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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

五 各藩の政策と藩侯家の菩提寺

 各藩の政策と実情

 豊臣秀吉の四国征圧で伊予を侵攻した小早川隆景の兵火で、東予地方から中予地方にかけての寺院は多く兵火にかかり、なかには寺宝が掠奪されて持ち帰られた事例もある。小早川に続いて伊予を領した福島正則は、越智郡国分城に拠り、そこにもとからあった来迎寺(浄土宗)を菩提寺とし、おおむね寺院を外護、代わって入部した藤堂高虎は、今治城の築城にあたり、今治の町割(慶長九年完成)を行い、この来迎寺も移し、多くの寺を集めて寺町を形成した。大洲地方でも寺を再興、仏教再興の事蹟は顕著である。小早川の軍に破れた大洲に入ったのは戸田勝隆で、藤堂高虎より前の入封であるが、反仏教の態度が顕著で、所領の大安楽寺(宇和町伊延、臨済宗)に対し、寺領を没収して寺を破却、寺宝を大洲城に持ち帰るなど暴挙の数々があった。また、藤堂高虎のあと板島城(宇和島城)に入った富田信高は、正眼院(のち大隆寺、臨済宗)を創建して菩提寺とし、選仏寺(臨済宗)を再興するなど外護の事蹟がある。ことに、正木(松前)城に入った加藤嘉明は、築城のため金蓮寺(伊予郡松前町西古泉、真言宗)を現地に移建、寺地を与えて保護したほか、道後などにあった浄蓮寺(浄土真宗)・法泉寺(同)・長建寺(浄土宗)などを城下に移建、その後松山城に移ると、町割りを進める中で、これらのほかに、同じく城下にあった妙円寺(日蓮宗)・大法寺(同)などを松山に移してこれらの多くを松山市松前町付近に集中、また別に山越に寺町を形成するなど、寺院に対する外護と城下町の形成に大きい事蹟を残した。これらを継承するのがつづく伊予の八藩である。
 藤堂高虎による今治の町割り、加藤嘉明による松山の町割りによる寺町は、その後の藩政に継承され、今日に見る景観を呈した。規模こそ小さいが、大洲・宇和島においても同様で、一つには防衛の意味を持つほど、寺構えは強固であった。
 それぞれの城下に、全国的にみて寺檀制度が確立したとみられる寛文のころ、どれほどの寺があったかは明らかでない。各藩では、宗門改めとともに行なった寺院堂庵の調査があったわけであるが、いま披見し得たものの中で最も古いのは、天和元年(一六八一)以前とみられている「予州宇和島拾万石領寺法覚」で、地域順に寺院名と宗派を列挙して二〇五か寺あげているのに対し、安政二年(一八五五)の「御領中寺院名刺」では、宗派別に寺院名と所在地をあげ、その数は一七三か寺、なお、逸脱分二二か寺が追記されて合計一九五か寺となり、ほとんど変動がない。他藩の場合も同様の情勢にあったとすれば、大洲領の寺院総数一九〇か寺(元文五年、『大洲秘録』所載)、松山領の三七六か寺(弘化二年、「松山藩寺院録」)は、新寺の建立や禁止令による廃絶を繰返しながら、江戸時代を通じてあまり変化のなかった各藩寺院の概数とみられる。他の藩についてはこうした記録が見られないのが残念であるけれども、明治五年の「寺院明細帳」によると、石鉄県の寺院総数は五九三か寺、神山県のは七五四か寺、あわすと一三四七か寺で、神山県の場合、さきの宇和島領・大洲領の合計四〇〇か寺との差が三五四か寺もあるのは多すぎるが、南予地方に多い小堂庵まで入れているとみられなくもない。これを昭和四四年の統計による県下の寺院総数一〇七八か寺(全国寺院名鑑)を明治五年の一三四七か寺と比較した場合の差二六九か寺は、主としてその後の廃仏毀釈の徹底による減少と理解することができるから、江戸時代末期の寺院数は、伊予における廃仏毀釈進行中の明治五年の統計の一三四七か寺ぐらいであったとみられる。
 これらの寺は、幕府の定めた本末制により、本寺末寺の組織がすべて明らかにされているが、室町末期以来の傾向を反影して、伊予の大寺を本寺とするものが多く、それ以前の中央寺院の末寺とするものは意外に少ない。中央寺院の末寺になることを望んだらしいことは、文書の幾つかによって知ることができるが、各藩の政策によって、領内寺院中の大寺の末寺にしたものと思われる。末寺を多くもつ寺院の主なるものとしては、宇和島領では(安政二年)、龍沢寺(曹洞宗)末三七か寺、仏海寺(臨済宗)末一六か寺、大法寺(臨済宗)末二一か寺、真宝寺(浄土宗)末、一二か寺、大洲領内では(元文五年)、如法寺(臨済宗)末二五か寺、高昌寺(曹洞宗)末二四か寺、宝珠寺(真言宗)末一五か寺、大禅寺(臨済宗)末一二か寺、松山領内では(弘化二年)、石手寺(真言宗)末一六か寺、遍照院(真言宗)末一六か寺、浄明院(真言宗)末一四か寺、久万大宝寺(真言宗)末一四か寺などであり、江戸時代の統計を披見し得ない東予地方の寺院では(明治五年明細帳、一部松山領の記載と重複)、光林寺(真言宗)末一六か寺、観念寺(臨済宗)末一三か寺などである。

 寺格

 つぎに、各宗派では、本寺である大本山のもとに、さまざまな寺格が与えられていたが、右の地方本寺をはじめ、かなり多くの寺院に寺格が与えられていた。江戸時代末期のものとみてよい明治五年の明細帳によると、中本寺の寺格を有するものは、〈表-3〉で示した諸寺である。また、小本寺の寺格を有するものは枚挙にいとまがないほど多いので略する。
 つぎに、藩の意を受けて伝達し、宗派内をまとめる役である触頭は、幕府の制度にならったものであるが、同じく明治五年の明細帳によると、天台宗では常信寺(松山市)、真言宗新義派では石手寺(松山市)、浄土宗では大林寺(松山市)と来迎寺(今治市)、曹洞宗では龍穏寺(松山市)、法龍寺(同)と龍沢寺(城川町)、日蓮宗では大法寺(松山市)と法華寺(同)などで、これらは伊予全域にわたる宗派ごとの触頭であり、複数の触頭のいる宗派では地域によって分担したものとみられる。以上によると、真言宗古義派・臨済宗・浄土真宗その他の宗派に触頭がないのは、おそらく記録の脱落があるのであろう。また、大隆寺(臨済宗、宇和島市)や大乗寺(吉田町)を触頭もしくは録所とするのは、それぞれ宇和島藩と吉田藩領内の全宗派に対する触頭という意味である。このように、宗派ごとと領内のみの二種の触頭があった。
 また、「松山藩寺院録」(弘化二年)には、これまた寺格を意味するとみられる「公儀支配」というのがあり、浄土宗では浄福寺・弘願寺・来迎寺・長建寺・不退寺、曹洞宗で龍穏寺、臨済宗で正宗寺・天徳寺・善応寺、真言宗では石手寺・太山寺などである。
 つぎに、各藩には、正月などに藩主に拝謁する行事があり、その拝謁の順序が細かく決められていた中で、寺院についても段階があり、格付けとみられるものがある。大洲藩の「年頭御礼之次第」(大洲秘録)では、曹渓院・法眼院・出石寺・大禅寺・法華寺・高昌寺・寿永寺・大蓮寺・清源寺・願成寺(以下略)というように順位が定められており、今治藩の記録ではもっと細かく(嘉永二年三月のお礼順、『新今治市誌』)、御小書院御礼(家老格)に松源院・光林寺、御書院二畳目御礼席に法華寺・海禅寺・南光坊・真光寺・国分寺・正福寺・常高寺、御書院内独礼筆頭に来迎寺、御書院内独礼に西蓮寺・正法寺・円浄寺・西方寺・円光寺・大仙寺・隆慶寺・大雄寺・西念寺・仏城寺・幡勝寺・称名寺・円竜寺(以下略)などとなっている。他藩でもこうした序位があった。

 藩侯家の菩提寺

 もちろん、寺院の格式の最も高かったのは藩侯家の菩提寺であるが、それをあげる前に、全国各藩侯家の宗派について記しておこう。天保武鑑によると(辻善之助『日本仏教史』第九巻)、二六六藩中、最も多いのが曹洞宗の八三、臨済宗では五山派三、大徳寺派二九、妙心寺派三八、黄檗派二一の計八二、以上禅宗合計一六五は、武家の好尚に叶うのが禅宗であるとする一般の予想どおりであり、つぎに浄土宗六五と多いのは徳川氏が浄土宗であることからきているとはいえ、やや意外の感があるほど多い。そして以下は天台宗一九、法華宗一一、一向宗四、真言宗二であり、真言宗の少ないのも予想外である。
そこで伊予八藩藩侯家の宗派は
  臨済宗妙心寺派 宇和島伊達・吉田伊達・大洲加藤・新谷加藤・小松一柳の各家
  浄土宗 松山松平・今治松平の各家
  法華宗(日蓮宗)西条松平家
となっている。
 松山藩主蒲生家ゆかりの寺には、見樹院(のち大林寺、忠知の墓がある)、興聖寺(大林寺が松平氏の菩提寺になる際、忠知の墓を祀った)、円福寺(もと道後祝谷常信寺の地にあり、常信寺を拡張して松平氏の菩提寺とする際木屋町に移建、忠知画像がある。)の三か寺がある。つぎの松山藩主松平家の宗旨は浄土宗であるが、「四ヶ寺」といって一般からも尊ばれた四つの菩提寺があった。その中心は大林寺(浄土宗、味酒町)で、河野通純を弔ったという法性寺が、ついで蒲生家の香華院として見樹院となり、その跡に松平定行が寛永一一年(一六三四)に崇源院を創建したのが初めで、前の封地桑名に建立されていた照源寺三恕を伴って開山とした。なお、大林寺に改められたのは七代直絃のときという。浄土宗の触頭をつとめ、二〇〇石を与えられたという別の伝えがある。つぎに常信寺(天台宗、道後祝谷)は、前に記した伝承のほかにもと、阿沼山弘真院と称して三津にあり、勝山山麓に移されていた。慶安三年(一六五〇)松平定行がこの寺を再興、松山城の北艮位鬼門の護りとした。これは、江戸の東叡山寛永寺にならったもので、あわせて日光東照宮を勧請、幕府の藩屏としての自覚を示している。のち松平定行が没するとその廟所となり、あわせてその弟定政(不白)と最後の藩主定昭(維新の際開城してこの寺に入り恭順の意を示した)を祀る。大林寺が菩提寺としてほぼ歴代の藩主を祀るのに対し、この寺は祖廟の寺という意味がある。天台宗の触頭をつとめ、二〇〇石を給せられていた。菩提寺の第三法龍寺(曹洞宗、中の川)は、前封地桑名に、元和四年(一六一八)松平定行が建立した永興院を移したもので、さらにさかのぼると建庵順佐を開山として掛川に創建されている。定行室長寿院を祀って寺名を長寿院と改め、松山移封にともない、古寺跡に寛永二一年(一六三五)この寺を開創、開山を掛川永興院以来の建庵順佐とするが、実は死後勧請開山で、事実上の開山は二世とされる月舟賢順(定行息)である。長寿院殿の墓が境内墓地にある。触頭を務め、寺領一〇〇石を給せられた。最後に、第四の菩提寺法華寺(日蓮宗、御幸町)は、元和二年(一六一六)開創、開山日侃(日俒とも)とされ(寛政一二年「寺譜」)、二代藩主定頼の室養仙院に招請された五世日量は厚い帰信を受け、寺領五〇石(のち加増されて一〇〇石)を与えられ、延宝六年(一六七八)
本堂を建立と伝える。養仙院は丹後田辺城主京極丹後守高広の女で、日蓮宗信者であったことによるもので、子定長によって菩提寺としての造営を完成した。ここに祀られている人びとは、二代定頼室日立、その女日珠、三代定長室日栄、定長妹日理、四代定直女日源の女性ばかり五人であり、境内に日珠大姉の墓が現存する。日蓮宗の触頭を務めた。
 今治藩侯家も松山藩侯家同様浄土宗である。寛永一二年(一六三五)松平定房が入部すると、藤堂高虎が国分より移建した来迎寺を菩提寺としたが、のち明暦二年(一六五六)定勝山松源院(現廃寺、風早町)を建立、来迎寺三汲を開山とした。山号定勝は父定勝、松源院は母の法号からとったもので、菩提寺として寺領一〇〇石を給せられたが、明治二年、松平氏が先祖の供養を神式で行うことになって廃寺になった。
 西条藩主松平氏の菩提寺は日蓮宗妙昌寺(西条市東町)である。寛永一三年(一六三六)一柳直盛が母栄法院殿の菩提を弔うため創建、その栄法院妙昌日繁大姉の妙昌を寺号とした。のち松平頼純が入封すると松平氏の菩提寺となり、境内に東照宮を勧請したが、明治の神仏分離で西条神社へ遷した。
 以上三藩のほかの藩侯家の菩提寺はいずれも臨済宗妙心寺派に属する。大洲藩主加藤家の菩提寺曹渓院(大洲市西山根)は、元和三年(一六一七)初代藩主貞泰が大洲に入封すると三の丸に建立された。旧封地美濃黒野に父光泰の菩提を弔うために建てたのを、移封にともない米子・大洲と移建したもので、光泰の院号曹渓院を院号とする。初代貞泰、六代泰衙などの霊を祀るが、藩祖光泰を祀る祖廟という性格が強い。その後寛文九年(一六六九)、二代泰興が、盤珪を開山として創建したのが如法寺(臨済宗、大洲市柚木)で、二~五代、七代、九代、一二代の墓があり、曹渓院とともに菩提寺である。大洲加藤家にはもう一つの菩提寺法眼院(日蓮宗)があった。初代藩主貞泰室法眼院殿の菩提を弔うため、寛永一三年(一六三六)その子泰興が建立したが、明治二年の焼失後保内町須川に移建、かつての面影はない。
 新谷藩加藤家の菩提寺大恩寺(臨済宗、大洲市新谷)は、承応元年(一六五二)初代直泰が建立、三代~五代の霊を祀っている。また、もう一つの菩提寺法眼寺(日蓮宗、大洲市新谷)は、大恩寺よりも早く寛永一五年(二八三八)、直泰が母法眼院の菩提を弔うため建立したもので、万治二年(一六五九)に完成、初代直泰、六代泰賢の墓がある。
 宇和島藩主伊達家の菩提寺は二か寺ある。一つは等覚寺(臨済宗、宇和島市野川)で、初代秀宗が、元和四年(一六一八)、母龍泉院の菩提を弔うために創建して龍泉寺といったが、秀宗の墓所が設けられたとき等覚寺と改称、その後二代~四代と六代・八代の墓がある。もう一つの菩提寺大隆寺(臨済宗、宇和島市野川)は、慶長一三年富田信高が建立して正眼院と称したが、寛政六年(一七九四)五代藩主村候の廟所としてから伊達家菩提寺となり、村侯七回忌以後大隆寺に改めた。初代秀宗夫人、五代村侯のほか七代、九代藩主の墓がある。宇和島藩の触頭寺院であった。
 吉田藩主伊達家の菩提寺大乗寺(臨済宗、吉田町立間)は、鎌倉時代以来の古寺を、万治元年(一六五八)初代宗純が再興したもので、吉田領内の触顕寺院であった。
 小松藩初代直頼は、長福寺(臨済宗、東予市北条)中興の南明に帰信したが、二代直治が、慶安三年(一六五〇)、父直頼の遺邸とみられる遺世軒に仏心寺を建立、南明を迎えて開山とし、一柳家菩提寺にした。境内につづく小丘の墓地には歴代の墓がある(一部は江戸寿昌寺から移した)。また、初代、二代を長福寺で祀るのは、この仏心寺開創以前に両公の帰信を受けたからである。なお、小松藩領には、「抱え寺」と称する七か寺があるが、藩の外護を受けた祈禱寺のような性格の寺だったのであろう。

 祈禱寺と藩の外護

 寺院には、古代以来祈禱寺という性格があった。古くは国の安泰と万民の幸せを願う祈願が国家仏教の中で行なわれ、中ごろは有力な氏族の繁栄を願う氏寺、そして河野氏以来の領主・武将、そして封建領主に至るまで、自らの菩提寺のほか祈願所をもっものがあった。しかも、江戸時代の藩主の祈願所は、単に藩主・藩侯家の祈願所であるばかりでなく、藩の祈願所として領民の連帯意識のもとでの祈願所であったものもある。その例をあげてみると、松山藩の祈禱寺には、丹原町久妙寺、同興隆寺、北条市光徳院、松山市安楽寺、同浄明院などと見え、まだ他にもあって多いから、他藩でも多かったのであろうが、今治藩では玉川町光林寺、今治市南光坊、大洲および新谷藩の伊豫市宝珠寺などが代表的なものであり、その数はまだまだ多い。藩侯家の菩提寺に対してはもとより、こうした祈祷寺、および格式の高い寺院に対しては寺領などが与えられた。たとえば松山藩の場合(松府御役録)
  弐百石 大林寺 常信寺
  百 石 法龍寺 法花寺 石手寺
  五拾俵 太山寺 千秋寺 大禅寺 天徳寺 龍穏寺
  二拾石八斗八升 外百五十俵 久万山大宝寺
と見える。大林寺以下の四か寺は菩提寺、石手寺以下は触頭級の大寺で河野氏以来ゆかりの寺である。ちなみに大禅寺は黄檗の寺であったが明治初年には廃寺になっている。これを大洲藩についてみると(大洲秘録)、菩提寺の寺領は、曹渓院と如法寺が百石、法眼院が「五人扶持、銀五枚」とある。
 右にあげる寺領ないし寺料のうち、少なくとも石高で示されたものは、知行地であったとみられる。幕府が朱印状を下して安堵した寺領は朱印地といわれたが、伊予では朱印地は全くなかった。一方各藩が安堵した寺領は黒印状によったから黒印地といわれたが、『寺社領私考』(安藤宣保)は、伊予における江戸時代末期の黒印地・除地を一一〇件、二一七三石余あげている。しかし、これは著者が、大日本寺院総覧や愛媛県編年史・温泉郡誌・伊予温故録・南予史から拾い集めたもので、たしかなものとはいえない。
 一般に、寺領を分類すると、境内地とそれに付属する土地、それに境外の領地に分かれる。前者は税から免れる除地であり、黒印状によるものは境内の外にある領地である。黒印地に認められたのは、租税や諸役を賦課する権利と、一部の行政権・司法権を行使することを内容とする領有権であり、寺の有力な財源であった。

〈中本寺一覧〉-江戸末期-

〈中本寺一覧〉-江戸末期-