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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 臨済宗妙心寺派の普及

 愛媛県における現在の禅宗の大勢をみると、全寺院四二四か寺中、臨済宗二三八か寺、曹洞宗一七四か寺、黄檗宗一二か寺となっており、臨済宗では、妙心寺派一六九か寺、東福寺派六八か寺、仏通寺派一か寺と、妙心寺派が圧倒的に多い(昭和四四年『全国寺院名鑑』)。もちろん、これらが開創当時以来の妙心寺派というわけではなく、改宗によるものも多いが、伊予における禅宗の展開を考察しようとするとき、妙心寺派臨済禅の普及を特に取り上げなければならぬゆえんである。
 ところで、本稿第二節では、臨済・曹洞の二宗を取上げたが、臨済宗妙心寺派の地方普及はやや遅れたので、臨済宗の中でも、東福寺派を主に、建長寺派などの寺院について述べた。そこで、近世における禅宗の展開としては、この妙心派を取り上げるわけである。

 妙心寺派

 妙心寺(京都市右京区花園、臨済宗妙心寺派本山)は、花園天皇が、禅宗に帰依され、退位後離宮の跡に建立したのに始まる。開山関山慧玄(無相国師、~一三六〇)は、鎌倉建長寺の南浦紹明(大応国師)を祖とする大応派に属し、建長寺に学んだあと大徳寺の宗峰妙超(大燈国師)の門に入り、のち迎えられて妙心
寺の開山になった。その後三世無因宗因のころ足利義満の祈願所として伽藍が整ったが、一時南禅寺に併合されて廃絶、日峰宗舜による復興後応仁の乱で焼亡、雪江宗深によって再興の際、豊臣秀吉の外護により今日の基礎が確立した。大応派のうちまず大徳寺が栄え、その末寺であった妙心寺がこれに代わって栄えた。雪江宗深に四人の高弟があり、景川・悟渓・特芳・東陽をそれぞれ派祖とする竜泉派・東海派・霊雲派・聖沢派の四派に分かれ、さらにそれぞれ竜泉三派、東海五派、霊雲三派、聖沢一派を生じ、一二小派が相競って妙心寺派は興隆した。そのうち伊予に関係の深いのは、竜泉派下春江門、東海派下天縦門、同独秀門、同興宗門、霊雲派下亀年門、同太原門、聖沢派大雅門、なかでも東海派独秀門の寺院が多い。

 竜泉派下春江門

 春江門は竜泉派の祖景川宗隆の法嗣春江紹禧を祖とする。その法系にある徹伝玄興(~一六七七)は、現八幡浜市川舞の人、慶安二年(一六四九)、庄屋浅井市重郎が大法寺八幡浜市本町、妙心寺派)を再興する際、迎えられて中興開山となった。この寺はもと西海寺といい、保元・平治のころ開創された浄土宗の寺だったという。徹伝はのち川之石の海蔵寺に隠退、これを竜潭寺として中興したほか、万松寺穴幡浜市矢野町、妙心寺派)・蔵福寺(八幡浜市郷、妙心寺派)も再興したという。また、大法寺の旧末寺には、これらのほか、宝厳寺・円照寺・願海庵・大円寺・福高寺・長谷寺(以Lいずれも八幡浜市)、通玄寺・伝宗寺・天徳寺・楞厳寺(以上西宇和郡)などがあり、この地方臨済宗の中心寺院であった。なお、この寺の一八世禾山(一八三七~一九一七)は、同市穴井の人、大法寺瓊谷に得度し、韜谷・晦巌に学んだあと諸国に転錫、相国寺独園・妙心寺越渓の禅を受けた後大法寺に帰った。その門に河野広中・田子一民・大石正巳・平櫛田中などがあり、平櫛田中作「禾山笑」は寺宝で、晩年退隠した退休軒は遺跡として保存されている。なお、禾山の著作には『金鞭指街』その他がある。
 右にあげた竜潭寺(保内町川之石、妙心寺派)は、大法寺中興徹伝による再興、もと雨井にあって海蔵寺と号し、寛文二年(一六六二)徹伝が隠楼していた。徹伝はこの寺で示寂、境内に墓所がある。六世田翁慧聰(~一七七九)は大島出身で井上氏、大法寺梵愚に投じ、日向の古月に印可を受けて竜潭寺に嗣席、二〇年間庶民をよく教化した。九世行応玄節(一七五六~一八三一)も大島の井上氏、田翁の甥にあたる。穴井福高寺の鶴首座に投じ、莪山に従って印可を受けたあと竜潭寺に嗣席、のち宇和島侯に請ぜられて等覚寺にも止住したことがある。偈文を集めたものに『心鑑録』がある。
 福高寺(八幡浜市穴井、妙心寺派)は、往古よりの薬師堂を元禄一〇年(一六九七)大法寺徹伝が再興、さらに享保六年(一七二一)六世田翁が再建、行応は田翁に従ってこの寺にあった。天明六年(一七八六)焼失後、寛政二年(一七九〇)一四世柱山(~一八〇七)によって再建、今日の基礎が固まった。
 願海庵(八幡浜市大島、妙心寺派)は、一峯宗心(~一六九〇)を開山として庄屋井上庄右衛門が開創した。井上家はもと対岸穴井の庄屋で、井上吾助が二男庄右衛を連れて大島に渡って開拓に従事、のち父吾助は穴井に帰り、庄右衛門が庄屋になった。さきにあげた田翁は三代庄右衛門の五男、行応は田翁の甥である。この庵において田翁・行応の供養大法会がしばしば開かれ、また行応を祀る行応堂がある。なお、福高寺柱山はこの島の佐々木氏、これら三人を含めて大島出身の一〇僧があり、まさに大島は仏縁の島というべきである。

 東海派下天縦門

天縦門は東海派の祖悟渓の法嗣天縦宗受を祖とする。右にあげた行応が一時止住した等覚寺(宇和島市野川、妙心寺派)は、この派の光天宗現を開山とし、元和四年(一六一八)、宇和島侯初代秀宗が、母竜泉寺殿の菩提寺として創建、竜泉寺と称した。のち秀宗の墓所が設けられた万治元年(一六五八)等覚寺と改められた。宇和島伊達家の菩提寺として、初代秀宗、二代宗利、三代宗贇、四代村年、六代村寿、八代宗城の墓があり、のち同様に藩侯家の菩提寺になった大隆寺とともに両山と呼ばれる。かつてこの寺の末寺であったものに、光明寺・竺法寺・光国寺・汐音寺(以上、宇和島市)、海蔵寺・臨江寺(北宇和郡)、常居寺・瑞照寺・保安寺・西福寺・勝光寺・成竜寺・長谷寺・遍照寺(東宇和郡)など二一か寺がある。なお、この寺はもと法燈派の寺院であったという伝えもあるが明らかでない。

 東海派独秀門

 同じ東海派の独秀乾才を派祖とする独秀門の流れは、伊予における妙心寺派の主流である。曹渓院(大洲市西山根、妙心寺派)は、大洲藩初代藩主加藤貞泰が、父光泰(曹渓院殿)の菩提を弔うため、独秀門の九嶽桓を開祖として旧封地美濃国黒野に開創したもので、のち転封にともない米子を経て元和三年(一六一七)大洲入封とともに三の丸に建立した加藤家の菩提寺で、初代貞泰室、六代泰衑以下の墓がある。この寺の一五世樵禅禅鎧(一七九八~一八七五)は豊前の人、三四歳で曹渓院に入り、子弟を教えるかたわら『九江夜話』などおよそ四〇部の著述を残し、晩年は塔頭洞林寺に余生をおくりながら諸国に布教した。もとの末寺に大恩寺・洞雲寺・泉徳寺・大円寺(大洲市)のほか増福寺(伊豫市湊町)がある。このうち大恩寺(大洲市新谷、妙心寺派)は、承応元年(一六五二)、新谷藩主加藤直泰が曹渓院四世水翁祖萇(~一六八〇)を開山として開創した加藤家菩提寺で、三代・四代・五代の墓がある。
 また、西江寺(宇和島市丸穂、妙心寺派)は、正平二〇年(一三六五)、聖一国師の法孫悟庵を開山とする東福寺派の寺院であったが、寛永二年(一六二五)現在地に移建、そのころ妙心寺派に転じたものか、独秀門の法系にこの寺の住持となった僧がみられる。
 独秀門の流れから出た快川紹喜の法系にある仁山禅忠を始法開山とし、封山祖定を再中興開山とする大禅寺(大洲市西山根、妙心寺派)は、この再中興の寛文年間(一六六一~一六七二)以来妙心寺派になったが、もと建治元年(一二七五)一遍の父河野通広の創建による時宗の寺院と伝えられ(実際は一遍が父通広の菩提を弔うため開創としなければ矛盾がある)、のち永禄年間(一五五八~一五六九)河野の一族ト星建洞が再興している。もとこの寺の末寺とされるものに城願寺・清源寺・桑田寺・東禅寺・光明寺など一〇か寺があったという。また、この門の南源宗薫(一五六五~一六二二)は、甲斐の国の人、湖南宗岳に印記を受け、のち慶長八年(一六〇三)、加藤嘉明が道後祝谷田高から天徳寺(松山市御幸、妙心寺派)を現在地に移建する際招かれて中興開山となった。この寺の開創は延徳二年(一四九〇)、開基は河野通宜で河野家菩提寺である。南源は、その後元和七年(一六二一)勅により妙心寺に出世して天徳寺に帰らなかった。天徳寺止住一九年、その間南源を開山とするものに七か寺がある。なお、著作に南源語録がある。歴世中三世懶翁、一三世蔵山など傑出した僧を輩出、懶翁(~一六七六)は豊後府内の人石井氏、承応二年(一六五三)天徳寺に入り藩公と不伯公の帰信と外護を受け、退隠後豊後常済寺に去った。著作に語録二巻がある。一三世蔵山宗勣(~一七八八)は仏典のほか書にすぐれ、頼山陽の父春水は若年のころ蔵山の教えを受けたという。大正院(松山市平井)・福成寺(長浜町)など旧末寺五か寺を数え、江戸時代には中本寺で、松山藩から五〇俵を給せられた五か寺の一つであった。
 なお、西明寺(北条市上難波、妙心寺派)は、弘長元年(一二六一)創建、康応元年(一三八九)月奄宗光により再興、のち慶長八年天徳寺南源宗薫による再中興以来妙心寺派になった。
 興聖寺(松山市末広町、妙心寺派)は、天徳寺とともにその塔頭として古代に創建したという説があるが明らかではない。寛永四年(一六二七)松山に入封した蒲生忠知が、その翌年ごろ、妙心第一座天英(~一六五一)を開山として、現大林寺の地に開創、蒲生家の菩提にしたという。境内には忠知の墓のほか、義挙の後松山藩預りとなった赤穂義土木村岡右衛門・大高源吾の墓があることで知られている。
 同じ独秀派快川紹喜の流れにある雲居希鷹(一五八二~一六五九)は、土佐一条家家臣小浜氏(のち小方氏)の出。一条頼房代、長宗我部の叛をさけて小浜に移り、さらに小方を経て予州河野家を頼りに伊予に来る途中出生、路傍の毘沙門堂に遺棄されていたのを里の女に拾われたという伝えがあって、伊予との関係を物語っている。幼童のころ土州宇山の太平寺に入り、東福寺を経て妙心寺一宙に師事、諸所を遊歴の後一宙に印記を受げて妙心第一座に転じた。その後小浜高成寺止住後、歴遊の途次松山天徳寺南源宗薫を訪ねたことがある。元和七年妙心寺にあって紫衣を賜ったが、紫衣問題により奥州へ下向、その後諸所を巡歴後、寛永一三年、伊達政宗が再興した松島瑞巌寺に招かれ、前後一四年間留錫したが、その間も江戸・京都の間を遊歴、のち奥州綱木山の西、万山の禅堂に没した。雲居の禅は念仏との兼修であったが、一寺にとどまることなく遊行して民衆を教化する仏教者本来の道を歩んだものとして尊ばれ、また、当時における臨済禅興隆の活力を感じさせられる。(『妙心寺史』)
 この雲居の法嗣が南明東湖(一六一六~一六八四)である。南明は河野氏の分流で風早郡正岡村を発祥地とする正岡氏の出、父正岡盛元(常元とも)は越智郡竜岡村幸門城主で、天正一三年下城後、安芸の福島正則にたよっていたころの元和二年、南明は安芸国で生まれた。母は周敷郡妙口剣山城主黒川通広の女である。八歳になったとき外祖父にっれられて長福寺(東予市北条)の沢甫西堂に入門するが、沢甫は黒川通広の家老今井左京の四男であった。一六歳京都に上り、妙心寺塔頭海福院に入り、一七歳松島瑞巌寺の雲居に投じた。師事すること五年、印可とと
もに法祖快川より伝来の紫衣を与えられ、二二歳長福寺に帰った。二八歳、父が摂津国で病没すると、冥福を祈るためその地に正岡山寒松寺(大阪市旭区中宮町)を建立、その直後妙心寺に転住、やがて長福寺に帰住した。慶安三年(一六五〇)三五蔵、小松藩第二代直治に招かれ、その菩提寺として創建した仏心寺(小松町新屋敷、妙心寺派)の開山となる。ちなみに、一柳家は河野通直の子宜高に始まる河野の傍流、したがって正岡家とは類縁である。また、小松藩初代直頼の伯父で宣高の孫直末は、妙心寺南化和尚に帰信、妙心寺内に塔頭大通院の開基となった。こうした俗縁と法縁から南明が仏心寺に招かれたわけである。ついでのことながら、同じく河野の末裔稲葉貞通が妙心寺内に建立した塔頭智勝院は、大通院と同様南化和尚を開山としており、両院の名は河野氏の氏神三島の神の本地仏とされる大通智勝仏からきているという。四一歳師沢甫正堂の遷化にともない長福寺に嗣席、五三歳江戸に寿昌寺を再興、五三歳妙心寺に出世、五五歳嘯月院(今治市別名、妙心寺派)を再興して将来の隠栖地とし、各地に巡錫後、六一歳哺月院に入る。のち江戸寿昌寺、大阪寒松寺に在住しては嘯月院に帰住、貞享元年(一六八四)京都で遷化した。
 南明が伊予で開創または再興した寺は多く、右の長福寺・仏心寺・嘯月院のほか、安国寺・(川内町)・大安寺(重信町)・本源寺(東予市)・寂光寺(同)・浄寂寺(今治市)・盛景寺(中山町)など二二か寺に及び、県外にも七か寺がある。
 長福寺は、弘安役に戦死した将兵を弔うため、河野通有が弘安四年(一二八一)に雲心善洞を開山として建立した護によって栄えた。なお、南明より三代目の蛮源座元は西条一柳三左衛門の子である。
 仏心寺は、小松藩二代藩主一柳直治が、慶安三年、父直頼の遺跡「遺世軒」跡に建立した菩提寺で、南明を開山として迎えた。四代頼圀の母は浄土宗本善寺に祀られているが、他はすべてこの寺で祀り(初代、二代は長福寺でも祀っている)、後ろの丘の墓地には、江戸寿昌寺にあったものまでここに移してすべての藩侯の墓を祀っている。
 嘯月院は、近くに樹下大神として祀られている越智玉澄の位牌があり、慶雲二年(七〇五)創建という伝えがあるが明らかでない。のち寛文一〇年(一六七〇)、南明がこの地に草庵を結び隠栖の寺として再興した。
 浄寂寺(今治市五十嵐、妙心寺派)は、もと能寂寺といい、その前身は「伊予国神社仏閣等免田注記」にある八幡三味堂で、石清水八幡神社の別当寺であったとみられる。中ごろ、一山一寧三世の法孫魯山によって中興、寛文年間(一六六一~一六七二)浄寂寺に改め、南禅寺派であったが、貞享元年(一六八四)中興随天軌幽が小松仏心寺より入って妙心寺派になった。

 東海派興宗門

 同じ東海派の興宗宗松に始まる興宗門の密山演静(~一六五七)は、常陸国太田村の増井氏(この地の正楽寺は後に改めて正宗寺といい、松山正宗寺はその伽藍系になっている)、月山(秋田藩主佐竹氏の出)に従って秋田正宗寺にあったが、のち諸国に遊行して桑名薬師堂に止住、寛永二一年(一六三五)松平定行の
移封に従って松山に来たり、定行が建立した正宗寺(松山市末広町、妙心寺派)の開山となる。同寺六世逸禅宜俊は名僧のほまれ高く、のちに大いに禅風を興した若い日の白隠が、逸禅の禅門に入ったという。江戸時代松山藩公儀支配の寺で、末寺一〇か寺を擁した。
 仏海寺(宇和島市妙典寺前、妙心寺派)は、もと同市祝森にあって観蔵寺といい、実乗を開山として慶長年間(一五九六~一六一四)以前の建立と伝え、『宇和旧記』によると、由良法燈国師と西園寺氏の位牌があるというから、板島殿西園寺を開基とする法燈派の寺院であったと推定される。寛永一三年伊達秀宗の命により現在地に再興、桃林を中興開山とする。その後のことになるが、妙心禅寺宗派図によると、東海派興宗門の淵室玄澄・霊谷祖信以下の名が見えるから、このころから妙心寺派になったのであろう。この寺の旧末寺は多く、一三か寺を擁したという。当寺の出身に誠拙(一七四五~一八二〇)がある。誠拙、諱は周樗、北宇和郡下灘村柿の浦の生まれ、実父は不明で、母に連れられて家串浦の藤井平兵衛に入って養われ、七歳で仏海寺霊印不昧に業を受けた。のち月船に学んで印可を受け、義山にも参じたあと円覚寺に入ってこれを興した。師家として天竜寺に講じた翌文化一一年(一八一四)ついに円覚寺一八九世となり、文政三年(一八二〇)相国寺僧堂落成の結制に招かれ、京都で示寂した。書画をよくし、和歌をたしなんで香川景樹に学び、その編になる『誠拙禅師和歌集』を残したほか、漢詩文集『忘路集』二巻、性堂と臨済録中の語にっいて論争した『正法眼』がある。

 霊雲派太原門

 特芳禅傑を祖とする霊雲派下にあって、太原崇孚を派祖とするのが太原門である。大隆寺(宇和島市野川、妙心寺派)は、もと正眼院といい、宇和島藩侯富田信濃守知信が、慶長一三年(一六〇八)ごろ、父信広の菩提を弔うため創建し、太原門の大室祖丘を迎えて開山とした。慶長一九年伊達秀宗入封後、寛政六年(一七九四)五代藩主村侯の廟所となって以後藩主の菩提所となり、村候七回忌にあたり大隆寺に改めた。境内には初代秀宗夫人、五代村候、七代宗紀、九代宗徳の墓がある。宇和島藩寺院の触頭をつとめた大寺である。この寺の一六世晦巌(一七九八~一八七二)は、譚は道廓、万休と号した。宇和島藩士田中安兵衛の子、一〇歳宇和島選仏寺に入り、一八歳博多の仙崖に学んだあと鎌倉円覚寺の誠拙に従ったが、誠拙が老年のため代わって清蔭・淡海の教えを受け、淡海に印記を受けた。大隆寺に帰住して伊達宗紀の帰信を得、ついで藩主宗城を助け公卿・諸藩主との間を往復して国事に奔走した。著作に『訓諭宝海』・『楞厳吐哉抄』 (未完)があり、晦巌日記も有名である。ついで一七代韜谷(一八一二~一八八六)は讃岐国高松の人、藩士小西七兵衛の二男、幼少にして仏門に入り、長じて武蔵園宝林寺伽陵について禅を修め、二四歳大隆寺晦巌に師事、安政二年晦巌退隠のあとこの寺に嗣席、晦巌を助けて国事に尽くした。遺著に『止啼金』のほか自鏡録(日記)、詩文集がある。
の建立であることは確かであるが、歯長寺縁起にみえる大光寺をその前身とし、元徳二年(一三三〇)の再興とする説は確かでない。万治元年(一六五八)吉田藩主伊達宗純によって再興、開山は太易(~一六八三)である。伊達家の菩提寺であるとともに、延宝三年(一六七五)領内寺院の僧録となり、末寺二三か寺をもつ大寺であった。太易、譚は道先、松山の人、宇和島大隆寺に投じ、節巌道円に印記を得、妙心第一座の位を受け、やがて大乗寺の開創に尽くした。
 選仏寺(宇和島市丸穂、妙心寺派)はもと法燈派寺院、宇和島藩主富田信濃守の招きで一二代愚叔(~一六二九)が中興開山。四世達道宗黙は大隆寺四世節巌の弟子で大乗寺太易の法弟、専門道場を開いて寺門が栄え、中本山の寺格をもっていた。
 太原門の僧が再興して妙心寺派になった名刹としては他に光教寺(宇和町)・松原寺(松野町)・来応寺(宇和島市)などがあり、ほかにも太原派の寺は多く、すべて旧宇和郡に集中している。

 聖沢派大雅門

 聖沢派の祖東陽英朝の弟子大雅たん匡がこの門の派祖であり、この門から盤珪永琢が出た。盤珪(一六二二~一六九三)は、播州揖西郡浜田村(姫路市網干区浜田)の菅氏、父竹庵は医師で儒者、その三男である。一七歳随応寺雲甫祥公について得度、慶安三年(一六五〇)二九歳、長崎崇福寺で明僧超元に師事して大いに悟るところあり、翌年辞して吉野山に籠居したあと諸所を遊歴、明暦元年(一六五五)三四歳、江戸においてはじめて大洲侯加藤泰興に謁見、これよりさきすでに知己を得ていた平戸松浦侯の紹介によるものとみられる。三五歳、泰興の帰国に先立って大洲に至り、加藤家の菩提寺曹渓院に入り、およそ半年肱川の清流にのぞむ「水手の櫓」に過ごして播州へ帰った。三六歳春、再度大洲を訪れた盤珪は、城南椎の森に新しく用意された遍照庵に入り、秋に帰郷するまできびしく弟子を鍛えた。四〇歳、郷里に龍門寺を建立して本拠とし、諸国を遊歴のあと、四八歳春大洲に至り、冨土山に創建された如法寺の開山になった。冬龍門寺に帰っていて、翌年如法寺の釈迦堂(禅堂)落慶に法要を営んでいる。ちなみに、現在の釈迦堂には、本尊釈迦如来の左側に月窓(泰興)像、右側に盤珪像を祀ってあるが、盤珪像は、遷化後弟子たちが彫刻、頭部は盤珪の骨灰を固めて作り、それに生前剃りおいた髪髯を植え込んだものであるという。なお、この年本堂上方に奥旨軒を建て、その前方に関を設けてみだりに入るを許さず、藩侯でさえもここより中へは入れなかったという。看話禅を排し、古則にのっとってひたすら坐禅する盤珪禅の面目躍如たるものがある。盤珪は翌年初夏までここに籠り、五月龍門寺に帰り、冬にはまた如法寺に来て、閉開して奥旨軒に籠り、翌年大洲を去ったが、秋にはまた大洲にあり、翌年春まで滞在、それより五五歳の正月に来るまでおよそ三年間姿を見せなかった。五六歳の六月大洲に来だのは、泰興の側室慈光院の三周忌と、如法寺に観音堂と地蔵堂の落慶法要を営むためであって、八月には龍門寺に帰った。ところが、一二月には泰興の卒去の報があったにもかかわらず、病臥中のため葬儀に参ずることができず、病いえて翌年春百か日忌を修して夏まで滞在した。その後如法寺に来錫したのは、延宝八年(一六八〇)五五歳の冬の結制、翌天和元年六〇歳の冬の結制と月窓公七回忌、貞享三年六五歳の冬の結制、元禄二年六八歳の月窓公一三回忌(ただし繰り上げ)の四回で、元禄六年(一六九三)九月龍門寺で示寂、七二歳であった。この間にすでに六〇歳の天和元年、如法寺は二世潜岳祖竜が嗣席していた(藤本槌重『盤珪国師の研究』)。
 右には大洲との関係についてだけ記して他は省略したので具体的なことはわからないが、盤珪が創建または再興した寺は、五〇余所(『紀年略録』)とも凡六〇所(『行業曲記』)、四七所(『行業記』)ともあり、勧請開山となったものは一五〇か寺ほど、あわすとおよそ二〇〇か寺になるという。うち、伊予の寺院数がどれだけになるか正確にはわからないが、『大洲秘録』には如法寺末として二四か寺が記されており、大洲・喜多地方に集中している。
 つぎに教化を受けた人については、「手度の弟子四百余員」、「法譚を受けて弟子の札を執る者、上は侯伯宰官より下士女民隷に至るまで五万余千人」(原漢文、『行業記』)とある。すなわち、仏門にある弟子は四〇〇人余、俗人の信者が五万人余という驚くべき数である。また、法嗣中如法寺に関係のある者のうち、如法寺二世として嗣席した潜岳祖竜は師に先立って示寂したため法系を残さず、三世圭堂祖心、四世節外祖貞の法系が栄えたが、伊予では節外祖貞の法系にあるものがほとんどである。伊予における俗弟子の数の中には、上は泰興・泰義・泰恒三代の藩公から、女性を差別することなく庶民が平等に含まれていた。
 教化は主に説法によって行われた。その回数はおびただしい数にのぼっただろうが、それが聞き書きとして残っているのは晩年元禄三年(六九歳)のもののみで、讃岐国九亀宝津寺で八月二三日より九月二日までの五回、九月五日からの龍門寺大結制の説法である。このうち九亀宝津寺の分の一部を愛媛県史『資料編学問・宗教』に「盤珪禅師説法」として収録したので、これによって如法寺における説法の模様と盤珪の思想の一端に触れてみたい。
 二六日朝の説法で如法寺における説法の模様を話しているのが興味深い。伊予の大洲にも庵があって大かた毎日行き、しばらく逗留して話をするが、大洲の庵は宝津寺のと違って大きい堂である。おびただしい参詣があって、女ばかりがはいる堂、男ばかりがはいる堂もある。座奉行というのが四人いて、女の堂に二人、男の堂に二人と分かれ、参詣の衆がせり合わぬように警固し、人々は行儀正しく神妙に聴聞をしている。大略このように述べていて、説法の盛況が手にとるようにわかる。つぎに説法の内容であるが、無学の者にわからせる必要から、必ず具体例を話すのが常套手段である。この日の説法で話した例話は如法寺であった事実で、これまた極めて興味深い。大洲から二里ばかりの在へ大洲の娘が縁付き、男の子が生まれたけれども、姑もあって夫婦仲が悪く、ある日けんかのあげく家を出て大洲へ帰ったところ、如法寺へ説法を聞きに来る参詣人たちに出会い、その群れにまじって説法を聞いた。説法が終わっての帰途、親元の隣人に語って言うには、今日の説法はみな私の身の上のことでございました、恥ずかしいことです。今日夫の家を出だのはみな私が悪かったからです。今日のお説法でよくわかりましたから、夫のもとへ帰ります。そして、このありかたいお説法を夫や姑にも話しますと。これを聞いた人々はこの女の奇特なのに感心したと、あとで盤珪は聞かされた。その後の説法の機会に、この女は姑と夫を誘って三人連れで聴聞に来た。
 さて、盤珪の禅は不生禅といわれる。また、公案によって悟りを得ようとする看話禅を排し、いたずらに眼を外界に向けることなく、自己の心をそのままつかむことを教える直指禅であり、そのことをきわめて平易に話して聞かせる平話禅であるともいわれる。この不生禅というのは直指禅というのに同じ。仏教では、一切の存在は縁起によるもので実体がない、存在のそのようなありようを表現して空という。実体として捉えられたものは、つくられ、生まれたものであるから、こわれ、死滅してしまうが、存在の本質は不生であるから不滅である。不生はまた無生であり、このような根本義を無生の理ともいう。問題はそれを文盲の庶民にどう理解させるかということである。盤珪は具体的な例をあげて極めて平明に話して聞かす。こうして説法を聴聞する間、外では、大や鳥が鳴いている。だれでもそれを聞いてあれは犬の鳴き声、これは鳥の鳴き声と知ることができる。見ようの、聞こうのと思わないでもそのことがわかる。それがわかるようなものを備えている。人々のもつ仏心はそのようなものである。それは「面々に備はりたる仏心」で、自分でつくったとか、学び取ったとかいうものではない、不生である。不生であるから不滅である。盤珪は「不滅とはいひませぬ」という、それは、「不生といへば、不滅とはいはいでも知れた事」だからである。人はすべて仏心を備えており、その仏心は不生で霊明なること鏡のようなものである。「その仏心の有ることを、御存知なき所より、何れも迷うてござる」、それは「我身に贔屓のある故でござる」。我欲・我執があるから、怒ったり憎んだりねたんだりして流転する。不生の仏心を自覚すれば、今直ちに未来永劫の活如来になることができ、それが涅槃ということにほかならない。このことを合点すれば今日より活仏である。「この度仏になりませねば、万劫仏にはなられませぬ」と、ただ今における自覚を促す。
 また、これに付随して仏心は平等なることを教える。二五日朝の説法の中で、女の仏心について、「仏心は平等なものでござって、少しも男女の隔てはござらぬ」と教える。「一味平等の仏心」という。ここでもまた具体的な説話がみられる。備中庭瀬のある女が、自分には実子がない、子のない女は仏に成らぬと申します、どうした因果で女に生まれたことぞ嘆いた。盤珪は、達磨以来われわれ仏者は子を持だないから地獄へ行っただろうかと反問して話をした。また、ある盲目の女が、五体不具では成仏しないと聞きます、ご覧のように私は盲目で、仏像を拝むこともできません。まことに人に生まれたかいもありませんと嘆いた。盤珪は、不生の仏心には具・不具の差別はない、盲目でも生まれつきの仏心には少しもかわりがないと説いて聞かせる。さらに、網干にも一人の督女があって、同じように悩んでいたのでよく言い聞かせたところ、よく合点して、かえって目が見えなくなって世間の善悪を見ないものだから執着の念も生ぜず、不生の理かわかりますのも盲目ゆえと思うと言ったと話す。
 こうした不生の仏心の理は、空海の「即身成仏」、道元の「即身即仏」と同じことであり、郷土の先覚についていえば、一遍の「刻々念仏刻々往生」、また、月庵が平易な法話で説いた「即心是仏」というのにひとしい。特に、室町時代という早い時代に平易な仮名法話で説いた月庵と、江戸時代に平易な説法で仏心の自覚を促した盤珪とに一連の脈絡がある。さらに仏心の平等を説いた盤珪の心は、浄・不浄を問わず、念仏を唱えればだれでも往生することができると説いて、人々の心を捉えた一遍の願いに通じる。
 如法寺(大洲市柚木、妙心寺派)は、加藤泰興が、寛文九年二六六九)、盤珪を開山として創建、つぎっぎと諸堂を開設した当時のままに、釈迦堂(禅堂)・地蔵堂・観音堂・奥旨軒が残る。加藤家墓地には、二~五代、七代、九代、一二代藩公の墓がそこここに並んで、実に偉観であり、末寺遍照庵(現廃寺)の三世兀庵素徴により、盤珪示寂後一〇六年目にあたる寛政一〇年(一七九八)に書かれた『冨土山志』二〇巻がよく昔を語っている。