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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

五 凝然と鎌倉旧仏教

 凝然は、延応二年(一二四〇)三月六日、越智郡高橋郷の越智弥太郎の子として生まれた。その出自と修学については愛媛県史『古代Ⅱ・中世』を参照されたい。

 八宗兼学

 建長七年(一二五五)、一六歳、凝然は叡山に上って菩薩戒を受けたことは、その幾つかの著作の奥書の記述によってわかるのであるが、七九歳のとき完成した『梵網戒本疏日珠鈔』巻四一に「通受六十歳、不共菩薩戒叡山繭次六十四廻」とあるところなどから逆算してみるとわかる。ところが、天台戒壇の設立以来年を経ていたにもかかわらず、一般に南都仏教への志向の風がまだ存続していたのか、あるいは学問をめざす凝然にとっては奈良でなければならなかったのか、翌建長八年の秋ごろまでには、東大寺戒壇院主円照のもとに投じており、正嘉元年(一二五七)には登壇して「沙弥戒」を受け、さらに同三年(二〇歳)には「通受戒」(具足戒)を受けた。こうして、凝然は一人前の僧になったわけである。
 ところで、凝然の投じた奈良の仏教には、三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の六宗があって奈良六宗といわれ、のち平安時代に成立した天台・真言の二宗を加えて八宗があった。いずれも「宗」と呼ばれてはいるが、今日の宗派とは異なり、法相業・華厳業・天台業というように、むしろ学業であり、しかもいずれの学を修めるにしろ律学は必修であり、その上幾つもの学業を兼修するのが普通であった。寺は学問寺で、たまたまその寺に三論業に秀でた僧が止住していれば三論の寺とみられるというだけのことであった。凝然は自らを「華厳兼律金剛欣浄三経学士沙門凝然」(維摩経菴羅記)と記しているが、聖徳太子の三経義疏を志す者という意味の「三経学土」というのは別にして、金剛は密教、欣浄は浄土教を意味するから、華厳と律を主とし、真言と浄土を兼修する僧という自覚を示している。これらにとどまらず、凝然の兼学は平安二宗を加えた八宗にわたり、さらに鎌倉新仏教として成立しつっあった浄土と禅の二宗にまで及んだ。
 凝然は、東大寺戒壇院の寮に寄宿、主として師円照から華厳と律を学んだ。その東大寺は、八宗兼学の仏教総合大学ともいうべき寺で、中国や朝鮮から伝来の経典や釈書を多く集めていたから、学問を志す凝然にとっては好都合であった。また、師円照は、正嘉二年ごろから示寂の十九年間、洛北鷲尾山金山院にも止住し、戒壇院との間を経回していたから、師に従って京都で学ぶ機会が多かった。凝然にとって、円照にっぐ第二の師は宗性であった。凝然は、一〇二代東大寺別当となった宗性から華厳を学び、華厳の相伝上は、第一九代宗性、第二一代凝然となっているほどである。
 弘長元年(一二六一)、凝然二二歳、上洛して禅道を学んだといわれるが、具体的にはほとんどわかっていない。ただ特筆すべきは、この年の七月、洛北九品寺の長西から中国善導の観経疏の講義を聴いたことである。長西は法然門の浄土教僧であったが、道元にも禅を学んでいるから、いわば浄禅一致の学僧である。禅もこの師から学んだかも知れないが、長西の多くの弟子と共に『浄土伝統総系譜』の中に凝然の名も見えるから、明らかに浄土の法統を継承する者の中に入れられていたことがわかる。さらに、凝然の八宗兼学は真言にも及んだ。弘長三年(二四歳)から文永四年(二八歳)にかけて、木幡の真空に学んだのがそれである。真空は、初め東大寺東南院で三論を学び、のち密教を醍醐理性院の行厳に受け、良遍らと共に覚盛の戒律復興運動を助け、木幡の観音院に止住して文永五年に示寂しており、その最晩年、死の直前まで凝然はこれに師事したわけである。特に十住心論について詳しく学んだ結果は、のちの『十住心論義批』に結実している。
 こうした八宗兼学の成果をいちはやくまとめたのが『八宗綱要』である。ところが、これに先立つ九年前の正元元年(一二五九)ごろ、この前身ともいうべき『内典塵露章』を撰述している。正元元年というと、具足戒を受けた年であるから、学業が大いに進み、すでに当時存在した各宗のあらましに通じていたことに驚きを感じさせる。その前文によると、「大日本国に仏法が弘通して以来久しく、八宗に分かれて発達している。今、いちいちの宗教については義理を尽くしがたいので、精要だけをあげる。塵露の同じものもあり、宗ごとに微塵を拾っていくと、門について共に繊露の滴りがあるので塵露章と名づけた」(原漢文)と言っており、内容は、奈良六宗、平安二宗のほかに禅と浄土を加えた一〇〇宗について、それぞれの伝承や教義などを述べた短章であり、のちの八宗綱要の草稿のようなものである。
 文永五年(一二六八)一月二九日、折から帰郷中の凝然は、近見山円明寺の塔頭西谷房で『八宗綱要』二巻の撰述を終わった。奈良六宗と平安二宗のあわせて八宗に鎌倉新仏教中の浄土と禅を付加し、それぞれの成立と教義の大要を述べている。二九歳になったばかりの青年僧の著作であり、その序文には謙虚な言葉が見えるけれども、この書は、わが国における仏教教学に関する体系的な書物の先駆であり、日本仏教の概論書・入門書として古来尊重され、広く普及した名著である。

 業績

 建治三年(一二七七)、師円照が洛東金山院で示寂、凝然が戒壇院に嗣席して院主となる、時に三八歳。
戒壇院の歴史は、もちろん唐僧鑑真に始まる。天平勝宝六年(七五四)、盧舎那仏の前に土を盛って戒壇をつくり、聖武天皇以下、戒を受ける者四三〇余名に及んだ。大仏殿西方の地に戒壇院が造立されたのは同七年九月で、同一〇月一五日、鑑真が戒師となり、伝来の法式によって授戒が行われ、わが国における授戒の制度が確立した。その後、天平宝字五年(七六一)、下野国薬師寺と筑紫国観世音寺にも戒壇が設けられたが、東国の戒壇は早く廃絶、鎌倉時代には、東大寺の戒壇と西国の戒壇がともかく授戒を行なっていた。これより早く、天台の大乗戒壇が設立され、また、私度僧の増したこともあり、平安中期以後の奈良仏教一般の衰退のうちに、鎌倉初期にかけて、南都戒壇は荒廃し、律学は衰えてしまっていた。さらに大きな打撃となったのは平重衡の兵火による焼失であったが、源頼朝による東大寺復興により、建久八年(一一九七)には戒壇院も竣工し、その後、蓮実じ行勇・良詮、そして凝然の師円照によって諸施設が整い、戒壇院の造営はすべて終わっていた。
 これよりさき、中ノ川実範(興福寺出身の法相宗学匠)は、創設した中ノ川成身院で律学を講じ、その系統の貞慶とその弟子覚心・戒如、興福寺の松春らによって律学の復興が図られたが、法相の覚盛によって唐招提寺が興され、その門から良遍・円照などを輩出、一方、真言の叡尊によって西大寺が再興されると、唐招提寺・東大寺戒壇院とあわせて南都における律学は完全に復興した。こうした戒律を中心とした鎌倉旧仏教の再興の中で、最初に戒壇院の復興を志した蓮実の招請によって円照が戒壇院に入り、これを助けた凝然が再興第二祖として戒壇院主となると、南都における律学と戒壇は完全に復興した。凝然が戒壇院に嗣席したのが三八歳、そして八二歳で示寂するまでの実に四四年間その席にあった。
 凝然の実践的な業績はこれに尽きるが、学僧としての大業績は枚挙しがたい。その中心は律学と華厳学にあり、律学においては、『梵網戒本疏日珠鈔』五〇巻、『四分戒本疏賛宗記』二〇巻、『律宗瓊鑑章』六〇巻など、華厳学については、『華厳探玄記洞幽紗』 二一〇巻、華厳『華厳五教章通略記』五二巻などの大著がある。その他、法相宗や声明に関するものなどその研究の幅は広く深い。また、浄土教に関する諸書のうち『浄土源流章』一巻は特に注目すべきものであり、密教に関しては、『十住心論義批』に蘊蓄の深さが伺える。
 凝然の教学において注目されるものに聖徳太子の三経義疏研究がある。示寂の前年、八一歳のときに書かれた『維摩経疏菴羅記』巻一の奥書によると、二三歳のときから聖徳太子研究に志し、死の前年に及んで右の菴羅記を終功しており、六三歳で始めた『勝髪経疏詳玄記』四〇巻、七三歳以後に成った『法華疏慧光記』六〇巻、そして八一歳に終えた『維摩経疏奄羅記』四〇巻という大著を残した。自ら「三経学士」をもって自認し、三経義疏研究に終始した感がある。
 さらに、凝然の業績として大きいものに仏教史に関する著述がある。右にあげた『内典塵露章』とそれにつづく『八宗綱要』における歴史的記述がまずあげられるし、代表的なものとして『三国仏法伝通縁起』があり、仏教通史としては画期的なものと評価され、明治時代まではこれをしのぐ仏教史書はなかった。そのほか、『浄土法門源流章』のように一宗だけの歴史を探究したもの、『興正菩薩略行状』や『東大寺円照上人行状』のような個人の伝記書、『竹林寺縁起』のような寺の縁起書まであり、凝然は実に偉大な仏教史学者でもあった。
 かくして、示寂の元亨元年(一三二一)八二歳に成った『五十要問答加塵章』二巻の撰述を最後に著作活動を終わるが、生涯にわたる著作はおよそ一二五部、二一〇〇余巻、凝然は絶倫の大著述家、古今未曽有の大学僧であった。

 凝然にゆかりの寺院

 郷土における凝然にゆかりの寺院としてまずあげられるのは近見山円明寺である。さきに記したように、凝然の曽祖父行連の妻の継母と目される妙阿は円明寺念仏堂の本願であり、祖父の弟小千三郎は西谷房といい、円明寺西谷に止住、その子行忍房も、円明寺の塔頭であったこの西谷房に住んでいたかもわからない。その西谷で、文永五年(一二六八)凝然は『八宗綱要』を完成した。当時近見山にあって、天台系の学問寺とみられ、地方きっての大寺であった円明寺は、高橋郷に本拠をもつ豪族越智氏有縁の寺院である上、大叔父の西谷の院は、著作にうってつけの場所だったのであろう。また、弘安八年(一二八五)にも、この円明寺で『華厳五十要問答』の加点を終わっている。この大寺は、三度の兵火に荒廃、その都度近見山西麓に移り、享保一二年(一七二七)現在地に移建した。今の阿方延命寺がそれで、五四番札所であるが、松山市和気の五三番札所円明寺と同名のため、明治になって延命寺に改めたという。この延命寺がもと円明寺であったことは、宝永元年(一七〇四)に造られた梵鐘の銘によってわかる。すなわち、この鐘は、近見山にあった円明寺の一塔頭宝鐘院のものであった。なお、これに「円明密寺」とあるから、当時は密教の寺になっていたことがわかる。
 つぎに、永仁元年(一二九三)一〇月には、道前の久妙寺で『倶舎論頌疏』を書写している。久妙寺(周桑郡丹原町久妙寺、真言宗)は、天平時代の創建でもと法相宗、のち四世円達の時代に弘法大師が留錫して真言宗になったと伝え、嵯峨天皇をはじめ数代の勅願寺ともいい、末寺一二坊を有したというから、地方の大寺であったことがわかる。また、熊野十二所権現・春日大明神などを祀り、福岡八幡宮の別当寺であったことなど、古代から中世にかけての神仏習合の跡をとどめ、凝然の時代にはなお古代以来の学問寺の性格も残っていたとみられる。また、永仁四年(一二九六)には、久米郡清水寺で『華厳心要義』を書写したとあるが、残念ながらいまその寺がどこにあったか不明である。
 以上は、凝然の著作の奥書きに記すところによったものであるが、ほかに、幸いなことに、東大寺図書館に現存する著作の紙背文書にもなお幾つかの郷土関連の記録がある。紙の少ない時代であるにもかかわらず、あれだけ多くの著作をするには、その入手に困ったことであろう。だから、著作の多くは、書簡やその下書きの裏を利用して書かれた。したがって、ここで著作の紙背文書というのは、そうした紙に書かれている文書のことであり、そうした中に、凝然あての書簡、凝然の書簡の下書き、甥で法弟となった禅明房の書簡などがあり、凝然の動静を知ることができる。
 建治二年(一二七六)ごろとみられる正月二一日付け凝然書状につづいて、同月二六日付け凝然あて必蓮書状、同じころ凝然にあてたとみられる某書状があり、これらは伊予に「八十一品道場」が造立されたことを伝えている。八十一品というのは、生死流転する人間の迷いの世界には欲界・色界・無色界の三界があり、さらに分かれて九地となり、それぞれ九品ずっあるからすべてで八十一品、八十一品の煩悩を放下するための修行道場の意味である。あるいは「九品道場」というのと同じもので、浄土教では、念仏行者の罪業・修行、そして往生すべき浄土を九つの階級に分ける。ちなみに、『一遍聖絵』には、建治元年(一二七六)秋伊予で布教した際、「三輩九品の道場」で管絃などの遊びをしているのを戒めて歌をつくったことが図とともに書かれている。この八十一品道場がどこにあったかは必ずしも明らかでないが、「今治津」、「今治八十一品」とか、造立者を「朝倉入道」としているところから、現朝倉村あたりにあったものと推定することはできる(片山才一郎は、「伊予国神社仏閣等免田注進状」に見える「法燈寺」とせられる)。ともあれ、この道場が二月一〇日に開白(落慶)になるので、凝然は帰郷を乞われたのであるが、再三にわたる催促にもかかわらず下向しなかった。
 つぎに、嘉元三年(一三〇五)ならびに徳治三年(一三〇八)ごろとみられる凝然の両書簡は、実甥で法弟の禅明房あてのものであるが、封書の上書きが「小池寺禅明房」あてとなっており、書状の内容から、当時禅明房は伊予に下向していたことがわかるので、この小池寺も越智郡あたりにあったとみられるが、廃絶したのか、今はその跡さえわからない。なお、のちの某書状によると、この小池寺の塔頭寺院に西城寺というのがあったことがわかるが、この跡も不明である。
 さらに、徳治三年(一三〇八)ごろとみられる凝然書状には、佐礼寺・円明寺・繁多寺・竹林寺と、伊予の寺院の名が見える。このうち円明寺については、この書状では、円明寺の禅栄房が他界したので了賢房が下向したというだけのことで、この寺のことについてはさきに記したのでここではこれにとどめる。佐礼寺は、佐礼山仙遊寺(越智郡玉川町別所、五八番札所、真言宗)のことで、天智天皇勅願、越智守興開基と伝え、この地方では有数の古寺であり、この書状では、佐礼寺の楼門が完成してその供養に招かれたが、老骨のうえ(当時凝然は六六歳であった)寒期のため堪えがたいからと辞退している。つぎに、竹林寺については、「竹林寺借用途ハ皆返済」とあるだけで、越智郡朝倉村古谷に竹林寺(現真言宗、白鳳年間開創、開山観量、三論宗、のち弘仁三年観光が弘法大師に帰信して真言に改宗と伝える)があるものの、凝然に深いゆかりの寺に大和生駒の竹林寺があるから、必ずしもここと断定できない。
 最後に、繁多寺についてこの書状では、「繁多寺大工替させ給候へ」とあり、この書状は一一月一一日付けのもので、これよりさきとみられる書状では、二月中旬以後のこととみられるが、「繁多寺長老見参のため今日上洛」とか、「寺外旧宅焼失承候」(いずれも原漢文)とあり、焼けたのは寺外の旧宅で、その後の書状で大工をお替えになってはと言い、つづいて同月二七日の書状でも同じようなことを書いている。そして、これら書状との前後はたしかでないが、両者の中間になる書状では、「一日繁多寺大工童子下向候」とある。寺外の旧宅の復興になぜ凝然が世話をしなければならないのか全くわからないが、いずれにしろ、凝然と繁多寺の深い関係を窺わせる。なお、後の文保二年(一三一八)とみられる僧照聖の書状に、繁多寺興乗を紹介して、「此僧学文之志候」と言っているものもある。
 ところで、東山瑠璃光院繁多寺(松山市畑寺、真言宗豊山派、五〇番札所)は、明治初期まで真言律宗で、京都東山泉涌寺の末寺であった。泉涌寺は、古く空海創建と伝える法輪院が、のち天台宗仙遊寺として再興していたのを、建保六年(一二一八)宋から帰朝した俊じょうが再建して泉涌寺とし、台・密・禅・律兼学の道場となった。この寺を中心にした天台系の律学は、鑑真以来戒壇院を中心にした南京律に対し北京律と言われていた。そこで、凝然と泉涌寺の関係であるが、それは師円照の導きの結果にほかならない。すなわち、凝然が戒壇院の円照門に入っ
た直後の正嘉二年(一二五八)、京都三聖寺の浄因が戒壇院に招かれ、半年間にわたって戒疏が講ぜられ、凝然は浄因に近侍して給仕役を務めた。この浄因はもと泉涌寺の首座であった人であるから、円照によって浄因が招かれたということは、南京律と北京律の融合を図ろうとするもので、かつて天台大乗戒壇設立の際の抗争からは思いもよらないことである。このことについて凝然は、これより以来、南北律宗は和通して不二となり、これといった異儀(議)もなくなったと言っている。また、文応元年(一二六〇)、円照によって泉涌寺の円珠が招かれ、律鈔と真言の菩提心論が講ぜられた。さらに、文永九年(一二七二)から翌年にかげて師円照の住持する東山金山院に住んだ際、しばしば円珠が招かれ、その講義を受けているが、そのあとをうけて凝然が終講して面目を施している。凝然と泉涌寺のこのような関係から、その末寺である繁多寺との交渉があったものとみられる。
 以上は、凝然関係の文書にみえる伊予の寺院であるが、地元の寺院の縁起の中にも凝然との関係を示すものが幾つかある。現在も真言律宗として鎌倉旧仏教当時以前の遺風を残す国分寺と法華寺は、奈良時代に造立された国分僧寺と尼寺であるから、東大寺戒壇院の院主であった凝然にとって最も関係の深い寺であったことはいうまでもない。しかし、寺伝によると、国分寺は、第五世宥天代の貞観年間(八五九~八七六)すでに西大寺末になっており、のち叡尊が嘉禎元年(一二三五)西大寺に入って律学を興し、弟子忍性は正元元年(一二五九)北条重時の建立した鎌倉極楽寺に入って律宗を弘めていて、国分寺は西大寺末であるとともに極楽寺の支配下に入っていたとみられる。なお、西大寺第二世信空に帰依した後宇多天皇が、建治元年(三七五)詔して諸国の国分寺を西大寺の末寺にしたともいわれる(金光山国分寺)。だから、これらの寺は、凝然の当時戒壇院の支配下にあったわけではない。
 海松山知足院真光寺(今治市東村、真言宗)は、白鳳元年(六七二)、開山道昭、開基越智守興による開創、初め法相宗であったが、のち宇多天皇の勅願により真言京に改宗、鎌倉時代凝然により一時東大寺戒壇院末になったと伝える。また、霊仙山満願寺(越智郡朝倉村、真言宗)は、天平六年(七三四)開山道慈律師開創による三論宗の寺で、奈良大安寺の末寺、のち道慈―勤操―空海という流れの中で真言宗に改宗、さらに凝然により一時東大寺末になったと伝える。