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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 神仏習合

 神仏習合思想の発生は奈良時代にさかのぼる。すなわち、その中期以後、「神は仏法を悦び、仏法を養護する」という思想が生じた、これを第一段階とし、さらに、神も衆生と同じであり、仏法によって苦悩から救われるという考え方になった。前者においては、神は仏を護持するという従属的立場に立ちながらも、なお独立を保つ護法の善神であったが、後者に至っては明らかに従属している。これを具体的にみると、神前で読経を行い、神のために神宮寺が建てられたのがそれで、「自分は重い罪業をなして神の身をうけている、この神身を離れるために三宝に帰依しようと願う」という意味の伊勢国桑名郡多度神宮寺の多度神の言葉は、神身離脱を仏に願う従属的立場である。

 神社の講経会

 神前で読経を行い、あるいは講経会を催すには費用が必要なので、そのために田地が施入された。それは講経供料田と呼ばれ、さきにあげた「伊予国神社仏閣等免田注記」に具体例が載っている。ところで、この免田注記には、講経供料田の前に、「郷々祈田」として、宇万西条三一丁二反六〇歩、北条郷一丁五反半というふうに、宇和郡を除く他の郡郷の祈田の面積をあげ、合計を三一丁二反六〇歩としている。ここに祈田というのは、供養田ともいい、社寺において仏事の費用にあてられる田地のことで、その種類としては、薬師田・地蔵田というように本尊などの仏体を維持するためのもの、寺堂を維持するのに用いられる祠堂田、講経法会の費用にあてられる施餓鬼田・念仏田などの別があるという(三浦章夫『愛媛の仏教史』)。つまり、寺田とは別に、神社や仏閣における仏事にあてられる田地の総称である。その一部にあたる「講経供料田」が別に記されているわけで、古代の中央寺院で行った最勝講・仁王講・法花講などについて詳細に記されている。それによる

 最勝講田 廿丁二反三百歩のうち
惣社宮(国府の近くにあり国司神拝の所)   十三丁八反三百歩
八幡宮(石清水八幡神社玉川町八幡)三丁二反
 三島宮(大山祇神社)     三丁二反

 というように記し、それぞれについて仏供田(講経会の費用にあてる)と請僧(僧を招請する費用にあてる)のための田地の面積を分けてあげている。
以下は簡単に講経供料田の種類と、それを受ける神社名をあげるにとどめる。

八講田(法花八講を行う費用にあてる) 八幡宮と三島宮
仁王講(田) 八幡宮・三島宮・八幡若宮・風伯社(もと西条朔日市村にあり、風神を祭るという)・柑子御宮(不明)・諸山社(不明)・三島別宮(別宮大山積神社、現今治市別宮町)。
法花講(田) 八幡宮・三島宮・同別宮社。
大般若殿(田) 大般若経講田か。八幡宮・三島宮・高賀茂社(現高鴨神社、小松町南川)・八幡比叡社(不明)・三島別宮・柑子御宮。
金剛般若(経)田 高賀茂社・多岐宮(多伎神社、現朝倉村古谷)・乃万宮(野間神社、現今治市神宮)・楠本社(樟本社、現今治市八町)・伊与村社(『愛媛面影』によれば、延喜式内社、現松山市居相町、あるいは松前町伊予神社)・天満宮(綱敷天満宮、現今治市古国分および桜井)・村山社(村山神社、現宇摩郡土居町津根)・諸山社(不明)・三島別宮・礒乃社(伊曽乃神社、現西条市中野)。
三ヶ所塔(田)不明。八幡宮・三島宮・別宮
柑子御不断経(田)不明 (柑子御宮での講経会か)。
臨時田 八幡宮・三島別宮・高賀茂社。
法花(経)田 八幡宮・三島宮・別宮。

 これら神社のうちには延喜式に載る式内社が多く、ほとんど国府に近い神社ばかりである。それはともかく、国府に近い大社に免租となる田地が寄進され、それによって神前で講経会が催されたことを示している。なお、これら講経会は、官によってすすめられ、免田が認められていた。神祇に関する大化改新の遺制が鎌倉時代にも当然存続していたので、国家の安泰と庶民の安穏を祈願することが中心であったと思われる。

 神宮寺

 つぎに、神社において講経が行われ、経文が読誦されるだけでなく、神社に付属する神宮寺が設けら
れた。付属するといっても、僧形の神職である社僧(供僧)が実権をにぎり、神前に読経したのであるから本末はむしろ転倒している。神宮寺は、また、神宮院・神供寺・神護寺・神願寺・宮寺などと言われた。伊勢大社の神宮寺、空海ゆかりの高雄神護寺(和気清麻呂が創建した河内の神願寺を子の真綱がここに移して高雄寺に併合した)などがその例である。神宮寺の最初は、藤原武智麿が霊亀元年(七一五)気比神宮の神宮寺として建立した神願寺で、その後、伊勢神宮寺をはじめ、著名なものでは宇佐神宮寺、鹿島神宮寺などがある。平安時代以後次第に増加し、また地方の諸社に及び、新たに神宮寺を造るか既設の寺院を転用、ほとんどの神社に、神宮寺またはこれに類する名を付けたかどうかは別にして、神宮寺が付設された。したがって、古社にはほとんど神宮寺があったとみてまちがいない。
 伊予の神宮寺についての確実な史料はさきにあげた免田注記で、それによると、三島宮(大山積神社)の神宮寺が代表的なもので、免田四丁二反のうち所司分二丁二反、別当分二丁が認められている。別当というのは、神宮寺の社僧(供僧)につけられた職名で、これとともに、寺についても別当寺という称呼が一般に用いられる。三島宮には、平安時代東円坊など二十四坊があり、のち正治年中(一一九九~一二〇〇)南光坊など八坊を別宮(現在今治市別宮町)に移し、残り十六坊が文亀年間(一五〇一~一五〇三)にあったことは確かだが、江戸時代末期までにすたれ、明治の神仏分離を経て残ったのは東円坊と別宮の南光坊(現四国霊場五五番札所)だけになった。同じく免田注記には高賀茂寺神宮寺(社)が載っており、高鴨神社(現小松町南川)についてはすでに述べたが、その神宮寺のことは不明である。ほど近くに古寺清楽寺があり、なお、この寺に併合された古寺に密厳寺・保安寺があったというから、このあたりが神宮寺であったかも知れない。
 現存する神宮寺には、新居浜市船木神宮寺(真言宗)東予市成福寺神宮寺(真言宗)、東予市北条神護寺(真言宗)、今治市神供寺(真言宗)、宇和島市神宮寺(天台宗)があり、松山市窪野町宮坊(真言宗、同地正八幡神社の神宮寺)や西条市洲之内前神寺(真言宗石鉄派、石鉄権現の神宮寺)なども寺名から神宮寺であることが推察される。このうち、東予市成福寺の神宮寺は、神亀・天平のころ、聖武天皇の勅願により、行基の弟子円覚律師を開山とし、越智玉興・玉澄父子による建立と伝える古寺で、勅願というのは、道前地方における神社に経典を読誦し、法を修して奉賽をささげ、神祇の威光を増して庶民の攘災招福を祈るためであったという(神宮寺略縁起)。また、今治市神供寺は元亀三年(一五七二)の開創、古社大浜八幡宮の神宮寺、宇和島市神宮寺は、伊達秀宗入封後の建立、城内にあった日吉神社の神宮寺であった。
 神宮寺という呼称でない寺院で古社の別当寺と伝えられる寺院は多い。新居浜市大島吉祥寺(単立)の前身は神宮寺で、貞観年間(八五九~八七六)、大島八幡宮の別当寺であったと伝え、同じく黒島明正寺(単立)はもと西法寺、式内黒島神社の神宮寺として神亀五年(七二八)創建という。また、今治市東禅寺(真言宗)は、推古代越智益躬開基、河野通信を祀る寺であるが、境内に隣りする鴨部社の祭神は越智益躬である。さらに、北条市高田光徳院(真言宗)は、嘉元元年(一三〇三)創建、密護山護持院神護寺と称して国津比古命神社(式内社)の別当寺、道後宝厳寺(時宗)は古くは伊佐爾波神社(式内社)の別当寺、松前町晴光院は、伊予神社(式内社)の別当寺として大同二年(八〇七)建立と伝える。ほかにもこのような例は多い。
 神宮寺は、本来の名称またはそれに近いものを残すものはわずかで、多くは別当寺と称される。右には延喜式に載せる名神の別当寺とみられるものを中心にあげたが、これまでにあげたもののほか、別当寺であることが知られているものをあげると、新居浜市宗像寺(真言宗)、は承和一一年、(八四四)創建と伝え、のち宗像神社の別当寺、西条市金剛院(真言宗)は、保元年間(一一五六~一一五八)創建、賀茂神社別当寺、丹原町浄明寺(真言宗)は、もと道場寺・道満寺といって貞観二年(八六〇)創建、綾延神社別当寺、朝倉村竹林寺(真言宗)は、白鳳時代開創と伝え、玉川町光林寺とともに多岐神社の別当寺、伊予市常願寺(真言宗)は、寛文一三年(一六七三)創建で、谷上山宝珠寺の末寺として伊予稲荷神社の別当寺、小田町宝蔵寺(曹洞宗)は、和銅四年(七一一)開創と伝え、のち天喜元年(一〇五六)この地に勧請された三島宮の別当寺、三間白業寺(臨済宗)は、創建は古く、天平一〇年(七三八)に勧請された三島神社の別当寺と伝えられる、などがあげられる。
 神仏習合の顕著な例は、四国霊場の中に求めることができる。文化八年の『四国八十八ケ所順拝心得書』から拾ってみると、一三番一ノ宮(現大日寺)、三〇番一ノ宮(善楽寺)、三七番五社(岩本寺)、四一番稲荷社(龍光寺)、五五番別宮(南光坊)、六四番里前神寺(前神寺)、六八番琴引八幡宮(神惠院)、八三番一ノ宮(一宮寺)と、かつては神社名を札所名とし、明治の神仏分離で括孤内の寺名に改めたが、なお前神寺・一宮寺と名残りをとどめている。このうち伊予の三か寺中南光坊と前神寺についてはさきに述べたので、龍光寺についてみると、寺伝では、大同二年(八〇七)弘法大師留錫して建立、現在は十一面観音を本尊として真言宗古義派寺院であるが、旧本堂は稲荷社で稲荷明神を祀った。神仏分離後も本堂内に稲荷明神を祀っている。なお、五七番札所栄福寺は、石清水八幡宮の別当となるまで、古くは八幡宮と呼ばれ、四〇番札所観自在寺の末寺篠山観世音寺は篠山権現と習合した寺であったことが知られている。

 護法神

 平安時代、右のように神宮寺の建立が一般化したが、逆に、寺院の境内に鎮守としての護法神を祀った。たとえば、中央において、興福寺におげる春日社は、興福寺が神宮寺として建てられたのではなく、興福寺の鎮守として建立されたものであり、同様なもので有名なものに、東大寺・大安寺・神護寺における八幡神、延暦寺における日吉山王神、金剛峰寺における天野神・高野明神、那智青巌渡寺における熊野権現などがある。神宮寺は、表面上は神社に主体性があるように見えるけれども、実体は寺院が実権を持って優位にあり、これは、もちろん寺院に主体があって境内に小社が祀られるのが普通である。
 それは、一般にささやかな境内神として祀られるから、あまり知られないのが普通であるが、たとえば伊予における加茂神社の荘園であった菊間町遍照院には、応永六年(一三九九)鎮守として加茂神社が勧請された。松山石手寺には、河野通有によって弘安二年(一二七九)に勧請された三島神社があるが、これは石手寺の守護神とみるべきものであろう。さらに遡ると、石手寺には、和銅五年開創時に白山権現を勧請したという伝えがあり、くだって寛平四年(八九二)安養寺を石手寺に改称する際、熊野権現を勧請して熊野山と号したという。本来石手寺の本尊は薬師如来とされているのであるから、熊野権現は境内の鎮守であるはずのところ、江戸時代の八十八か所関係その他の古図を見る限り、熊野十二所権現が本尊で薬師如来は脇の堂に祀られており、これが元に復したのは明治の神仏分離以来のことである。なお、一般の寺院で境内神を祀る所は多いだろうが、著名な伊予の八十八か所について、境内の諸堂を本文と図で示した『四国遍礼霊場記』(元禄二年=一六八九)と『四国八十八か所名所図会』(寛政一二年=一八〇〇写)によって見ると、右の石手寺に祀ったのと同じ白山権現を祀ったものに岩屋寺(一遍聖絵にも)、白山権現とともに全国的に広く勧請していることで知られている蔵王権現(吉野金峰山)を勧請したものに前神寺と横峰寺、石手寺と同様熊野権現を祀った寺に仏木寺・明石寺・八坂寺・繁多寺がある。このうち、明石寺と石手寺には今も熊野十二所権現の小祠があり、八坂寺は石手寺と同様山号を熊野山と言い、熊野権現の本地仏である阿弥陀如来を祀る。また、他にも、大宝寺は三島神、栄福寺は金毘羅社を勧請して境内社としている。なお、一般に熊野権現は、一遍が熊野で成道したとされるところから、時宗の寺院では守護神として境内に祠を祀るので、宝厳寺や願成寺にもあったであろうが、今は跡をとどめない。

 本地垂述

 右にあげた白山・蔵王(伊予では石鎚に蔵王を勧請した意味で石鎚蔵王権現といわれる)・熊野などでいう権現というのは、本地仏が仮の姿に現れたという意味で、本地垂迹思想を単的に示している。権現と号されるものは、このほかにも多くあるが、金毘羅権現は伊予にも関係が深い。これらの中で本地仏を仏教本来の仏とするのは熊野権現で、本地を阿弥陀如来とする。権現には、本地とする仏よりも一等位の低い菩薩号ぶつけられ、八幡神は八幡菩薩と言われる。菩薩号を最初に付与されたのは宇佐八幡で、延暦二年(七八三)のことであるが、浄土教が盛んになるにつれてその本地は阿弥陀如来とされるようになった。神が菩薩と信ぜられることは、さきの段階で神も衆生と同様仏によって救済されるという思想に比べると一段地位が向上したわけであるが、やはり下位にあることは同じである。右の白山権現・(加賀白山)・蔵王権現(吉野金峯山)・石鎚蔵王権現はいうまでもなく修験の神であり、熊野権現と同様である。修験道が山岳崇拝という原始信仰と仏教の習合したものであるように、他にも多い一般の権現信仰も、仏教、特に密教の呪術的要素を取入れ、民族国有の神祇崇拝に習合したものであって、中世を通じて支配的となり、近世まで根強く存続した。密教が神仏習合の推進力となったわけである。密教にも天台系と真言系があるが、それを神道について言えば、天台密教系のものは山王一実神道であり、真言系のものは両部習合神道である。また、これを修験道について言えば、天台密教系のものは本山派(聖護院流)、真言密教系のものは当山派(三宝院流)となる。伊予における修験道は、これらに重複して石鎚修験道が行なわれ、東予においては新居浜大生院正法寺(真言宗)と前神寺(真言宗)および横峰寺、(真言宗)、それに西条大保木極楽寺(石鎚真言宗)、中予においては松山久谷八坂寺(真言宗)が山伏の中心寺となり、これらが真言系修験であるのに対し、南予では明石寺(天台宗)が天台系修験の中心になった。
 金毘羅権現を勧請した寺院で著名なものが伊予にいくつかある。朝倉村満願寺(真言宗)は天平六年(七三四)道慈律師を開山とする古寺であるが、慶長年中(一五九六~一六一四)に守護神として金毘羅権現を勧請して金毘羅宮満願寺と改称、江戸時代を通じて繁栄、今日でも満願寺としてよりも金毘羅宮として名が通っている。また、重信町上村護国寺(真言宗)も同様に金毘羅寺として知られており、天安二年(八五八)醍醐寺理源の開創と伝えるから、もとの本尊は別であったろうが、今は金毘羅大権現を本尊とするといい、現在は衰微の傾向にある。砥部町理正院(真言宗)は、理正院有喜寺であるが、院号の方で通っており、さらに金毘羅寺として有名である。大同二年(八〇七)空海留錫に際し越智実勝が造営したと伝え、文治三年(一一八七)河野通信・通俊父子が金毘羅宮を勧請したといい、藤堂高虎および大洲加藤侯の尊崇と外護を受けて繁栄した。この金毘羅社の場合は、当地方一帯の寺院の守護神であったということで、広範囲にわたる信者をもっていた。
 本地仏を阿弥陀如来とするものに熊野権現と八幡菩薩がある。熊野権現については後に述べる機会がある。八幡神は応神天皇を主神とする複数の神の総称で、宇佐八幡を本社に、弓矢の守護神として特に武士の尊崇を受けたが、宇佐と石清水にみられるように皇室の崇敬を受け、また、その本地が阿弥陀如来とされるところから、念仏僧を中心に庶民の信仰も厚かった。宇佐八幡は欽明天皇ごろ(五五二~五七〇)の創祀と伝え、応仁天皇を主神として八幡宮の本社であるが、別に祭神を彦穂々出見尊と豊玉比売命とし、のちに仲哀・神功皇后・応神を合祀したとして宇佐八幡と八幡の本家争いをした正八幡(鹿児島神宮)があることを付記しておく。この宇佐八幡を貞観二年(八六〇)に勧請したのが石清水八幡宮(京都府八幡市)、この石清水八幡に祈請して松平定長が寛文七年(一六六七)に再建したのが道後伊佐爾波神社である。県下には八幡神社は多く、八幡神と習合した寺院もかなりあろうが、著名なものは玉川町八幡の石清水八幡神社で、貞観元年(八五九)越智益躬による勧請、もと勝岡にあって勝岡八幡、のち永承年中(一〇四六~一〇五二)国司源頼義により現在地に移建と伝える。付近には式内社伊加奈志神社があり、その別当寺能寂寺(浄寂寺)によりこの神社も支配されたが、次第に伊加奈志神社をしのいで民衆の信仰を集め、その別当寺も栄福寺にかわった。五七番札所栄福寺は、札所として江戸時代中期ごろまでは八幡宮と呼ばれ、石清水八幡神社を本堂としていたほどである。
 本地垂迹説は、平安時代末期にはじまり、ほぼ中世を通じて宗教思想を支配したが、下位に置かれた神社や神道の側に異論がなかったわけではなく、北畠親房の神皇正統記に見る神道論がこれを代表している。