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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

七 四国遍路の盛行

四国遍路

 「四国遍路」という言葉の前は「四国辺路」という言葉が用いられていた。もちろんこれは前節で述べた「四国の辺地」から来た言葉で、四国の辺地の路という意味である。文献の上でそれが最初に見えるのは、これまた前にあげた醍醐寺文書で、修験の習いとしてあげた三十三所諸国巡礼とあわせて「四国辺路」とあり、これは弘安三年(一二八つ)より数年後のものとみられている。これにつづくものは札所本堂などにある落書きのたぐいで、確認されている最も古いものは、六九番観音寺にある貞和三年(一三四七)の常州下妻の某阿闍梨の落書きである。下って、八〇番国分寺本堂にある永正一〇年(一五一三)の落書きに、「四国中辺路、同行只二人納申候」とある。同行二人というのはこれが初見とみられる。このほか大永八年(一五二八)、天文七年(一五三八)、弘治三年(一五五七)の落書きがあり、大永八年の本尊千手観音の左腰下の落書きには「四国中辺路同行三人」、その他のに「南無大師遍照金剛」というのがあるというから、これらによって大師一尊化の傾向をうかがうこともできる。ついで、四九番浄土寺の本尊厨子には落書きが多く、大永五年(一五二八)以下寛永二〇年(一六四三)に至る二〇件の落書きがあり、中には「四国辺路」とか「四国中遍路」と記され、僧侶にまじって俗家の名が見えてくる。この時期でもやはり僧侶遍路の方が多かったことはいうまでもない。ここには「四国中遍路」と出てくるが、貞享四年(一六八七)真念の『四国遍路道指南』は、表題が「四国遍路」で、内容では札はさみ板の表に「奉納四国中辺路同行二人」と書くべきことを教えているので、右の落書きにあることとあわせて、「四国中辺路」という言葉が一般に用いられ、それが「四国中遍路」となり、やがて「四国遍路」になったとみられる。
 また、真念の時代まで下ると納札が行われるようになっているが、納札は納経のしるしという意味であるから、納札の風が行われる前ほど、納経のしるしの意味での落書きが多かったのではないだろうか。注目すべき納札の古いもので、太山寺(五二番札所)の寛永一七年(一六四〇)の木の納札がある。納札の初めは明らかでないが、江戸時代の初期には行われて
いたことを知るわけである。その初めは木札であって、これを本堂の柱や壁面に打ちつけたことから、札所詣りをすることを「打つ」といい、木札から紙に変わってもかわりはない。木や紙以外の特殊なものは和気円明寺にある銅板製の納札で、慶安三年(一六五〇)、京都の樋口平人(平太夫・平太)の記銘がある。彼は、壮年の時から西国・坂東・秩父の観音霊場を巡礼したほか、六六部回国をも成し遂げ、慶安三年に四国遍路を終え、明暦元年(一六五五)に没した篤信者であった(『おへんろさん』)。その中央に刻まれた銘は「奉納四国仲遍路同行二人」で、ここではじめて納札の上で「遍路」という文字を見る。四国遍路という言葉は、中世末期から用いられているが、一般化したのは江戸時代初期ということになる。

四国遍路の盛行

 さきに、八十八か所の成立は中世末期であったことを記したが、当時の遍路は僧侶遍路が中心で、俗家遍路はわずかであった。それが江戸時代になって俗家遍路の数が僧侶遍路をしのぎ、やがて今日のように多くの庶民が参加して、四国遍路の盛行におもむいたのはいつごろであろうか。
 前田卓の『巡礼の社会学』は、四国遍路を社会学的、実証的に捉えようとしたもので、その結論はおおむね肯繁にあたいする。前田は、寛永(一六二四~)・慶安(一六四八~)ごろから納札が見いだされるようになり(このごろから辺路から遍路へ変わる)、つぎに貞享(一六八四~)・元禄(一六八八~)ごろから遍路に関する絵図や書籍が多く出され、これが機縁となって遍路の数もふえてきたことをあげ、貞享・元禄のころから四国遍路は盛況に向かい、結論として宝暦(一七五一~)・明和(一七六四~)ころ最盛期を迎えて、以後今日までつづいているとみている。そして、その裏付けとして多くの実証をあげられる。その方法として、遍路墓による実証は困難であるとして、札所寺院に残る過去帳から一三四五名の遍路を抽出して検討した結果、寛文年間(一六六一~)から遍路の名が記載されはじめ、元禄年間(一六八八~)になるとほぼ隔年の記載が見られ、宝永年間(一七〇四~)になると毎年遍路の名が見られ、毎年のように遍路が増加してくるのは寛保(一七四一~)・延享(一七四四~)・宝暦(一七五一~)のころからであるという。特に宝暦・明和のころから遍路が盛行しただろうことは、単に過去帳だけからではなく、遍路道にある丁石も、たとえば八七番札所から結願所に至る六〇数基の丁石は宝暦・明和のものが多いこと、遍路講もこの時代に始まったものが多いこと、宝暦年間に出版された遍路案内書として四国遍礼霊場記の再版と四国霊場遍礼絵図などがあること、さらに、土佐『山内家史料』によると、宝暦一四年に「他国遍路二月より七月までに一日二、三百人も通り申候」とおびただしい数に達していること、伊予小松藩『会所日記』でも、同地からの四国遍路が、寛政二年(一七九〇)五二名、同三年八二名、文化九年(一八一二)九四名とピークに達していることによって明らかであるとされる。ちなみに、過去帳による四国遍路の出身地は、多いものから阿波・紀伊・讃岐・摂津・備中の順で、伊予は七位、土佐は三九位で、五五か国に及ぶという。

四国遍路記

 四国遍路の盛行は宝暦に始まり、文化・文政のころが最盛期であったという結論を裏付けるものの一つが四国遍路記ないし案内書の公刊である。特に案内書の出版は四国遍路盛行の原因として大きな意味をもつ。当時は出版されず、単なる私記であった遍路記を含めて、江戸時代に書かれた遍路記と遍路図会の主要なものを年代順にあげると次のとおりであり、がりに年代順に番号をつける。

1空性法親主四国霊場御巡行記 賢明 寛永一五年(一六三八)
2四国遍路日記 澄禅 承応二年(一六五三)
3四国遍路道指南 真念 貞享四年(一六八七)刊
4四国遍礼霊場記 寂本 元禄二年(一六八九)刊
5四国徧礼功徳記 真念 元禄三年(一六九〇)刊
6四国徧礼手鑑 寂本編 元禄一〇年(一六九七)刊
7四国徧礼絵図 細田周英 宝暦一三年(一七六三)刊
8四国徧礼道指南増補大成 洪卓編 明和四年(一七六七)再版
9南海道名所志 陰山梅好・白縁斎 寛政四年(一七九二)刊
10四国八十八箇所道中記 下村宮吉 寛政八年(一七九六)刊
11四国八十八ケ所名所図会 著者不詳 寛政二一(一八〇〇)写
12四国八拾八箇所納経一部 橘義陳 享和二年(一八〇二)
13海南四州紀行 円福寺英仙本明・胎仙頓覚 文化元年(一八〇四)
14四国八十八ケ所順拝心得書 東寺茶所預和介 文化八年(一八一一)刊
15四国遍路御詠歌道案内 著者不詳 文化一一年(一八一四)刊
16四国八十八箇所霊場記 著者不詳 文化一二年(一八一五)刊
17四国日記 新井頼助・重豊 文政二年(一八一九)
18四国八十八箇所 源文連 文政一〇年(一八二七)刊
19四国徧礼道案内 著者不詳 弘化四年(一八四七)改版
20四国紀行 備後輛の浦某 天保三年(一八三二)、四年ごろ
21四国巡拝諸控帳 上山村上分庄屋粟飯原権左衛門 天保一五年(一八四四)
刀一四国八十八ケ所順拝心得書井二道中記 著者不詳 嘉永七年(一八五四)刊
23四国八拾八ケ所 著者不詳 安政三年(一八五六)

 ここには省略したが、なお特異なものとして十返舎一九の『金草鞋』がある。これは、四国遍路を実際には行わなかった著者の戯作であるから、文学的価値はともかく、四国遍路の研究にとってあまり価値はない。また、ここにあげたものの中にも、また省略したものの中にも、真念の著作の改編や縮小版的なものがある。これらのうち、資料的価値のあるのはI~5と11の六編で、これらは伊予史談会双書『四国遍路記集』に収録してあり、また、これらにつづいて、郷土人の著作としても注目すべき13のうち伊予関係分は、愛媛県史『資料編学問・宗教』に収めてある。これらの中で、当時公刊されなかった1、2、11、13のうち、1は『国文東方仏教叢書紀行部』に、2は宮崎忍勝著『澄禅四国遍路日記』に、11は久保武雄氏による同名の複刻本に収載され、ただ13の『海南四州紀行』の伊予関係分以外は公刊されていない。公刊されたもののうち重要なのは3~5で、その後に公刊されたものは改編や縮小版にすぎないが、四国遍路の道案内として役立ち、四国遍路の盛行に貢献した。

衛門三郎

 大師崇敬のあまり四国遍路の功を積んだ篤信者として、伝説上の人物ながらまず衛門三郎をあげなければならない。あるいは、四国遍路の創始者とされるが、創始者というにはあまりに伝説上の人物でありすぎるし、四国遍路という社会的事象が一人の篤信者によって始まるということはできない。しかし、大師は高野奥の院の霊廟に入定し、今なお四国の霊場を巡錫しておられるから、四国遍路をするうちどこかでお会いできるという信仰が、四国遍路早期の衛門三郎伝説に見られるから、衛門三郎を四国遍路の創始者とすることはあながち不当でない。衛門三郎は大師信仰の権化なのである。
 衛門三郎伝説のうち寺号を安養寺から石手寺に変えたということに関する部分には、『日本霊異記』にその祖型とみられるものがあるといわれる(宮崎忍勝『澄禅四国遍路日記』)。それは、聖武天皇の御代、遠江国磐田郡に左手を握ったまま生まれた女の子があり、七歳になって手を開いたところ舎利二粒が出た。それを安置したのが磐田寺の塔であるというものである。また、衛門三郎の鉢が八つに割れて飛び散り、子供八人がつぎつぎと死んで八つの塚に祀られたという「飛鉢」の伝説の祖型とみられるものが、八四番屋島寺のところで澄禅によって語られている。それには、鑑真が来朝のときこの沖を通り、この島に霊気を感じて屋島寺を建て所持の衣鉢を納めた。ところが、この鉢が空にあがり、沖を行く船に下って斎料を乞い、舟人が驚いて米を入れると寺へ飛び還った。こうして人々の崇敬を得るうち次第に繁昌したが、ある時この鉢が漁師の舟に飛下ったので、舟人があわてて魚をこの鉢に入れると、鉢が微塵に砕けて海底に沈み、この寺も衰微してしまったというものである(四国遍路日記)。こうした伝説との類縁がみとめられる衛門三郎伝説は、伝説とはいえ、その意味を考えてみなければならない。
 河野通宣による永禄一〇年(一五六七)の石手寺縁起を書いた刻板にみえるから、遅くともこれまでにこの伝説は成立していたのであるが、伝えられるうちに語り口が少しずつ変わりながら、「石手寺略縁起」・「阿波焼山寺伝説」以下の諸記録に伝えられている。四七番札所八坂寺に近い番外札所文殊院徳盛寺は、かつて八坂寺の末寺で、衛門三郎の菩提寺といわれ、付近にある八つの塚に祀る八つ墓が八人の子供の墓といわれ、衛門三郎はこの在所浮穴郡荏(恵)原郷に住む悪業深い小豪族であったとみられている。石手寺の永禄刻板には、淳和天皇の天長八年(八三一)、浮穴郡江原郷の衛門三郎は、利欲にして富貴を求め、悪逆にして仏神を破る、故に八人の男子頓死す云々(原漢文)と簡単に書かれているが、その後のものと思われる説話は、八人の子の死に至るまでが潤色されていろいろに語られている。それを大まかに分けると話の筋は二つに分類される。一つは普通に語られているもので、真念の功徳記にも簡単に、貪欲無道の衛門三郎は、ある時門に立って鉢を乞う僧を追いやろうと杖でたたこうとしたところ、鉢にあたって八つに割れ、八人の子がつぎつぎに八日のうちに頓死してしまったと書かれている。もう一つは澄禅の『四国遍路日記』 にあるもので、この場合、衛門三郎は、石手寺の大檀那河野家から石手寺の「箒除」のために付け置かれて、毎日熊野権現社の長床にいて塵払いをしていた。この男は「天下無双ノ悪人ニテ樫貪放逸ノ者」であったため、大師はかねてこの三郎を教化してやろうと思っていた。ある時、大師が辺路乞食の僧のふりをして長床にいると、例の三郎がやって来て、見苦しい身なりをしているお前は何者かと追い出され、翌日も同じように散々に悪口を言って追い出す。三日目には箒の柄で打ったので大師が鉄鉢をさし出すと、この鉢は八つに割れてしまい、光を放って八方に飛び散った。三郎が家に帰ると、嫡子が物に狂った様子で、自分は空海である、まことに邪見放逸で私をこのように扱うとは思いの外のことである、お前の八人の子を一日のうちに蹴殺そうと思うけれども、物思いの種に八日のうちに死なすだろう、と言って息絶えた。そして、八人の子が八日の間に死んでしまった、というものである。
 八人の子が死んでしまうところまではこのように話の筋が違うけれど、その後はどれもほぼ同じである。事のついでに澄禅の話をつづけると、三郎は懺悔して髪をそり、四国中を巡行し、子どもの菩提を弔って、二一度目の辺路修行をするうち、阿波国焼山寺に札を納めて麓に下る途中、谷の辻堂で休んでいたところで大師に会い、願いを聞いてもらってここで死んだというあら筋である。現にその跡には三郎の墓と杖杉庵がある。杖杉という名は、三郎の杖が墓標としてつき立てられ、それが芽をふいて大杉になったというところから名づけられたと伝える。大師にめぐり会うことのできたこの二一回目の遍路は逆打ちだったといわれている。

篤信の遍路

 つぎに、実在の人物として最初にあげられる篤信の遍路は真念である。『四国遍路道指南』の跋文に「宥弁真念」とあり、奥付けに「本願主、同所寺島宥弁真念坊」とある以外のことはよくわからないが、さきに記したように、大坂西浜町寺島に住み、高野山奥院護摩堂の高野聖洪卓と共に四国霊場を巡り、たえず高野に登って学僧寂本の指導を受けていた高野聖である。その生没年はわからないので、最後の著作『四る(宮崎忍勝『遍路-その心と歴史ー』)。そして、これに加えて伊予の木食仏海を掲げなければならない。さきにあげた四国遍路に関する諸書のうち、仏海のことにふれているのは『四国遍礼名所図会』のみである。阿波から土佐に入ると、室戸岬の手前で飛び石・刎ね石という難所があるが、その飛び石に「仏海上人の古跡」飛石庵があり、それより「砂道行、小川わたり松原行、入木村仏海庵」があって、大師を本尊とし、常時接待が行われる、庵の西に「仏海上人石塔」がある、というものである。
 ところで、木食仏海については鶴村松一の『木喰仏海上人』に詳しい。宝永七年(一七一〇)風早郡猿川村(北条市猿川)の生まれ、父は越智氏脇田孫左衛門の後裔、幼名太良松、字を如心という。享保七年(一七二二)一三歳、師を求めて近郡を放浪、享保九年、中国・近畿を遊歴の後高野山麓細川村に滞在すること三年、一八歳で高野山に入り、同一七年宥秀に従って出家。間もなく山を下り、奥州に至るまでくまなく回国、帰郷して四国霊場の巡拝を終えたのが元文元年(一七三六)二七歳の時のことであった。同五年三度目の西国巡礼に出、翌年四国遍路の途次宇摩郡河滝寺に二年間滞在して地蔵像千体を彫刻安置、寛保三年(一七四三)新居郡大島で地蔵像一〇〇体を彫刻して小堂に安置、これで悲願の自刻地蔵は三千体に達した。延享元年(一七四四)再び高野に登り、旧師宥秀に伝法の灌頂を受けたあと九州を遍歴、寛延元年(一七四八)三九歳で回国を完成、出身地風早郡猿川村に帰ったのは寛延二年、四〇歳になっていた。
 郷土においては、宝筐印塔を建立して一字一石経を納め、小堂を再建して善光寺式一光三尊像を本尊として祀った。また、翌年には風早三十三観音霊場を開創、大坂の仏師田中主水に依頼して自らの座像を得た。郷里での功徳を終えると、宝暦二年(一七五二)四国遍路に発ち、宝暦一一年土佐国佐喜浜に仏海庵を建てて止住、飛石の近くに建てた飛石庵とともに遍路の宿として供し、近辺に遍路道標を建立するなど、地方教化のかたわら遍路の難を救った。折から四国遍路の盛行期に入っていたから、多くの遍路が救われたことであろう。明和六年(一七六九)一〇月、六〇歳で仏海庵に没した。仏侮庵に住すること一七か年であった。仏海庵には現に仏海の安置した本尊地蔵、宝筐印塔、仏海上人供養塔、その他の遺品があり、一方郷里猿川村には墓(五輪塔)が建てられ、木食庵に位牌が安置されている。
 つぎに、四国遍路の篤信者として、この人の右に出る者は今後も出ないであろうと思われる人に中務茂兵衛義教があり、これまた鶴村松一の二著に詳しい。その後著は、茂兵衛の著作『四国霊場縁起道中記大成』(明治一六年、一八八三)の復刻に「中務茂兵衛義教の生涯」を付けたものである。この茂兵衛の著作は、徳島で出版されたもので、明治時代を代表する四国遍路案内書である。真念の書にならったもので、ちょうど茂兵衛は真念の再来のような人であるが、その遍路行二八〇回は、真念の二〇余度をはるかにしのぐ。
 茂兵衛は、弘化四年(一八四七)、周防国大島郡椋野村次郎右衛門の三男として生まれた。本名亀吉、中務家は歴代庄屋であった。慶応元年(一八六六)、一九歳の茂兵衛は、放蕩三昧にふけったあげく郷里を出奔、やがて思うところがあって四国遍路を始めた。明治一〇年、七六番金倉寺の松田俊順を師として得度、翌年夏には富士・大峰・葛城に入峰修行した。一五年(一八八二)に四国遍路六四回を達成したあと西国三十三観音を三度にわたり巡拝、翌一六年、四国遍路六五度を記念して道中記大成を出版、一九年、八〇度達成を記念して遍路道標の建立を発願、二一年(一八八七)五月には一〇〇度目を達成して各地に多くの道標を建立した。二四年(一八九一)には高野山より法号義教を授けられ度牒を受けた。その後も休む暇なく四国を遍歴して回数を重ね、そのたびに施主を求め、自らが願主となって道標を建立した。大正八年(一九一九)七三歳、老衰が著しくなったがなおも遍路をつづけ、翌九年に二七九度目の道標、さらに翌一〇年、二八〇度目の納経札を残し、大正一一年三月二〇日高松で死亡した。七六歳、大悟院釈覚阿義教居士、墓は椋野村にある。

江戸時代の遍路

 大師信仰から遍路に出るのが普通であるが、通過儀礼としての遍路もかなり広く行われていた。成年に達した男子を中心に、若者遍路を年中行事として送り出す村があった。また、村を代表して豊作や除災を祈願する遍路もあった。さらに、社会的弱者として経済力をもたない乞食遍路が増加して悪事をはたらき、また、不治の病として家族や親族から見放された癩患者が、自らの身を隠して悲しい遍路の旅に出るなど、遍路には大きい社会問題があった。
 一国内に限った短期間の遍路は別にして、四国の遍歴には願いを檀那寺や庄屋に提出して通行手形をもらわなければならなかった。もちろん、右にあげた「夜逃げ」同様で郷里を出奔する遍路もあったが、なかには「抜け詣り」をする者があり、発覚するととがめられ、おわびの歎願書を出さねばならなかった。通行手形(往来手形・切手)には、万一病死したときは、土地の風習に従って葬り、国元へは通知してもらわなくてけっこうですと、なるべく先方に迷惑のかからないようにしたためられてあった。だから、行倒れの遍路のほとんどは土饅頭の墓に眠っており、墓標のあるのは、本人が金をふところにしていたか、のちに遺族が知って建てたかのいずれかで、ごくまれなことであった。
 各藩境には関所があって手形があらためられ、関所が発行する「添手形」を受け、次の関所でこれを渡した。讃岐と伊予は万事上方風であると澄禅が言っていることと関係があるかどうかわからないが、この両国では検閲がゆるやかで、阿波と土佐ではとかく藩による干与があった。阿波国で慶長三年(一五九八)に始まった「駅路寺制」は、基本的には遍路を主にして往還の旅人を保護するもので、長谷寺以下藩内八か寺を駅路寺に指定し、行き暮れて一宿を乞う者を泊めた。この八か寺の中に札所六番安楽寺も含まれていた。しかし、山賊・盗賊など悪事を企てる輩が押して一宿を求める場合には取り締まり、ここに会合して悪事をたくらむことを禁止した。さらに、時代が下るにつれて乞食遍路が増加し、流れ者や追われ者がはいってくると、各藩とも取り締まりを厳重にしたが、なかでもきびしかったのは土佐藩で、天保九年(一八三八)の覚書きによると、遍路を含めた旅行者について、往来手形や「御船揚り切手」を持参すべきこと、相応の路銭を持つべきこと、六六部回国の者は「東叡山御定目並三ッ道具」を所持のはずであること、もしこれらを所持しない者は通すこと相成らずというような内容のお触れであった。また、阿波藩でも、「路銀これ無き乞食体之辺路」は「老若男女に限らず直に追返」するよう、村々の五人組へ見回りを仰せ付け、村々では番をしていかがわしい者を村境まで追返し、番所でも念を入れてあらためるよう命じている。なお、関所では「廻リ手形ヲ指出シ、判形ヲ見セ理ヲ云テ通ル」(四国遍路日記)のが普通であるけれど、文化元年(一八〇四)の『海南四州紀行』によると、土佐の国では、国境いの番所ではもとより、国内の所々の番所で、普通の手続きのほか、何日には何村というようにいちいち記した「日限書」なるものをもらい、その日限書の最後の予定が終わった所の関所で返すという徹底した取り締まりが行われていた。
 また、各藩ごとの藩札など通貨の違いから、両替商で次の藩の通貨まで両替えをしなければならなかった。海南四州紀行の末尾に、遍路への配慮として、「用心」という諸注意をかかげた中にこのことが記されている。松山札は金毘羅街道中伊予分内では通用するが、所によって五六文、七八文とまちまちであること、今治札(六六文)は領分外では通用しないこと、伊予を発つとき道後で丸亀の銀札に替えて持って行くとよい、ただし、高松領には通用しないので、領境で高松札に換えなければならぬこと、阿波では銀札が通用するが、金を銀に替えることができないので讃岐で替えておかなければならぬこと、土佐では八〇文銭は通用するが銀の値段が安いこと、などを記している。
 道中では諸種の接待を受けたが、その最大のものは接待宿による施宿であった。接待宿は善根宿ともいわれ、遍路に施宿することによって功徳を積むことができると考えられ、これによって死後極楽に行くことを願った。すなわち「後生願い」による善根宿である。澄禅の日記には、そのような善根者のことを、「宇和島本町三丁目今西伝介ト云人ノ所ニ宿ス。此仁ハ齢六十余ノ男也。無ニノ後生願ヒ(ニ)テ、辺路修行ノ者トサエ云バ何(レ)モ宿ヲ借(貸)(サ)ル、ト也」と記している。澄禅があげる後生願いの善根者には、他に、明石寺近くに住む庄屋清右衛門、浄土寺近くの久米村武知仁兵衛、小松新屋敷村の甚右衛門があり、施宿に感謝している。また、真念の道指南にも、つねに善根宿を施してくれる人の名を数多くあげている。もちろん、遍路の宿泊には札所を中心に寺院があてられ、遍路宿があり、また、庄屋の提供する常宿的なものがあったが、これらがない所で暮れてしまうと、特に民家に宿を乞わなければならなかったが、その民家の宗旨によっては宿泊を断られた。海南四州紀行によると、讃岐小松尾寺(六七番)の付近では、「総テ此辺一向宗多故ニ宿難シ」、本山寺(七〇番)付近では、「此渡 一邑日蓮宗アリ、宿難シ」、また、志度寺(八六番)から長尾寺(八七番)への途中「道筋スべテ一向宗ナリ」、そして、巻末に付した遍路心得ともいうべき「用心」の中に一項を起こして、「讃州所々一向宗多夕宿所難シ」と記している。あるいは別に「日蓮宗の檀家(法華)の若者は遍路に出なかった」(おへんろさん)といわれていることともあわせて、一向宗(浄土真宗)と日蓮宗は、大師一尊化傾向の濃い四国霊場信仰と融和していた他の仏教各派と対照的な態度であり、それが宿所の拒否にあらわれたものとみられる。
 遍路の行儀中大切なものは納札である。納め札のはじめは木札で、これを本堂の柱や板壁に打ちつげたところから、「札を打つ」という言葉が札所に詣ることを意味し、「伊予国分廿六ヶ所ノ札成就ス」(四国遍路日記)というふうに言われている。それぱ寺に参詣したしるしに木の札を残すのであるが、もっと正確には納経のしるしの納札ということであり、自分の手もとに残すものとして納経帳がある。ろくに納経もしないで納経帳に集印して回るのは意味のないことである。ともあれ、札を打つ場合、「本尊・大師・太神宮・鎮守、惣じて日本大小神祇、天子・将軍・国主・主君・父母・師長・六親、眷族乃至法界平等利益」と唱えながら打つのだと道指南では言っており、順拝心得書では、木にかわって札を納める場合、納め札を前に置き、「光明真言廿壱遍唱ふべし、扨本尊の御名を唱へ拝して、一切元祖、一切貴祖、一切君臣、一切有情非情、六親眷族乃至法界平等利益と唱へ、其後我思ふ事を願ひ、其後にて真言陀羅尼或念仏等各心任せに唱へ、納札を其辺に粘在べし」と、くわしくその作法を述べている。もちろん紙の納め札の場合、初めは木札と同様柱などに帖りつけていた。納札はまた「宿札」や「茶札」として、宿や茶の接待に対する感謝の意味で差し出しもした。すなわち、その場合、納経帳に納め札をのせ、施主の家内安全、富貴繁昌、息災延命、諸願成就を祈り、南無大師遍照金剛様と唱え、光明真言を誦して札を納めるのだと言っている(順拝心得書)。そして、納札には呪力があると信ぜられたから、もらった納札を戸口に貼っておいたり、小さい俵につめて鴨居につるしておくと、火災を防いだり魔除けにもなり、福を招くといわれて大切にした。なお、納経帳を本人葬送の棺に収めると極楽に行けるという信仰もあった。
 また、遍路の杖には、「金剛杖」といって大師そのものの象徴として崇められた。遍路の編み笠などに書く「同行二人」というのは、大師と共にあるということで、この持つ杖が大師である。だから、宿に着くと、自分の足よりはさきに杖を洗って床の間に置く。杖には霊力が宿るとされ、病の箇所にあてがい、「南無大師遍照金剛」と唱えて加持すればなおるとも信ぜられた。結願の八八番大窪寺では、これまで巡拝のささえとなった杖を納める。大師との同行二人の巡礼が終わったからである。