データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)
第五節 宇和島・吉田藩の洋学
宇和島・吉田両藩共に歴代藩主の医学研究奨励があり、蘭医学と洋式兵学の著しい進歩をもたらせた。医師を高禄で待遇し、医学研究には、特別に給費制度を設けるなどして便宜を図ったから優れた蘭医・蘭学者が出た。
華岡青洲の春林軒家塾へは、宇和島藩から長谷川仲亮・矢野泰蔵・浅野観喜・土居立仙・志賀天民(布清恭。仲間として住み込み修行したか)吉田藩からは小川寿仙・三和玄渓らが文化・文政期に相次いで入門した。
緒方洪庵の適塾へは、宇和島藩から林玄仲・富永習益・武田勉哉・富沢松庵・山田直記・今泉彦六・須藤為次郎・二宮逸二・谷口泰庵・渡辺立誠、古田藩からは岩田三達・近藤守全が嘉永・安政年間に入塾した。
江戸幕府種痘所取締、法橋「春陽院」伊東玄朴には、弘化・嘉永年間に富沢礼中・田中安兵衛・谷口泰元・砂沢杏雲・松沢玄析・谷快堂・浅野洞庵・矢野淡哉・早田貞幹・芳川隆節・賀古朴庵・松本文哉・布三省らが宇和島藩から入門。京都の日野鼎哉(一七九七~一八五〇)には宇和島の仁志川玄磧、蘭医エルメンス(一八四一~一八八〇)には梶谷杏洲・同古洲、幕府侍医上生玄磧には砂沢仲安が宇和島からそれぞれ入門している。
吉田藩の大高玄龍はシーボルト及び大阪医学校長兼病院長高橋正純(一八三五~一八四一)に学び、大槻魯庵、岩田周達が大槻俊斎大槻盤渓に学んでいる。
大洲の鎌田玄台には宇和島藩から仁志川玄磧ら一〇名、吉田藩から近藤元仲ら八名が入門している。
宇和島藩蘭学興隆に決定的な影響を与えたのは、嘉永元年(一八四八)四月二日 伊東瑞渓と変名して学友二宮敬作のもとに来た高野長英(一八〇四~一八五〇)と伊達宗城に招かれ、嘉永六年(一八五三)一〇月二七日宇和島に来た村田蔵六(大村益次郎。一八二四~一八六九)である。長英は蘭書の翻訳を進める傍ら「学則八ヶ条」を定めて蘭学学習の心得を示した。なお、『訳業必須之書籍目録』を藩公に上申し、英・独・仏語研究を勧めていることは注目に値する。
1 二 宮 敬 作
文化元年(一八〇四)五月一〇日、西宇和郡磯崎の農家兼酒小売業六彌の長男として生まれた。号は桂策・如山といった。文政二年(一八一九)志を立てて長崎に赴き美馬順三(一七九五~一八二五。後、鳴瀧塾初代塾頭)につき蘭語・蘭医学を学ぶ。同六年シーボルト来日後は、師順三と共に師事、シーボルトより最も信頼された。同九年、シーボルト江戸参府に学友高良斎(一七九九~一八四六。後、鳴瀧塾三代塾頭)と共に随行、途中富士山の高さを実測した。文政一一年「シーボルト事件」に連坐、投獄されたが、天保一一年(一八四〇)許されて卯之町に開業、診療に従い、薬草園を造り、高野長英を庇護し、村田蔵六らと親交を結んだ。敬作は気性英邁、篤実で憂国の情厚く、偏狭な攘夷論を排し、義理人情に厚く、シーボルトの妻子を扶助教育し、また多くの門弟を養成した。文久二年(一八六二)三月一二日没した。
2 そ の 他
宇和島・吉田藩とも数多くの蘭学者・蘭医師を出した。村田蔵六退去後、蘭学稽古場をつぎ、英学にも通じた大野昌三郎、『養生談』の著者谷了閑などがそれぞれ新しい時代を築く原動力となった。