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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 武家社会と神祇

 鎌倉幕府の成立以降、古代国家の律令制度下で展開されてきた神祇制度は空文化し、大半はその機能を失っていった。反面、各地に形成された武士団も神祇信仰を重んじ、その統合結集のための氏神として、八幡・熊野・神明・三島・諏訪などの有力な神々を勧請奉斎する風が全国的に広まっていったのである。伊予国でも、東・中予の大山祇神社(三島神社)と河野氏、南予の宇都宮神社と宇都宮氏などの関係がみられた。幕府の基本法典である『貞永式目』においても、その第一条に「神社を修理し、祭祀を専らにすべきこと」と定め、合わせて「神は人の敬いに依って威を増し、人は神の徳に依って運を添ふ」と、神人共存の神道観を記している。また第二条では、「寺社異なりと雖も、崇敬是れ同じ」とみえ、当時の支配層の社寺観念を窺うことができるわけである。
 さて、新しい支配勢力である武士団が、その紐帯を昻めるものとして神社を勧請したり、神祇信仰を重んじたのに対し、村落社会における神社は、古代的な氏神から地縁神への大きな転換期を迎えていた。そして、一五世紀以降の中世郷村制の成立に呼応して、県下でも神社を中心とした惣村結合が生まれてくるのであった。

 鎌倉時代の古社

 古代から中世への社会構造の変化にともない、従来の有力神社の間にもその勢力的な消長が表れてくる。当時のこのような状況を窺える史料として、建長七年(一二五五)に調された「伊予国神社仏閣等免田注記」(伊予国分寺文書、資料編古代・中世二五四~九頁)がある。鎌倉時代中期の有力神社や寺院の免田を取りまとめたもので、なかには延喜式内社や国史見在社にかわって台頭してきた神社のあることが理解される。
 表6は、これに収載された神社の一覧である。各種の免田を、神宮寺付属分を除いて神社別に集計すると、
  ①三嶋宮(大山祇神社)    七二町九反二〇〇歩
  ②八幡宮(石清水八幡神社)  四六町七反四〇歩
  ③柑子御宮(樟本神社に合祀) 二三町一反一八〇歩
  ④三嶋別宮(別宮大山祇神社) 二一町九反四〇歩
  ⑤乃万宮(野間神社)     一七町一八〇歩
  ⑥惣社宮(伊加奈志神社か)  一三町三反三〇〇歩
  ⑦伊予村宮(伊予神社か)   一〇町一八〇歩
  ⑧高賀茂社(高鴨神社)    七町二反四〇歩
などが主要なものとなる。今治市付近を中心とした東予の諸社が大半を占め、中・南予はごくわずかにすぎない。また、平安時代末の保元年中(一一五六~五九)に神宮寺が設けられた大山祇神社に続き、中世に入ると神仏習合の祭祀形態が国内の有力神社に及んでいたことも窺われるのであった(第二章仏教参照)。

八幡信仰の拡大

 神仏習合思想の昂まりや武家政権の確立のなかで、急速な発展をみたのは八幡神であった。「免田注記」にみえる石清水八幡神社(玉川町八幡)の社領獲得もその表れと考えられる。光林寺本の当社縁起によると、近隣の古老の口碑として、「当地へ移りたまふ時、海上のひたせる衣をほしたまふ所を、今、鳥生浜衣千八幡と号して小社あり、それより当地勝岡山に御座有しを、伊予守頼義公当国の守護人と成り下り給ひて、此山男山に相似たり、北に大河淀川に異ならずとて此地に移したまひければ、不思議や辰巳に当りて山の内に清水湧出す。頼義信心弥肝にめいじ、石清水八幡宮と唱たまひ、崇敬日に増し男山のごとく神社仏閣を御建立、法華・般若・護摩・長日の執行のため、夫々の領田を与へたまひし」と、その勧請譚を記している。
 ここに見える源頼義の伊予下向については、おそらく実際には任地に赴かない遥任であったと考えられる。そして、頼義が伊予守に任ぜられたことに起因する八幡宮の勧請伝承は、他にも県下に多数伝えられてきた。平安時代末より鎌倉初期にかげた地方の八幡宮創設の蔭には、地方武士の協力があったというが、伊予国では河野氏がその役割を担ったとみられる。さらに、清和源氏と八幡宮の関係も、頼義前代の頼信のころから始まっているとされ、このようなことから頼義の八幡宮造営伝承が成立したものと考えられている。わげても、伊予・近江・奥羽には、頼義あるいは義家と脈絡づけた八幡宮が多く見い出される。
 そのなかで最も知られるのが、伊予国では八社八幡宮である。『予章記』に引く河野系図によると、河野親経が頼義の命によって八か所の八幡宮を設けたとあって、かなり早くから伊予国内に流布していた伝承であるとみられる。また、口唱される間に内容にも異動を生じ、道前・道後の八社八幡宮(表7参照)とか、一八社あるいは三八社の八幡宮と称したり、時代を溯らせて大和国大安寺の行教と関わらせて頼義を再建者とした『八社略談』のような縁起もつくり上げられるのであった。つまるところ八社八幡宮の創祀は、頼義とそれほど隔たらない時代に、河野氏によって勧請されたものであろうと考えられている。
 ちなみに、『一遍聖絵』第一〇には、「正応元戊子年伊予へわたり給て 菅生岩屋巡礼し繁多寺にうつり給 当時は昔当国刺史頼義朝臣天下泰平衆生利益のためにとて国中に七ヶ寺をたてられける其一なり」と、頼義が七薬師を勧請した旨を記しているが、このようなことからも伊予における八幡宮の勧請に何らかの関係をもったことは事実ではないかとみられるのである。
 なお、南予地方の八幡宮は、宇佐八幡宮との位置関係もあってこれの漂着伝承が各所に伝わり、八幡浜市の八幡神社には、文明一五年(一四八三)の奥書を持つ『八幡愚童記』を伝存している。

荘園と神社

 律令制下に現れてより中世を通じて、中央の大寺大社は全国に多くの荘園を所有したが、伊予国にも表8に示した一〇例ほどの神社領荘園が確認されている。伊予国の場合には、京都の石清水八幡宮が荘園領主となっている事例が多いのが一つの特徴であった。
 このような場合、それぞれの荘園地に本所領家と同じ神社を勧請して祭祀した例が多い。そのような、県下の荘園地への勧請神社(推定を含む、表8)のなかには、現在に至るまで地域の鎮守神として祭祀されているものがほとんどであるが、それは個々の神社や祭神に対する信仰から発したというよりも、むしろ本所領家との関係から決定されたものであると考えられている。つまり、荘園地の鎮守神のなかには、政治的関係によって中央の大社が地方に伝播していった例があるわけであり、そのなかには荘郷の中心として祭祀された神社もあったのである。加茂神社・玉生八幡神社・伊予岡八幡神社・伊予稲荷神社などは、がっての荘域の鎮守神がいまに機能している代表的事例であるとみられる。

伊予国神名帳

 「延喜式神名帳」が国家の制定した官社を網羅したのに対し、諸国の国司が崇敬した神社は、国ごとの神名帳(国内帳)としてまとめられている。すなわち、各国ごとに国司がその部内の官社や崇敬対象とする有力神社の神階や神名・社名をまとめあげたもので、宮地直一などによれば最古とされる天慶二年(九三九)の「筑後国神名帳」や天喜二年(一〇五四)の「大隅国神名帳」など一八か国のものの伝存が、写本なども含めて確認されている。その奥書年代も区々で、近世の写本しか残さないところも多い。また、これらすべてが国司所用のものというのではなく、中には国分寺などの伽藍守護神や総社の神事に当たって奉唱勧請するために体を改められたものもいくつかある。
 さて、今治市の国分寺に写本が所蔵される「伊予国神名帳」は、伊予史談会がこれを筆写したほかは従来もその存在に注目されたことがなかったものである。実際には「国内之神名帳」と題されており、元亀二年(一五七一)五月四日に撰せられたのが最初であった。その後、承応二年(一六五三)、元禄一〇年(一六九七)と書き写され、最終的には延享元年(一七四四)に国分寺の智真が写し取ったものである。本書に類する他の伝本も目下のところ見あたらず、おそらくは伊予国の神名帳としては唯一のものと思われる。(資料五四六~七頁参照)
 冒頭に「奉依例勧請国内神名帳」と記しているごとく、国分寺の守護神として国内の主要な諸神四三五社を大神・小神に分けて勧請することがその目的であった。ただ、小神四〇二社については、郡別の社数を示すのみで個々の神名は明らかにしていない。内訳は、宇摩郡二三社・新居郡二七社・周布郡一九社・桑村郡一一社・越智郡一〇一社・野間郡三二社・風早郡六四社・和気郡一八社・温泉郡一九社・久米郡一六社・浮穴郡一三社・伊予郡三二社・喜多郡一六社・宇和郡一二社となっている。
 また、大神は三三社で、これを正一位(一三社)・正三位(一二社)・正四位(五社)・正五位(二社)と別格の八幡三所大菩薩からなり、大明神・明神・天神などの神名表記をとって記している。正一位となっているのは、高賀茂大明神・大山積大明神・濃満天皇神・礒野大明神・諸山大明神・多岐不断大願大菩薩・楠本大明神・伊与村大明神・村山ノ大明神・天満大自在天神・布都ノ大明神・伊賀奈志大明神・櫛玉姫大明神の諸社で、先の「免田註記」所載の神社と重複するものも多い。これらのなかには、所在地不明のものもあるが、総じて東予地方の古社が多く含まれるなど、神社分布の偏りもみられ、高縄半島中西部への稠密分布が窺えるようである。

免田注記載神社一覧

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八社八幡宮一覧

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伊予国の神社荘園と勧請神社一覧

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