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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

三 近世神道思想の系譜

 儒家神道の展開

 近世に入ると、儒学の興隆に呼応して神道の儒教的解釈が試みられるようになり、林羅山や熊沢蕃山らの学風に示されてくる。しかし、これを明確な神道説として組み立てたのは、山崎闇斎(一六一八~八二)であった。闇斎は通称を嘉右衛門と称し、初め仏門に入ったが、土佐の谷時中に朱子学を学び儒学に転じた。さらに寛文九年(一六六九)度会延佳に伊勢神道の伝授を、同一一年には吉川惟足から吉田神道の伝授を受けて、伊勢神道の教典である『倭姫命世記』の一節「神垂は祈祷を以て先と為し、冥加は正直を以て本と為す」より「垂加霊社」の神号を与えられたという。そのため、闇斎の神道を垂加神道説を称するのである。そして五行説を応用した土金之伝など、独自の神道説を唱え、以後の神道思想や行法に大きな影響を与えた。
 闇斎と同じころ、これに先んじて伊予国に羅山門の神道説を伝えたのが、小松藩に招請された宮城春意(生没年不詳)である。名は孚、伯実とも称した。『中臣祓纂言』『神道大意演義』『六根清浄大祓浅説』などを著し、「本心を正しくするときは、清く潔くして、神と己と差別なきことを知るべし。心の不浄なれば、人と言ひ、人清浄なれば神と云ふ(大祓浅説)」と、その神道説を論じている。
 春意が小松へ招かれたのは、二代藩主一柳直治の時代(一六四五~一七〇五)で、論語や大祓詞を講じている。また、小松藩鎮守の高鴨神社神主である須藤重富の請によって同社拝殿で中臣祓の講釈を行い、五、六〇名の聴講者を得ていることから、寛文初年ころの招聘と推定される。なお、須藤重富は、春意の門に入ったことを契機としてか、別当香園寺と確執を構えるようになり、本地仏を遺棄する一件を生じさせるのであるが、小松における春意自身の活動についてはほとんど明らかにされていない。
 さて、伊予国における近世神道思想の普及にあずかったのは、何といっても闇斎門下の人々であった。松山藩の大山為起や門下の小倉正信、玉木葦斎に学んだ大洲の兵頭守敬らによって、垂加神道説や橘家神道の行法が広く県下に及んでいくわけである。

大山為起

 松山藩の国学者であった大山為起(一六五一~一七一三)は、同時に唯一神道・垂加神道説を講じ、藩内の神職を中心に広く新居郡方面にまで大きな影響力を有した。『松山叢談』巻五下にも、「元禄の比伏見藤の森高良大明神の神職たりし大山左兵衛為起、爰に来りて味酒の神職となり再興して惟一になし、御扶持十人扶持頂戴せり、松山の諸社総て真言宗の持多くして、神職と言者は社番にて神学の沙汰なし、為起来て以来諸社瑞籬盤境の事迄も称する也。」(高浜家記)と記しているのである。
 さて為起については、すでに「学問編―国学」のところでも触れたが、通称は左兵衛、葦水と号し、伏見稲荷大社の祠職であった松本為国の子である。大山正康の養子となるが、父の死に伴なって寛文三年八月には実家に復し、貞享三年までの間家職を継承した。この間、為起は京都の出雲路信直や、伏原宣長に学び、山崎闇斎の門に入り、延宝八年(一六八〇)八月には闇斎に誓紙を呈出している。
 貞享四年(一六八七)一二月、松山藩四代の松平定直に招聘されて伊予に下向し、藩士や神職その他に古典、神典を講じるとともに、たまたま欠員となっていた城下の味酒神社(阿沼美神社)の神職を務めた。この間、松山における最大の任務は『日本書紀』の注釈作業で、元禄三年(一六九〇)三月二四日にその講釈を命じられるや、二〇年を要した宝永七年(一七一〇)九月に至って『味酒講記』としてこれを完成させているのである。途中、三〇巻までの講釈が終わるのが元禄一六年一二月、さらに宝永四年九月二五日より一二月二日にかけて神代より持統天皇までの四七冊について、板本と『味酒講記』との校訂作業を行い、江戸上屋敷へこれを送っている。また、別途に『職原抄』を講じ、弟子の重松安兼も『古語拾遺』その他を講義していたのである。
 なお、為起の門弟は広く東予地方にも及び、元禄六年二月から三月にかげて新居・周布・桑村郡の重立った神職の招きに応じ、この方面を訪れている。この旅の目的は、その紀行文『東遊紀行』によると、西条の伊曽乃神社において二月二二日に垂加霊神(闇斎)の祭祀を行うためであった。二二日を当てたのは、闇斎が吉川惟足より垂加の号を授かった寛文一一年一一月二二日にちなんだものであろう。このとき、さきの三郡を中心に二六社、二七名の神職が集合し、「社頭杉」と題した和歌を奉納している。しかし、この垂加霊神祭の具体的様相を明らかにすることはできない。(資料編文学一八四~九頁参照)
 このようなことから、為起の伝えた垂加神道がかなり広範に行きわたっていたことが窺える。そして松山でも、宝永三年一月二二日には、玉之井将監・後藤内匠・重松伊織・田内大蔵ら近郷の神職七名に三種祓を伝授し、翌四年三月二二日には、味酒神社で垂加霊社祭を執行しているのである。そして為起自身も、松山を去るに当たった正徳元年(一七一一)五月九日、養父大山正康の命日を卜して自らの霊魂を白銅の渾沌宮に生勧請し、これを葦水社と名づけた。これは、師の闇斎が「あえて垂加霊社を創祀することによって垂加神道の霊魂観を具体的に証明し、彼の神学の一つの帰結を示した」ことに倣ったものであろう。
 ちなみに、垂加派で霊社号を受けた人はけっして少なくないが、このうち生前に祠を設けた例は珍しく、他には享保六年五月に跡部良顕(光海翁)が常陸国の鹿島神社に、垂加霊社とともに、光海霊社を勧請しているのみであるという。また葦水社は、為起没後の享保四年(一七一九)八月二一日、神社管領の吉田家より「葦水霊社」と号する旨の神道啓状を授けられているのであった。
 とまれ、葦水社を勧請したのち五月二七日に松山を去った為起は、帰洛後は庵を五条問屋町音羽橋あたり結んで葦水軒と名づけて住み、三年後の正徳三年三月一七日(一九日ともいう)に没した。享年六三歳であった。
 『味酒講記』五五巻のほか、『延喜神名式比保古』 一五巻、『倭姫命世記榊葉抄』三巻、『氏族母鑑』二二巻、『古語拾遺私考』二巻、『葦水草』 一巻、『稲荷私記』 一五巻など多数の著作を残している。また『先代旧事本紀』その他の校訂も行っている。

小倉正信

 為起門下の一人に松山の小倉正信(一六八八~一七五七)がいる。豪商河内屋弥右衛門の長男として貞享五年八月八日に生まれたが、家督を弟に譲って大山為起や大月履斎について学んだという。本名は勇助、忠右衛門・通邦とも称し、諱を正信と名乗った。元文二年(一七三七)六月五日には、垂加神道の伝授(宝剣大秘伝および三種神器口授極秘)を大阪の留守友信(一七〇五~六五、希斎)より受けている。友信は陸奥国一ノ関に生まれ、崎門三傑の一人・三宅尚斎の直門である。闇斎よりの伝授経路は、正親町公通(白玉翁)、跡部良顕、泥芽翁(濯直霊神)、留守友信となっており、遊学中に伝授されたものと思われる。
 また、備後国福山輛の津の崎門の高弟である高田正芳(未白)とも交流があったらしく、これによって闇斎より未白に宛てた自筆書簡を、懇願の末に譲り受けている。未白より正信に宛てた某年二月二七日付書簡によると、「今月十三日之芳札二十五日三原□二落手、其御地無変異大月氏并御同志中平安之旨□幸之至候」とあり、大月履斎などとも関係があったようである。そして、この書簡と合わせて正信は、七月二〇日付の闇斎の書簡(年号不詳)を譲渡されているのである。ちょうど、闇斎が三原の薬種商・楢崎忠右衛門のことに触れていた文面であったことから、同名の忠右衛門こと正信に贈ったものと考えられる。これは、のちに正信の門下とみられる浮穴郡牛淵村三島宮(重信町牛淵の浮島神社)の神主・相原宗勝(能登守・一七三五~九四)に、さきの伝授書とともに委譲されて現存している。
 さて、正信には享保三年の『伊予二十四社考』や同一九年の『伊佐爾波伝』、延享二年の『神代略記』などの著書がある。そのなかで、『神代略記』の序において「今時世上のありさまを見るに仏に入らざれば儒、儒に入らざれば仏、其浅深はかるべけれど異国の道は大旨識者多くして吾国の道は知る者寡く、他邦の書には親しくして本邦の書には疎し。人の子として親を知らざるに同じ。是予平日なけきとする処なり」と述べ、仏儒の書物に比して神道書が少なく、これが軽視されている様を嘆いている。また『伊予二十四社考』は、伊予国内の延喜式内社二四社について諸文献を集成し、その所在地を比定しながら考察したもので、すでに触れたように伊予の式内社に関する最初の本格的な論考であった。県下に伝存する写本は、いずれも正信の「識語」までであるが、のちに水野忠雄が伊予郡・温泉郡の諸社について追考を加えたものを土佐の谷丹四郎が写し取ったものが、高知県立図書館に伝えられている(資料編五三五頁以下)。なお、『伊佐爾波伝』は、その後の補遺である。
 宝暦七年五月八日没、享年七〇歳。松山市御幸の長建寺に墓がある。

橘家神道の展開

 山崎闇斎の垂加神道が、惟神の道としての思想的側面に重きを置いたのに対し、その道統を継承しながらも神道の行法的側面を合わせて取り入れたのが、玉木正英(一六七〇~一七三六)による橘家神道である。
 玉木正英は、闇斎の道統後継者である正親町公通の門弟で、初名は祐幸、のち兵庫と称し、五鰭霊社・葦斎と号した。初め出雲路信直に神道を学んだのち公通に師事し、正徳五年(一七一五)と享保一一年(一七二六)に「風水草」および「持授抄」を伝授され、垂加神道の道統に連なった。ことに「持授抄」は、垂加神道の奥秘とされ、闇斎が『中臣祓風水草』に引用した三種神器に関する部分を抄出した「自従抄」の「三種神宝極秘伝」に「神籬磐境極秘之伝」と「神道系図」を付したものであった。次いで正英は、京都の梅宮に奉仕していたが、のち同社ゆかりの橘氏の後胤と称する橘以貞より橘諸兄伝来という神道説を伝授され、そこに垂加神道の秘伝を組織立てるとともに、これに欠如した神道行事を持った独自の橘家神道なるものを提唱するのである。これに関する著書に『玉籤集』のほか『橘家鳴弦巻』『橘家神体勧請巻』などがある。
 そして、この神道行法は、地域社会の要望もあって広く行きわたり、伊予国でも享保末年より大洲藩・松山藩を中心に展開するとともに、今日に至るまで祈とう法の中核として相伝されているのである。

兵頭守敬

 伊予国で初めて橘家神道の伝授を受けたのが、大洲八幡宮の神主・兵頭守敬(一七〇九~五七)であるとみられる。八幡宮が大洲領内の総鎮守であったことから、兵頭家(寛政年間に常磐井と改姓)もまた領内惣官職にあって新谷藩を含む広域の神職を統轄し、父の正秀の代には唯一神道の伝授を受けて私塾を開き、神職子弟のために神道教授を行っていたのである。
 守敬は式部と称し、五十根霊社・坂本潮翁と号したが、幼くして京都に遊学すると玉木正英に入門して神道および和漢の学を修め、有栖川宮職仁親王より和歌を学んだ。そして享保一九年四月、正英より十種神宝・三種神宝および神籬伝の垂加神道許状を授けられている。これより前の同一五年には橘家神道の鳴弦蟇目の伝を受けており、正英死後の寛延元年(一七四八)には、その子長秋より正英自製の秘弓を伝授されて現存している。
 このあたりの経緯を守敬は、寛延三年に『橘の雫』と題して綴っているが、同書によると「守敬は、享保一五年鳴弦蟇目の伝を得たりしか、身にも及はぬ事なりしかは、いたつらに年月を送りける、葦斎翁享保二一年神去り、家族長秋その年にもあ□さりければ、葦斎翁製作の弓矢を包侍りて、去る寛延元年守敬にそ伝りける」とある。この伝授のこととともに、わけても守敬が『橘の雫』の一文を草したのは、葦斎伝来の鳴弦弓にただならぬ霊徳を感じたからにほかならない。すなわち、鳴弦弓が八幡宮に奉納された二年後の寛延三年正月、大洲藩の浮穴郡父之川・露峰・二名・薄木・寺村などの村々の百姓が蜂起して人数を加えながら各地で打ち壊しを行い、大洲城下へ迫るべく喜多郡内ノ子河原に結集した「寛延内ノ子騒動」に際し、八幡宮へこれの鎮静祈とうが依頼された。藩命を受けた守敬は、一〇名余りの神職を率いて、玉木正英の自作秘弓によって昼夜三度の鳴弦の秘伝を厳修奉仕したところ、その霊徳によってであろうか、百姓一揆は和解鎮静して百姓たちは帰村したというのである。『橘の雫』は、次のように記している。

 守敬は厳き仰を承り、常にともなふ祝子十余人、力をあはせ心を一にして、朱の玉垣たかき世は安かれと、ひたすらに称宜事申し侍りつつ、天神の雷徳をいただき、己か金気龍徳を起し立、昼夜三度鳴弦を修し侍りければ、矢声すさましく、八幡の神風忽に雲を起し、甚雨ぼう沱として、正月の寒風はたへをしのき、騒動の輩屈伏して国命をうけかひ、己か村里に帰りけれは、等楽なから桜かささん事もおもひ出られけり、(中略)
郷国の幸ひこれによるものか、今年正月五日、神事始の鳴弦に、勝木の矢折にしは、国民揆動のきさしにて侍りしを、なをさりにおもひ過しぬる事のおろかさよ、かくまて競ひ起りし民草の、日を経すして静りしは、八幡の神助弓道の威霊そとて、廿五日御長臣参向有て、精金の生太刀の一振に、にきほふはるの駒ひき立て、報賽をつかへ給ひけり、代々を経て、いやまひ給ひしか、かかるためしは聞へねば、千早ふる神垣も、威霊あらたにかかやき、つかへ侍る祠官らも、いとかたしけなふ悦つつ、猶御家運の目出たふ、御領中安らかなれといのるものならし

 とまれ守敬は、この一件を橘家鳴弦弓の効験と理解して、同年二月四日に『橘の雫』を上梓したのであった。また、鳴弦弓の箱裏書には、以下のように記されている。

 鳴弦蟇目合祭之生弓二張、生矢二、羽根矢二本者、五鰭霊神手自製作、而納錦袋、為座鎮弓所尊崇矣、称霊神者、葦斎翁玉木兵庫正英、而橘大祖正一位右大臣諸兄公二十三代梅宮長者薄三位以量卿五代振埴霊社薄田与三兵衛以貞之直授相承也、子受橘家弓道於霊神、而尊信年久矣、当年請弓矢於嗣子長秋焉、長秋授予、後年復期伝干長秋之家矣、謝礼白宝拾枚、服部良淳、貞準所設備焉、蟇目鏑者、櫛生鎌田忠寿所造也、今日納於伊予国八幡宮宝殿、而以賛天地之化育云尓、干時、今上皇帝御宇、寛延改元歳戊辰十一月十三日    神主兵頭式部守敬謹誌

 なお守敬は、延享元年(一七四四)に伊勢国阿濃津の谷川士清(一七〇九~七六)よりも神道相伝を受けており、土清よりの謝礼受領書(白銀千七百両)が残されている。また宝暦元年(一七五一)六月にも士清を訪れているが、このときには士清より氏神古瀬子神社への文庫建立に当たってその名称を求められ、「建績庫」という名を示した。同時に士清は、守敬が寛保二年に出雲大社祠職の藤間氏より受けた龍蛇を文庫守護神として授かりたい旨を乞うて、翌三月に贈られている。このような関係を通してか、守敬は宝暦三年五月一六日に写し取った正英の『風水草管規』を、伊勢「度会の神倉」へ奉納しているのであった(神宮文庫蔵本)。
 また宝暦年中には、松山藩内においても請われて講義を行ったらしく、同二年一〇月一六日には、松山の小倉正信宅で「中臣祓」の講釈をなしている。これに合わせて橘家神道も伝えられたらしく、正信門下の相原宗勝は守敬所蔵の「祖神伝」を筆写するなど、松山地方へも少ながらぬ影響を与えた。なお、大洲藩内の門人で橘家系図にも名を連ね、守敬の後継者となるのが、鎌田五根(一七二〇~一八〇一)と川田資哲(一七二〇~九三)である。さらには五根・資哲より守敬の次子である守貫(一七四一~一八一七)に伝えられ、佐伯守沖、丸山真振、常磐井厳戈、矢野玄道、常磐井精戈と相伝されるのであった。あるいは、丸山真振より天保四年(一八三三)、一一年、嘉永二年と伝授された新谷領の伊予郡稲荷村稲荷社の高市為盛も、幕末期に広く近郷の神職たちに伝えているという。

鎌田五根と千家俊信

 鎌田家は、喜多郡櫛生村(長浜町櫛生)の三島神社神主家であった。五根は、本名を正忠・忠壽といい、幼名を丹治、通称ぱ左京、五根と称した。延享四年三月、兵頭守敬に誓紙を出して神道相伝を受けたのち、宝暦八年七月に谷川士清より「三重極秘伝」である三種神宝および神籬磐境極秘の伝を授げられている。この間には、細工の技を持っていたことから守敬の命で蟇目鏑を製作したり、雅楽にも励んでいる。そして。守敬没後は、兵頭家の家塾や文庫、橘家神道相伝に関ることは五根を中心として、同門の佐伯守沖(喜多郡北表村三島宮神主)らによって維持されたのである。天明五年(一七八一)には、寄付米積立運動を起こして文庫に学室の建設を働きかけ、七、八年後にはこれを完成させている。
 このようなことから彼に入門して神道相伝を受ける者も多く、宝暦一〇年に喜多郡出海村庄屋の兵頭兵九郎が誓紙を提出して以降、寛政八年までの三六年間に大洲領内を中心に二九名の入門書が現存しているのである。誓紙は、宇和郡神領・真土・東多田・加茂など宇和島領の神職にも及んでおり、この方面へも伝播していたことが窺える。なかでも、天明六年九月に出雲大社国造家の出身である国学者千家俊信(一七六四~一八三一)への伝授は、興味深いものである。鎌田家にその入門誓紙が伝存しており、次のように記している。

     誓  約
   一、橘家神道御相伝、恩儀之至、忘申間敷事
   一、異国之道、習合付会仕間敷事
   一、橘家正伝仁自己之新説於加辺論談仕間敷事
   一、諸伝御切紙等、雖為親子兄弟同学之輩、猥他見仕間敷事、付許可
   無之内、開口他
   言仕間敷事
   一、諸伝御切紙等、我等相果候者々、不残返弁可申候、貴殿御死後仁
   候者々、御門生之内、許可之御方辺相渡可申事
  右五箇条之趣、於相背、日本国中大小神祇、可蒙神罰冥罰者也
                       千 家 葵 斎
   天明六年丙午九月八日             俊 信(花押)
           鎌 田 五 根 翁

 すなわち千家俊信は、この年九月八日に鎌田五根より橘家神道を伝授されているのである。五根は、このとき出雲大社に参拝し、初めて俊信に会ったという。そして九月二〇日には、橘家伝来の弓道を授け、さらに帰郷ののちには橘家神道の法に則った弓、矢、蟇目、鏑を製作し、伝巻を添えて送ることを約したのであった。五根は、これをすぐに果たすことはできなかったが、天明八年一二月より取りかかり、寛政四年七月「生弓一張、替弓一張、墓目一、鏑一、生矢二筋、鏃矢二筋、清水勝木矢二筋、蟇目鳴弦伝巻九巻」を、佐伯守沖と医師の河野永世に託して俊信に授けたのである。蟇目・鏑の製作に当たり、五根は一か月の潔斎をとってこれを行い、その他門人の助力を得て先の伝授品を整えたわけであった。なお、伝巻外題は、川田資哲の筆によるものである。
 その他、五根は鎌田家伝来の神楽歌の集成にも務め、寛保三年三月に序文を記してより明和八年九月に至って完成させている。「序 神楽式 手草 魔逐 鬼形問答 神請 神供備進 祝文 巴那 志喜 神祇 山之宇知御佐喜 弓 弓渡 磐戸 古今 飛出 神体 庭燈 立舞 薙刀 龍王 陰龍王 四殿之大事」の順に記しており、神楽式の順序とは異なる。そして奥書には、「此一巻者雖当家秘処、就神用難然止、依子細令不残口伝筆記者也、努々不可有他見者也」とみえ、それまで口伝であったものを筆記したことが窺える。
 さらには、肱川町および河辺村の榊組神楽部が所蔵する神楽本(写本)にも、「五根翁モ手草ノ歌ハ不残カエ玉ヘリ」と記すように、先のものをさらに集大成しているようである。そして、これにも千家俊信が序文を付しているらしく、「右者神楽注秘抄ニ見ヘタリ、然ハ鎮縄神楽モ皆岩戸ノ舞ヒウタヰ□□遊ヒイカニモ目出度面白ク笑ヒ楽ミ怒リ解キ、神人トトモニ化スル事ヲ得タリ、可貴可敬者也、葵斎(俊信)謹序」と記されている。
 もっとも、俊信自身は、五根より鳴弦弓を授けられる直前に本居宣長に入門しており、以後は宣長門下の国学者としてめざましい活動を展開する。五根の伝えた橘家神道は、そこにおいても潜在的な影響力を持ち続けたものとみられるのである。ちなみに俊信には、『訂正出雲記』『天穂日命考』『出雲国式社考』などの著書がある。

松岡雄淵の門人たち

 兵頭守敬が大洲藩を中心として、また、松山藩では小倉正信や小田太郎左衛門が橘家神道・垂加神道を講じていたころ、京都にいて伊予の東・中予の神職たちに少なからぬ影響を与えたとみられるのが松岡雄淵(一七〇〇~八三)である。通称多助、字は仲良、家は代々の尾張国熱田社の社家の一つで、初めは同社の吉見幸和について国学を学んだ。のち若林強斎や玉木葦斎に垂加神道を学び、元文二年(一七三七)には吉田家から招かれて同家学頭となっている。この間、享保一一年(一七二六)から宝暦一〇年(一七六〇)の間に多数の門人を教授しているが、このうち出身地を銘記した神職六九名のなかに伊予国の神職七名が見えている(表12参照)。
 このうち、新居郡金子村(新居浜市)一宮神社の神主であった矢野家堯(一七〇一~七九)は、かなり晩年の入門であったが、当時すでに古楠軒塾と称する私塾を設けて近郷の人々に神道や国学を教授しているときであった。家堯はまた、安芸国竹原の吉井正伴(享保一八年雄淵に入門)にも教えをうけている。さらには、のちに雄淵の養嗣子となる宇摩郡川之江村(川之江市)八幡宮出身の越智定安(一七六〇~九七)も、上京前に家堯について学んでおり、互いに関係浅からぬものがある。定安は、天明三年六月に上京、七月三日に雄淵に入門している。しかし、三八歳の若さで没し、京都神楽岡に墓があるという。なお、家堯の古楠軒塾は、その後幕末まで後継された。

伊予国の松岡雄淵門人一覧

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