入するほか、南条文雄らによる梵語の研究は、学僧の海外留学を促し、仏教研究のための各国語習得と相まって、経巻の原典研究をすすめ、教学の発展をみることになり、ひいては僧侶以外の仏教研究者を生み、居士仏教ともいうべき一般の仏教思想家による宗教運動が起こり、新しい仏教への展開が始まったのである(『明治文化史6宗教編』、『日本仏教史Ⅲ近世・近代篇」)。