データベース『えひめの記憶』
愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)
二 南学派
1 大 高 坂 芝 山
正保四年(一六四七)四月一日、土佐国に生まれた。代々武功の家柄で、その先は、土佐国大高坂城主豊後守経久より出るといわれる。本名は季明、字は清介、号は喬松・一峰・黄軒・止足軒・紫清・黄裳閣といった。晩年平田黄軒と自称した。少年時代、姉婿谷一斎(一六二四~一六九五)に学び、後、江戸に出て小田原侯稲葉正通に招かれ、貞享二年(一六八五)その斡旋によって松山藩に招聘された。
公(定直)の御代大局坂舎人(録者云 舎人は清助の誤 大高坂家記云 清助若名九郎三郎 生国土州古主内藤 左京夫殿 貞享二年稲葉美濃守殿肝煎を以て白銀百枚三十人扶持 同三寅年右知行直四百石十人扶持 常江戸奏者番 元禄九子年隠居 為隠居料十人扶持)大山佐兵衛(十八人扶持)御召抱被遊 (『松山叢談』第五下)
大高坂芝山 名季明 字清介 号芝山・黄軒・一峰・黄裳閣、皆其別号也 土佐人 以文学仕本藩 子孫襲禄 至太年号南海(通称舎人) 書画為世所推 芝山遺風之所存也(同右)
芝山は「為人幼悟俊邁 鳳雛龍駒 果能及長 人称全才 身蔵厚徳 学源汲往聖 言路導来者」(『芝山会稿』序文)といわれ、識見高邁、気節を重んずる懐慨の気性きわめて強く、信念の人であった。清廉潔白、剛毅狽介で妥協を許さず、南学の蘊奥をきわめ、自説に反するものは、忌憚なく批難攻撃してやまなかった。伊藤仁斎に対しては、『堀川有鬻材者 姓伊藤 名維禎 陰酔陸王之糟 陽訾程朱之誨 造為新奇之説 蠱惑黄吻曹」と痛罵して、仁斎の著『語孟字義』を論駁し『適従録』(二巻)を著し「維翁好学旧 好書博 於文章 也腴 只惜自幼及老 未就正于承学 則其見良偏 其言亦僻』(序文)と批難しつつ「上巻」には「主客問答二十条」を掲げて問答体の文により仁斎学を箇条的に論駁し、「下巻」において「撞巣窟」・「撃蛇笏」と徹底的に攻撃して「適従文」を掲げ、三編の付録を付して論難した。『適従録』・ 『南学伝』と相つぐ仁斎学批判に、仁斎の門弟らは、反駁文を発表するよう仁斎に態憑したが、七〇歳の仁斎は益なきことと反論しなかった。
山崎闇斎に対しては「口籍先聖之語 躬為飽鷹之行読書如此 不如不読之兪也(中略)嘉也固読書者之罪人也」(『南学伝(下)』「外集」山崎氏)。「嘉」とは山崎嘉右衛門の略称、闇斎の通称である。このように強烈な信念のもと、他学派を批難攻撃して止まなかったが門弟達は深く芝山を敬慕した。
芝山の人物・思想は、その著『喬松子』に明らかである。
(参照 『喬松子』河一澄「跋」)
芝山は、正徳三年(一七一三)五月二日江戸で病没するのであるが、その著、『南学伝』(二巻)『適従録』(「二巻」と附録、計三巻)『存一書』(六巻)『餘花編』(詩集二巻)『喬松子』(四巻)に芝山の剛毅、信じて譲らぬ節操の人となりをうかがうことができる。就中、『喬松子』第四巻に芝山の学説を明確に述べているのであるが、『喬松子』総序に「此書首巻所陳 據薛氏之語也多矣 第二巻黄祥開自論経伝之義 以後章句漸繁行 大率皆造自家言語 第三巻自論礼楽文章 以後文之精神 詞之波瀾悉濾発於此 至第四巻 乃真為学問之蘊奥師伝之秘訣 読者其可忽乎哉」(源有本「総序」)とまず各巻の内容を述べている。
先ず「南学」の道統を述べ「南州学唯在存々持敬 乾々不息(中略)或言自反慎独為基 或言謹言篤行為址 或言克己変気質為桂」として朱子学の根本を端的に述べ、次いで南学の求める「道」につき、次のように断言する。
道者天下公共底之理 固非一人一家之私 豈敢秘而藏焉哉 然摭学者信未深功末邵見未若 漫浪説予 則妄也 又縻信篤功積見既及者 隠黙不語復妄也 於乎我学付属之人 慎思之 明弁之 其成与不成 唯在勤与不勤之間 到勤而成 則心法与道体為一而無二 倐焉自覚 詎竢他言 所謂其心不違仁者是也
「心法」と「道体」の一致の直截の提言で、また、その境地を次のようにも敷術する。
天然自在活潑々地 則萬累悉脱萬感時寂 天地一胸襟 今古一東流 斯心全体之弘、大用之無停 元来恁地 存養功熟 今而復其初也 古者聖人以斯心 伝于斯心 後世学者 得斯心乃知聖人之心 萬古一理 聖聖同心 詩曰恭惟千載心秋月照寒水 詩曰 此間有真意 欲弁己忘言繋 此妙匪口舌之奴逮也
と述べ、さらに語をついで、「性理」と「天道」の一体の旨意を説き、
夫存心無忽 窮理無舎 累功久而後自観本心虚霊 若明鑑止水 到此肇識心境与天宇 其大無隔 性理与天道其源混一 厥秘訣要旨 都於動静審幾之間 当有自覚也 更匪毫端之攸能悉也
また、「天命」と「人性」と一なるを論じ
理一分殊可謂 一言以尽之 天命只是元也 分而言之 則元亨利貞也 人性只是仁也 分言之則仁義礼智也猶一塊玉渾然之中 有温潤堅確瑩徹条理粲然之分 抑中也 極也 一也 止也 唯惟性之徳也 命也 天也 神也 帝也 唯惟性之源也
即ち朱子の気質の性より本然の性へ返ることを道徳修行として、聖人学んで到るべしの思想である。
四端発於理 則固善也 七情発於気 則亦必有善悪矣 君子学成而到於至処 廓然大公物来順応逮恁地 則心也 性也 情也 渾然至善明徳瑩徹 無非天徳 無非天理之流行也大本体立 達道用行 又何不善之有乎哉
さらに「存養説」を唱えて「天」、「性」、「心」を一理として次のように論ずる。
孟子曰 存其心 養其性 所以事天也 釈之曰存者操而不舎之謂 養者順而不害之謂 事者導奉不怠之謂愚意 霊妙主乎身者謂之心 仁義主乎心者謂之性 太一自然為造物之主者謂之天 故曰 天者性之源 性者心之体 心者身之司 三者総是一理各有所指而異名而已
また「性説」において「天性」と「気稟」との同一を説く。
夫天性存気稟之中 混合無隔如金玉臓于塊石 金塊玉石固非一物 復非分断為両箇也
「道説」において「道」を論じ
夫我道者 循性而之為事物当然之理者也 循性而之故不可須臾離 可離非道也 事物当然之理故 綱常尋倫起居飲食皆道也 大而宇宙之元運 小而一艸一木無所非道(中略)所謂中也 仁也只是道之大綱其体段 渾々洞々元是一也 既一則華夷詎別今古詎隔 治乱共関 人我斉具故唯仁者能以天地萬物 為一体而莫所間隔 是以四海為一家 中国為一人 繄道之為広洪 所以瀰六合而天下莫能載焉
広大無辺、六合にみなぎる「道」は一なることを体験的に述べ「譬如登茲山 初余自東南 中余自西北 終余躋自其四隅 既而視茲山 或直 或曲 或逶邐 或崎嶇険夷広隘厥径不同 余歴過数十年 勤苦而不倦 漸悉諳茲経 始行時若万径皆殊 泊登而坐其嶺 万径只是一道而己」と覚り、聖人の遺経を追求して「心法」と「道体」の混然調和融合せる一元の境地を自覚し、日常道徳生活の基盤を確立することが南学の基本を説く。
聖人既生 道在聖人 聖人既往 道在遺経 聖人之霊 万世不滅 昭々存于遺経之中 万世之下 儻能講経而有得 則是暁聖人之道也(中略)在窮遺経而知聖通也 聖道平如大路 昞如日星 経所以載道也 学者不真好経業 是以若難知難行者也 道豈然哉 道循仁義而之焉 仁義心之固有也 故由経而求道 求道而知聖心 猶入門升堂 升堂而逢主人 既会道於心而不失 則異端何縁劫之 諸子百家何縁拏之 卓爾挺立自生到死 終始如一 朝聞道 夕死可矣 此之謂也 嗟乎後生 未知道備方寸之間 而学不在日用常行之外 只以記聞為業是恐 故竭其両端而示焉
土佐南学は、南村梅軒、谷時中、小倉三省、野中兼山を経て大高坂芝山にその精髄が凝集、発揮されたといえる。芝山はこの自信があまりに強く、その為の批判があらわれるようになった。
江村北海(一七一三~一七八八)の芝山詩文人物評がある。
(参照 江村北海『日本詩史』「巻三三」)
芝山の詩集『余花編』上巻(一一六首)、下巻(一三一首)に明儒何債、同林珍、同顧長卿、朝鮮の洪洽浪、成翠虚、季鵬溟らの贈答詩、短評等がしばしば現れてくる。これらの人々は『芝山会稿』に載せられている芝山の犀利な南学朱子学説に好意的で芝山の論説を高く評価している。芝山が広く、中国、朝鮮に学友を求め切磋したことがわかる。しかし、平静を尊び、精緻な観察・内省を尊ぶ江村北海は、前掲のように芝山を評し、その著『日本詩選』に、芝山の詩は一首しか採らなかった。
題谷生城西別業 谷生城西の別業に題す
好雨晴時草満蹊 路廻猶未到城西 好雨 晴るる時 草 蹊に満つ 路は廻りて猶未だ城西に到らず
閑居春事無人管 一任姻花鴬乱啼 閑居の春事 人の管する無し 一に任す 姻花 鴬の乱れ啼くに
『芝山会稿』(余花編下)には、「題谷子城西之幽楼」とあって「好雨晴時草満蹊 道通猶未到城西 閑居春意無人識 興入姻霞鴬転啼」とある。数多い芝山の漢詩のうち、北海がなぜこの一首を採択したか不明である。ちなみに友野霞舟の『煕朝詩會』には、第二二巻に芝山漢詩二八首採択されている。
芝山は正徳三年(一七一三)五月二日江戸において没するのであるが、南学派朱子学に寄せる絶対の確信と強烈な個性によって松山藩学に多大の貢献をした。「君子性鸞鳳 小人性梟鴟 君子情松柏 小人情葛藟で始まる五言古詩「君子小人大吟」二五吟は、芝山自身の学道要心であり「無極本来非寂空 何因太極有形蹤無形有理斯明訓 論説紛々多不通」は体験と思索による宇宙根源の把握である。
2 大高坂家の人々
芝山の妻維佐(一六六〇~一六九九)は、旧姓成瀬氏、阿波の人成瀬忠重の娘で、貞享二年(一六八五)夫芝山とともに松山に来り、定直夫人の侍講を務めた。命により、女訓『唐錦』一三巻を著し、当時の和文女子教育書として名声を博した。(愛媛県史『文学』「教訓物」参照)大高坂延年の序文によると「元禄中 越智侍従公 請維佐著述 於是撰唐錦十三巻 芝山為之諟正書成矣」とあり、夫芝山の批正を経て成ったものである。
中国、日本の古典の豊富な引用、実例、特に第九巻古教訓においては朱子学の「理気論」、「中論」等にも見解を持つように要請される等、程度の高い教養と気品を備えるよう求めた本格な女子教育書である。
芝山長子、大高坂義明(生没未詳)は家学を受け、藩儒官を務める傍ら「高氏家譜」を調査、「記名字称号」の一文を『芝山会稿』に載せた。
芝山裔孫、大高坂天山は明和三年(一七六六)一二月八日生まれ、実は藩士山本義唯二男、一九歳大高坂家を嗣いだ。本名は龍雄、幼名は亀、後、四郎兵衛または径、字は延年、後に太年。号は舎人・天山・南海・如風・魯斎・竹石・王亀と称した。天保九年(一八三八)五月二日没した。七三歳であった。著書に漢詩二一首、記一編を収めた『竹石余花』儒・仏・神三教の融合を説いた和文『有無幽』(一巻)がある。天山は人格高潔で心学者近藤平格の心学思想形成に多大の影響を与えた。(本書「心学」の項参照)近藤平格の「天山大高坂先生之碑文」を掲げよう。
天山大高坂先生之碑
天山先生 姓平氏大高坂 名龍雄一名亀 初字延年 後改太年 号南海 或竹石 晩又号天山 以明和丙戌季冬八日生 実山本義唯次子 十九歳出為大高坂義方嗣 事吾松山 先生多道芸兵鈴武技 以至詩歌書画管紘篆刻茶儀禅理等無不研究也 墨竹特至 辱天覧 博交名士 不問家之有無 性最澹泊 雖屢逢窮陀而晏如也 天保戊戌五月二日病終于家 享年七十三歳 城南法龍寺葬于先塋之側 銘云
通観性理 不誤章句 技芸是末 無不研究
平生甘澹泊 阨窮而晏如 宇宙性海清 龍歟是亀歟
伊予における南学は、芝山没後は、堀川、崎門、蘐園、昌平黌派朱子学に対して優位に立ち得ず、広く浸透普及することなく推移して明治期に入るのである。芝山が嘗て「検己吟」を作り、「接朋無過望 検己可周詳 楽自苦中出 喜由忍後長 言稀知気静 欲寡覚心康 人若嘗茲味柰求玉醴漿」と詠んで刻苦して心の平安を求むべしと説いた教えは、真摯篤実な天山を経て、庶民の道徳として幕末より明治初期にあらゆる階層に浸透した石門心学に具体化された。(第三章「心学」参照)