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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 社領の回復

幕藩制下の神社

 河野氏をはじめとする中世領主たちによって安堵されてきた県下有力神社の社領は、天正一三年(一五八五)、豊臣秀吉の四国平定によって没収されてしまった。かわって伊予国内に入部した諸大名は、旧来の大社や城下近傍の神社から祈願社を選定して崇敬するとともに、わずかではあるが社領を寄進したり料米を奉納した。
 早くは、喜多・宇和郡七万石から後には伊予半国二〇万石を領した藤堂高虎が、慶長六年(一六〇一)に大山祇神社に対して年間四度の祭礼供米として毎年二〇俵を寄進することを約したり、同一二年には板島郷八幡宮(宇和島市)を再興して絵馬三枚を奉納、さらに同年および一三年には併せて三〇石の社領を大洲市阿蔵の八幡神社へ寄進している例などがある。ちなみに、藤堂氏にかわって大洲に入部した加藤氏も八幡神社を領内総鎮守と定めて庇護し、社殿造営や祭典費は藩費をもって賄ったとされる。さらに、境内には領内の主要神社七五社の分霊を祭祀し、例祭の祭典後にこれの祭りを行って今に存続している。また加藤氏は、八幡神社の他にも領内諸社を祈願社と定めて藩政や領主にかかおる諸祈とうを厳修させたが、宝暦一〇年(一七六〇)の『御領中神社改』によると、「御祈願所十八社、大社四十八社、小社二百三十九社」と記している。
 さて、松山藩では総鎮守的な神社は設けられなかったが、加藤嘉明が松山へ城を移してより味酒神社(松山市味酒町の阿沼美神社)がその崇敬を得、元和五年(一六一九)には毎年米五石を寄進され、さらに同八年に二石を加えられている。松平氏になると、合わせて湯月八幡宮(同市道後の伊佐爾波神社)が優遇されて、両社に数度の社料米寄進を行っている。宝暦一〇年の『松山領神社帳』にも、ともに「社領二百俵」とあるが、実際は相当量の給付であったとみられる。
 また『予松御代鑑』によると、湯月八幡宮へは、寛文七年(一六六七)五月の社殿改築時に二〇〇石、同九年にも二〇〇石と神馬を奉っている。味酒神社へも寛文九年に神領二〇〇石、元禄一〇年には社料五〇俵を寄付し、享保六年さらに松平定英はこれを一〇〇俵に加増して社人を六人とするとともに、「味酒明神社領百俵、右永令加付者也」の一筆を与えているのである。
 あるいは、四代藩主定直は松山領内に位置する大山祇神社についても、大祝家が今治市鳥生より大三島へ転住するにあたり、貞享三年(一六八六)三月に高五〇石の新田畑地六町歩を奉納して保護している。六代定喬も、享保二一年(一七三六)に祭田として同様に新田五町歩・高五〇石を寄進しているが、これを合わせても中世の領有高にはとおく及ばなかった。
 ところで、領内の祈願社に対して黒印状を与えたのは西条藩であった。寛文一〇年に一柳氏のあとをうけて就封した松平頼純は、同年一一月に石鉄社に三石、伊曽乃神社(西条市)三石、一宮神社(新居浜市)二石の領地を寄進した。続いて黒島神社(新居浜市)、石岡神社(西条市)、村山神社(土居町)、周敷神社(東予市)にも高二石を与えている。このうち、伊曽乃神社以下の六社が藩の祈願社であった。
 その他、宇和島藩における宇和津彦神社・八幡神社(ともに宇和島市)、吉田藩の八幡神社(吉田町)、今治藩の大浜八幡神社(今治市)・多伎神社(朝倉村)、小松藩では高鴨神社・三島神社(小松町)などが藩主および藩の特別崇敬社とされてその庇護を受けることが多かった。あるいは、各郡など代官所単位の祈願社も定められ、雨乞いや春秋の社日祭などには代官の参詣や代参がなされ、藩主の参勤交代時には、これの長久を祈ることもあったのである。そして、このような藩主が祀る神社に対し、一方には、権力者たる藩主を祀る神社が設げられ、武士層のみならず衆庶の参詣をみる場合も、この時期みられたのであった。

藩主を祀る神社

 人霊を祭神として祀った神社として知られるものに和霊神社(宇和島市)がある。江戸時代初期の宇和島藩家老の山家清兵衛公頼を祭ったもので、悲業の死をとげた清兵衛の霊魂が死後に激しい崇りをなしたことを契機に、ついには神として祀られたものである。古代以来の御霊信仰に基づいて成立した民俗神道で、しだいに神社神道として整えられたものとみられる。(なお、和霊信仰については、愛媛県史『民俗上』に詳しく説かれている。)
 さて、これとは別に権力者が祖霊信仰的な状況背景から神社を設け、その家系の初代などを祭祀した場合も多かった。豊臣秀吉を祀る豊国大明神や徳川家康の東照大権現などは、この時期の代表的事例であろう。県下では、松山藩の東雲神社や大洲藩の三祖神社などが江戸期に設けられたもので、初代の藩主らを祭祀している。
 松山藩では、明和二年(一七六五)三月に東照宮の仮宮が和気郡祝谷村(松山市)に設けられ、これが同五年三月に本宮の完成をみて遷された。さらに四月には、東照宮(家康)の一五〇回忌の御神忌が執行されている。こうした東照宮の造営や神事に遅れながらも、文政六年一二月には、勝山の揚杢戸口に仮宮が構えられ、藩主松平家祖の定勝二〇〇回忌にその霊が勧請奉斎された。同時に吉田家より「東雲社息長福玉命」の神号を受け、社職は味酒神社の田内肥後守が兼帯することとなって同月一八日に遷座祭を執行、二六日には藩主松平定通が初めて社参している。また、東雲社では家康命日の三月一八日が祭祀日と定められ、この日は大小姓以上の者の参拝が文政一一年より義務づけられた。そして、同年三月一一日には、新たに定勝嫡男の定吉(のち遠江守定友、慶長八年卒)の霊が「豊坂神社=稚国命」として勧請されるのである。
 その後、勝善の代の天保八年九月に吉田家の執奏をもって「東雲霊神」号の勅許を得て一〇月一日より東雲霊社、同月七日に明神号、一五日に大明神号を授かっている。同一一年三月一四日には勝山中腹の現在地に奉遷されて大規模な社殿が構えられ、遷座祭が執行された。そして、当社の神勤は藩内の神職中三〇名をもって当て、これを二人一組の二〇日交替で定詰させたのである。なお、諸人の自由な参詣は禁じられ、正月元日より九日迄は藩士参拝とし、一〇日より一五日迄を一般人の参拝日として認めている。以後は、毎月一日、一五日、一八日、二八日と五節供および大祭期間中の三月二〇日より月末までの間に限ってこれを認めたのであった。