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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第三節 今治藩の洋学

 今治藩内から華岡青洲の春林軒家塾に入門したのは、池山見龍(文化六年入門)・田中玄監(天保四年入門)の二名であるが、田中玄監は、春林軒塾頭を務めるほどの技術を修得している。
 緒方洪庵の適塾へは、弘化三年(一八四六)山本良廸・菅謙造(周庵)・今岡良伯の三名がそろって入門した。
 カスパル流外科医伊良子光顕(一七三七~一七九九)の伏見無荒庵へは、水野元安が天明七年(一七八九)入門、安芸出身幕府眼科侍医土生玄磧(一七六八~一八五四)には文化年間に田久保見順が入門している。

 1 菅   周 庵

 文化六年(一八〇九)今治藩医の家に生まれた。本名は謙造。大譲・如慢・香雲・春崧・七松・休叟と号した。貫名海屋(一七七八~一八六三)に漢学と書道を学び、適塾に入って蘭学を修め、また高橋執洲(生没未詳)にっき医学を学んだ。弘化四年(一八四七)痘瘡の大流行があり、佐賀藩主鍋島閑叟(一八一四~一八七二)・侍医伊東玄朴(一八〇〇~一八七一)・侍医兼出島医楢林宗建(一八〇二~一八五二)らの奔走により、嘉永二年(一八四九)六月二九日バタビヤから入港のオランダ船で「痘痴」がオランダ商館医オット=モーニケのもとに届いて種痘が実施されるようになった。周庵は直ちに長崎に赴き、技術を修得して帰藩し、藩内の種痘計画をたてた。多くの医師が危惧逡巡したが、半井梧菴の協力を得て実施することができた。嘉永二年、藩民一般への牛痘接種は、全国的にも最も早く、今治藩が痘瘡予防の先進藩であったことを物語るものである。
 周庵は、明治二六年(一八九三)八月二六日没した。八五歳であった。

 2 半 井 梧 奄

 文化一〇年(一八一三)六月二三日、今治藩医の家に生まれた。幼名は元美(元義)、後、忠見と改称。梧菴、梧桐庵、伎里之家と号した。早く父を喪い、母と共に京都に出て荻野徳輿の門に入り医学を学んだ。徳輿の父、荻野元凱(一七三七~一八〇六)は、東洋の古方医流を継承しながら療法は蘭法を用いて医療の大家と仰がれた山脇東洋・同東門父子に師事し、朝廷の典薬大允を拝し、「尚薬」に任じ、「河内守」に叙せられた名医であった。梧菴は、国学・和歌にも長じていたから、和魂洋才の優れた医師であった。菅周庵の種痘を助け、薬草を栽培し、洋薬を造り、舎密術(和蘭語〔chimie〕化学)を講じる等して医学の進歩に多大の貢献をした。

 3 そ  の  他

 今治一〇代藩主久松定法は、学問の振興と兵備の洋式化を図り、国老久松長世(一八二九~一八七〇)、池内重華(~一八九七)の献策を入れて前神大醇ら五名を長崎に派遣、蘭学を学ばせ、また有為の人材を登用した。

 萩原西疇

 (一八二九~一八九八)江戸の儒者萩原楽亭の長子。本名は裕。字は好間(公寛)、通称は英助。祖父大麓、父楽亭共に磧学の誉高く、特に叔父緑野は『石桂堂詩集』・『鹿鳴吟社集』等多くの著書・漢詩集を刊行した著名な儒者・詩人で西疇に大きな影響を与えた。西疇、一四歳にして発憤して儒学を修め、二六歳、新井白石の『読史餘論』を校訂出版して名声があがった。また、時局を憂え、洋学研究の必要を覚り、蘭医ニーマン直門の林洞海(一八一三~一八九五)につき医学、蘭学を学び、さらに杉田成卿(玄白孫。一八一七~一八五九)が叔父萩原緑野の漢学の門弟であったため、親しく蘭学の指導を受けた。今治藩主定法に招聘され、漢洋学の深い学殖をもとに克明館教授として今治文教興隆の中核となった。天下の禍を除くには小人を退くべしとして「奏議」を撰して『献替録』を刊行した。明治三一年(一八九八)二月一九日没した。